October 30, 2016
April 30, 2012
柳家小三治を聞きに
enjoying rakkugo, traditional comic storytelling
落語はCDやテープで聞くことが多いので、生で聞くのは一昨年の快楽亭ブラック以来。柳家小三治を聞くのは20年ぶりくらいだろうか。でも小三治の評判のまくらを活字化した『まくら』『もひとつ ま・く・ら』(講談社文庫)は、『志ん朝の落語』(ちくま文庫)とともに風呂の友。ぬるい湯に長時間つかりながら楽しむ。
小三治は病気をしてから高座に上る回数が少なくなり、チケットがなかなか手に入らないと聞いている。だから地元でやることを知ってさっそく申し込んだ。1300席もあるホールを満員にするんだからすごい。
今日は『まくら』に収められているような長いまくらはなし。現代人にはわからない噺の中味、「四神剣」の解説や舞台になる料亭が日本橋のどこにあるかをまくらにして、「百川(ももかわ)」。田舎訛りまるだしの百兵衛と、見栄っ張りの河岸の若衆が江戸弁でのこっけいなやりとりが絶品。
仲入り後は「転宅」。浜町河岸、見越しの松に黒塀の粋な家屋に住む元義太夫師匠のお妾さん。そのしたたかな色っぽさとドジな泥棒のやりとりに笑う。
May 17, 2010
快楽亭ブラック毒演会
先月につづいて快楽亭ブラックを聞きにいく(5月15日、お江戸日本橋亭)。
前回、ブラック師匠の噺は一席(って言うんですね)だけ、しかもかなりやばい下ネタだった。でもそれ専門というわけじゃなく古典落語もやると聞いていたので、そっちも聞いてみたい。
今日は「毒演会」で、3時間で四席。10分ほどの仲入りをはさんで一人でしゃべるんだから、精神的にも肉体的にもタフじゃなきゃつとまらない。
マクラでいきなり、「あっしは5年前、死んでたんです」と来た。野村克也監督が動脈瘤で入院したニュースに絡んで、同じ病気で死んだ有名人一覧にブラック師匠の名前があったそうだ。ブラック師匠は死なずに生還したからこそ、いまこうして聞いているわけだが、「5年前からあっしは死者だった」ってシュールな感じ、30年前に大阪で何度か聞きにいった当時の若手no.1、桂枝雀のぶっ飛んだマクラを思いだした。
噺は前半が「藪医者」「お若伊之助」、後半が「たがや」「オマン公社」。前半はあまり調子が上がらないようだったけど、後半は快調でしたね。
なかでも志ん朝から稽古をつけてもらったという古典「たがや」が、志ん朝ゆずり(?)の軽快なテンポ。ところどころで解説が入り、ある描写を「落語はリアリズムです」と言ったそばから、次の描写で「落語はご都合主義です」と笑わせる批評的な語りもいい。だから最後、両国橋の空に舞い上がった殿様の首を花火に見立てて「たがや~」と声をかける落ちにシュールな「毒落語」の味が出た。今日の噺ではこれが一番。
「オマン公社」は定番のネタのようだけど、前回の「超アブないネタ」(本人曰く)を聞いているので、ちょっとした艶笑話程度にしか聞こえなかった。……って、ブラックを聞くのは2度目だけど、もうこんな反応をする。客って残酷だね。
席料は3200円だったけど、CD「快楽亭ブラック 毒落語3」がおまけについていたのでお得。
August 22, 2005
友枝昭世の「安宅」
たまに能を見に行く。といっても、専門的なことは何も分からない。眠ってしまうこともあるけど、時折、能以外では感ずることのない劇的な感動を受けるのが楽しみで出かける(最近、能でも映画でもコンサートでも、眠ることに罪悪感を感じなくなった。年のせいもあるけど、退屈でなく気持ちよいあまりの眠りもある、と自己弁護)。
そんな劇的感銘を受けた舞台を思い出してみると、友枝昭世のものであることが多い。この日は知人から「プラチナ・チケットだから(寝ないように、って意味かな?)」とゆずってもらったチケットで、「友枝昭世の会」に行く(8月21日、国立能楽堂)。演目は「安宅(あたか)」。
「安宅」は歌舞伎では「勧進帳」として知られる。安宅の関の関守が山伏姿で逃避行する義経一行を見とがめ、弁慶の機転で切り抜ける有名な話。能の「安宅」以前にはこういう説話はないらしいから、「勧進帳」の原作と言っていいのだろう。
友枝昭世が直面(ひためん・面をつけないこと)で弁慶を演ずる。弁慶ばかりでなく、関守も義経も全員が面をつけない、能には珍しいセリフ劇。床本(注・上演台本)がないので、地謡の部分も合わせて何を言っているのか判然としないけど、ストーリーが分かっているからおおよそ見当はつく。
