日記・コラム・つぶやき

2008年9月26日 (金)

引っ越しのお知らせ

昨年8月に、1年間限定でこの「不良老年のNY独り暮らし」を立ち上げました。それからちょうど1年、このほど無事に(?)日本に帰ってきました。

その間、皆さんからたくさんのコメントやTBをいただきました。それによって、ニューヨークで独り暮らしをしながら皆さんとつながっている実感があり、ブログを続ける大きな原動力になりました。皆さんに感謝、です。

このほど、元のブログ「Days of Books, Films and Jazz」を再開することにしました。もっとも、かつてと同じ本と映画と音楽のブログになるかどうか、まだ自分でもよく分かりません。NY生活で書き残したこともいくつかあるので、それらも追々書いていきたいと思います。

おつきあいいだだいた方々、ありがとうございました。もしご興味があれば、再開ブログも訪問していただければ幸いです。では。

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2008年7月29日 (火)

旅行に出ます

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明後日にはアパートを引き払わなければならないので、部屋の整理をしている。植木鉢を近くのフォート・グリーン・パークへ持っていって、勝手に「記念植樹」。

こちらへ来てすぐ3ドルで買ったものだけど、1年間、ともに暮らしたただひとつの「生きもの」だから愛着がわく。このまま育ってくれるといいけれど。

2週間ほどサンタフェ、キーウェストなどアメリカ国内を旅行して、そのまま日本へ帰ります。パソコンを持っていかないので、その間、更新は休ませていただきます。8月下旬には旅の写真をアップできると思います。

それでは皆さん、楽しい夏を!

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2008年7月10日 (木)

チェルシー歴史保存地区

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チェルシーの歴史保存地区を歩く。

なかでも1817年に設立された総合神学校はマンハッタン最古の建物のひとつと言われる。

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礼拝堂の内部。

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ベンチの礎石に「1885」と年号が彫られている。マンハッタンの町中にあるとは思えない一角。

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神学校の周囲は、19世紀半ばに建てられたブラウン・ストーンや赤レンガのタウンハウスが並ぶ静かな住宅街。

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2008年7月 7日 (月)

チェルシー・マーケットで買い物

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用事がありチェルシーに来たので、近くの「チェルシー・マーケット」へパンを買いにいく。

このあたり、かつてはミート・パッキング・ディストリクトと呼ばれる精肉工場・倉庫地域だったが、今ではブランド・ショップやレストランが並ぶお洒落スポットに変わっている。

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「チェルシー・マーケット」は元ナビスコの工場・倉庫で、工場内部の設備を生かしながらベーカリー、レストラン、カフェなど20軒ほどの食材店が入っている。

工場の古い設備と、新しくレンガや石でつくられた斬新なベンチやオブジェがマッチして、とても面白い空間。

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マーケットの一角では室内楽カルテットがモーツァルトを演奏していた。

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2008年7月 1日 (火)

10番街を歩く

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(10番街と32丁目の交差点)

チェルシーへギャラリー回りに行った帰り、時間があったので10番街をダウンタウン方向へ歩いてみた。

にぎやかな繁華街の5番街や7番街と違って、マンハッタンの西の端、ハドソン河にほど近いあたりを走る10番街はしゃれた店があるわけでもなく、人通りも少ない。歩いて楽しい通りではない。

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(10番街と14丁目の交差点)

かつてここには「ハイライン」と呼ばれる高架鉄道が走っていた。

チェルシーには精肉工場が集中していたから、港からここへ肉などを運んだ貨物専用鉄道で、1934年に完成し1980年に廃線になった。小生の知る限り、かつて何本もあったマンハッタンの高架鉄道のうち現在でもその跡が残っているのはここだけだ。

数年前、ジョエル・スタンフェルドが撮った「ハイライン」跡のカラー写真を見たことがある。高層ビル群の間を雑草の生い茂った廃線が走っている風景は、廃墟の都市を感じさせる。映画『I Am Regend』のイメージの源泉のひとつはこの写真じゃないかと思った。

いま、元「ハイライン」は公園として再開発されつつある。高架の遊歩道になるらしい。現在は工事中で、高架に上がってみることはできない。

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(グリニッチ通り)

