映画・テレビ

2008年7月25日 (金)

『マッド・ディテクティブ(Mad Detective・神探)』

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香港のジョニー・トー監督と、この映画の脚本家ワイ・カーファイが共同監督した新作『マッド・ディテクティブ(原題・神探)』をやっと見ることができた。

去年のヴェネツィア映画祭に出品された作品で、先月のニューヨーク・アジア映画祭にかかっていた。

そのときは上映時間を間違えてしまい、なんとも悔しい思いをした。おまけにトー監督のもう1本の作品『スパロウ』も満員で見ることができず、結局、マークしていたジョニー・トーを1本も見ることができなかった。ついてない。

帰国してから日本公開されるのを期待するしかないかと思っていたら、アジア映画祭と同じ映画館、ウェスト・ビレッジのIFCで週末から上映がはじまった。

うーむ、実にジョニー・トーらしい仕掛けとケレンに満ちた映画。存分に楽しませてくれました。

ワイ・カーファイとはすでに何本か共同で監督していて、いわば仲間同士。物語の設定は、そのうちの1本『マッスルモンク』のワイの色が濃い(香港映画賞の脚本賞などを受賞)。ただ演出や撮影・編集について、どのあたりがジョニー・トーではなくワイの色なのかは僕にはよく分からない。

元警官で精神を病んでいるバン(ラウ・チンワン)が、対面している相手の隠された「内的自己」を幻視してしまう、という設定がミソ。バンの前に現れる人物の、分裂した人格を持っていたり、気弱な少年だったりする「内的自己」を、ジョニー・トーは大胆に映像化してみせる。

バンには、今はいない離婚した妻(彼女も警官)の姿も見えてしまう。バンは単に病んでいるだけなのか、それとも何らかの能力を持っていて隠された真実を幻視することができるのか、誰にも分からない。

物語は警官のホー(アンディ・オン)とバンが、失踪した警官を探して警察内部を捜査することで始まる。バンが最初に幻視するのは、失踪した警官の相棒コー(ラム・カートゥン)の後を追っているとき。路上を歩いているコーが突然、7人の男や女に変化してしまう。

最初、コーが口笛を吹きはじめ、次のショットで7人が口笛で同じメロディを吹くことで、彼らがコーの分身であることが暗示される。とはいえ、最初はこれがどういう仕掛けなのか、見る者はとまどう。

どうやら7人がコーの「内的自己」らしいぞと感じはじめたところで、バンが7人の間をすり抜ける。それがまるでバンがコーの身体を透明人間みたいに通り抜ける感触があり、そのあたりから見る者はジョニー・トーに心地よく幻惑されてゆく。

コーの分裂した7つの内部人格は、狡猾な頭脳をもつ知的な女性だったり、やたら殺したがる武闘派の男だったりする(その1人が食い意地の張った男で、演じているのはトー映画の常連、ラム・シュー)。

そういうバンの見る幻視のカットと現実のカットが何の説明もなくつながれ、「内的自己」と現実の人物が当たり前のように会話したり戦ったりするのが面白い。

「内的自己」と現実の人物が絡み合ったあげく、最後は香港ノワールの決まり事のような結末を迎えるんだけど、そこでもまたトーは「内的自己」を登場させてひとひねりし、映画の余韻を深くしている。

それにしても、アクション・シーンの畳みかけるようなリズムが素晴らしい。ラスト、鏡張りの部屋での銃撃戦も、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』以来の定番といえば定番だけど、「内的自己」と外側の人物が入り乱れているだけに、いっそう迷宮的な酩酊を感ずる。

マッド・ディテクティブを演ずるラウ・チンワンが、時にハードボイルドに決め、時に滑稽味を出していて、とてもいい。

考えてみれば去年の夏、ニューヨークに来てはじめて見た映画がジョニー・トーの『エグザイルド(放逐)』だった。来週にはニューヨークを離れるので、どうやら『マッド・ディテクティブ』がこちらで見る最後の映画になりそうだ。

ジョニー・トーで始まり、ジョニー・トーで終わる。それがアメリカ映画ではなく香港映画だったことが(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』とか『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』とか見事なアメリカ映画もあったけど)、ニューヨークの映画体験の記憶として残りそうだな。

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2008年6月27日 (金)

うまくいかない日

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(ウェスト・ヴィレッジの公園で)

先週から第7回ニューヨーク・アジア映画祭が開かれている。もっとも日本映画が半分近く、『サッド・ヴァケーション』『オールウェイズ 3丁目の夕日 2』『靖国』など20本以上が上映される。

小生は香港ノワールのジョニー・トー監督の2本に目をつけた。のだけれど、これがどうにも嫌われつづけているんですね。

3日前にワイ・カーファイ監督との共同監督作品『マッド・ディテクティブ(Mad Detective)』を見にいったときは時間を間違えてしまい、仕方なくその時間にやっていた韓国映画『ハッピネス(Happiness)』(ホ・ジノ監督)を見た。

