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2008年1月

2008年1月30日 (水)

R・キャパのネガ3500点を発見!

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1月27日のニューヨーク・タイムス(日曜版)にすごい記事が出ていた。失われたはずのロバート・キャパのスペイン市民戦争のネガ3500点が発見されたというのだ。

キャパが撮影したスペイン市民戦争の写真といえば、代表作「崩れ落ちる兵士」(上の写真右側の紙面に載っている)があまりにも有名だ。この写真はキャパを有名にしただけでなく、戦争写真家という存在を世界に知らしめたし、写真というメディアが単なる記録にとどまらず世界を動かす巨大な力を持ちうることを証明した。

しかしこの「崩れ落ちる兵士」のネガは残っていない。いま世界に流通しているのは、ヴィンテージ・プリントからの複写なのだ。ネガが存在しないことも含めて、この名作には撮影場所や状況などはっきりしないことが多く、キャパもそのことについて何も語っていないことが、この作品が実は演出ではないかという疑問が繰り返し出される理由のひとつになっている。

それはともかくニューヨーク・タイムスによると、90年代半ばから少数の関係者の間でキャパのネガが存在することが囁かれており、それは「メキシカン・スーツケース」(左側紙面の写真がそれ)と呼ばれていた。

事の経緯はこうだ。

1939年、ナチス侵攻を前にキャパがフランスからアメリカに旅立ったとき、彼はパリの暗室にスペイン市民戦争関係のネガを3箱の手提げかばんに入れて隠した。キャパは友人の写真家ワイツにネガを救うよう頼んだのだが、ワイツは逮捕され収容所に送られる。

だからキャパ自身、これらのネガはナチス侵攻によって失われたと考えていた(記事はこの「失われたフィルム」を、1922年に失われたヘミングウェイの初期原稿と同じ神話的な喪失と呼んでいる)。

ところが、ネガは誰か分からないが支援者の手によってパリからマルセイユに運ばれていた。マルセイユで、ネガはメキシコの外交官・ゴンサレス将軍の手に渡る。当時、メキシコはキャパが参戦したスペイン人民戦線を支持していた。

ネガはゴンサレス将軍とともにメキシコに渡り、そこで長い眠りにつくことになる。

将軍の死後、ネガは遺族が保管していたが、親類の映画監督がこのネガの重大性に気づく。彼は1995年にニューヨークの関係者に連絡を取り、そこからいろいろ経緯があったらしいが、最終的にICP(International Center of Photography、キャパの弟・コーネルが設立し、キャパの作品を管理している)に戻ってくることになった、というのである。

3500カットのネガに「崩れ落ちる兵士」も含まれているのか。そのことについて、記事は何も語っていない。でもスペイン戦線のヘミングウェイやガルシア・ロルカが写っている(!)というんだから、これはすごい。

もうひとつ、気になることが書かれている。

キャパのネガが発見されたことで、スペイン戦線でキャパの公私にわたる同志だった女性写真家ゲルダ・タロの作品の再検討が進んでいる(タロについては、以前のエントリで触れたことがある)。キャパとタロは共同クレジットで作品を発表したこともあり、キャパのものと思われている写真のうちに、実はタロの作品があるかもしれないというのだ。

記事は、ICPキュレーターのこんな言葉を紹介している。「『崩れ落ちる兵士』がキャパではなくタロが撮ったものだという可能性もまったくないわけではない」。

ICPはいわばキャパの身内だけど、そこのキュレーターからこういう発言が出ることの真意はなんだろう? いずれ世界的に大々的な写真展が開かれるだろうけど、そのための話題づくりなのか、それとも何か根拠があってのことなのか? そのへんは分からない。

いずれにしてもこの3500カットのネガの全貌が明らかになれば、写真史の重要な部分が書き換えられることになるかもしれない。うーん、興奮します。

 

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朝の月

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ブラインドを上げたら、ほんのり朝焼けが残る雲の上に月が冴えている。「昼の月」は季語だけど(長閑さや浅間のけぶり昼の月=一茶)、ブルックリンの朝の月に浅間のけぶりみたいな湿度はない。零下の青空に静まりかえっている。

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2008年1月28日 (月)

エディ・ヘンダーソンを聴く

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先日、カーティス・フラー75歳誕生日ライブに行ったとき、ゲストで出ていたエディ・ヘンダーソンのトランペットを初めて聴いて心に染みた。「ヴィレッジ・ヴォイス」を見ていたら彼のグループが出演するとあったので、アッパー・ウェスト・サイドのライブ・ハウス、スモークへ出かける。

ここへ来るのは初めて。こじんまりとして、内装はブラウンに統一され、落ち着いた雰囲気の店だね。

「ヴォイス」の広告にはカルテットとあったけど、演奏の準備がはじまったステージを見るともうひとり、やはりフラーの誕生日ライブに出ていたレネ・マクリーンがいるではないか。今日はトランペットとサックス2管のクインテットということになる。

きっとあの日、ヘンダーソンがマクリーンを気に入り、「今度俺のライブがあるんだけど吹かないか」とでも誘ったんだろう。こういう出入り自由というか、いいかげんなところがジャズの面白さでもあるよね。

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ケビン・ヘイズ(p)、エド・ハワード(b)、スティーブ・ウィリアムス(ds)のトリオがイントロを演奏しはじめ、おいおいエディはまだ客席だよと思ったらマイク脇をするりと抜けてステージに上がり、ほんの一瞬遅れたか遅れないかのタイミングでミュートでメロディを吹きはじめる。ミュージカル「オクラホマ」のナンバー。

絶妙のタイミングでの入り方。ミュートのすがれた音。メロディアスな歌もの。最初の1曲、ほんの数十秒で、彼の深々とした世界に引きずり込まれてしまった。

エディ・ヘンダーソンをこれまで聴いたことはなく、70年代にはハービー・ハンコックのバンドでフュージョンをやってたんだよな、くらいの記憶しかない。いま聴くエディは正統派のジャズそのもの。

時にフリューゲルホーンに持ちかえながら、トランペットにはミュートをつけることが多い。演奏したのはウェイン・ショーターの「エル・ガウチョ」、美しい旋律をもつ「ディア・オールド・ストックホルム」、名曲「ラウンド・ミッドナイト」など。ミュートの多用といい、曲目といい、すべてがマイルスを指してるな。

