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2008年3月 3日 (月)

地下鉄の5ヶ国語のビラ

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地下鉄の駅に運賃改訂のビラが貼られていた。3月2日から、基本料金こそ変わらないものの、各種パスが値上げになる。僕が使っている30日パスも76ドルから81ドルへ5ドルの値上げ。当局(MTA)は基本料金は変わらないと強調しているけれど、大多数の人は各種パスを使っているから実質的な値上げだと評判が悪い。

ところでこのビラ、英語は当然として、それ以外にスペイン語、韓国語(ハングル)、中国語、ロシア語の計5種類がある。

この選択に今のニューヨークでの、それぞれのエスニック(あるいは語圏)の存在感が表れていると考えるのは詮索しすぎかな。

ニューヨークの人種別人口のデータは持ってないけど、スペイン語圏(主に中南米)と中国語圏の人間が多いのは経験的にうなずける。街にはスペイン語なまりの英語(これが聞き取りにくい)が氾濫しているし、チャイナタウンはリトル・イタリーを飲み込み、さらに外側へと膨張しつづけている。

韓国人とロシア語圏の人間もコリア・タウンやロシア・タウン(リトル・オデッサ)を持ち、郊外にしっかりとコミュニティを形成している。コミュニティのなかでは誰も英語を必要とせず、それぞれの言葉で生活することができる。だから英語を解さない人がかなりの程度いて、それが地下鉄の5ヶ国語のビラになったとも考えられる。

しっかりとコミュニティを持っているロシア語圏の民族や韓国人に比べて、日本人はかなりの数がいるはずなのに、スシ・レストラン以外ニューヨーカーにとっても存在感が薄いみたいだ(スシ・レストランも中国人経営の店がけっこうある)。

そのひとつの要因は、日本人が良くも悪くもコミュニティを形成していないことだろうか。

戦前の西海岸のような日本人移民は東海岸にはいない。企業の駐在員とその家族、さまざまな理由で日本を脱出してきた若者(かつての若者)が日本人の2大グループだろうか。企業の駐在員は数年で交代するし、若者(かつての若者)も留学生であればやがて帰国する。ニューヨークに根づいたからといって一族郎党を呼びよせるわけではない。

つまりはコミュニティを形成する動機が薄いということだろう。だから、ここへ行けば日本人ばかりで日本語で用が足りるという地域がない(かすかにあるとすればイースト・ヴィレッジ)。コミュニティがないから、僕のような下手くそでも、なんとか英語を話しながら生活している。

日本人はまた、僕がブルックリンに住んでいるようにニューヨークのいたるところに住んでいる。スシ・レストランはじめ日本料理の店もいたるところにある。でも、どこにでもいる、どこにでもある代わりに塊としての存在感はない、ということかな。

地下鉄の話に戻れば、ここにはイタリア語のビラもない。かつてのイタリア移民は、リトル・イタリー(今では観光客向けレストランだけが残っている)を出て、ニューヨークの全域に「溶けて」いった。イタリア語だけしか解さないイタリア人は、世代の移り変わりとともに減った。

ついでながら、よく知られた話だけどかつてニューヨークは人種の「メルティング・スポット」と呼ばれた。今では人種の「サラダ・ボウル」と呼ばれる。

新しく来た移民たちは、いやもともといたアフリカ系でさえ「溶けた」のではない。サラダをどんなにかき混ぜてもトマトはトマト、レタスはレタスであるように、ニューヨークというサラダ・ボウルのなかで溶けずに混在している。

日本人の存在感が薄いのは、アングロサクソンと同じコーカソイド(白人種)ということでニューヨークに「溶けて」いったイタリア人の場合とは少し趣がちがうように思う(「溶けた」といっても、イタリア系は料理でもアートでも政治でも「アメリカ人」としてしっかり存在を主張してるけど)。

日本人は「溶けて」いない。でも中国人やロシア人のように群れをなして住んでいるわけでもない。良くも悪くも、コミュニティを形成する必要がない程度には個人として成熟してきた、逆に言えば民族としての集団のエネルギーが希薄になってきたということだろうか。

ニューヨークでなぜ日本人の存在感が希薄なのか、なんだか支離滅裂で、自分でも納得しかねる結論になりそうなので、尻切れトンボのまま中断。何かの機会に、また考えてみよう。

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