ホ監督のデビュー作『8月のクリスマス』は、それまでの情念たっぷりの韓国映画から切れたしゃれた映画で、今の韓国映画全盛のきっかけをつくった作品だったけど、この新作では『8月』にもあった「難病もの」の要素が全開。アルコール依存症の男と心臓に病気を持つ女の恋愛もので、都会の退廃対田舎の淳朴といった図式もやや鼻につき、あんまり楽しめなかった。

で、今日はジョニー・トー監督のもう1本、『スパロウ(Sparrow)』に行ったら、今度はソールド・アウトで見られず。『ハッピネス』ががらがらだったので、油断して開演20分前に行ったのが失敗だった。ニューヨークでもやはりジョニー・トーはカルト的な人気があるものと見える。去年は『エグザイルド(放逐)』も公開されているし。

『スパロウ』はもう1回上映予定があるけど、その日は友人とディナーの予定を入れてしまった。うーん、どうするか。悩みます。

上の写真は、ソールド・アウトでがっかりし、そばの公園のベンチに座り込んで撮ったもの。

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(ニューヨーク大学前で)

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2008年4月29日 (火)

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン(The Flight of the Red Balloon)』

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ニューヨーク・タイムズweb版の映画ページに、プロの評論家による映画評と並んで読者による投稿と採点欄がある。ときにプロの評価とまったく違う意見が載ったりするのが面白くて、ときどき覗いてみる。

ホウ・シャオシェン監督がフランスで撮影した『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』(邦題『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』)の読者採点欄が興味深い。27人が投稿しているけれど(4月27日現在)、そのうち16人が最低評価の1点をつけている。その一方、6人が最高点の5点をつけ、4人が4点をつけている。

つまり投稿した読者の3分の2近くが最低評価をし、一方、3分の1以上が4点以上の高評価をしている。それ以外の中間的な評価をしているのは27人中わずか1人。これほど見事に評価が分かれる映画も珍しいんじゃないかな。

「退屈の極み」という読者評の隣に「傑作」という評が載っている(ちなみにプロによる映画評は、「この映画を感動的にしているのはストーリーではなく語り口である」と、かなりの高評価)。

実のところ僕は、ホウ・シャオシェンの映画がアメリカの観客にすんなり受け入れられるとは思っていなかった。だからプロはともかく、普通の映画ファンのなかに彼を評価する人がけっこう(27人中10人も)いることにちょっと驚いたのだ。

というのは、アメリカのマニアックな映画ファンは、時に数分に及ぶ長いショットをつないでゆったり語るホウ・シャオシェンやアッバス・キアロスタミのような寡黙なタイプより、タランティーノのように物語を過剰に加速させる饒舌な映画を好むんじゃないか、という思いこみがあったから。

ハリウッド映画を基準にすれば、『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』を「退屈の極み」と感ずるのは、まあそうだろうなと思う。なにしろこの映画では、事件らしい事件はまったく起こらない。ひとつのエピソードが次のエピソードを生んでゆく因果関係によるストーリー展開も、あってないようなもの。

と書いてくれば、ホウ・シャオシェンのファンなら、ああ、あの感じだな、と想像つくだろう。一言で言えば『珈琲時光』のパリ・バージョン、というのが僕の印象。ただ、完成度は一段とアップしている。

パリのオルセー美術館が製作したこの作品は、1956年につくられたフランスの短編映画『赤い風船』のリメークということになっている。僕は元の映画を見てないので比較できないけれど、風船と少年が交流する話という大枠が共通している以外、登場人物や設定はホウ・シャオシェンのオリジナルといってよさそうだ。

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バスティーユ広場の地下鉄の入口で、少年が街路樹に引っかかっている赤い風船を見つけ、「こっちへおいで」と呼びかけている。長いワンカットで、カメラは視線を上下させながら少年と風船を追う。

風船と少年が他人には分らない特別の親密さで結ばれていることを最初のショットで見る者に分からせてしまう、見事なシーン。同時に、少年の仕草とせりふの自然さから、そうだホウ・シャオシェンは子供を演出する名手だったと思い出す。

さらに次のショットで電車に乗る少年が写し出されて、そういえばホウ・シャオシェンは列車も大好きだったなあ。『珈琲時光』なんか、鉄道が主役といってもいいくらいの作品だった。

主な登場人物は3人。

主人公の少年シモン(シモン・イテアニュ)と、離婚して少年を独りで育てている母スザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)。人形劇の作家として多忙なスザンヌの代わりに少年のシッターとして雇われた台湾人留学生ソン(ソン・ファン)。ソンは映画を学んでいて、どこへ行くにもビデオ・カメラを持ち、赤い風船についての映画をつくろうとしている。

カメラは3人の日常を追ってゆく。

パリの裏町を歩き、カフェでゲームに興ずるシモンとソン(街路の音が見事に拾われている)。常に忙しく動き回り、時にいらいらし、アパート代を払おうとしない下宿人と口論するスザンヌ。家のなかでは、シモンがピアノを練習したり、ソンがパソコンをいじったり、下宿人がキッチンで料理したりしている(鏡やガラスが効果的に使われているのも印象に残る)。