廃線は10番街からミート・マーケットを通りぬけて、グリニッチ通りを走る。この交差点はガードが撤去されている。よく見ると不思議な風景。

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これが跡をたどれる南端。ここから先は廃線が見つからなかった。

話の前後が逆になったけど、チェルシーのギャラリーでは、写真専門の「シルバースタイン」でユージン・スミス展をやっていた。

「スペインの村」から「硫黄島」「水俣」まで代表作100点近くのヴィンテージ・プリントが展示されている。小生、こんなにたくさんのスミスのヴィンテージを見るのは初めてで、その見事なプリントに圧倒された。

写真史の教科書に載っている名作がそこらじゅうに展示されている。「ボブ・ディラン」などのポートレートも素晴らしい。小生の頭の中では歴史的存在として整理されていたスミスの生々しいリアリティを再認識させられた。

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2008年6月24日 (火)

マーメイドたち

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22日はコニー・アイランドの海開き。yuccaさん夫妻とランチの後で行ってみた。

恒例の「マーメイド・パレード」が開かれている。老若男女の「マーメイド」たちが思い思いの格好で参加してる。いかにもアメリカ的な陽気な催し。ものすごい人出で、肝心のパレードはほとんど見えなかったけど。

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2008年6月22日 (日)

ロング・アイランド・シティを歩く

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クイーンズのイサム・ノグチ美術館へ行ったついでに、美術館周辺のロング・アイランド・シティを歩いた。

ロング・アイランド・シティというのは、1898年にブルックリンとともにニューヨーク市に合併されるまでの町の名前で、今ではクイーンズ南西部の地域をこう呼ぶ。

マンハッタンからクイーンズへ来ると、ブルックリンと同じように低層のビルがどこまでも続いていて、空が広いのにほっとする。

ただブルックリンはダウンタウンや住宅地、工場地帯がくっきり分かれて町の構造がはっきりしているのに対し、クイーンズは住宅地域と工場地域が入り乱れてのっぺりとどこまでも続いている印象がある。

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このあたりは工場地帯。自動車修理など小さな工場も多い。

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工場はどこも忘れ去らてたように古い。ここも金曜の午後、操業しているのかしていないのか分からなかった。

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歩いている人も少なく、閑散としている。

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小生、「キューポラのある街」埼玉県川口育ちのせいか、こういう寂しい工場地帯には懐かしさを感じてしまう。

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クイーンズは80以上の民族が混交して住んでいる多国籍住宅地域でもある。居住者の半分はアメリカ以外の国から来た者だという。アメリカ人(アフリカ系を含む)はここでは少数派で、だからクイーンズは未来のニューヨークを先取りしているわけだ。

ロング・アイランド・シティにはギリシャ系住民が多い。

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こちらはメキシコ系のデリ。

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2008年6月20日 (金)

エディソンへドライブ

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映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、石油を掘り当てて富豪になった主人公の血塗られた「アメリカン・ドリーム」を描いた資本主義裏面史とも言うべき作品だった。

「発明王」トーマス・エディソンの生涯を見ていると、彼もまたもうひとりの「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公であり、アメリカ資本主義生成史の重要な一駒であることが分かって面白い。

ジョセフ・スワンが発明した白熱電灯のフィラメントを竹を使って改良して事業化・普及に成功し、結果的に電灯の「発明者」と呼ばれ、

「電話」の実用化をめぐってはグラハム・ベルと特許戦争を繰り広げ、

直流での電気送電を主張したエディソンに対し、彼の部下で後に世界標準となる交流を主張した天才的発明家、ニコラ・テスラと確執の結果、袂を分かち、

シリンダー型の「蓄音器」を発明したエディソンに対し、それを円盤のディスク型に改良しグラモフォン社(RCAビクターの母体)を設立したエミール・ベルリナーと熾烈な販売競争をして敗れ、

晩年は降霊術を信じ、死者との交信の研究に没頭した。

小学校で習った「偉人伝」には収まりきらない、ひと癖もふた癖もある人物だったようだ。

友人Iがドライブに誘ってくれて、ニュージャージー州エディソンあるメンローパーク博物館と邸宅を見てきた。エディソンは、彼にちなんで名前がつけられた町。

上の写真は博物館とエディソン記念塔。

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エディソンが「発明」した白熱電灯。

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シリンダー型蓄音器の最初のモデル。

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エディソンのノート。

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蓄音器(フォノグラフ)のポスター。

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同じニュージャージー州のウェスト・オレンジにエディソンの邸宅が残っている。19世紀末に建てられた、クイーン・アン様式の29室をもつ邸宅。