それもそのはず。エディはもともと医者でアマチュア・プレイヤーだったのが(エディ・”ドクター”・ヘンダーソンと紹介されてた)、マイルスの演奏に接してぶちのめされ、「プロのミュージシャンになろう」と決心したのだという。マイルスの音には、医者という収入もステイタスも保障された職業を捨てさせるほどの魅力があったということだろう。

そういえば、レネ・マクリーン(ts,as、ジャッキーの息子です)の加わった2管のクインテットもマイルス・バンドの編成と同じだね。マイルス・バンドの歴代テナーはコルトレーン、ショーターととびきりの大物だけど、マクリーンの野太いテナーとヘンダーソンの突き刺さるようなミュートの対照で聴かせる今日のバンドもマイルスを思い起こさせた。

なんというか、夜が深くなる音。そんなふうに思わせる感覚はジャズの、それも限られた瞬間にしか訪れない。それが来たときの幸福感が応えられない。

シャーリー・ホーンのバックを務めたスティーブ・ウィリアムス(彼もまたマイルスと共演してる)の、柔らかでシャープなドラミングにもしびれた。

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2008年1月27日 (日)

メトロポリタン通い・2

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メトロポリタンを全部見ようと決めて、今日はアフリカ・オセアニア・アメリカのアートと企画展「中央アフリカのアート」へ。

メトロポリタンの収蔵品の半分近くは、富豪のコレクションが死後に寄贈されたものだという。特にそれぞれの地域のプリミティブ・アートが中心になっているこのセクションは、寄贈されたものが多いという印象を受けた。

展示品を見ていくと、19世紀後半に収集されたものが基礎になっているけれど、最近(といっても1970年代以降に)寄贈されたものも多い。だから、世界的なプリミティブ・アートへの関心の高まりを反映して、メトロポリタンのなかでもその比重が高くなっているんだろう。

なかでも、1961年に若くして事故死したロックフェラー家の御曹司・マイケルが収集した品々はいちばんいい場所を与えられている。上の写真は、彼がニューギニアで収集した死者葬送のためのポール。ここの目玉のひとつ、デンドゥール神殿と同様、全面ガラス張りの窓からは外光がたっぷり入り、セントラル・パークの木々が見える。ゆったりと空間を使った、なんとも贅沢な展示。

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ヒョウの頭部(ナイジェリア、16~19世紀)

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骨壺(メキシコ、4~5世紀)

素晴らしく充実したこれらの部屋を見ていて、気がついたことがある。

一方で、これだけの量のプリミティブ・アートを世界各地から収集してきた富の蓄積のすごさと、その一方、アメリカ合衆国内のネイティブ・アメリカンのアートが本当に数えるほどしか展示されていなかったことだ。地理的に離れているアラスカ(1867年に合衆国政府がロシアから購入)のものを除けば、多分、十数点しかなかったと思う。

プリミティブ・アートのセクションで19世紀後半の収集物が中心になっているということは、この時代、エキゾチックな辺境や未開の地への興味が高まり、博物学の流行や写真の発明もあって、そうした地への探検・収集の旅がはやったことと無縁ではないだろう。

でも、その時代、アメリカ合衆国内部では白人とネイティブ・アメリカンの戦いが続いていた。自らが戦い、虐殺を繰り返した相手に対してはエキゾティシズムも彼らのアートへの興味も生まれるはずがなく、それが今にいたるまで、メトロポリタンのネイティブ・アメリカン・アートの欠落ということにつながっているんだろう。

このセクションの展示は、「あったもの」もとても面白かったけど、「なかったもの」もまた興味深かった。

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2008年1月25日 (金)

『タクシー・トゥー・ザ・ダーク・サイド(Taxi to The Dark Side)』

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2002年、アフガニスタンのタクシー運転手・デラウォーが米軍に拘留され、バグラム空軍基地に連行された。デラウォーは数日後、基地内で死体となって発見される。死体には拷問の痕が残されていた。

テロリストとの関係を疑われた人間に対する米軍の拷問は、暴行を加えた兵士個人の問題ではなく、きわめて組織的に行われていた。

そのことを、この映画はアフガニスタンのバグラム基地からイラクのアル・グレイブ刑務所へ、さらにはキューバのグァンタナモ基地へとカメラを移動させながら立証してゆく。ブッシュ政権の「犯罪」を問う正統派のドキュメンタリー。

正直な感想を言えば、ブッシュ政権がレーム・ダック化した今、そしてアル・グレイブ刑務所やグァンタナモ基地での拷問がある程度知られてきた今、映画の中味に関して、頭をがつんと殴られるような衝撃はない。また、関係者へのインタビューから真相に迫っていくオーソドックスな手法はいささか新鮮味に乏しい。

もっとも映画としての魅力が薄いからといって、グァンタナモ基地にはいまだに法的根拠もなしに数百人が拘束されており、そしてブッシュ政権が変われば事態が改善されるとは限らないわけだから、違法な拷問が行われていることの重大さが減ずるわけではないのだが。

ドキュメンタリストのアレックス・ギブニー監督(前作は『エンロン』)は、デラウォーの家族や、アル・グレイブの拷問で有罪宣告を受けた元米軍兵士、国務省の元スタッフやジャーナリストにインタビューを重ねながら、CIAが作成した秘密文書にもとづいて拷問がシステム的に行われていたことを明らかにしてゆく。

一昨年だったか、アル・グレイブでの拷問が明らかになったとき、裸にされ折り重なるような姿勢を取らされたり、犬のように首輪をまかれた受刑者の前で、Vサインを出して記念写真を撮る米軍女性兵士の写真がネットを通じて世界中に広まった。

あれも、受刑者の誇りを奪うためにCIAが指示した通りに行われたものだったのだ。

カメラはバグラム基地へも入り(カメラがバグラムに入ったのは初めてだという)、天井から手鎖が下がり、床には足鎖が備えられた拷問室を映し出す。タクシー運転手のデラウォーは、テロリストと疑われた客(後に無関係と判明)を乗せたばかりに米軍に拘束され、この部屋に連れこまれて拷問を受けたらしい。

ラストでデラウォーの残された家族と、彼らが住む村の風景を映し出すシーンは、型通りとはいえ、やはり胸に迫る。

突撃レポーターふうなマイケル・ムーアのドキュメンタリーが話題になるかと思えば、こういう正統派のドキュメンタリーがきちんとあり、アメリカ人ができれば目をそむけたいと思っているテーマを正面から取り上げる。こういうところがアメリカの幅の広さであり、健全さでもあるんだろうな。

