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2008年6月

2008年6月27日 (金)

うまくいかない日

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(ウェスト・ヴィレッジの公園で)

先週から第7回ニューヨーク・アジア映画祭が開かれている。もっとも日本映画が半分近く、『サッド・ヴァケーション』『オールウェイズ 3丁目の夕日 2』『靖国』など20本以上が上映される。

小生は香港ノワールのジョニー・トー監督の2本に目をつけた。のだけれど、これがどうにも嫌われつづけているんですね。

3日前にワイ・カーファイ監督との共同監督作品『マッド・ディテクティブ(Mad Detective)』を見にいったときは時間を間違えてしまい、仕方なくその時間にやっていた韓国映画『ハッピネス(Happiness)』(ホ・ジノ監督)を見た。

ホ監督のデビュー作『8月のクリスマス』は、それまでの情念たっぷりの韓国映画から切れたしゃれた映画で、今の韓国映画全盛のきっかけをつくった作品だったけど、この新作では『8月』にもあった「難病もの」の要素が全開。アルコール依存症の男と心臓に病気を持つ女の恋愛もので、都会の退廃対田舎の淳朴といった図式もやや鼻につき、あんまり楽しめなかった。

で、今日はジョニー・トー監督のもう1本、『スパロウ(Sparrow)』に行ったら、今度はソールド・アウトで見られず。『ハッピネス』ががらがらだったので、油断して開演20分前に行ったのが失敗だった。ニューヨークでもやはりジョニー・トーはカルト的な人気があるものと見える。去年は『エグザイルド(放逐)』も公開されているし。

『スパロウ』はもう1回上映予定があるけど、その日は友人とディナーの予定を入れてしまった。うーん、どうするか。悩みます。

上の写真は、ソールド・アウトでがっかりし、そばの公園のベンチに座り込んで撮ったもの。

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(ニューヨーク大学前で)

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2008年6月24日 (火)

マーメイドたち

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22日はコニー・アイランドの海開き。yuccaさん夫妻とランチの後で行ってみた。

恒例の「マーメイド・パレード」が開かれている。老若男女の「マーメイド」たちが思い思いの格好で参加してる。いかにもアメリカ的な陽気な催し。ものすごい人出で、肝心のパレードはほとんど見えなかったけど。

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2008年6月22日 (日)

ロング・アイランド・シティを歩く

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クイーンズのイサム・ノグチ美術館へ行ったついでに、美術館周辺のロング・アイランド・シティを歩いた。

ロング・アイランド・シティというのは、1898年にブルックリンとともにニューヨーク市に合併されるまでの町の名前で、今ではクイーンズ南西部の地域をこう呼ぶ。

マンハッタンからクイーンズへ来ると、ブルックリンと同じように低層のビルがどこまでも続いていて、空が広いのにほっとする。

ただブルックリンはダウンタウンや住宅地、工場地帯がくっきり分かれて町の構造がはっきりしているのに対し、クイーンズは住宅地域と工場地域が入り乱れてのっぺりとどこまでも続いている印象がある。

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このあたりは工場地帯。自動車修理など小さな工場も多い。

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工場はどこも忘れ去らてたように古い。ここも金曜の午後、操業しているのかしていないのか分からなかった。

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歩いている人も少なく、閑散としている。

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小生、「キューポラのある街」埼玉県川口育ちのせいか、こういう寂しい工場地帯には懐かしさを感じてしまう。

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クイーンズは80以上の民族が混交して住んでいる多国籍住宅地域でもある。居住者の半分はアメリカ以外の国から来た者だという。アメリカ人(アフリカ系を含む)はここでは少数派で、だからクイーンズは未来のニューヨークを先取りしているわけだ。

ロング・アイランド・シティにはギリシャ系住民が多い。

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こちらはメキシコ系のデリ。

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2008年6月20日 (金)

エディソンへドライブ

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映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、石油を掘り当てて富豪になった主人公の血塗られた「アメリカン・ドリーム」を描いた資本主義裏面史とも言うべき作品だった。

「発明王」トーマス・エディソンの生涯を見ていると、彼もまたもうひとりの「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公であり、アメリカ資本主義生成史の重要な一駒であることが分かって面白い。

ジョセフ・スワンが発明した白熱電灯のフィラメントを竹を使って改良して事業化・普及に成功し、結果的に電灯の「発明者」と呼ばれ、

「電話」の実用化をめぐってはグラハム・ベルと特許戦争を繰り広げ、

直流での電気送電を主張したエディソンに対し、彼の部下で後に世界標準となる交流を主張した天才的発明家、ニコラ・テスラと確執の結果、袂を分かち、

シリンダー型の「蓄音器」を発明したエディソンに対し、それを円盤のディスク型に改良しグラモフォン社(RCAビクターの母体)を設立したエミール・ベルリナーと熾烈な販売競争をして敗れ、