友枝昭世がすごいと思うのは、どんな動作をしていても腰を中心にぴたりと決まっていて、「動」のなかに常に「不動」を感じさせること。そこから、ある種の威厳のようなものが漂う。弁慶も、さほど背丈のない友枝なのにひときわ大きく感じられた。最後の舞も素晴らしい。
面白かったのは弁慶たちと関守(富樫)の関係。歌舞伎の「勧進帳」では、富樫は強力(ごうりき)に変装しているのが義経であることに気づきながら、怪しまれた主君の義経を弁慶が杖で打ち据えるのを見て一行を見逃す。
ところが「安宅」では、富樫はあくまで一行を疑っていて、山伏たちが力づくで関を通ろうとするのを弁慶が押しとどめる。7人の山伏が、能でこんなに素早く動くのを初めて見たような動作で富樫に詰め寄る。その集団の迫力に押されて、ひるんだ富樫が通過を許してしまうように見える(床本を読んでいないので、舞台からの印象)。勧進帳を読む場面より、この山伏と富樫の競り合いのほうに僕は劇的な興奮を感じた。少なくとも、富樫に義経と知りながら一行を見逃した気配はない。
歌舞伎の「勧進帳」は、当時の観客(江戸時代の町民)の好みと願望に沿って人情劇に変形しているのだろう。市川団十郎の持ち役だった弁慶は勧進帳の場や最後の六法など派手な見せ場が増え、富樫は義経に同情し弁慶に共感する「準主役」として、2大スター共演の演目となる。その点、能はずっと武家の芸能だったから古形がそのまま残ったのかもしれない。
能も文楽も歌舞伎も、日本の伝統的芝居は西洋的な演劇の因果関係や常識を無視して展開されることがあるから、僕も最初はとまどうことが多かった。「安宅」も「勧進帳」もそういう部分はある。でも、ここは理屈が通らないんじゃない? などと考えることをやめて、登場人物にひたすら心を同一化させようとしていると、すっと納得できることがある。追いつめられた義経一行が弁慶を中心にした知力と武力で関所を強行突破する、その緊張に貫かれた劇として、「安宅」には納得があった。
June 25, 2005
亀井広忠の鼓
誘われて、たまに能を見にいく。今日は「谷大作の会」(6月25日、十四世喜多六平太記念能楽堂)。番組は狂言「伊文字」。友枝昭世の仕舞で「邯鄲」。この人の能を2度ほど見たことがあるけれど、ほんのわずかな仕草に濃密な情感を込める様式の美しさは圧倒的。この日も、まるで戦国の世の野武士が一瞬の「邯鄲の夢」を見たような仕舞だった。
能は「望月」。能には珍しくストーリー展開に富んだ「劇能」というやつで、シテの谷大作が面をつけずに舞う。仇討ちの話で、最後、獅子と化した谷大作の(歌舞伎の鏡獅子の原型みたいな)舞もよかったけど、すごかったのが背後で大鼓を打っていた亀井広忠。亀井広忠は若手のナンバーワン、と友人から聞いていた。その音を初めて聴いた。
最初にぽんと音を出したときから音色が違う。一音で、この世を軽々と超えてゆく、とでもいったらいいか。鼓を打つスピードが隣の鼓とは明らかに差があり、面をたたく瞬間にもスナップが利いているんだと思う。
昔、B・B・キングのコンサートに行ったとき、開演前にスタッフがステージ上のB・Bのギターを調整していたことがある。観客は冷やかし半分で喜んでいたが、幕が開いてB・B・キングが登場し、ギターを取り上げて一音弾いたら、同じギターからそれまでと全く違った音が出てきて、うわぁー、B・Bの音だと感激したことがある。亀井の鼓のぽんという最初の響きは、その一音を思い出させた。
夢幻能といわれる世阿弥の能は静かな演目が多いけど、謡よりはセリフ中心に物語が進んでゆく「劇能」の「望月」は仇討ちの話だけあって、後半、謡も鼓も舞も格段に激しくなる。特に亀井広忠の大鼓は、まるでアルバート・アイラーみたいに、あるいは「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」のジョン・コルトレーンみたいに吼えまくる。その音と掛け声の感情表現の激しさは、邦楽って静かなものという思いこみを軽々と打ち破ってくれた。
友人の話では、今、邦楽にはすごい若手がたくさん出てきているという。彼らは邦楽の内部でも、また邦楽の外へも、ジャンルを超えて活動しはじめている。僕はたまに文楽と能を見るくらいで、日本の伝統芸能にはあまり親しんでないけど、これからはそっちにも興味が向きそうだ。
亀井広忠30歳。苦み走ったイケメンで、連れの女性は、「わたし、追っかけになっちゃう」と興奮しておりました。
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