(ペル・ストリート)
チャイナタウンは買い物や食事に週に1度、多い時には2度も訪れる。マンハッタンでいちばんよく行く場所なので見慣れた風景でもあり、改めて散歩しようとすると新鮮さに乏しい。そこで、いつもと別の目で見るためにガイド(?)を探してみた。
結果、見つけたのは作家の永井荷風。彼は1903年にアメリカに渡り、その体験を『あめりか物語』にまとめている。1世紀以上前のことだけど、ニューヨークは100年前のインフラを平気で使いまわしている都市だから、なんとかなるだろう。東京だったら、こうはいかない。そのなかの2編で、彼はチャイナタウンに触れている。
チャイナタウンへ行くために、荷風は「地下鉄道に乗って、ブルックリン大橋へ出る手前の、小さい停車場」で降りる。この駅は多分、ブルックリン橋・シティホール駅。今はチャイナタウンへ行くのにキャナル・ストリート駅で降りるのが普通だから、彼は反対方向から街に入っていったわけだ。
「高架鉄道の通っている第三大通り(注・現在のバワリー通り)を四、五丁ほども行くと、チャタム・スクエアといって、ここから左へ入ればユダヤ街、右手に曲がれば支那街(注・差別語だけど、ここは原文通り)から、続いてイタリヤ街へと下りられる広い汚い四辻に出る」
地下鉄ブルックリン橋・シティホール駅を降り、ニューヨーク市役所の裏手からチャタム・スクエアに向かう道筋は、今は公園と州裁判所などの官庁街になっている。
荷風が歩いた時代、この周辺はファイブ・ポインツと呼ばれるスラムを中心に貧しい移民が密集する地域だった。彼によれば、道は「痰唾でぬるぬる」し、「怪し気な紙屑」や「ぼろきれ」「破けた女の靴下」が散乱していたという。その後、市が貧民街を一掃して一帯を再開発したんだろう。

(チャタム・スクエアのバワリー通りから伸びる2本のストリート。右手に入ればチャイナタウン)
荷風の時代とは少し道筋が変わっているようだけど、チャタム・スクエアはキムロウ・スクエアと名前を変えて今もある。
バワリー通りなど7本の道路が交差する広場。荷風が描写するように、チャイナタウンのメーン・ストリートであるモット・ストリートがここから始まり、チャイナタウンを突きぬけキャナル・ストリートを横断して、リトル・イタリーに至る(リトル・イタリーはいまやチャイナタウンに飲み込まれつつある)。
チャタム・スクエアは現在では広大なチャイナタウンの南のはずれに当たり、キャナル・ストリート周辺の、肩と肩が触れ合う人混みに比べれば人通りはやや少ない。
マンハッタンのチャイナタウンは19世紀後半、中国人排斥運動で迫害され、また大陸横断鉄道の完成で職を失った西海岸の中国人が移住してきたことに始まる。
彼らはニューヨーク最大のスラムで、アフリカ系やアイルランド系の下層労働者が住むファイブ・ポインツ(映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』の舞台)の東側、モット・ストリート、ペル・ストリート、ドイヤー・ストリート、モスコ・ストリートに住みついた。
そうか、荷風の道筋をたどって分かってきたのは、今では中心からはずれたこのあたりがチャイナタウン発祥の地だったんだ。
荷風がここを訪れる数年前、1900年のチャイナタウンの中国人人口は2000人。ちなみに現在は25万とも35万とも言われる。不法移民が多いので誰も正確な数字を把握できていない。

(チャタム・スクエアに近いモット・ストリート。当時のチャイナタウンの入口)
今では大きく広がったチャイナタウンだけど、今日は荷風が訪れた当時の、最初にできたチャイナタウンだけを歩くことにしよう。といってもバワリー通りを底辺とした三角形の、ゆっくり歩いても10分あれば一回りできてしまう程度の広さ。
「家屋はみなアメリカ風のレンガ造りであるが、数多い料理店、雑貨店、青物屋など、その戸口毎に下げてある種々の金看板、提灯、灯篭、朱唐紙の張札が、出入りや高低の乱れた家並の汚さ、古さと共に、暗然たる調和をなし、全体の光景をば、誠によく、憂鬱に支那化さしている」
荷風好みの「憂鬱」「暗然」といったフィルターを通してはいるものの、チャイナタウンは今も彼の描写した時代と大して変わっていない。
レストランや土産物屋が軒をつらね、所狭しと極彩色の品物を陳列している。家並が「古く」「汚い」のもそのまま。この周辺は、荷風が歩いた当時の建物の多くがそっくり残っているんじゃないかな。
移民たちが住んだテナメントと呼ばれるアパートは、荷風の時代には電気も水道も暖房もトイレもなく、狭い部屋に何家族もが暮らしていた。劣悪な環境で、乳児死亡率は40%近かったという(テナメントについては07年11月22日の「テナメント博物館」参照)。
今ではずいぶん改善されているんだろうけど、それでもここがニューヨークの他の地域に比べて人口密度が飛びぬけて高いのは間違いない。
「家屋から人の衣服から、目に入るものは一斉に暗鬱な色彩ばかりで、空気はいつも、露店で煮る肉の臭い、人の汗、その他いわれぬ汚物の臭いを帯びて、重く濁って、人の胸を圧迫する」
チャイナタウンが独特の匂いを持っていることは確か。地下鉄を降りて地上に出ると、ああ、チャイナタウンだなと、街並みや人混みだけでなく匂いでも分かる。
荷風は当時、ボードレールの『悪の華』に心酔してたから、それをチャイナタウンに重ねて、彼自身の想念と二重映しで街を見ているんでしょうね。
いかにも荷風らしく、こんなことも書いている。
「ああ、私は支那街を愛する。私はいわゆる人道、慈善なるものが、遂には社会の一隅からこの別天地を一掃しはせぬかという事ばかりを案じている」
大丈夫。一掃されるどころか、チャイナタウンは元気で、リトル・イタリーを飲み込み、ロウワー・イーストサイドに広がり、イースト・ブロードウェーを東に進み、日に日に増殖している。
私が週に2度もチャイナタウンに来るのも、荷風の気分を少しは共有していて、やっぱりこの街が好きなのかもしれない。汚いし臭いからチャイナタウンは嫌いという人もいるけど、この街に足を踏み入れ、誰も知る人のいない人混みのなかを目的もなく歩いていると、なぜかほっとする。
かつてのスラム、ファイブ・ポインツの南端が再開発されてコロンバス公園になっている。中国人の憩いの場で、この日は四川大地震支援の音楽会が開かれていた。ささやかながら寄付。

チャイナタウンのウインドー・ショッピングは楽しいです。買う勇気はないけど。
最近のコメント