晩年は降霊術を信じ、死者との交信の研究に没頭した。

小学校で習った「偉人伝」には収まりきらない、ひと癖もふた癖もある人物だったようだ。

友人Iがドライブに誘ってくれて、ニュージャージー州エディソンあるメンローパーク博物館と邸宅を見てきた。エディソンは、彼にちなんで名前がつけられた町。

上の写真は博物館とエディソン記念塔。

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エディソンが「発明」した白熱電灯。

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シリンダー型蓄音器の最初のモデル。

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エディソンのノート。

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蓄音器(フォノグラフ)のポスター。

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同じニュージャージー州のウェスト・オレンジにエディソンの邸宅が残っている。19世紀末に建てられた、クイーン・アン様式の29室をもつ邸宅。

1887年、西海岸から東海岸に移った彼はここウェスト・オレンジに研究所をつくり、この豪邸を買った。同時に「エディソン・ジェネラル・エレクトリック」社(後のGE)を設立している。

エディソンはこの家に再婚した妻と3人の子どもと住んだ。富豪にしては絵画や陶磁器のコレクションもなく、エディソン自身の個性や好みをあまり感じさせない家ではある。

近所には研究所も残っているが、今は公開されていない。

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エディソンの部屋。ここで死者との交信を試みたんだろうか。

現在は広大な敷地の一部が分譲され、エディソン邸ほどではないが大きな邸宅がいくつも並び、公道からの出入りは1台1台チェックされるゲーティッド・コミュニティーになっている。

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2008年6月15日 (日)

エルパソの旅 3

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ふだん旅に出ると午前中から夕方までフルに動くことが多いけど、気温40度以上のエルパソでは、せいぜい4時間が限度だった。

だからいちばん暑くなる午後2時すぎにはホテルに戻り、シャワーを浴びて本を読んだり窓の外の景色を眺めながらぼんやり過ごすことにした。ま、ジジイの旅はこのくらいでいいのかもしれない。

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ホテルの部屋からの眺め(東) 夜明け前のフランクリン山脈。

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ホテルの部屋からの眺め(西) 丈の低い草が生えているだけの砂漠の岩山。

本や景色にも飽きてうたた寝をし、気がつくと午後7時をすぎている。この時間になると、さすがに太陽も西に傾いている。まだ外は昼間の明るさだけれど、午後の強烈な陽射しではなさそうだ。で、ホテルを出てあたりを散歩し、適当にレストランを見つけて夕食を取る。

初日、2日目と同じことをつづけるうち、7時ごろから暗くなりきるまでの2時間近くが、エルパソでいちばん美しい時間であり、またいちばん気持のよい時間であることに気づいた。

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昼間の抜けるような青空もいいけれど、暗くなりかけ、少しずつ藍が濃く深みを増していく空と、その下で徐々に闇に溶けていく風景は、空気が乾いている砂漠だからだろうか、マクドナルドの看板やら何やら昼間のアメリカ的な即物性が一変して神秘的な感じすらする。

しかも真昼の苛烈な陽射しはなく、暖かで柔らかい風が肌をなでてゆく。なんとも心地よい。この風景とこの風のなかにいるだけで、エルパソに(さしたる理由もなく)来た甲斐があると思った。

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陽が傾いたとはいえ、この町でジョギングしている人がいるのには驚く。

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ホテルはダウンタウンから車で10分ほどのところにある。エルパソはダウンタウンからスプロール状に広がった町のつくりになっている。

旧市街のダウンタウンはどちらかというとメキシコ人相手の店が多く、エルパソの(特に白人の)住民が行くレストランやカフェやファスト・フードはロードサイトに散らばっているから、車がないとどうにも動きが取れない。ホテルの周辺を歩いていても、人を見かけるのは駐車場と店の間だけで、歩行者とすれ違うことはほとんどない。

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カフェの屋外テーブルに座って陽が沈むのを眺めていると、文字通り時間のたつのを忘れてしまう。ホテルまでの帰り道は人けがないから、暗くなりきる前に帰らなければならない。でもテーブルを離れがたくて、もう少し、もう少しとなかなか腰が上がらない。

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ホテルへ戻り部屋から外を見ると、岩山に三日月が浮かんでいた。

この夜はホテルのシャトルバスを頼んで、フランクリン山脈中腹の、町を見下ろせる展望スポットへ出かけることになっている。

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わお、と思わず声が出た。手前がエルパソの町。遠くのひときわ輝いているあたりがメキシコのシウダー・フアレス。人口密度の差が一目で分かる。その間に、国境であるリオ・グランデ川が流れている。

無数の灯りひとつひとつの下に、ひとつひとつの生があるのかと思うと、旅の終わりに、ちょっと切ない気分になる。

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2008年6月14日 (土)

エルパソの旅 2

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ニューヨークの地下鉄駅にある自動改札と似た機械に30セントを入れてバーを押すと、バーが回転して人が1人だけ通れる。気がついたら誰にも何も言われず、地下鉄に乗るのとまったく同じようにアメリカを出国してしまった。

サンタフェ橋の歩行者通路を歩いていくと、アメリカ合衆国とメキシコの国旗がひるがえっている。ここが国境か。

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鉄条網から下をのぞくと、コンクリートの護岸堤にはさまれた運河みたいな細い流れが見える。え? ひょっとして、これがリオ・グランデ川?