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2008年1月21日 (月)

ブルックリンご近所探索・15

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先週(ブルックリンご近所探索・14)につづいて、レッド・フック地域のもうひとつの気になる場所、ガヴォナス運河(Gowanus Canal)に行ってみることにした。

アパートからスミス通りに出て、ひたすら南へ歩く。スミス通りは古い商店街だけど、最近は新しい店もふえてきた。写真中央の店は、庇を葦(?)で葺いたバー。

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スミス通りを途中から東へ折れると、ガヴォナス運河にぶつかる。この運河は、ブルックリンのかつての繁栄をしのばせる場所だけど、今はさびれてひっそりしている。

前回と同様、『レッド・フック』から引用してみようか。

「ガヴォナス運河は胆汁を思わせる緑色だった。昔、ブルックリンの子どもたちは、そのせまい堤防から叫び声としぶきをあげて跳びこんだものだが、隣接する工場群から一世紀以上にわたって流れこんだ未処理下水と汚染物質のせいで、ある種の藻と、キリーフィッシュと呼ばれている小さくてひねくれた種をのぞいて、あらゆる生物は水には住めなくなっていた」

このミステリーが描写するとおり、運河に水の流れはなく、緑色に淀んでいる。かすかに異臭がする。運河の両側には工場や倉庫が並んでいる。あたりはひっそり静まりかえり、ほとんど人を見かけない。土曜の午後とあって、どこが廃屋でどこが今も稼働しているのか判然としない。

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先週行った港の倉庫は改造されてコンドミニアムとスーパーマーケットになり、ニューリッチ族が移り住んで「ジェントリフィケーション」が進行してるが、ここにはまだその波は押し寄せてない。

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サイト「マンハッタンを歩く」によると、19世紀後半以来、この一帯はエリー運河によって中西部から運ばれてきた穀物や石炭など物資の集積地として、また加工工場として栄えたという。運河の周辺には屠殺場、鋳物、石工、セメント、製紙、製粉、製鉄、石鹸、陶器などの工場がひしめいていた。

しかし1960年代に物流の中心が海運からトラックなど陸上輸送に移ったことによって、ガヴォナス運河一帯は急速にさびれてしまった。

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海に向かって歩いていくと、地下鉄Fラインの高架が見えてくる。これを超えると、海はもうすぐだ。1時間ほど歩いて、すれ違った人の数は10人に満たない。

かつてのブルックリンの工場地帯、ウィリアムズバーグが今はアーティストの住むおしゃれな街になったように、いずれこのガヴォナス運河周辺も「ジェントリフィケーション」の波に洗われるのだろうか。ここから3ブロック西に行ったスミス通りが今、新しい通りに変身しはじめているから、その可能性はある。

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運河とスミス通りをまたぐ地下鉄Fラインの高架。

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この日の気温は3℃。2時間近く歩いてすっかり冷えてしまったので、スミス通りのクバナ・カフェで昼食。海の幸スープで暖まる。店内には陽気なキューバ音楽が流れ、カストロとモハメド・アリが談笑する写真が飾られていた。

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2008年1月20日 (日)

カーティス・フラーを聴く

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ブロードウェーのジャズクラブ「イリディウム」のプログラムを見ていたら、カーティス・フラー75歳バースデイ・コンサートが企画されていた。え? まだ吹いてたんだ。

カーティス・フラーといえば、僕らの世代にとってはジャズ喫茶の定番『ブルース・エット』に尽きる。いや、その盤に入っている「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」はTVコマーシャルにも使われたから、ジャズ好きなら(じゃなくても)必ず聴いたことがあるはず(関係ないけど村上春樹の小説『アフター・ダーク』のタイトルはこの曲から)。

でもこの20年くらい、ほとんど彼の名前を聞くことがなかった。90年代のはじめに、かつての仲間ベニー・ゴルソンらと組んで『ブルース・エットⅡ』を出したのを記憶しているくらい。

ニューヨークへ来てすぐのころ、ジャズ・トロンボーンを吹く30代の女性に会ったことがある。「カーティス・フラーが好きだ」と言ったら、「誰? 知らない」という返事が返ってきて驚いたことがある。きっと現役としてはほとんど活動してないんだろうな。

だから最初で最後の機会になるに違いないと思い、同じ週にブルーノートでやっているマッコイ・タイナーとどちらにするか迷った末に予約を取った。

だって両方行くほどお金がないし、タイナーは日本で2度ほど聴いてるから。トップクラスのミュージシャンが出演するこうしたクラブでは、ドリンク1杯で50ドル近くかかる。僕の生活費では、月に2度3度と行き、ましてや食事などするとすぐ赤字になってしまう。

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ステージに現れたカーティス・フラーは、小柄な上にやや腰が曲がり、歩く姿も弱々しい。大丈夫かな? と心配になる。演奏がはじまると悪い予感は当たり、彼のトロンボーンから出る音はもっこりしてる。残念だけど、かつての柔らかななかにも張りと艶のある音ではなかった。でも、まあいいか。僕の頭のなかには学生時代に何十回、何百回と聴いたあの音が鳴りひびいてる。

これは想像だけど、たぶん友人たちが誕生日を名目に引退同然のフラーを引っ張り出したんじゃないかな。彼らが老いたフラーを支えて、ステージは充実していた。フラーにエディ・ヘンダーソン(tp)、レッド・ハロウェイ(as)、レネ・マクリーン(ts、ジャッキーの息子)を加えた4管、それにリズム・セクションのセプテット編成。

なかでも初めて聴いたエディ・ヘンダーソンの歯切れのいい音に痺れた。澄んでいて、深みがある。もともと医者だったのに、マイルスの音に触れてプロに転向したというだけあって、ミュートをつけた音など現代的なマイルスみたい。

レッド・ハロウェイはフラーの引き立て役に徹してたけど、フラーが休んで1曲だけヴォーカルが入ったとき、目の覚めるようなソロを展開してみせた。ピアノの若いルーク・オライリーもセクシーな音で色を添える。彼らに支えられて、フラーも精一杯のアドリブを聴かせてくれたのが嬉しい。

ジャズ・メッセンジャーズ時代のベニー・ゴルソンの曲などを演奏し、最後はデューク・エリントンの名曲「キャラバン」で盛り上がる。もうカーティス・フラーを生で聴くことはないだろうと思うと、ちょっとセンチメンタルな気分の夜だった。

