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2008年4月29日 (火)

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン(The Flight of the Red Balloon)』

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ニューヨーク・タイムズweb版の映画ページに、プロの評論家による映画評と並んで読者による投稿と採点欄がある。ときにプロの評価とまったく違う意見が載ったりするのが面白くて、ときどき覗いてみる。

ホウ・シャオシェン監督がフランスで撮影した『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』(邦題『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』)の読者採点欄が興味深い。27人が投稿しているけれど(4月27日現在)、そのうち16人が最低評価の1点をつけている。その一方、6人が最高点の5点をつけ、4人が4点をつけている。

つまり投稿した読者の3分の2近くが最低評価をし、一方、3分の1以上が4点以上の高評価をしている。それ以外の中間的な評価をしているのは27人中わずか1人。これほど見事に評価が分かれる映画も珍しいんじゃないかな。

「退屈の極み」という読者評の隣に「傑作」という評が載っている(ちなみにプロによる映画評は、「この映画を感動的にしているのはストーリーではなく語り口である」と、かなりの高評価)。

実のところ僕は、ホウ・シャオシェンの映画がアメリカの観客にすんなり受け入れられるとは思っていなかった。だからプロはともかく、普通の映画ファンのなかに彼を評価する人がけっこう(27人中10人も)いることにちょっと驚いたのだ。

というのは、アメリカのマニアックな映画ファンは、時に数分に及ぶ長いショットをつないでゆったり語るホウ・シャオシェンやアッバス・キアロスタミのような寡黙なタイプより、タランティーノのように物語を過剰に加速させる饒舌な映画を好むんじゃないか、という思いこみがあったから。

ハリウッド映画を基準にすれば、『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』を「退屈の極み」と感ずるのは、まあそうだろうなと思う。なにしろこの映画では、事件らしい事件はまったく起こらない。ひとつのエピソードが次のエピソードを生んでゆく因果関係によるストーリー展開も、あってないようなもの。

と書いてくれば、ホウ・シャオシェンのファンなら、ああ、あの感じだな、と想像つくだろう。一言で言えば『珈琲時光』のパリ・バージョン、というのが僕の印象。ただ、完成度は一段とアップしている。

パリのオルセー美術館が製作したこの作品は、1956年につくられたフランスの短編映画『赤い風船』のリメークということになっている。僕は元の映画を見てないので比較できないけれど、風船と少年が交流する話という大枠が共通している以外、登場人物や設定はホウ・シャオシェンのオリジナルといってよさそうだ。

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バスティーユ広場の地下鉄の入口で、少年が街路樹に引っかかっている赤い風船を見つけ、「こっちへおいで」と呼びかけている。長いワンカットで、カメラは視線を上下させながら少年と風船を追う。

風船と少年が他人には分らない特別の親密さで結ばれていることを最初のショットで見る者に分からせてしまう、見事なシーン。同時に、少年の仕草とせりふの自然さから、そうだホウ・シャオシェンは子供を演出する名手だったと思い出す。

さらに次のショットで電車に乗る少年が写し出されて、そういえばホウ・シャオシェンは列車も大好きだったなあ。『珈琲時光』なんか、鉄道が主役といってもいいくらいの作品だった。

主な登場人物は3人。

主人公の少年シモン(シモン・イテアニュ)と、離婚して少年を独りで育てている母スザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)。人形劇の作家として多忙なスザンヌの代わりに少年のシッターとして雇われた台湾人留学生ソン(ソン・ファン)。ソンは映画を学んでいて、どこへ行くにもビデオ・カメラを持ち、赤い風船についての映画をつくろうとしている。

カメラは3人の日常を追ってゆく。

パリの裏町を歩き、カフェでゲームに興ずるシモンとソン(街路の音が見事に拾われている)。常に忙しく動き回り、時にいらいらし、アパート代を払おうとしない下宿人と口論するスザンヌ。家のなかでは、シモンがピアノを練習したり、ソンがパソコンをいじったり、下宿人がキッチンで料理したりしている(鏡やガラスが効果的に使われているのも印象に残る)。