なんだか、がっかりしてしまった。もっと雄大な国境の川を想像していたんだけどなあ。

まあ、冷静になって考えてみれば、小生のリオ・グランデ川のイメージはほとんどが昔の映画によってつくられている。

西部劇の古典、『リオ・グランデの砦』や『リオ・ブラボー(リオ・グランデのメキシコ側の呼称)』。少し新しいところでは(いや、ちっとも新しくありません。1970年代)、『ゲッタウェイ』(サム・ペキンパー監督の古いほう)やエルパソが舞台になった『ボーダー』。

そもそもエルパソへ行ってみようという気になったのも、これらの映画でエルパソとリオ・グランデの風景に惹かれた記憶が頭の片隅に残っていたからかもしれない。

ジャック・ニコルソンがエルパソの国境警備官になった『ボーダー』は、メキシコからの不法入国者の問題をリアルに認識した最初の機会だったと思う。

その後、NHK特集で「ウェット・バック」と呼ばれる密入国者がリオ・グランデを渡る映像を見た記憶がある。そのときのリオ・グランデは、もっと広くて滔々たる流れだった。

数年前に見た『メルキアデス・エストラーダ3度の埋葬』でも、そうとは明示されてなかったけど、トミー・リー・ジョーンズたちが渡った激しい流れはリオ・グランデだったはず。

などと言ってもはじまらない。ともかく、ちっともグランデでないリオ・グランデを渡る。

メキシコへの入国も、同じ自動改札。ここでも誰にも何も言われず、パスポートも何も求められずに、30セントのコインを入れてメキシコへ入国した。

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国境のメキシコ側はシウダー・フアレスの町。もともとエルパソとひとつの町だったけれど、アメリカ・メキシコ戦争の結果、リオ・グランデ川が国境になって2つに分れてしまった。

もとはひとつの町だから、エルパソとシウダー・フアレスの町のつくりや建物は共通しているはずだ。でもエルパソは、その後の近代化でアメリカの都市らしい表情を持ち、こちらのシウダー・フアレスは150年前の2つに分かれる前の町のたたずまいをそのまま残しているような気がする。

低層のレンガづくりの家屋。派手な色づかい。サンタフェ橋からつづく道路の両側には、アメリカから来る観光客(そんなに多くない)に向けて両替店、ブーツや銀細工を売る土産物店や食堂が並んでいる。

この日はウィークデーで、観光客向けのオープン・マーケットはほとんどが店を閉めている。そのせいか寂れた感じがする街路に、容赦なく太陽が照りつける(上の写真は、そこから脇へ入る通りのものです)。

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ともかくシウダー・フアレスのメイン・ストリートである9月16日通りへ出て、グアダルーペ・ミッションを目指した。

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ミッションの前に公園がある。この日も摂氏41度。雲ひとつない快晴。国境を越えてここまで来るだけで、刺すような陽射しに焼かれて肌がちりちりする。そろそろ歩くのも限界で、ここでひと休み。同じように日蔭を求めて、たくさんのメキシコ人が座っている。

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男たちがつば広のカウボーイ・ハットをかぶっている理由がよく分かった。小生はキャップをかぶっていたけど、これだと首の後ろが直射日光にさらされてしまう。小生にはまったく似合わないと思うけど、カウボーイ・ハット(もっと大きなソンブレロでも!)がほしくなる。

30分ほど休んで、周辺を歩くことにする。

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この日の朝、エルパソのホテルで朝食を取りながら新聞を読んでいたら、シウダー・フアレスで1人の警官と2人の州調査官が麻薬密輸組織の手で殺された、という記事が載っていた。警察署のドアに殺人予告リストが貼られていたそうだ。

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今年、シウダー・フアレスでは400件以上(!)の殺人が起きていて、その大部分が麻薬組織がらみだという。この町ではアメリカへの麻薬密輸が最大の「産業」で、組織にかかわっている警察官や公務員も多いらしい。

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国境までホテルのシャトルバスで送ってもらったときも、運転手氏が、「メキシコ人は皆いい奴だけど、麻薬組織の人間だけは危険だ」「警官に話しかけられても信用するな」と言っていた。

エルパソの観光案内所の女性も、「シウダー・フアレスでは細い通り、人気のない通りに1人で入らないように」と忠告してくれた。

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しばらく滞在していればなんとなし町の気配が分かってくるものだけど、ほんの数時間の町歩きでは自重して、にぎやかな通りを選んで歩く。

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メキシコのプロレスラーは子どもたちのヒーローであり、ある種の文化的存在でもあるみたいだ。

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30分ほど歩いてまたしても限界に近づいたので、食堂に入ってランチ。アボガドのペーストとトルティージャ。チキンとビーンズ。

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小生はじめ何人かの観光客がいるのを見て、流しの2人組が入ってきた。

メキシコへ入って4時間。短い時間だったけれど、これ以上炎天下を歩けない。アメリカへ(!)戻ることにする。

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サンタフェ橋をもういちど渡り、入国審査を抜けてアメリカ側の道に出たすぐのところに公衆電話があった。一緒に審査の列に並んでいたメキシコ女性が電話をかけている。話す相手はエルパソにいる親戚か友人か。それともこちらで働いている恋人なのか。

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2008年6月13日 (金)