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2008年1月18日 (金)

『ハニードリッパー(Honeydripper)』

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『ハニードリッパー』は、アメリカ南部の小さな町の小さな酒場を舞台にした、「ロックンロール誕生物語」とでもいった映画だった。

監督はインディーズ作品をつくり続けているジョン・セイルズ。僕は『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』『希望の街』くらいしか見てないけど、社会的な素材を取り上げても拳を大上段に振り上げることをせず、登場人物を等身大の目線で温かく見つめているのが印象的だった。それはこの映画でも変わらない。

1950年のアラバマ州。小さな町のはずれに、元ミュージシャンであるアフリカ系の男(ダニー・グローバー)が経営するバーがある。粗末な木造の店では昔ながらのブルース・ライブをやっているのだが、客がほとんど来ない。

借金で首が回らなくなった男は、ミシシッピで人気のある「ギター・サム」を呼んで挽回しようとするが、サムは病気になって来られない。そこで男は、以前にふらりと店を訪れ、今は放浪の罪で逮捕され綿花畑で働かされている若者を「ギター・サム」に仕立てる。

その夜、若者の自作のエレキ・ギターから流れ出たのは、聞いたことのない音楽(ロックンロール)だった……。

あらすじを書けばそんなふうになるのだが、そして普通この手の映画なら、登場人物がいくつもの障害を乗り越え、その過程で友情や恋が生まれ、時に反目しながらクライマックスに向けて加速していくものだけど、『ハニードリッパー』はそんな定型に目もくれない。

話の本筋はひとまず措いて、主人公の周りの人や風景に目をやり、そこに留まろうとする。寄り道ばっかりしている映画なんだな。

紅葉した林を走る蒸気機関車。お伽話に出てくるような小さな駅での出来事。町角に佇んで歌う盲目のブルース・マン。綿花畑で実を摘むアフリカ系の男たちの労働。店に押しかけるアフリカ系の借金取り。メイドとして働いている男の妻と、主人である裕福な白人女性の会話。男の娘と若いミュージシャンの幼い恋。

そんな小さなエピソードを重ねるなかから、1950年代南部の、アフリカ系住民の暮らしの姿がじわじわと浮かび上がってくる。確信犯的にゆったりしたテンポは、話の本筋は実はこうした風景を描くための手段にすぎないんじゃないかとでも言いたくなるほどだ。

画面の背後にはいつも音楽が流れている。数々のブルース。フォーク・ミュージック。そしてロックンロール。この時代の音楽が好きな人にはたまらない。

定型に収まらない音楽映画。その不思議な味わいが後に残った。

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2008年1月17日 (木)

地下鉄車内の居眠り度

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朝、地下鉄Bラインに乗ったら、居眠りをしている人が目についた(写真は別のときのもの)。

僕が座っているところから見える17人中5人。うち3人はガラス窓に後頭部をもたせかけて爆睡状態。日本の朝の通勤風景と変わらないなあ。

1980年代、初めてニューヨークに来たときは、地下鉄に乗ったら絶対に眠っちゃだめ、と言われたものだ。何を盗られるか、何をされるか分からないから。それだけじゃなく、ハーレムを通るラインには乗るなとか、夜遅くなったら乗るなとも言われた。まあ、今でも乗客が少ない深夜には注意が必要だけど。

こちらへ来て間もない数カ月前、地下鉄に乗ったら隣に座った若い白人の女の子がこっくりこっくり居眠りをはじめ、僕の肩にもたれかかってきた。降りる駅が近づいてきたので肩をちょっと動かしたけど、彼女、一向に目覚めない。そのとき、ニューヨークも変わったんだなあと実感したのを思い出した。

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Qラインのマンハッタン・ブリッジから見た夕焼け。

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2008年1月15日 (火)

『I'm Not There(アイム・ノット・ゼア)』

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『アイム・ノット・ゼア』はボブ・ディランの伝記映画と紹介されていて、僕も以前のエントリでそう書いたけど、実際に見てみると、彼の半生を描いた伝記映画などではまったくないのだった。

いや、確かにボブ・ディランの過去のいろんな出来事が素材として散りばめられているし、ディランの十数曲もの歌が、彼自身を含め何人もの歌手によって歌われているのは確かなんだけど。

この映画の公式HPに「クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、リチャード・ギア(など6人の役者の名が並び)、彼らはみなボブ・ディランなのだ」とあるように、この映画では6人の役者がボブ・ディラン(映画のなかでは仮名)を演じている。

いや、そういう言い方は正確じゃない。6人の役者がボブ・ディランの少年期から現在までを演じわけているのではなく、ボブ・ディランという歌い手のなかに凝縮されているさまざまな要素を6つの人格として独立させ、6人の役者がそれぞれに演じているのだといえば、少しは映画に近づくことができるかな。

だから、早熟なブルースあるいはフォーク・シンガーである少年期のボブ・ディランを演ずるのはアフリカ系の少年だし、リチャード・ギアが演ずるのはボブ・ディランであると同時に歴史のなかの人物、ビリー・ザ・キッドでもある(このあたり、例によってセリフが十分に聞きとれないので誤解があるかも。間違ってたらお許しあれ)。

そんな6つの人格が織りなすたくさんのエピソードが、ばらばらに分解されて散りばめられている。映画は時にモノクロームになり、時にはカラーになる。バイクで事故を起こしたり、ビートルズと出会ったりと、僕らが知っているディランのエピソードもあれば、事実から自由にイメージの世界に遊んでしまったりもする。リアルなカメラワークかと思えば、ファンタジックになったり、昔のシネマ・ヴェリテふうな映像になったりもする。

結局のところ、トッド・ヘインズ監督はボブ・ディランを素材に虚実のあいだで自在に遊んでいると言えばいいのか。「I'm not there」ってディランの曲をタイトルにしてるけど、まず「there」のt抜きで「I'm not here」とタイトルが出て、次にtが入って「I'm not there」となる。どんぴしゃりだね。

6つの人格をつなぐ接着剤の役を果たしているのが、女優ケイト・ブランシェット。ほかの5人がそれぞれ地のまま演じているのに対して、彼女だけがボブ・ディランの表情や仕草やしゃべり方を見事に再現してる。

女性がディランを演ずることだけでも驚きだけど、ほんとによく似てるんだな、これが。サングラスをずらして上目づかいに見上げる表情とか、恥ずかしげに両手を挙げる仕草なんか、もうそっくり。さすが、女優魂といいますか。