そういう3人の日常が、ただひたすら見つめられている。普通の映画は、一つの出来事が次の出来事を引き起こしてゆくといった具合に、因果関係の連鎖で効率的に物語を進めてゆく。あるいは、観客を退屈させないよう無駄な描写をはぶいて、モンタージュによって時間を凝縮(時には人の一生を2時間に)してゆく。

この映画では、そういうことが一切ない。映画のなかで流れている時間が、僕たちが普段経験している日常の時間に限りなく近い。そういう時間の流れは、ただ日常をそのまま撮ればフィルムに写るというものではない。それでは素人のビデオと変わらない。優れた写真家が空気をフィルムに写すことができるように、そういう時間の流れは高度な演出力があって初めてフィルムに記録することができる。

それを意識的につくろうとしたのが『珈琲時光』だと思うけれど、『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』では、それが更に徹底されている。だからこそ、この映画が『珈琲時光』のパリ・バージョンと感じたんだろう。

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ホウ・シャオシェンは、僕の独断では「思い」の作家だと思う。長いショットで人や風景をじっと見つめるなかで、例えば主人公の「思い」、主人公を見つめるホウ・シャオシェンの「思い」、主人公を見つめる観客の「思い」、そういうさまざまな「思い」が引き出されたとき、その「思い」の深さに僕たちは心を動かされる。

ちょっと脇道にそれてみる。

ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンら80年代「台湾ニューウェーブ」の生みの親と言われる年長の人物がいる。1980年のホウのデビュー作『ステキな彼女』からこの作品まで、すべてのホウ作品で編集を担当しているリャオ・チンソンだ。

彼がホウ・シャオシェンについて語ったインタビューのなかで、青春歌謡映画の監督としてキャリアをスタートさせたホウが作風を変えるきっかけになったのはゴダールを見たことだ、と語っている(多分、リャオ自身がホウにゴダールを見せたんだろう)。

リャオが言うところでは、ホウがゴダールから学んだのは、カットとカットのつなぎは別に絵柄や物語がつながっていなくてもよい、ただ感情がつながっていればいいのだ、ということだった。果たしてゴダールのカットのつなぎが本当にそうなっているのかは問題じゃない。ホウ・シャオシェンがゴダールをそのように理解したことが重要だ。

そこからホウ・シャオシェンは自分のスタイルをつくっていった、と僕は思う。彼を「思い」の作家だと考えるのも、そこに関係してる。ホウは絵柄や物語よりも感情=「思い」をこそ描きだそうとしている。人や風景をじっと見つめるなかで、「思い」が湧きあがってくる瞬間をこそフィルムに写そうとしている。

そういう彼独自のスタイルと、エンタテインメント映画の監督として習得した既成の文法がうまく調和したのが『童年往事』『恋恋風塵』『悲情城市』など80年代の傑作群だったろう。

以後、ホウ・シャオシェンは自分のスタイルを純化させる方向で映画をつくってきた。その結果、90年代以後のホウ・シャオシェンは大きな観客動員ができなくなり、内容的にも失敗作と言われることが多くなった(『憂鬱な楽園』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』など素晴らしいと思うけど)。

そんなふうに自分のスタイルを純化させてきた極北の形が、『珈琲時光』とこの作品で少し見えてきたと感ずるのは僕だけだろうか。

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赤い風船がたゆたうパリの裏町も美しいけれど、『ザ・フライト・オブ・レッド・バルーン』でいちばん印象に残るのは長い長い室内ショットだ。

狭いアパルトマンにドアや窓から光が差し込んでいる。部屋の中央にテーブル、右には小型ピアノが置かれ、左は書棚に本や資料がびっしり積まれている。床にも資料が散乱している。壁にかけられた赤いバックとカーテンの赤が目に鮮やか(「赤」は無論この映画のキーワード)。

物と色が氾濫する室内。画面右では、やってきた調律師がキーを叩きながらピアノを調律している。サイモンがピアノを弾いている。スザンヌが帰ってくるなり携帯電話で話しはじめ、やがて怒ってどなりだす。ソンは、なす術もなくうろうろしている(あまりに長いワンカットなので、正確に覚えてないけど)。

そんなふうに登場人物が画面を出たり入ったりするのを、カメラは右に揺れ左に揺れたりしながら見つめている。彼らは互いに会話するわけではなく、彼らの行動が次の物語の展開につながるわけでもない。それを、カメラはただ見つめている。そこからサイモン、スザンヌ、ソン、それぞれの「思い」がじわっと浮かび上がってくる。ああ、これがホウ・シャオシェンだな、と思う瞬間だ。

前作『百年恋歌』のビリヤード場のシーンでも、手前に無関係なビリヤード客を大きく映しこみながら画面奥で主人公の男女が出会う瞬間を遠くから捉える、長く素晴らしいショットがあった。『珈琲時光』でも、主人公たちがお茶の水駅で電車が交錯する音を録音しながらじっと佇んでいる長いショットがあった。