1887年、西海岸から東海岸に移った彼はここウェスト・オレンジに研究所をつくり、この豪邸を買った。同時に「エディソン・ジェネラル・エレクトリック」社(後のGE)を設立している。

エディソンはこの家に再婚した妻と3人の子どもと住んだ。富豪にしては絵画や陶磁器のコレクションもなく、エディソン自身の個性や好みをあまり感じさせない家ではある。

近所には研究所も残っているが、今は公開されていない。

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エディソンの部屋。ここで死者との交信を試みたんだろうか。

現在は広大な敷地の一部が分譲され、エディソン邸ほどではないが大きな邸宅がいくつも並び、公道からの出入りは1台1台チェックされるゲーティッド・コミュニティーになっている。

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2008年5月30日 (金)

マンハッタン橋を歩いて帰る

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チャイナタウンで昼ごはんを食べ、天気が良かったのでマンハッタン橋を歩いてブルックリンへ帰る。

橋の上から見るチャイナタウンは、歩いていては見えない建物の内臓に当たる部分をちらっと見せてくれるのが面白い。右端のビルは最上部に「1891」と建設年のレリーフが嵌めこまれていて、ここを歩くときはいつも立ち止まって眺めてしまう。

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明日から1週間の予定で、ニューオリンズ、エルパソへ旅に出ます。その間、更新はお休みさせていただきます。写真をたくさん撮ってくるつもりですので、乞ご期待です。

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2008年5月27日 (火)

チャイナタウンを散歩

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(ペル・ストリート)

チャイナタウンは買い物や食事に週に1度、多い時には2度も訪れる。マンハッタンでいちばんよく行く場所なので見慣れた風景でもあり、改めて散歩しようとすると新鮮さに乏しい。そこで、いつもと別の目で見るためにガイド(?)を探してみた。

結果、見つけたのは作家の永井荷風。彼は1903年にアメリカに渡り、その体験を『あめりか物語』にまとめている。1世紀以上前のことだけど、ニューヨークは100年前のインフラを平気で使いまわしている都市だから、なんとかなるだろう。東京だったら、こうはいかない。そのなかの2編で、彼はチャイナタウンに触れている。

チャイナタウンへ行くために、荷風は「地下鉄道に乗って、ブルックリン大橋へ出る手前の、小さい停車場」で降りる。この駅は多分、ブルックリン橋・シティホール駅。今はチャイナタウンへ行くのにキャナル・ストリート駅で降りるのが普通だから、彼は反対方向から街に入っていったわけだ。

「高架鉄道の通っている第三大通り(注・現在のバワリー通り)を四、五丁ほども行くと、チャタム・スクエアといって、ここから左へ入ればユダヤ街、右手に曲がれば支那街(注・差別語だけど、ここは原文通り)から、続いてイタリヤ街へと下りられる広い汚い四辻に出る」

地下鉄ブルックリン橋・シティホール駅を降り、ニューヨーク市役所の裏手からチャタム・スクエアに向かう道筋は、今は公園と州裁判所などの官庁街になっている。

荷風が歩いた時代、この周辺はファイブ・ポインツと呼ばれるスラムを中心に貧しい移民が密集する地域だった。彼によれば、道は「痰唾でぬるぬる」し、「怪し気な紙屑」や「ぼろきれ」「破けた女の靴下」が散乱していたという。その後、市が貧民街を一掃して一帯を再開発したんだろう。

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(チャタム・スクエアのバワリー通りから伸びる2本のストリート。右手に入ればチャイナタウン)

荷風の時代とは少し道筋が変わっているようだけど、チャタム・スクエアはキムロウ・スクエアと名前を変えて今もある。

バワリー通りなど7本の道路が交差する広場。荷風が描写するように、チャイナタウンのメーン・ストリートであるモット・ストリートがここから始まり、チャイナタウンを突きぬけキャナル・ストリートを横断して、リトル・イタリーに至る(リトル・イタリーはいまやチャイナタウンに飲み込まれつつある)。

