『マッド・ディテクティブ(Mad Detective・神探)』
香港のジョニー・トー監督と、この映画の脚本家ワイ・カーファイが共同監督した新作『マッド・ディテクティブ(原題・神探)』をやっと見ることができた。
去年のヴェネツィア映画祭に出品された作品で、先月のニューヨーク・アジア映画祭にかかっていた。
そのときは上映時間を間違えてしまい、なんとも悔しい思いをした。おまけにトー監督のもう1本の作品『スパロウ』も満員で見ることができず、結局、マークしていたジョニー・トーを1本も見ることができなかった。ついてない。
帰国してから日本公開されるのを期待するしかないかと思っていたら、アジア映画祭と同じ映画館、ウェスト・ビレッジのIFCで週末から上映がはじまった。
うーむ、実にジョニー・トーらしい仕掛けとケレンに満ちた映画。存分に楽しませてくれました。
ワイ・カーファイとはすでに何本か共同で監督していて、いわば仲間同士。物語の設定は、そのうちの1本『マッスルモンク』のワイの色が濃い(香港映画賞の脚本賞などを受賞)。ただ演出や撮影・編集について、どのあたりがジョニー・トーではなくワイの色なのかは僕にはよく分からない。
元警官で精神を病んでいるバン(ラウ・チンワン)が、対面している相手の隠された「内的自己」を幻視してしまう、という設定がミソ。バンの前に現れる人物の、分裂した人格を持っていたり、気弱な少年だったりする「内的自己」を、ジョニー・トーは大胆に映像化してみせる。
バンには、今はいない離婚した妻(彼女も警官)の姿も見えてしまう。バンは単に病んでいるだけなのか、それとも何らかの能力を持っていて隠された真実を幻視することができるのか、誰にも分からない。
物語は警官のホー(アンディ・オン)とバンが、失踪した警官を探して警察内部を捜査することで始まる。バンが最初に幻視するのは、失踪した警官の相棒コー(ラム・カートゥン)の後を追っているとき。路上を歩いているコーが突然、7人の男や女に変化してしまう。
最初、コーが口笛を吹きはじめ、次のショットで7人が口笛で同じメロディを吹くことで、彼らがコーの分身であることが暗示される。とはいえ、最初はこれがどういう仕掛けなのか、見る者はとまどう。
どうやら7人がコーの「内的自己」らしいぞと感じはじめたところで、バンが7人の間をすり抜ける。それがまるでバンがコーの身体を透明人間みたいに通り抜ける感触があり、そのあたりから見る者はジョニー・トーに心地よく幻惑されてゆく。
コーの分裂した7つの内部人格は、狡猾な頭脳をもつ知的な女性だったり、やたら殺したがる武闘派の男だったりする(その1人が食い意地の張った男で、演じているのはトー映画の常連、ラム・シュー)。
そういうバンの見る幻視のカットと現実のカットが何の説明もなくつながれ、「内的自己」と現実の人物が当たり前のように会話したり戦ったりするのが面白い。
「内的自己」と現実の人物が絡み合ったあげく、最後は香港ノワールの決まり事のような結末を迎えるんだけど、そこでもまたトーは「内的自己」を登場させてひとひねりし、映画の余韻を深くしている。
それにしても、アクション・シーンの畳みかけるようなリズムが素晴らしい。ラスト、鏡張りの部屋での銃撃戦も、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』以来の定番といえば定番だけど、「内的自己」と外側の人物が入り乱れているだけに、いっそう迷宮的な酩酊を感ずる。
マッド・ディテクティブを演ずるラウ・チンワンが、時にハードボイルドに決め、時に滑稽味を出していて、とてもいい。
考えてみれば去年の夏、ニューヨークに来てはじめて見た映画がジョニー・トーの『エグザイルド(放逐)』だった。来週にはニューヨークを離れるので、どうやら『マッド・ディテクティブ』がこちらで見る最後の映画になりそうだ。
ジョニー・トーで始まり、ジョニー・トーで終わる。それがアメリカ映画ではなく香港映画だったことが(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』とか『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』とか見事なアメリカ映画もあったけど)、ニューヨークの映画体験の記憶として残りそうだな。
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