主人公がクローズアップされることは決してない。少し遠くから見詰めるカメラが映し出す、主人公と無関係に動いている風景。そのなかから、彼らの「思い」がじわりと湧きあがってくる。こういうのが、今、ホウ・シャオシェンがいちばん撮りたいショットだという気がする。

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最初の話に戻れば、ニューヨーク・タイムズで最低点の1点をつけた多数派の観客の気持ちが全然分からないかといえば、そうでもない。

ホウ・シャオシェンが自分のスタイルを純化した極北の形が見えてきたといっても、1本の映画として、例えば『童年往事』や『悲情城市』の(その時点での)完成度にはまだ至っていないように思う。

しかも物語的な面白さやスピード感、モンタージュの刺激を排しているわけだから、ホウが撮ろうとしている「思い」が感じられなければ、「退屈の極み」と言いたくなるのはその通りだろう。

僕自身も、ホウ・シャオシェンのスタイルの極北を見たいと思う一方で、作家的意欲と職人的巧みさがうまくバランスされた『風櫃の少年』や『恋恋風塵』のような甘やかな作品を、もう一度見たいとも思う。前作の『百年恋歌』でそんな時代の気配が少しだけ蘇っただけに、余計そう感ずるんだろう。

どっちも頼むよ、ホウ・シャオシェン!

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2008年4月25日 (金)

『ホェア・イン・ザ・ワールド・イズ・オサマ・ビン・ラディン?(Where in the World Is Osama Bin Laden?)』

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僕は見てないんだけど、ビッグ・マックを30日間食べつづけて話題になったドキュメンタリー『スーパーサイズ・ミー』をつくったモーガン・スパーロックの新作。前作と同じようにスパーロック監督自身が「主役」で、「オサマ・ビン・ラディンはどこにいるんだろう?」と人々に質問しながらイスラム諸国を駆けまわる。

もっとも「アラビアのロレンス」と「地獄の黙示録」を掛けあわせたみたいなポスターを見ても分かるように正統派のドキュメンタリーではなく、映画全体がゲーム仕立てになっている。

ビン・ラディンがアニメの悪役キャラクターになって登場する。モロッコ、イスラエル、サウジアラビア、アフガニスタン、パキスタンなど、訪れる国ごとにチャプターに分けられ、チャプターが進むごとに、監督がビン・ラディンに少しずつ迫ってゆく(ほんとか?)仕掛け。

スパーロック監督はまずエジプトを訪れ、市場の人々に「オサマ・ビン・ラディンはどこにいるんだろう?」と尋ねる。もちろん誰も答えられないのは分かりきっている。いわば話のきっかけみたいなもの。

誰とでも仲良くなれるのは監督のパーソナリティなんだろう、話がはずんで、自宅に招かれ食事をふるまわれたりする。家族とも話をする。

そこから分かってくるのは、イスラム諸国の人々が何を考え、どんな暮らしをしているのか、どんな悩みを抱えているのかといったこと。貧しさや子供の教育といった身近な問題から、自分の国の政治の問題、アメリカに対する感情まで、いろんな国のいろんな人々の生の声が聞こえてくる。

イスラムの人々だけでなく、アフガニスタンでは米軍の対タリバーン作戦に同行して、現場の米軍兵士たちの声も拾い上げている(ブッシュ政権をからかっているとも取れるこの映画の取材をちゃんと受け入れ、実際の作戦にまで同行させるあたり、さすがアメリカは懐が深い。すぐ国益だの何だの言いだす国とは違います)。

もっとも、監督がインタビューを拒否される場面もある。ひとつはイスラエルで、黒づくめの厳格な服装をしたユダヤ教徒に話を聞こうとして。もうひとつは、独裁的な王政で知られるサウジアラビアの学校で、教師同席のもとに学生に話を聞く場面。

インタビューを拒否されることは、多かれ少なかれどの国でもあったと思うけど、イスラエルとサウジアラビア、ともにアメリカと親密な国での出来事が選ばれているのは偶然か、意図的なものか(まあ、意図的でしょうね)。結果として、スパーロック監督のイスラム諸国に暮らす普通の人々への親近感が浮き彫りにされてくる。

そこらへんから、このドキュメンタリーの狙いが見えてこないだろうか。

相手は「テロリスト」と決めつけて軍隊を送って戦争をしながら、そこで暮らしている人の姿を見ようとしないアメリカ人(一部を除いて、アメリカ人が外国事情に無知なのは驚くほど)に向けて、自分たちが戦争してる国、あるいは「テロリスト」の巣窟と思ってる国に暮らしているのはこういう人たちなんだよ、というメッセージ。

それをきっちりしたドキュメンタリーでなく、ゲーム仕立てで面白おかしくやってみせたのがいかにもアメリカの作品だね。もっとも見かけにかかわらず、中身はけっこう啓蒙的な映画。それもアメリカの平均的国民に向けたものだろうから、アメリカに比べればまだイスラムの情報が入ってきている日本の観客にとってはちょっと物足りないかも。

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2008年4月13日 (日)

『マイ・ブルーベリー・ナイツ(My Blueberry Nights)』

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ニューヨーク。暗くなった街路の高架を、光の箱のような電車が通り過ぎてゆく。それをスローモーション気味に下から広角で見上げるショットは、いかにもウォン・カーウァイ好みだなあ。