この監督の映画、『エデンより彼方に』を見て失望したことがあるけど、こっちのほうが遙かに面白かった。去年の各種ベスト10で、この映画をベスト1に挙げている人が何人かいたけど、好みがはっきりしているとはいえ、それもうなずける。

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2008年1月14日 (月)

ブルックリンご近所探索・14

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アパート近くからバスで10分ほど海に向かって走ったあたりに、レッド・フックと呼ばれる地域がある。港湾と倉庫・工場地域で、20世紀前半には栄えたけれど、海運も、造船などの工業も廃れて、すっかり荒れ果ててしまったらしい。

数年前に『レッド・フック』(邦題:贖いの地、新潮文庫)というミステリーを読んだことがある。ここで起こった殺人事件を地元の刑事が解決する刑事もので、ミステリーとしては大した出来ではなかったけど、レッド・フックの風景描写が印象に残っている。そこには、この一帯がこんなふうに描写されていた。

「港のすぐ対岸には、マンハッタン南部の高層ビルが狂ったように林立しているのに、レッド・フックはひっそりと静まりかえっていて、ただ風が吹きわたるばかりだった。風は玉石敷きの通りのうえでささやき、ひっそりとした倉庫群のまわりをゆったりと流れた。遠くのほうから、移動遊園地でミスター・フロスティのアイスクリームを売っているトラックのかすかな鐘の音、港のほうで鳴るブイの音が聞こえるかもしれない」

そんな無人の倉庫がスーパーマーケットになり、けっこう人を集めていると聞いて、ふらりとバスに乗って行ってみた。

土曜の午後というのに人影もまばらな通りのどん詰まり、海際に5階建ての倉庫があり、なるほど1階部分がフェアウェイというスーパーになっている。倉庫の扉にはガラスが嵌められてしゃれた窓になり、古い建物の再生ってこうやるんだなという見本みたい。なかは元倉庫だけに広く、ものすごい量の商品が積み上げられている。

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こちらは建物の背面。海に面してカフェテラスが設けられている。ターキー・サンドイッチを食べたけど、サラダつきで6ドル弱。安くて、味も悪くない。カフェテラスの前には、かつてここを走っていた路面電車が置かれている。テーブルから見える風景は、倉庫群とニューヨーク湾。

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視線を少し北にずらすと、遠くに自由の女神も見える。カフェテラスは若い子供づれのカップル、老夫婦、ゲイのカップルなどでいっぱい。買い物と、海を見ながら軽食を楽しめる、ちょっとしたおしゃれスポットになっているみたいだ。

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周辺を歩く。これはウォーターフロント博物館。この日は休みだった(土曜の午後だってのに)。遠くに自由の女神が写っている。

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近くの家。バーか何かなのか(看板はない)、それとも民家なのか? 人の気配はなく、よく分からない。

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バス通りも閑散としてるけど、一歩脇の道に入ると人っ子ひとりいない。

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2008年1月13日 (日)

ハーレム散歩

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ハーレムにあるスタジオ・ミュージアム・イン・ハーレムへ行ったら、期待していた1940年代ハーレムの写真展は終わっていて、アフリカ系アーチストのインスタレーションをやっていた。チェルシーのギャラリーでもやっているようなもの。あまり興味が持てなかったのでさっと見て、ハーレムの街を歩くことにした。激しい雨が降っていたけど、上がったと思ったとたんに陽が射してきて、濡れた道路が逆光に映える。

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ハーレムはもともと19世紀に開発された白人の高級住宅地だったけれど、20世紀に入り不況で一帯の価格が暴落した後、主に南部からやってきたアフリカ系が住んで、ニューヨーク最大のアフリカ系住民のゲットーになった。一軒に数家族が住んでいるところも多い。

かつての高級住宅地だっただけに建物はしっかりしていて、今また内部を改造してコンドミニアムになり、白人が戻ってくるという「ジェントリフィケーション」が進行している。

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2008年1月11日 (金)

メトロポリタン通い

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街歩きが楽しいといっても、さすがに冬は長時間、外を歩いてはいられない。そこでメトロポリタン美術館を完全制覇することにした。

これまでメトロポリタンには何度か来てるけど、たまに来るとどうしてもヨーロッパ絵画やアメリカ絵画、あるいは企画展に足が向いてしまう。だから全体の5分の1も見てないだろう。

幸い学生証を持っているので、大人料金の半額、10ドルで入ることができる。

今日はエジプト美術へ。ここのエジプト美術は素晴らしく、ちゃんと見ると半日はかかる。外光がたっぷり入り、外のセントラル・パークが見えるデンドゥール神殿の部屋が気持ちいい。そういえばここは映画『アイ・アム・レジェンド』にも出ていたなあ。

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数日後に、今度はキプロス美術へ。ここのキプロス美術コレクションは、19世紀にキプロスの総領事だったセスノラが自ら発掘し、あるいは買い集めたもの。メトロポリタン開館当初には、中心展示品のひとつだった。今も5部屋ほどが充てられ、質量ともに充実している。

時代的にも新石器時代からヘレニズム時代までをカバーし、東洋と西洋の接点と言われるキプロスの特徴がよく分かる。写真は紀元前6世紀の石灰岩の男子像。

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2008年1月10日 (木)

オバマとヒラリーの演説

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大統領予備選の報道にはCNNが飛びぬけて力を入れている。開票が始まると同時にライブ特番が始まり、刻々と開票速報を流しつづける。

9日にあったニュー・ハンプシャーの予備選。共和党は早々とマケインの当選が決まったけど、民主党はヒラリー・クリントンとオバマが2~4%の得票差で終盤まで競り合い、ついつい中継を最後まで見てしまった。

面白かったのは、勝負が決まった後の2人の演説。

オバマは「私たちは変化が起こりつつあることを示すことができた」と「敗戦の弁」を語りながら、「Yes, we can」という言葉を10回以上も使ってみせた。

「私たちはイラクの戦争を終わらせることができる。Yes, we can.」「私たちは子供たちのために保健制度を整備することができる。Yes, we can」といった具合。オバマが「Yes, we can」と言葉を発すると、会場の支持者がいっせいに唱和して「Yes, we can」と答える。

なんだか1カ月前、近くの教会へゴスペルを聴きにいったときの雰囲気とそっくりなんだなあ。コール・アンド・レスポンス形式を取り入れた演説は、まるで説教師みたい。説教師が繰り返したのは「Yes, we can」ではなく、「神は復活する」だったけど。