そういう3人の日常が、ただひたすら見つめられている。普通の映画は、一つの出来事が次の出来事を引き起こしてゆくといった具合に、因果関係の連鎖で効率的に物語を進めてゆく。あるいは、観客を退屈させないよう無駄な描写をはぶいて、モンタージュによって時間を凝縮(時には人の一生を2時間に)してゆく。

この映画では、そういうことが一切ない。映画のなかで流れている時間が、僕たちが普段経験している日常の時間に限りなく近い。そういう時間の流れは、ただ日常をそのまま撮ればフィルムに写るというものではない。それでは素人のビデオと変わらない。優れた写真家が空気をフィルムに写すことができるように、そういう時間の流れは高度な演出力があって初めてフィルムに記録することができる。

それを意識的につくろうとしたのが『珈琲時光』だと思うけれど、『ザ・フライト・オブ・ザ・レッド・バルーン』では、それが更に徹底されている。だからこそ、この映画が『珈琲時光』のパリ・バージョンと感じたんだろう。

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ホウ・シャオシェンは、僕の独断では「思い」の作家だと思う。長いショットで人や風景をじっと見つめるなかで、例えば主人公の「思い」、主人公を見つめるホウ・シャオシェンの「思い」、主人公を見つめる観客の「思い」、そういうさまざまな「思い」が引き出されたとき、その「思い」の深さに僕たちは心を動かされる。

ちょっと脇道にそれてみる。

ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンら80年代「台湾ニューウェーブ」の生みの親と言われる年長の人物がいる。1980年のホウのデビュー作『ステキな彼女』からこの作品まで、すべてのホウ作品で編集を担当しているリャオ・チンソンだ。

彼がホウ・シャオシェンについて語ったインタビューのなかで、青春歌謡映画の監督としてキャリアをスタートさせたホウが作風を変えるきっかけになったのはゴダールを見たことだ、と語っている(多分、リャオ自身がホウにゴダールを見せたんだろう)。

リャオが言うところでは、ホウがゴダールから学んだのは、カットとカットのつなぎは別に絵柄や物語がつながっていなくてもよい、ただ感情がつながっていればいいのだ、ということだった。果たしてゴダールのカットのつなぎが本当にそうなっているのかは問題じゃない。ホウ・シャオシェンがゴダールをそのように理解したことが重要だ。

そこからホウ・シャオシェンは自分のスタイルをつくっていった、と僕は思う。彼を「思い」の作家だと考えるのも、そこに関係してる。ホウは絵柄や物語よりも感情=「思い」をこそ描きだそうとしている。人や風景をじっと見つめるなかで、「思い」が湧きあがってくる瞬間をこそフィルムに写そうとしている。

そういう彼独自のスタイルと、エンタテインメント映画の監督として習得した既成の文法がうまく調和したのが『童年往事』『恋恋風塵』『悲情城市』など80年代の傑作群だったろう。

以後、ホウ・シャオシェンは自分のスタイルを純化させる方向で映画をつくってきた。その結果、90年代以後のホウ・シャオシェンは大きな観客動員ができなくなり、内容的にも失敗作と言われることが多くなった(『憂鬱な楽園』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』など素晴らしいと思うけど)。

そんなふうに自分のスタイルを純化させてきた極北の形が、『珈琲時光』とこの作品で少し見えてきたと感ずるのは僕だけだろうか。

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赤い風船がたゆたうパリの裏町も美しいけれど、『ザ・フライト・オブ・レッド・バルーン』でいちばん印象に残るのは長い長い室内ショットだ。

狭いアパルトマンにドアや窓から光が差し込んでいる。部屋の中央にテーブル、右には小型ピアノが置かれ、左は書棚に本や資料がびっしり積まれている。床にも資料が散乱している。壁にかけられた赤いバックとカーテンの赤が目に鮮やか(「赤」は無論この映画のキーワード)。