と思って見ていたら、あれ、この電車、僕が毎日のように乗る地下鉄Qラインではないか。高架を走るQライン、舞台になるレストランがロシア名前とくれば、ロケ地はブルックリンの「リトル・オデッサ」と呼ばれるロシア人街、ブライトン・ビーチに違いない。

ところで、映画のオープニング・タイトルで共同脚本がローレンス・ブロックとあったけど、ハードボイルド作家のローレンス・ブロックのことだろうか。私立探偵マット・スカダーを主役にしたシリーズは大好きだったけど、彼はもう引退してニューヨークからフロリダに移ったと聞いている。

引退と言っても、やめたのは小説で、今度は映画に進出ってことかな? それともウォン・カーウァイもブロックが好きで、ストーリーはウォンが書き、英語のせりふをブロックに頼みこんだんだろうか? そう思ってみれば、ジュード・ロウとノラ・ジョーンズの洒落たせりふのやりとりは、いかにもローレンス・ブロックだなあ。

でもウォン・カーウァイはなんでシネマスコープにこだわるんだろう? 横長のシネスコ・サイズは空間の広がりを描写するには強いけど、狭い空間で人間を撮るには向いてない。ウォンは広い空間を使って風景を撮ることはあまりせず、どちらかといえば『花様年華』みたいに狭い空間が好きなのに。

実際この映画でも、レストランやバーといった狭い空間のシーンが多く、ニューヨークからメンフィスへ、さらにラスヴェガスへという空間移動は、期待したほど描写されてない。 

もっとも、シネスコ・サイズで監督やカメラマンがみんな悩んだあげく(黒澤明も加藤泰も増村保造も)必殺技を繰り出した2人の会話の切り返し(リヴァース)は、顔のアップでなくバスト・ショットを多用し、背景にウォン・カーウァイらしい色彩のマジックを使って実にうまく処理されてる。

文字が書かれたり外の風景が反射しているガラス越しのショットが多いのも、色彩の効果や立体感を狙ってのことだろうか。とすると、彼にとってのシネスコは、広い空間を描写するためではなく、狭い空間を広く立体的に描写するためにこそ必要だったのかも。

『マイ・ブルーベリー・ナイト』を見ながら、本筋とは関係ない、そんなとりとめもないことを考えていた。

なぜかといえば……。この映画は見ていてとても心地よい。すべてが、「決まって」る。

ファンにはたまらない、『恋する惑星』と似た設定やウォン・カーウァイならではのショットの数々。ノラ・ジョーンズがジュード・ロウや旅先で出会った男たち、女たちと交わす会話がきわまり、ここで音楽というタイミングで、ちゃんとノラ・ジョーンズはじめオーティス・レディング、カサンドラ・ウィルソンなんかの素敵な音が入ってくる。さらにライ・クーダーとくれば、これはもう『パリ・テキサス』。

すべてが「決まり」すぎていて、心地よいけれど、ときどき退屈なのだった。もともとウォン・カーウァイはその気味があるけど、スタイルだけが残った、とでも言えばいいのかな。

そういえば、こちらのブルーベリー・パイは甘すぎて、どうも僕の口には合わない。

 

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2008年4月 7日 (月)

『アレクサンドラ(Alexandra)』

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ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の新作『アレクサンドラ』は、内戦の続くチェチェンを舞台にしている。といっても、ここには1人の敵も出てこないし、戦闘シーンもまったくない。

チェチェン(と明示されているわけではないが)に駐留するロシア軍士官の祖母アレクサンドラ(ガリーナ・ビシネフスカヤ、チェリストの故ロストロポービッチ夫人)が、招かれて孫の所属する基地を訪れる。単純にいえば、ストーリーはそれだけ。それだけの映画が、95分をまったく飽きさせずに見せる。

低い灌木と草の丘陵がつづく黄土色の大地(暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤがチェチェン内戦をレポートした著書からイメージしていた風景に重なった)。そこを走る軍用列車がホームもない駅に止まり、アップになったアレクサンドラの太くおぼつかない足がチェチェンの地を踏みしめる。

そのアレクサンドラの第1歩から、映画のリズムは最後まで変わらない。ゆったりと、静かに移動しながら、ひたすら彼女を追ってゆく。

迎えにきた兵士に助けられて装甲車両に乗り、アレクサンドラは基地へ向かう。古いテントを張った宿舎に案内される。朝、目が覚めたアレクサンドラは、テントに寝ていた孫に気がつき抱擁する。テントから出て、機銃の手入れをする兵士たちを眺める。

基地の外へ出るときに、門衛やすれ違う若い兵士たちと目が合う。基地のそばにあるらしい市場では、物売りの若くはないチェチェン女性と言葉を交わし、親しくなる。

特に何をするでもなく、基地の内と外で日常的な行動を重ねるアレクサンドラの眼差しと、それを見つめるカメラが、とてつもなく優しいのだ。彼女の眼差しの優しさは孫に対するときだけでなく、若い兵士に対しても、チェチェン女性に対するときもまったく変わらない。