オバマは演説上手と定評があるけど、彼が手本にしているらしいJ・F・ケネディの演説というより、ややアジテーターのそれに近いように、僕には見えた。

一方、ヒラリー・クリントンは、感に堪えぬように「Thank you so much.」と素朴で「芸のない」言葉を、こちらも10回近く繰り返した。ここで負ければ後がないヒラリーにとって大きな逆転勝利だったけど、投票前日に涙ぐんで見せたことが「ヒラリーも人の子なのね」と女性の同情を買ったことの延長線上で、ここでも「人間的」な表情を見せたことになる。

でも涙が「嘘泣きじゃないか」と言われたように、この「人間的」で「芸のない」態度も計算のうちじゃないかと邪推される(? もちろんスピーチ・ライターがいるわけだから)あたりが、ヒラリーのつらいところだね。

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春みたい

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先週、最高気温-9℃の日があったかと思うと、昨日今日は20℃近くまで上がって、春みたいに暖かい。街にはTシャツだけで歩いてる男もいる。コートを着ていると汗ばむほど。午後の光がまぶしい。

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2008年1月 7日 (月)

「ヴィレッジ・ヴォイス」の映画ベスト10

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今週号の「ヴィレッジ・ヴォイス」(1月2-8日号)が、「The Year in Bloody Good Film--Violence is Golden」と題して2007年の映画特集をやっている。

102人の批評家、ジャーナリストのリストを集計したベスト10が掲載されているので紹介してみよう。

1 THERE WILL BE BLOOD

2  NO COUNTRY FOR OLD MEN

3  ZODIAC

4  4 MONTHS, 3 WEEKS AND 2 DAYS

5  I'M NOT THERE

6  SYNDROMES AND A CENTURY

7  THE DIVING BELL AND THE BUTTERFLY

8  KILLER OF SHEEP

9  RATATOUILLE

10  COLOSSAL YOUTH

以下、「ブラック・ブック」が11位、「ジェシー・ジェームスの暗殺」が12位、「イースタン・プロミセズ」が13位、「ワンス」が14位、「マイケル・クレイトン」が15位と続く。

僕が見ているのは、ベスト10のうち「THERE WILL BE」「NO COUNTRY」「THE DIVING(潜水服は蝶の夢を見る)」の3本(それぞれ感想を書いていますので、興味ある方は「カテゴリー」「映画・テレビ」をクリックしてみてください)。3位のデヴィッド・フィンチャー「ZODIAC」は残念ながら見そこなった。

「4 MONTHS」はカンヌ映画祭で話題になったルーマニア映画。「I'M NOT THERE」はボブ・ディランの伝記映画。「SYNDROMES」はタイのアピッチャポン・ウィーラセタクン監督の映画。「KILLER」は1977年の作品だけど、今年再公開されたらしい。「RATATOUILLE(レミーのおいしいレストラン)」はディズニー映画。「COLOSSAL」はポルトガルのペドロ・コスタ監督の新作。

巻頭でJ.HOBERMANがエッセイを書いている。どういう経歴の人か知らないけど「ヴォイス」誌の常連で、彼の選ぶ映画、書く内容には同感することが多い。

特に1位から3位までを占めた「バイオレンス映画」について書いた部分が面白いので、ちょっと訳してみようか(誤訳があったらごめん)。タイトルは、「血塗られてるというなら、そのことが暗く暴力的な映画を今年のベストに導いた。われわれは戦争のなかにある、それとも?」というもの。

3本の映画の共通点は何だろう? これら3本はいずれも、インディーズ映画とスタジオ製作映画の中間にあるフロンティアで、自分のモチベーションを大事にする一匹狼の監督(P.T.アンダーソン、コーエン兄弟、デヴィッド・フィンチャー)によってつくられている。そして3本とも、なにかしら恐怖に関する映画であり、アメリカのナチュラル・ボーン・キラーについての映画でもある。

われわれが反社会的殺人者に夢中になってはいけない理由があるだろうか? アメリカはこの4年半、戦争をしているのだ。戦争は、君が考えている殺人の定義を、そして誰が殺人を犯すのかを、もう一度考えなおさざるをえなくさせる。善悪がはっきりしない映画フィルム・ノワールは第二次世界大戦のさなかに生まれたし、国民的強迫観念ともいうべき人食いハンニバル・レクター博士は第一次イラク戦争のなかから生まれた。

この3本の映画の殺人者はどこから来たのか? 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」と「ノー・カントリー・フォー・メン」の2本が、いずれもブッシュ・カントリーと呼ぶべきテキサス中部で撮影されていることは暗示的だ。これらの映画の殺人者が、人を殺すにさいして何のためらいも見せないのは、きわめて挑発的な描写じゃないだろうか。彼らは邪悪そのものだ。

……と、ブッシュを間接的にせよ殺人者呼ばわりするエッセイ自体も、なかなか挑発的。厭戦気分が蔓延した今のアメリカで似たような言葉を聞かされることは時々あるけど、さすがに活字やテレビで公然と主張されることは少ない。「ヴィレッジ・ヴォイス」の面目躍如といったところだね。

今年はイラク戦争を正面から扱った映画も多かった。ブライアン・デ・パルマの「リダクテッド」や、ポール・ハギスの「イン・ザ・ヴァリー・オブ・エラ」がそうだ。

でも僕の見るところ、こうした映画より、「ノー・カントリー・フォー・メン」や「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」、それに出来はいまいちだったけど「ザ・ミスト」(フランク・ダラボン監督)といった暴力・恐怖映画のほうが、明らかにイラク戦争の現実を踏まえ、その上で今のアメリカが抱える精神的危機について深いところまで刃を向けていたような気がする。

もし「ノー・カントリー」や「ゼア・ウィル・ビー」がアカデミー作品賞を取ることにでもなれば、ベトナム戦争直後に「ディアハンター」がアカデミー作品賞を取った快挙(怪挙)を思い出させることになるかも(僕の予想では、作品賞には2本とも選ばれず、監督賞はどちらか、主演男優賞は「ゼア・ウィル・ビー」のダニエル・デイ=ルイス、助演男優賞は「ノー・カントリー」のハビエル・バルデム)。