チャタム・スクエアは現在では広大なチャイナタウンの南のはずれに当たり、キャナル・ストリート周辺の、肩と肩が触れ合う人混みに比べれば人通りはやや少ない。

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マンハッタンのチャイナタウンは19世紀後半、中国人排斥運動で迫害され、また大陸横断鉄道の完成で職を失った西海岸の中国人が移住してきたことに始まる。

彼らはニューヨーク最大のスラムで、アフリカ系やアイルランド系の下層労働者が住むファイブ・ポインツ(映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』の舞台)の東側、モット・ストリート、ペル・ストリート、ドイヤー・ストリート、モスコ・ストリートに住みついた。

そうか、荷風の道筋をたどって分かってきたのは、今では中心からはずれたこのあたりがチャイナタウン発祥の地だったんだ。

荷風がここを訪れる数年前、1900年のチャイナタウンの中国人人口は2000人。ちなみに現在は25万とも35万とも言われる。不法移民が多いので誰も正確な数字を把握できていない。

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(チャタム・スクエアに近いモット・ストリート。当時のチャイナタウンの入口)

今では大きく広がったチャイナタウンだけど、今日は荷風が訪れた当時の、最初にできたチャイナタウンだけを歩くことにしよう。といってもバワリー通りを底辺とした三角形の、ゆっくり歩いても10分あれば一回りできてしまう程度の広さ。

「家屋はみなアメリカ風のレンガ造りであるが、数多い料理店、雑貨店、青物屋など、その戸口毎に下げてある種々の金看板、提灯、灯篭、朱唐紙の張札が、出入りや高低の乱れた家並の汚さ、古さと共に、暗然たる調和をなし、全体の光景をば、誠によく、憂鬱に支那化さしている」

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荷風好みの「憂鬱」「暗然」といったフィルターを通してはいるものの、チャイナタウンは今も彼の描写した時代と大して変わっていない。

レストランや土産物屋が軒をつらね、所狭しと極彩色の品物を陳列している。家並が「古く」「汚い」のもそのまま。この周辺は、荷風が歩いた当時の建物の多くがそっくり残っているんじゃないかな。

移民たちが住んだテナメントと呼ばれるアパートは、荷風の時代には電気も水道も暖房もトイレもなく、狭い部屋に何家族もが暮らしていた。劣悪な環境で、乳児死亡率は40%近かったという(テナメントについては07年11月22日の「テナメント博物館」参照)。

今ではずいぶん改善されているんだろうけど、それでもここがニューヨークの他の地域に比べて人口密度が飛びぬけて高いのは間違いない。

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「家屋から人の衣服から、目に入るものは一斉に暗鬱な色彩ばかりで、空気はいつも、露店で煮る肉の臭い、人の汗、その他いわれぬ汚物の臭いを帯びて、重く濁って、人の胸を圧迫する」

チャイナタウンが独特の匂いを持っていることは確か。地下鉄を降りて地上に出ると、ああ、チャイナタウンだなと、街並みや人混みだけでなく匂いでも分かる。

荷風は当時、ボードレールの『悪の華』に心酔してたから、それをチャイナタウンに重ねて、彼自身の想念と二重映しで街を見ているんでしょうね。

いかにも荷風らしく、こんなことも書いている。

「ああ、私は支那街を愛する。私はいわゆる人道、慈善なるものが、遂には社会の一隅からこの別天地を一掃しはせぬかという事ばかりを案じている」

大丈夫。一掃されるどころか、チャイナタウンは元気で、リトル・イタリーを飲み込み、ロウワー・イーストサイドに広がり、イースト・ブロードウェーを東に進み、日に日に増殖している。

私が週に2度もチャイナタウンに来るのも、荷風の気分を少しは共有していて、やっぱりこの街が好きなのかもしれない。汚いし臭いからチャイナタウンは嫌いという人もいるけど、この街に足を踏み入れ、誰も知る人のいない人混みのなかを目的もなく歩いていると、なぜかほっとする。

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かつてのスラム、ファイブ・ポインツの南端が再開発されてコロンバス公園になっている。中国人の憩いの場で、この日は四川大地震支援の音楽会が開かれていた。ささやかながら寄付。

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チャイナタウンのウインドー・ショッピングは楽しいです。買う勇気はないけど。

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