エルパソの旅 1

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ニューオリンズ空港からダラス経由でエルパソ行きの飛行機に乗り、雲が切れると見渡す限りの砂漠だった。一面の土色のなかに、汚れた緑の斑点のようなものが無数に張りついている。ときおり道路が一直線に走っている。

やがてロッキー山脈の最南端フランクリン山脈の岩山が見えてきて、その麓にあるのが国境の町エルパソだった。

エルパソはテキサス州の西の端にあり、町なかを流れるリオ・グランデ川を渡ればメキシコになる。

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エルパソのダウンタウンにあるサンハシント公園の木陰に座りこんで途方に暮れてしまった。この町は、自分流の旅の仕方ではまったく歯が立たないな。

自分流といっても、要するにただ歩きまわるだけのこと。初めての土地に来たら、できるだけ自分の足で歩きまわることにしている。1日、2日と歩いているうちに、匂いや空気が肌になじんでくる。その町がなんとなく自分のなかに入ってくる、ような気がする。

ところがここは摂氏42度。この1カ月、まったく雨が降っていない。「焼けるような」という表現があるけど、ほんとに焼けるような陽射し。5分と歩いていられない。

ニューオリンズは「ホット&ヒューミッド」だったけど、エルパソでは「ヒート&ドライ」と言う。「ホット」でなく「ヒート」だから、そのなかを長いこと歩こうというのが土台無理なのだ。

ジジイの旅は悲しいもので、歳を取るとトイレが近くなり、初めての土地での町歩きはまずトイレ探しから始まる。特にアメリカは公衆トイレが少ないから大変だ。公園から2ブロック西の観光案内所に清潔なトイレがあることが分かってひと安心したけど、そこまで炎天下を200メートルほど往復しただけでぐったり疲れてしまった。

風も強くて、町の外から運ばれてきた砂が顔に当たり、遠くのフランクリン山脈が埃に霞んでいる。

おまけにここのダウンタウンは、小生が勝手に思い込んでいたのとは少し違うみたい。国境の町だから国際色豊かでにぎやかだろうと思っていたら、人も商店も少ないし、感じのいいレストランやカフェの1軒もない。

気を取りなおして、ともかく公園の周りを一回りしてみることにしよう。

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観光案内所でもらった「エルパソの歴史的建造物」によると、ここは「アクメ・サルーン」という有名な酒場だった。

エルパソは西部劇の時代から1920年代まで、ギャンブルと売春の町として有名だったのだ。

そう思ってみれば建物の曲線も艶めかしいけど、今はディスカウント・ショップになっている。

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これも歴史的建造物で「ステート・ナショナル銀行」。かつての繁栄をしのばせる建物だけど、「リオ・グランデ・ファッション」という衣料品スーパーになっている。

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これが内部。元銀行だけに、天井の装飾がやけに目立つ。

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近くの建物の壁に「エルパソ・ボクシングの殿堂」と題した絵が描かれている。ひときわ大きく描かれているのは元世界チャンピオンのオスカー・デ・ラ・ホーヤ。6階級制覇したメキシコ系の名ボクサーだけど、エルパソと関係あったのか。

最近はあまりボクシングを見なくなったけど、若いころは大好きで、メキシコ(系)のボクサーも何人か記憶に残っている。なかでも鮮烈なのは51戦無敗49KOで世界チャンピオンになったルーベン・オリバレスで、金沢和良が挑戦したタイトルマッチは、あんな壮絶な試合は後にも先にも見たことがない。

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20分ほど歩いてぐったり疲れたので、またサンハシント公園まで戻って木陰を探す。散水器から水が撒かれている。砂漠のなかでこの緑を維持するのは大変だろう。

肉体的な疲れに加えて想像していた町と違うので気落ちし、ホテルに戻ろうかと思ったけど、もう一度気を取りなおし、ともかく国境まで歩いてみようと決める。

エル・パソ通りを10分ほど南へ歩くと国境だと聞いたので、日蔭を伝い歩き。

公園からは見えなかったけれど、エル・パソ通りに入ると両側にびっしりと商店が連なり、こんなに人がいたのかとびっくりするほどのメキシコ人がにぎやかに買い物をしている。

飛びかう言葉はすべてスペイン語だし、かなりの音量で競いあうように流している音楽もメキシコのものだ。町のたたずまいもカラフルで、アメリカというよりメキシコふう。

そうか、こっちが今のダウンタウンだったんだ。

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リオ・グランデ川の向こうはシウダー・フアレスというメキシコの町になっている。もともとシウダー・フアレスとエルパソはひとつの町だったけれど、アメリカ・メキシコ戦争(1849)の結果、町なかを流れるリオ・グランデ川が国境になり、町は2つの国に分かれてしまった。

今、アメリカはメキシコからの不法入国者を厳しく取り締まっているけれど、シウダー・フアレスの住民はそういう経緯があるからだろうか、IDを見せるだけで簡単に国境を越えられるみたいで、気軽にアメリカまで買い物に来ていた。

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物価はメキシコのほうが格段に安い。だからフアレスの住民は安いものを求めて国境を越えて来るのではない。メキシコでは手に入らないものや、デザイン的に洒落たものなんかを買いにくるんだろう。