戦争(内戦)は、戦う敵と味方の互いの憎しみが原因ともなり結果ともなる。この映画の眼差しは、そういう憎しみをゼロにしてしまう。

いや、単純に憎しみを消せば敵味方の対立も消えると性急に言っているわけではない。映画は、敵味方を区別しない大地の母のようなアレクサンドラの眼差しを、黙って見る者に差し出しているだけだ。

『タイム・アウト』誌のインタビューのなかでソクーロフは、「プーチンはこの映画が嫌いだと聞いた」と言っている。この映画は大上段に反戦を唱えているわけではないけれど、チェチェンだけでなくイラクでもチベットでも、憎しみを掻きたて、敵味方の区別を立てて自らの「正義」をふりかざす者はアレクサンドラの眼差しを密かに憎むにちがいない。

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2008年3月27日 (木)

『ボーディング・ゲート(Boarding Gate)』

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アーシア・アルジェントという女優をはじめて見た。調べてみると、イタリアのアカデミー賞に相当する賞の最優秀女優賞を2度受賞し、女優業だけでなく自ら監督として映画をつくり、小説も書くなど、才能もキャリアもすごい女性なんですね。

『ボーディング・ゲート』は、まさしく彼女のための映画だった。うなじと下腹部にタトゥーを入れた元娼婦。金のために男を操り、そのあげく無慈悲に男を殺してしまう。かと思うと、傷つきやすいヴァルネラブルな心を持っていて、時にその表情が苦痛にゆがむ。

そんな複雑な役を演じて、なんとも存在感がある。黒い下着姿で男を誘惑し、サディスティックな行為のあと後頭部にためらいなく銃を撃ち込むシーンは、この映画の最高の場面だね。

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監督はフランスのオリヴィエ・アサイヤス。テイストはB級アクション映画なんだけど、時どきカメラが据えっぱなし長回しになり、おやB級らしからぬショットだなと思っていると、途中から舞台は香港に飛び、ここから後は文字通り香港ノワールの世界になる。英語とフランス語と中国語が飛び交い、今ふうの無国籍映画に仕上がっている。

もっとも1本の作品としてのまとまりはなく、色んな要素がばらばらに放り出されたまま。おまけにB級テイストらしく、ストーリーもなんともご都合主義なんですね。

北京でクラブ経営を夢見るサンドラ(アーシア・アルジェント)は、元愛人だったファンド・マネジャー(ミシェル・メドセン)を誘惑して金を引き出そうとする。麻薬密輸に手を染める中国人貿易商レスター(カール・ン)の愛人でもある彼女は、ファンド・マネジャーを殺し、香港に逃亡するのだが、そこでもまた命を狙われて……。

要するに香港ロケしたかったんだよね。前半の舞台であるロンドンでは動きの少なかったカメラが、香港へ来てからのアクション・シーンでは手持ちでぐらぐら揺れたり、左右に激しく振られたりしながら路地裏やビルのなかをこれでもかと動き回る。

この監督の映画を見るのははじめてだけど、キャリアを見るとB級映画の監督ではなく、どちらかといえばアート系。香港の女優マギー・チャンを主役にすえた作品を撮っているし、台湾のホウ・シャオシェン監督を追ったドキュメンタリーもある。中国語圏の映画が大好きなんですね。

おまけに、元カイエ・ド・シネマで批評を書いていたと知って、ははんと思った。

かつてカイエ・ド・シネマで批評を書いていたジャン・リュック・ゴダールが50年代ギャング映画やアクション映画を解体・再構築して『気狂いピエロ』をつくったように、アサイヤスも香港ノワールやウォン・カーウァイ、ホウ・シャオシェンの映画を換骨奪胎して、現代的なファム・ファタールを主役に彼流の『気狂いピエロ』をつくろうとしたんじゃないかな。

(以下、ネタばれです)もっとも、ラストシーンは『気狂いピエロ』の伝説的なシーンのようにはいかず、香港ノワールがこと男女のことに関してはけっこう純愛(?)であるのを反映してか、アーシア姉さん、最後の最後で並の女に戻ってしまうのが残念。

ま、映画は特にどうという出来ではないけど、アーシア・アルジェントだけは記憶に残ります。

「ヴィレッジ・ヴォイス」の映画評も指摘してたけど、喉を絞ってセリフを口の中でもごもごとしゃべる表情は、女マーロン・ブランドみたい。彼女、美しいというのではないけれど、切羽詰った黒い瞳でじっと見つめられると、身体をぎゅっと掴まれ身動きできなくなる感じがする。

まさしくこの時代のファム・ファタール、そんなオーラが出ている女優だね。

日本でも公開されるらしい。

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2008年3月22日 (土)

『マリッド・ライフ(Married Life)』

Marriedlife

第二次世界大戦後、1940年代後半から50年代のアメリカ映画は、アメリカも映画も輝いていた黄金時代の記憶として繰り返し反芻され、参照されているみたいだ。

空前の繁栄を謳歌していた反面、赤狩りの時代でもあったこの時代の重苦しい空気を反映したフィルム・ノワールは、今でもジャンルとしてしっかり残っているし、インディペンデント系映画館で当時の作品がしょっちゅう特集上映されている。