年が明けて、大統領選挙予備選が本格的に始まっている。最初のアイオワ州で、民主党はアフリカ系のオバマが、共和党は金も組織もないハッカビーが勝利をおさめた。

2人の勝因のキーワードは「変化」。このキーワードがイラク戦争を含意していることは明らかだろう(オバマはややリベラルな立場から、ハッカビーはキリスト教右派的立場から)。あわててヒラリー・クリントンも共和党の他の候補者も、演説やインタビューで「変化」という言葉を使いはじめた。

そういう国民的厭戦気分と、その底にひそむ危機を、「ノー・カントリー」や「ゼア・ウィル・ビー」は敏感に先取りし、過激に刺激的に表現してみせたのかもしれないな。

   

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2008年1月 5日 (土)

100年前のブルックリン、そして今

大晦日のカウント・ダウンに行ったプロスペクト・パークのそばに、ブルックリン図書館がある。

誰でも利用できるし、登録すれば(ブルックリンの住所宛てで届いた手紙を持っていけば、誰でも登録できる)、1度に本を100冊(!)とDVD、CDを5枚ずつ3週間借りることができる。ブルックリンに住んでいた日本人が寄贈したらしい日本語の本も、アメリカ本から実用書、ミステリーまでごちゃまぜながら数百冊ある。

僕も登録してときどき借り出しているのだが、ここの「ブルックリン資料室」で面白い本をみつけた。

「Brooklyn Heights And Downtown 1860-1922」という写真集で、およそ100年前のブルックリンの姿が記録されている。僕のアパートから近いダウンタウンの、よく歩く通りや広場も何枚か掲載されていて、うーん、100年前はこんなだったのか。なんだか今より活気がありそうだなあ。……というわけで、新年の町を歩いて同じポイントを写真に撮ってみた。

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フラットブッシュ・アヴェニュー。フルトン・アヴェニューの交差点から北を見る。右奥方向に2分ほど歩いたところに僕のアパートがある。まっすぐ行けば、マンハッタン橋(古い写真は、橋の完成直後の1913年撮影)。マンハッタンとブルックリンを結ぶ幹線道路だ。かつてはここを路面電車が走っていたんだね。

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フラットブッシュ・アヴェニュー。1枚目の写真と同じポイントから、南を見ている。1枚目の古い写真は、2枚目の古い写真手前に写っている高架上から撮ったものらしい。南方向へは、路面電車の上を高架鉄道が走っていた。

地下鉄ができて、路面電車も高架鉄道もともに撤去されたんだろうな。もっともブルックリンに限らず、ニューヨークの地下鉄はときどき地上に出て高架を走る。かつてのこういう高架鉄道を利用しているんだろう。今、フラットブッシュ・アヴェニューはただだだっ広い車ばかりの道で、歩いていて楽しくはない。

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フルトン・ストリート。フルトン・ストリートは今も昔も変わらない、ブルックリンのダウンタウンでいちばんにぎやかな通り。今はメイシーズ百貨店や、金銀ジュエリーの店、レアものスニーカーを売っている店、アフリカ系趣味のスポーツ用品店などが軒を並べている。左側のビルは、2階部分を見ると昔(1912年撮影)と同じ建物であることが分かる。

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ブルックリン区役所前の広場。昔(1908年撮影)と同じ銅像が今もある。銅像の背後にある、塔をもった石造の建物が昔と同じものなのかどうか(写真集をみたとき、あ、同じ建物だと思ったけど、こうして並べて見ると別の建物に見える)。

もし同じものだとしたら、銅像は昔あった場所から100メートルほど北に移動させられている。昔は銅像と、背後の建物の間に高架鉄道が走っていて、駅があった。背後の建物は、今は郵便局。

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ウォール・ストリート・フェリー乗り場。昔(1900年撮影)はこのフェリーがマンハッタン(ウォール・ストリート)とブルックリンを結び、フェリーを降りた人はモンタギュー・ストリートを走る路面電車に乗った。今は古い桟橋の跡が残っているだけ。

写真が撮られた1900年といえば、ブルックリン橋は完成しているが、マンハッタン橋はまだ。1910年にマンハッタン橋が完成した後、このフェリーはいつまで寿命を保ったんだろう。

もともとブルックリンは、1898年にニューヨーク市に合併されるまで独立したブルックリン市だった。だからニューヨークとは別の歴史と文化を持ち、言葉ひとつとっても、「ブルックリン訛り」と呼ばれる独特の労働者階級の言葉をもっている。主要産業は港湾、倉庫業、造船など、海運関係。

ニューヨーク市に編入されたブルックリンは、20世紀に入って何本もの橋と地下鉄でマンハッタンと結ばれ、単にニューヨークの一部となって、徐々にその個性を失っていったようだ。さらに海運が交通・運輸の中心でなくなったことで、経済・産業的にも凋落した。

1950年代にブルックリン・ドジャースがロサンゼルスに本拠を移したことは落ち目のブルックリンを象徴する出来事として、今もブルックリンっ子の嘆きの対象になっている。かつてブルックリン市の中心だったダウンタウン周辺は、その後、長いこと発展から取り残されていたという。

僕がいまブルックリンの街をほっつき歩いて感ずるのは、そういう歴史の3層構造だ。

マンハッタンからブルックリンまで地下鉄で10分足らずだけど、大げさにいうと別の町に来たような印象がある。まず気づくのは、家並が低くて空が広いこと。良くも悪くも、田舎の町に来た、という感じがする。

ブルックリンには19世紀から20世紀初頭の低層の建物や住宅があちこちに残っている。空が広いという印象は、そこから来ているんだろう。それらが単独でなく面として残っているから、街歩きをしていても、実に落ち着いた、歴史を感じさせる街だという印象を受ける。それが第1層。

そんな第1層を、20世紀後半の、何の変哲もない無個性のビル群・商店群が第2層として覆っている(上に載せた現在の写真が、主にこの層に当たる)。特にダウンタウンの繁華街や商店街を歩いていて感ずる、おしゃれなマンハッタンとは全然違うなという印象は、そこから来てるんじゃないだろうか。

もっともこういう第2層の町並みを、おしゃれじゃないと悪く言う気もない。ブルックリンにはベッドフォード・スタイブサントというニューヨーク最大のアフリカ系の住宅地域があるし、世界中からやってきた移民のコミュニティもある。多くは低所得層に属する彼らは、おしゃれな(即、高価な、あるいは白人的価値観でおしゃれな)店には足を向けないだろう。