ま、日本人の感覚からすればそんないい品とは思えないけど。ジーンズ9ドル99セント。

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店員にメキシコ人だけじゃなく東洋人が多いなあと思っていたら、後で聞いたところ、この通りの店の大部分は韓国人経営で、メキシコ人を従業員に雇っているのだそうだ。うーむ。アメリカ合衆国の南の果て、国境の町に来て韓国人のパワーを実感。そう言われれてみると、マネキンの顔も韓国人に見えてくる(暑さのせいか?)。

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エルパソ通りの終わり、国境検問所の始まりの地点にたどりつく。リオ・グランデ川にかかるサンタフェ橋の、フェンスに覆われた歩道を歩いていくと国境がある。エルパソで買い物をすませたメキシコ人が続々と帰ってゆく。

明日は国境を越えてみよう。

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2008年6月12日 (木)

ニューオリンズの旅 3

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この写真、ミシシッピ川からニューオリンズ市街地を見たものだ。

右側に赤い屋根の建物があるけど、見えているのは2階と3階の部分。1階部分は写っていない。その左にある2軒の平屋は屋根だけが見えている。ここからも、ニューオリンズ市街地の標高がミシシッピ川の水面より低いのが分かる。

「ハリケーン・カトリーナ・ツアー」というのがあるのを知った。

ハリケーンの被災地を「ツアー」して回るのはあまり趣味のいいことじゃないけど、一方で、こういう機会でもなければ普通の人間が被害の実態を見ることがむずかしいのも確か。

迷ったあげく、観光客がじゃんじゃんお金を落とすことがニューオリンズの復興につながる、という言葉をとりあえず信ずることにしてツアーに申し込んだ。

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ツアー客は30人ほど。バスの出発前に、ガイドを兼ねた運転手氏が2005年夏にこの町を襲ったハリケーン・カトリーナについて説明してくれる。

そこで見せられたのが上の写真。図の中央左から下に流れているのがミシシッピ川で、上部の青いのがポンチャトレイン湖。その間に挟まれて、色がついている部分が洪水に襲われた地域になる。写真ではよく分からないと思うけど、洪水地域には運河が何本も走っている。

ミシシッピ川がコの字型に折れ曲がっている北(上)で色がついていない部分は洪水をまぬがれた旧市街地で、ここは標高が高い。

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旧市街から北へバスで走ること15分。被災地が見えてきた。人気のほとんどない通りに無人の家々が連なっている。

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運河を渡る。左の家が運河の水面より低いのが分かる。洪水の最大の原因をつくったのは、この地域を何本も走っている運河だった。

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ニューオリンズ旧市街地の外には、もともとこういう沼地が広がっていた。20世紀に入って排水技術が発達すると、沼地を干あげて運河を通し、そこが工場地帯と、工場に勤める労働者の新住宅地域になった。

カトリーナによる被害がいちばん大きかったのは、労働者や下層住民が住むこういう地域だった。

カトリーナが通り過ぎた後、ミシシッピ川とポンチャトレイン湖、それにつながる運河の水位が急激に上昇した。あるところでは運河の堤防が決壊し、あるところでは水門が操作できずに(人災)、ニューオリンズ市の約80パーセントが水没した。

いちばん標高が低い地域では1階部分がそっくり水につかったという。平屋に住み、しかも車を持たない人々は逃げ場を失った。

一方、救助されてコンベンション・センターやスーパードームに収容された人にも水や食料が届かず、死者は1500人以上にのぼった。

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バスはどこにも止まらず、洪水地域を回る。 それはそうだね。バスからぞろぞろ降りて「見物」なんて、できるもんじゃない。

三角形の外壁にスプレーで何か書かれているのは、レスキュー部隊が活動・調査したことを示す。この家(2家族)では2人が亡くなったという。

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この家の住民が書いたのだろう。「リサとドニーは大丈夫」「略奪する者には死を」とある。

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このあたりは特に被害が大きかった。

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運河右に屋根が見えている家々は、いまは誰も住んでいない。

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商店やスーパーやショッピング・モールも打ち棄てられたまま。

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それでも人々は少しずつ戻ってきている。こんなふうに自宅前でトレーラー住宅に住んでいる人もいる。

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新築された家。1階部分がガレージ、2階、3階が住居になっている。

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「FOR SALE」

カトリーナ以前の2000年に48万人いた市の人口は、2007年に24万人と半減している。

ニューヨーク発ニューオリンズ行きの列車「クレセント」号の食堂車で会ったアフリカ系のおばあちゃんを思い出した。カトリーナで一家はニューオリンズを離れた。おばあちゃんは子供や孫たちとは別れて住んでいる。

今回は久しぶりにニューオリンズに戻るのだという。もう一度、ニューオリンズに家族で住めそうですか、と聞いたら、「分からない」というのが答えだった。

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2008年6月11日 (水)

ニューオリンズの旅 2

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19世紀末、ジャズが生まれたニューオリンズのフレンチ・クォーターは紅灯地区、つまり娼館が立ち並ぶ一角だった。

南軍が放出したコルネットなどブラス楽器やドラムを手に入れた黒人たちが、娼館や酒場でそれらを演奏するなかから、またお葬式の行進で音楽を吹き鳴らすなかから(「聖者の行進」ですね)ジャズが誕生したのは有名な話。