この時代に盛んだったもうひとつのジャンルであるメロドラマも、フィルム・ノワールほどでないにしても、昔の作品がときどき上映されているし、数年前には若いトッド・ヘインズ監督が当時のメロドラマを下敷きに『エデンより彼方に』をつくった。

この『マリッド・ライフ』も、そんな1本。2組の男女が絡みあう典型的なメロドラマの設定を基本に、コメディやスリラーの要素も取り入れながら、Ira Sachs監督(1965年生)はそれらのジャンル映画の定型と戯れている。

会社を経営し、郊外の上品な家で家庭を営むハリー(クリス・クーパー)には、若い愛人ケイ(レイチェル・マクアダムス)がいる。ハリーは友人の独身男リチャード(ピアース・ブロスナン)にケイを紹介するのだが、彼はハリーを出し抜いてケイに言い寄り、彼女を奪おうとする。

一方、ハリーは妻のパット(パトリシア・クラークソン)と離婚するよりは、いっそ彼女を殺してしまおうと毒薬を買い求める。ところがパットはパットで若い男がいて……といった具合に、話がこんがらかってゆく。

設定は1949年。髪型もメイクもファッションも、車やテレビなどの家具も、いかにも当時のアッパー・ミドル・クラスの生活を再現しているのが、アメリカ人には懐かしく感じられるんだろう。

若い愛人ケイの髪はブロンドだけど、演ずる女優レイチェル・マクアダムスの写真を見ると、どうも地毛はブルネットみたいなんですね。だから、ここでもアメリカ人が夢見る「ブロンド美人」をつくりこんでるんだと思う。

ケイが最初に登場するシーンで、彼女はブロンドの髪をアップにし、深緑のワンピースを着ているけど、これは明らかにヒッチコック『めまい』のキム・ノヴァクの髪型・服装を意識してる。

彼女が次に登場するとき、今度は髪をおろしてマリリン・モンローそっくりの髪型になる。頬にほくろがあるのもモンローによく似てるから、これも明らかに意識してるんだろう。ま、キムとマリリンを足して2で割ったというより、4で割ったくらいの魅力でしたけどね。

ハリーによる妻のパット殺しは成功するのか? ケイはハリーからリチャードに心変わりしてしまうのか? 

そんなふうにメロドラマやコメディやスリラーといったジャンル映画の典型的なシーンを連続させながら進むのがこの映画で、それ以上でも以下でもなかった。

どこかでそういう定型を逆転させるたくらみがあるのかと期待してたけど、そのまま50年代ふうな中産階級のモラルに回収されてしまう。ラストシーンもいかにもで、じゃあ、この映画を今つくる意味はなんなの? と、一言言ってみたくもなる。

例えば『エデンより彼方に』では、それが成功しているとは思えなかったけど、ゲイの問題や白人女性とアフリカ系男性の恋といった50年代メロドラマにはありえない設定を取り入れて、メロドラマの現在化を図ろうとしていた。

この作品にはそういう試みはまったくない。ちょっとビタースイートで懐かしい映画だったね、でお終い。いや、もちろん小味な映画として楽しみましたけどね。

日本では公開されるんだろうか?

蛇足。こちらで見たアメリカ映画のなかで、この映画、いちばんよく英語が聞きとれた。1940年代に白人中産階級が話していたクセのない英語を再現してたからだろう。

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2008年3月18日 (火)

『パラノイド・パーク(Paranoid Park)』

Paranoid_park

ガス・ヴァン・サント監督の映画を見るのは初めて。『マイ・プライベート・アイダホ』も『グッド・ウィル・ハンティング』も『エレファント』も、その都度気になりながら、なぜか見に行かなかった。還暦を過ぎたジジイとしては、かつて浴びるほど見た青春映画というやつにアンビヴァレントな感情を持ってるからだろうか。

でもこの『パラノイド・パーク』、1990年代からインディペンデントやハリウッドで10本近いキャリアを持っている監督なのに、まるで処女作みたいにみずみずしいのにうなった。

中身だけでなく、製作のスタイルもそう。多分これ低予算映画で、主役はじめ多くの役に素人を使い、監督が拠点にしているポートランドで少人数のスタッフでオールロケしている。

その代わりというか、撮影にウォン・カーウァイ作品の名手、クリストファー・ドイルを『サイコ』に続いて起用した贅沢が、この映画のポイントでしょうね。

「マイ・スペース」で公募した主役のアレックス(ゲイブ・ネヴァンス)がスケートボードで宙を舞い、海辺の砂浜を歩き、夜の鉄道線路を走るさまを、クリストファー・ドイルは35ミリ・ムーヴィカメラ、ビデオカメラ、スーパー8を使い分け、それらを自在に組み合わせながら撮影している。