物と色が氾濫する室内。画面右では、やってきた調律師がキーを叩きながらピアノを調律している。サイモンがピアノを弾いている。スザンヌが帰ってくるなり携帯電話で話しはじめ、やがて怒ってどなりだす。ソンは、なす術もなくうろうろしている(あまりに長いワンカットなので、正確に覚えてないけど)。

そんなふうに登場人物が画面を出たり入ったりするのを、カメラは右に揺れ左に揺れたりしながら見つめている。彼らは互いに会話するわけではなく、彼らの行動が次の物語の展開につながるわけでもない。それを、カメラはただ見つめている。そこからサイモン、スザンヌ、ソン、それぞれの「思い」がじわっと浮かび上がってくる。ああ、これがホウ・シャオシェンだな、と思う瞬間だ。

前作『百年恋歌』のビリヤード場のシーンでも、手前に無関係なビリヤード客を大きく映しこみながら画面奥で主人公の男女が出会う瞬間を遠くから捉える、長く素晴らしいショットがあった。『珈琲時光』でも、主人公たちがお茶の水駅で電車が交錯する音を録音しながらじっと佇んでいる長いショットがあった。

主人公がクローズアップされることは決してない。少し遠くから見詰めるカメラが映し出す、主人公と無関係に動いている風景。そのなかから、彼らの「思い」がじわりと湧きあがってくる。こういうのが、今、ホウ・シャオシェンがいちばん撮りたいショットだという気がする。

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最初の話に戻れば、ニューヨーク・タイムズで最低点の1点をつけた多数派の観客の気持ちが全然分からないかといえば、そうでもない。

ホウ・シャオシェンが自分のスタイルを純化した極北の形が見えてきたといっても、1本の映画として、例えば『童年往事』や『悲情城市』の(その時点での)完成度にはまだ至っていないように思う。

しかも物語的な面白さやスピード感、モンタージュの刺激を排しているわけだから、ホウが撮ろうとしている「思い」が感じられなければ、「退屈の極み」と言いたくなるのはその通りだろう。

僕自身も、ホウ・シャオシェンのスタイルの極北を見たいと思う一方で、作家的意欲と職人的巧みさがうまくバランスされた『風櫃の少年』や『恋恋風塵』のような甘やかな作品を、もう一度見たいとも思う。前作の『百年恋歌』でそんな時代の気配が少しだけ蘇っただけに、余計そう感ずるんだろう。

どっちも頼むよ、ホウ・シャオシェン!

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コメント

本、映画、JAZZ、とても興味ありなブログですね。
写真も奇麗です。
文化の薫り漂う評論、今後も参考にさせていただきます。

投稿: 812SH | 2008年5月 1日 (木) 14時56分

こちらこそ、よろしくお願いします。

本については、こちらでは日本語の本を読まず、英語の本について語るほどの語学力もないので休業状態ですが。

投稿: | 2008年5月 2日 (金) 10時30分

コメントありがとうございました。

読者の採点欄の採点の分かれ方が面白いですね。
雄さんの感想を読ませていただいた感じだと日本でも
ニューヨーク・タイムズの採点欄と同じように評価がわかれそうな感じがします。
前作の『百年恋歌』でも睡魔に襲われた人続出で評価もわれていましたし・・・。
まあ、ホウ・シャオシェンの最近作で意見が割れないほうがちょっと怖い感じもしますしね。
個人的には電車が出てくるというだけで期待しております(笑)

80年代の傑作群でホウ・シャオシェンを好きになったので
私も“どっちも頼むよ、ホウ・シャオシェン!”と叫びたいです(笑)

投稿: rabiovsky | 2008年5月22日 (木) 23時37分

『百年恋歌』1966年のパートは、私たち世代の青春時代の話でもあり、不覚にも涙してしまいました。この延長上に、もう1本甘美な作品をつくってほしいというのは余りにノスタルジックな願望だと自分でも思うのですが、、、。

ホウ・シャオシェンは本当に電車が好きですね。個人的には『恋恋風塵』の長い長いファースト・シーンが忘れられません。

投稿: | 2008年5月24日 (土) 07時42分

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