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紅灯地区の「伝統」は今も健在で、フレンチ・クォーターは火灯し頃になると人が集まり、活気づいてくる。陽が沈み、吹いてくる風も心地よい。

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フレンチ・クォーターの本通りともいうべき「バーボン・ストリート」。ジャズやケイジャン音楽やロックを聞かせる店と並んで、伝統に則って(?)ストリップなどの風俗店が営業している。

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小生はジャズ好きだけど好みはビバップ以後のモダン・ジャズで、実はニューオリンズ・ジャズはほとんど聞かない。

かつて私らより上の世代には、ニューオリンズ・ジャズが好きとかディキシーランドしか聞かないという人がけっこういたけど、今ではごく少数のマニア以外、ほとんどいないんでしょうね。

もっとも何人かのミュージシャン、たとえばルイ・アームストロングのトランペットはいつ、何度聞いてもジャンルを超えて素晴らしい。生きる歓びに満ちた、輝くような音色に圧倒される。

そんなわけで今回ここに来たのは、ニューオリンズ・ジャズを聞くためというより、ジャズ誕生の地にこの身を置いてみたかったから。だから夜のフレンチ・クォーターをそぞろ歩きしただけで、まずは満足した。

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といって、ここまで来てニューオリンズ・ジャズを聞かない手はない。ニューヨークで知り合ったアフリカ系の友人が、ここに行ったら、と教えてくれたのが「プリザベーション・ホール」だった。

ニューオリンズ・ジャズの保存を目的に1961年に開場したホール。ホールというより、1世紀以上前の古い建物の部屋2つをぶち抜いてつないだ小屋、といったほうが当たってるかな。古びた壁、暗い電灯の下で音楽を聞いていると、男たちやその脇の娼婦たちが陽気に騒いでいるジャズ誕生当時の情景が思い浮かぶ。

この日はセント・ピーター・ストリート・セレナーダーズというバンドが出ていた。アフリカ系のトランペットをリーダーに、テナーサックス、バンジョー、ピアノ、ベース、ドラムスの編成。

正直言って、あまり期待してなかった。観光客向けの古色蒼然としたジャズをやってるんじゃないかと思って(かつてリスボンへファドを聞きにいったとき、ひからびたファドしか聞けなくてがっかりした経験がある。ファドは死んでる、と思った)。

でも、それなりに聞かせる、現代的なニューオリンズ・ジャズでしたね。全体はニューオリンズ・スタイルなんだけど、ソロになるとトランペットやピアノが今ふうなアドリブを紡ぎだす。ニューオリンズ・ジャズを現代的に演奏する、ご当地出身ウィントン・マルサリスあたりの影響だろうか。

翌日、友人に勧められたもう一軒「ハウス・オブ・ブルース」へ行ったけど、その日はブルースの香りもない若者のロック(という以上に最近の呼び方を知らない)でした。ついでに、ケイジャン音楽(バイオリン、アコーディオンに、洗濯板みたいなラブボードの編成)をやってる店も、ちょっとだけ覗いてみる。

ちなみにケイジャンというのは、カナダからやってきたフランス系移民(とその子孫)のこと。ケイジャン料理はおいしくて、ザリガニや炊き込みご飯(ジャンバラヤ)、香辛料たっぷりのガンボ・スープなど、毎日楽しみました。

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フレンチ・クォーターを歩くもうひとつの楽しみは建物だろう。

フランス統治時代に町ができたから「フレンチ・クォーター」なんだけど、今の建物が建てられたのはスペイン統治時代で、だから建物はスペインふう。

熱帯の植民地建築みたいなバルコニーがあり、建物の裏には中庭(パティオ)がある。バルコニーのフェンスは鋳鉄製で、それぞれデザインを競っている。それを1軒1軒見て回るだけで飽きない。

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フェンスのデザインだけでなく、南国らしい花々もそれぞれ競っている。

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フレンチ・クォーターでいちばん古い、ポンタルバ男爵夫人アパート。

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小生、実家が鋳鉄工場なもので、こういう工芸鋳物にはどうしても目がいく。うーむ、見事です。

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フレンチ・クォーターのヘソ、ジャクソン広場でポーズを取った大道芸人。

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フレンチ・クォーターの脇を走る、これもニューオリンズ名物の路面電車。

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2008年6月10日 (火)

ニューオリンズの旅 1

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冷房の効いたホテルの部屋からニューオリンズの町に一歩足を踏みだした瞬間、うわ、すごい湿気だな、と思った。気温32度。6月になったばかりだけど、蒸し暑さは真夏の東京と変わらない。

ニューオリンズの人々はこの地の気候を「ホット&ヒューミッド(蒸し蒸しする)」と表現する。

「ホット&ヒューミッド」、特に「ヒューミッド」はたいていのアメリカ人が気候に関していちばん嫌う言葉だと思う。その嫌いようは、温暖湿潤の地に慣れたわれらには想像もつかない。

ニューヨークでも、暖房の季節が終わってようやく暖かくなってきたと思うと、地下鉄やレストランに冷房が入りはじめる。冷房が苦手のこちらにはたまらない。暖房も冷房も使わない時期が、日本なら春秋にそれぞれ2カ月近くあるけれど、こちらではその期間がごく少ない。冷房は「クール」だけじゃなく「ドライ」のためにこそ必要みたいだ。