粒子が荒れたり色彩が微妙に違ったりと、機材によって質感が異なる映像を過去・現在の時間をばらしてつなぎ(そのために映像が説明的でなくなる)、偶然に人を死なせてしまったアレックスの、それまでとその後の行動をひたすら見つめているのがこの映画と言っていいだろう。

夜のスケートボード公園から事故にいたるいきさつや、ガールフレンドとのやりとりなど、ストーリーらしきものも一応あるけれど、それはどうでもいい。

また8ミリなど「ドキュメンタリーふう」な映像から、人を死なせてしまったアレックスの罪悪感を浮き彫りにしようというのでもない。

アレックスを追う映像から、監督が彼の内面に迫ろうとしているようにはまったく見えない。映像にそのような意味を生じさせるのではなく、ただそれらを価値判断なしに、でも美しく放りだしている。それがガス・ヴァン・サント監督のスタイルといえばスタイルなのかも。

もっとも、主役の美少年に対するフェティッシュな感情だけは感じられる。

『エレファント』でカンヌのパルムドールと監督賞を取った堂々たるキャリアの後に、こういうまるで処女作みたいな(実はかなりのテクニシャンだと思うけど)映画をつくったのが面白いね。

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2008年2月16日 (土)

『カッサンドラズ・ドリーム(Cassandra's Dream)』

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ウッディ・アレンの映画はコメディやブラック・ユーモア、あるいはひねりを利かせた作品が多いから、内容だけでなく映画作法にも遊びやひねりが多いような印象を持っていた。

でもそれは間違いだったと、この作品を見て気づいた。ウッディ・アレンの映画作法は実にストレートで、古典的と言ってもいいくらい。脚本の構成、カットとカットのつなぎ、音楽の入れ方など、1950年代以前の映画のテイストに通ずるものがある。きっちりしたモンタージュのリズムなど、もっと昔の無声映画みたいな感じさえする。

『カッサンドラズ・ドリーム』は、ユアン・マクレガーとコリン・ファレルの兄弟の犯罪心理劇だけど、例えばよく似たテーマをもつ『ビフォア・ザ・デビル・ノウズ・ユウ・アー・デッド』(日本未公開)の場合、過去と現在の時制を入り組ませ、カメラが複数の登場人物の視線に転換するなど、複雑な語り口をもっていた。

それは今ではハリウッドはじめ、世界のどの国の映画でも当たり前のように採用されてる映画作法だけど、『カッサンドラズ・ドリーム』は正反対。

過去から未来へと、時間は一直線に進む。カメラはきっちり据えられた客観3人称で、ごくオーソドックスな映像を積み重ね、人を驚かすようなつなぎは一切ない。音楽も、フィリップ・グラスの古いようで新しいストリングスの曲が、要所要所で控え目に入ってくる程度で、現実音だけで処理されている場面が多い。すべてが端正につくられている。

ウッディ・アレンの映画がクラシックな側面を持っているのは僕には新しい発見だったし、好感がもてるんだけど、そういう構造に目が行ってしまったこと自体が、この映画の出来を物語っているかもしれない。

美しい舞台女優に惚れたユアン・マクレガーと、賭博で借金を抱えたコリン・ファレルの兄弟が金に困り、アメリカから来た裕福な伯父に援助を求める。すると伯父は、彼の不正を告発したビジネス・パートナーを殺してくれるなら、と交換条件を出してくる。2人はその「仕事」をうまくやったのだが……というお話。

セリフの英語がよく理解できなかったので、ウッディ・アレンらしいジョークや皮肉がどこまで散りばめられているのか分からないけど(観客はあまり笑っていなかった)、『マッチ・ポイント』みたいに作品の構造が全体としてブラック・ユーモアになっているわけではない。

いかにも彼の映画らしく、心理の歪みや精神の失調がドラマをつくりだしている。強い母と弱い父という構図も出てくる。ウッディ・アレンの映画はたいてい、それらが歪んだ笑いや自虐的なユーモアになるわけだけど、ここではそうではなく、彼の映画が時々そうなるように重苦しい犯罪心理劇に終始する。

兄弟が買ったヨットで海に遊びに出るシーンとか、兄弟と伯父が雨を避けて木の下で密談するショットなど印象に残る場面もあるけど、全体としては期待はずれだったな。

なにより人間が生きてないと思った。強く偽善的な兄と、弱くて兄に引きずられる弟。ユアン・マクレガーもコリン・ファレルも、そんな図式的な絵解きを演じているだけのように見える。兄弟がほとんど同じ関係に設定されていた『ビフォア・ザ・デビル…』のフィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークのほうが、はるかに生々しく感じられた。

それに舞台女優になるサリー・ホーキンズも端正な美人だけど、『マッチ・ポイント』のスカーレット・ヨハンソンみたいなエロティックな存在感に欠ける。そこでもまた映画の肉体性というか、画面を圧する存在感が足らないな。

やっぱりウッディ・アレンは、老人といっていい歳になっても惚れた女優を使ったときのほうが魅力的な映画になるみたいだ。新作『Vicky Christina Barcelona』はまたスカーレット・ヨハンソンらしいから、こっちのほうが期待が持てるかも。

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