僕のアパート近くのご近所商店街では、白人は少数派。アフリカ系や中東系、インド系、カリブ海系の人が多く歩いている商店街だけど、99セント・ショップやホワイト・キャッスルなんて最もチープなファスト・フード店が並ぶごちゃごちゃした通りを歩くのも嫌いじゃない。いや、好きと言ってもいいかもしれない。

さて第3層は、1990年代以降の現象。マンハッタンからアーチストが移り住み、ギャラリーが生まれ、それに伴って最先端のショップやレストランが店を開きはじめた。それらが、第1層のさびれた倉庫街や工場跡や19世紀の住宅街のなかに、ぽつんぽつんと生まれている。それがブルックリンの歴史と文化を再認識しようとする動きと連動している。

僕のアパートから、ご近所商店街と反対方向に10分ほど歩くと、古い住宅街のなかにおしゃれなレストランが点在する一角がある。

元倉庫街がコンドミニアムに変身しつつあるダンボ地域、元工業地域がアーチストの街に変わりつつあるウィリアムズバーグなどは今や人気スポットで、マンハッタンから若者が遊びにやってくる。かつてのソーホーやチェルシーと同じで、古い第1層と新しい第3層の取り合わせが新鮮なんだろう。

そんな多層構造をもった街を歩くのが楽しい。要するに、ブルックリンに4カ月住んで、この街が好きになったってことかな。

書きはじめたら、思わず長くなってしまった。住みはじめてまだ4カ月で、たぶん間違ってることも多い。とりあえず現時点での印象ということで、いずれまた修正版を。

 

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2008年1月 4日 (金)

寒い!

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朝、起きてテレビをつけたら、天気予報が現在の気温6度F(-14度C)、今日の最高気温16度F(-9度C)と言っていた。アパートを出ると、抜けるような青空で、雲ひとつない。ニューヨークでは天気のいい日、特に今日みたいに風があるときの日蔭や陽が陰ってからが寒く、雨や雪のときは暖かいということが分かってきた。

アパートの前で写真を1枚だけ撮ろうと手袋を取ると、ほんの数十秒でもう凍えてくる。風がぴりぴりと冷たい。いよいよ本格的な冬が始まったみたいだ。

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夕焼けがきれいだったので、窓から。今晩はぐぐっと冷え込みそうだ。

ビルの上方に見える光は星ではなく、ジョン・F・ケネディ空港へ向かう4機の航空機(写真をクリックして大きくすれば、よりはっきり見えます)。

いまこちらでは空の混雑と遅れが問題になっていて、いつ見てもたいてい複数のジェット機が空港めざして降りてゆく。でも4機も同時に見たのは初めてかも。ライトアップされたヴェラザノ・ナロウズ橋の上をかすめるように降りていく、その姿を眺めているのが好きだ。

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2008年1月 3日 (木)

ブルックリンご近所探索・13

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正月の1日、2日と比較的おだやかな日が続いたので、歩いてマンハッタン橋を渡り、チャイナタウンまで散歩することにした。

僕のアパートから橋のたもとまで歩いて10分ほど。やはり近くにあるブルックリン橋は歩いて渡ったことがあるけど、その数百メートル上流にかかるマンハッタン橋は、いつも地下鉄で通るだけで歩いて渡ったことはない。

木製のボードを敷きつめた歩行者専用通路があり、「観光化」されているブルックリン橋に比べると、こちらは実用一点張り。狭い通路の両側は高い柵と網でかこわれ、すぐ脇を地下鉄がひっきりなしに轟音をとどろかせて走ってゆく(右下に車両がかすかに写っている)。

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1910年に完成したマンハッタン橋の橋脚は鋼鉄製。その25年前の19世紀末に完成したブルックリン橋が重厚な石を積み上げているのに対し、同じ構造の吊り橋でもこちらは20世紀の「鉄の時代」を象徴している。鋼鉄索の組み方も、ブルックリン橋のような美しさはない。

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この橋のいちばんのポイントは、下流にかかるブルックリン橋とマンハッタンの眺め。下に見えるのはときどき散歩に来る公園で、絶景ポイントです。

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橋をマンハッタン側に渡りきると、すぐにチャイナタウンがはじまる。この一角だけ、なぜか80年代みたいなグラフィティがそのまま残されている。よく見ると最近書かれたものもあるから、ひょっとしたらこれも「観光」のためなのか、それとも放りっぱなしなのか、よく分からない。

低層の古いアパート(写真下の建物のファサードには、「1898」と建設年が浮彫りされていた)が連なるチャイナタウンは、19世紀、まだマンハッタンの南端だけしか都市化されていなかった時代に、貧しい移民たちが住んでいたのがどんな場所だったかを教えてくれる。

ニューヨークっ子のピート・ハミルは、『ダウンタウン(邦題:マンハッタンを歩く)』のなかで、こんなふうに書いている。

「バワリーを歩いてキャナル・ストリートを渡るとき(注・チャイナタウンの交差点)、わたしは1840年代のファイブ・ポインツ地区(注・初期マンハッタンの貧民街)に自分を置くことができる。……どこを見ても汚らしく、閉塞感が漂っているにもかかわらず、そこは娯楽の巷でもあった」

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2008年1月 1日 (火)

ブルックリンの新年

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大晦日のカウント・ダウンはタイムズ・スクエアが有名だけど、ここはものすごい人出で、みんな明るいうちから場所どりしている。昼間、いちばんいい場所でテレビに映っていた若い男の子は、朝8時からここにいる、と言ってた。

とてもそんなところに行く気は起らないので、地元ブルックリンでプロスペクト・パークのカウント・ダウンに行くことにした。地下鉄駅から地上に出ると、公園前にある凱旋門がライト・アップされている。

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午後11時過ぎ、公園には数百人が集まっている。ホット・チョコレートとパンケーキのサービスをやっていて、熱々をいただく。

仮設の舞台でライブがはじまった。全員がアフリカ系の地元バンド。ソウル・ミュージックに合わせて、あちこちでカップルが踊りはじめる。ゲストで、白いスーツ上下に例の髪型をしたジェームス・ブラウンのそっくりさんも登場。「ゲロッパ」で陽気に盛り上がる。

タイムズ・スクエアの催しは全米、いや全世界に映像が送られるけど、ブルックリンのはいかにもローカルな雰囲気なのがいい。

11時59分、カウント・ダウンがはじまった。5、4、3、2、1……。

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Happy New Year !

というわけで、今年もよろしくお願いします。

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