その「ホット&ヒューミッド」のなかを、覚悟を決めて歩きはじめた。

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ニューオリンズでは、まずミシシッピ川を見たかった。もちろんジャズ発祥の地、フレンチ・クォーターもあるけど、フレンチ・クォーターが活気づくのは夜だから、そちらは後のお楽しみ。

ミシシッピ・クルーズのナッチェス号に乗り込む。

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船が桟橋を離れると、すぐにニューオリンズのシンボル、セントルイス大聖堂が見えてくる。港町の建築だから、正面を川に向けて建てられているのがよく分かる。

ニューオリンズは、18世紀はじめにフランス人によって建設され、その後、スペインに譲渡された。だから建築も食べ物も文化もフランスとスペインの影響が大きい。この聖堂はスペインふう。

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さすがに大河で、対岸まで100メートル以上ありそうだ。昨日見た大地の赤土が流れ込んでいるんだろう、赤茶けた滔々たる流れを下ると、左手に製糖工場が見えてきた。

ニューオリンズは18世紀から現在までアメリカ有数の港町でありつづけているけど、かつてこの町を支えたのは砂糖、たばこ、綿花だった。

ニューオリンズの背後にはそれらのプランテーション農家が広がっていて、アフリカから連れてこられた黒人奴隷の労働のうえに成り立っていたのはいうまでもない。現在では主に砂糖プランテーションが残っているようだ。

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壊れたままの桟橋。3年前のハリケーン・カトリーナでやられたんだろうか。

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さらに下ると、石油精製工場が見えてくる。

石油精製と備蓄は、現在のニューオリンズを支える最大の産業。ここからミシシッピ川をさかのぼって、沿岸の都市に石油が供給される。

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すれちがったパナマ籍貨物船の船員たち。

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対岸には、プランテーション農家の大きな邸宅がつづいている。

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川は物資を運ぶだけでなく、人を運び、ということは文化も運ぶ。ジャズがミシシッピ川を北上したのは、ジャズ・ファンにはおなじみの挿話だよね。

川と港町は異文化の出会いの場でもある。

ニューオリンズでジャズが生まれたのは、この町に奴隷貿易最大の市場があり、多くのアフリカ人奴隷がここを経由して南部プランテーションに散っていった交通の要所だった、というのが大きな理由であることは言うまでもない。

彼らがアフリカから持ってきたメロディやリズムと、ヨーロッパから来た白人の大衆音楽が混じりあってブルースが生まれた。そこからジャズが生まれるには、さらに別の要素が必要になる。

ひとつは、南北戦争が終わり、南軍の軍楽隊の楽器が大量に放出されたこと。それによって黒人たちがコルネットや太鼓など安価な楽器を手に入れることができるようになった。

もうひとつは、ニューオリンズにはクレオールと呼ばれるフランス人と黒人の混血が多く、彼らの多くは裕福で、きちんとした教育を受け、ヨーロッパのクラシック音楽の素養を持った人が多かったこと。

そういう条件が重なって、要するにニューオリンズでアフリカとヨーロッパが出会ってジャズが生まれた。ジャズというと黒人音楽的要素が強調されることが多いけど、ヨーロッパという媒介がなければジャズは誕生しなかった。

ここで生まれたニューオリンズ・スタイルのジャズは、ミシシッピ川を北上してメンフィス、セントルイス、カンザスシティ、そしてシカゴにまで行きつき、それぞれの土地のスタイルを生んで、やがてモダン・ジャズが誕生する。

モダン・ジャズが生まれる前後の空気はロバート・アルトマンの映画『カンザス・シティ』やクリント・イーストウッド監督の『バード』なんかを見るとよく分かる。

以上、教科書のおさらいでした。

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デッキの隣に座っていた家族。

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クルーズ船が発着する桟橋はフレンチ・クォーターのそばにあるけど、町と桟橋の間に高さ3メートルほどの壁が連らなっている。最初は気がつかなかったけど、これミシシッピ川の氾濫から町を守る防波堤なのだった。

ちなみにフレンチ・クォーターは市内でもいちばん標高の高い場所にあり(といっても水面すれすれ)、ハリケーン・カトリーナの際にも無事だった。

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2008年6月 9日 (月)

南部へ・「三日月」号の旅 2

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ゲインズビル付近(ジョージア州、午前8時)。

目覚めて最初に気づいたのは、窓の外の緑が深く、そして濃くなっていたことだ。昨日、線路の脇に広がっていた緑は雑木林のような風情だったけれど、いま目にしているのは森と言うほうが当たっている。

いよいよディープ・サウスと呼ばれる地域に入ってきたからだろう。

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もうひとつ気づいたのは、土が目立った赤くなったこと。赤土は亜熱帯から熱帯に多い粘土質の土と言われている。

こんなふうに森林が伐採されると赤土が露出してくる(それが雨で海に押し流され、サンゴ礁の死が問題になっているのが沖縄)。ここの森は何のために伐採されたんだろう。

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アトランタ(ジョージア州、午前9時)。フィラデルフィア以来、久しぶりに超高層がそびえる都会を遠くから眺める。

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バーミングハム付近(アラバマ州、午後12時半)。こういうのを南部の風景って言うんだろうな。

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タスカルーサ(アラバマ州、午後2時)。こんなに煙突が何本も並んでいるのは何の工場だろう。アラバマは鉄鋼や製紙業が盛んらしいけど。左のタンクからすると製紙工場?

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タスカルーサ駅付近。炎天の線路脇をアフリカ系の男が歩いていた。列車は2時間近く遅れているので、汽笛を激しく鳴らしながらスピードを上げている。

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メリディアン付近(ミシシッピ州、午後3時半)。ミシシッピに入って、線路脇に沼地が見えることが多くなってきた。これも南部の典型的な風景だろう。

ジム・ジャームッシュが監督した『ダウン・バイ・ロー』はニューオリンズが舞台で、町の周囲に広がる深い森と、暗い沼地が印象に残る映画だった。あの風景に、だんだん近づいてくる。そういえば、この映画のトム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニの3人組は絶品だったなあ。

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メリディアン駅(ミシシッピ州、午後4時)。中央で笑っているのが小生が乗った車両の担当乗務員。食事の案内をしてくれたり、冷房がきついと言うと毛布を持ってきてくれたり、とても親切に世話してくれた。

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午後8時半。クレセント号は30時間余りの旅の果てにようやく終着駅に近づいてきた。ニューオリンズの北に広がるポンチャトレイン湖が見えてくる。

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ポンチャトレイン湖の残照。幻想的な光景に息を飲む。列車が2時間近く遅れたせいでこの瞬間に出会えたと思えば、遅れにも感謝したくなる。でもハリケーン・カトリーナのときにはこの美しい湖が牙を剥いた。

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ニューオリンズ駅(ルイジアナ州、午後9時半)到着。食堂車で同席した、カトリーナでニューオリンズを離れ久しぶりに帰ってきたというアフリカ系のおばあちゃんと別れの挨拶をし、駅を出る。

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2008年6月 8日 (日)

南部へ・「三日月」号の旅 1

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ニューヨーク発ニューオリンズ行きの列車「クレセント(三日月)」号は、毎日午後2時15分にマンハッタンのペンシルバニア駅を出発する。メキシコ湾に面した南部のルイジアナ州ニューオリンズまで、2200キロをおよそ30時間かけて走る。

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ニューヨーク市内を地下で抜けニュージャージー州へ出ると、都心から20分ほどで、もうこんな風景になる。このあたりはニューアーク空港への往復で通るし、フィラデルフィアまでは数カ月前に行ったことがあるのでなじみがある。

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クレセント号の車内。定員2人の個室で、夜には座席が簡易寝台になる。

小生、鉄道マニアではないので、なぜ列車なのかと聞かれても返答に困る。時間もかかるし、料金も高い。おまけにこのラインは、マニアが好む大景観があるわけでもない。地図を見ても途中に山脈も海もなく、ひたすら平原を走る。

あえて答えるなら、それが自分の旅のスタイルとでも言おうか。空の飛行は点から点へ飛ぶだけで、点と点の間に線が引けない。その土地を見て、感じて、移動したという実感が湧かない。だからどこへ旅するときも、できるだけ列車を組み込むようにしている。

アメリカは車社会で、インフラもそのようにできているから、ほんとうは車で走るほうがロードサイドの風景が面白いんだろうけど、あいにく私は30年近く車を運転していない。

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北フィラデルフィア(ペンシルバニア州。午後4時)。ペンシルバニアはかつて鉄鋼産業で栄えた地域だけれど、今は衰退し、フィラデルフィア郊外には廃工場が目立つ。かつて労働者が住んだ周辺の家々も人気が少なく空地も目立つ、淋しい風景。

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ウィルミントン付近(デラウェア州、午後4時半)。町と町の間隔が大きくなり、人家が少なくなる。線路の両側にはこんな林が延々と続いている。下草は少なく、木漏れ日が差し込んでいる。樹木の種類は違うけれど、武蔵野の明るい雑木林みたいな感じ。

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ワシントン(ワシントンDC、午後6時半)に着いた。駅そのものは、首都とも思えないほど小さく、乗降客も少ない。国会議事堂が夕陽に照らされていた。

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アレクサンドリア付近(ヴァージニア州、午後7時)。夕焼けのなかをひたすら走る。

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マカッサス付近(ヴァージニア州、午後7時半)。ニューヨークを出てからここまで、一度も畑を見なかった。このあたりまで来て初めて延々と広がる麦畑と牧草地を見る。

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シャーロットビル駅(ヴァージニア州、午後9時)に停車。まだ空にかすかに青味が残っているけれど、間もなく暗くなるだろう。

シャーロットビルを出た列車は、グオーンという汽笛をしじゅう響かせながら闇のなかを突っ走る。カーブがあるわけでも踏切があるわけでもないから、線路を横切る動物(あるいは人?)への警告だろうか。簡易ベッドに横になると揺れが心地よく、汽笛に耳を傾けているうちに眠ってしまった。

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無人のシャーロット駅(ノース・カロライナ州、午前2時半)で、ちょうど目を覚ます。

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