November 26, 2023

琉球の組踊

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琉球の組踊というものを初めて見た(「能と組踊」千駄ヶ谷・国立能楽堂、11月25日)。18世紀に琉球王国で清朝からの使者を歓待するためにつくられたもの。琉球古来の芸能や故事を基に、能や歌舞伎、また中国の演劇にヒントをえて独自の芸能に育った。これが琉球の音と色に満ちて楽しい。

この日の演目は「執心鐘入」。首里王府へ出府する途中、一夜の宿を乞うた中城若松(宮城茂雄)が宿の女(佐辺良和)に恋われ、寺に逃げ込み鐘に身を隠す。若松を追った女は鬼女に変身してしまう。能の「道成寺」に似てるが、こういう伝承は各地に残っているんだろう。衣装は琉球王朝ふうの鮮やかなもの。セリフと謡は島言葉。曲は琉球の唄。笛太鼓、箏に三線と胡弓が入る。

この日は能(観世銕之丞「三井寺」)と組み合わせ、能舞台で演じられたためかシンプルな舞台だったが、沖縄で組踊を見た友人によると、もっと大がかりでエンタメ的な演目もある、とのこと。これは是非、見てみたい。

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October 27, 2023

太陽劇団の「金夢島」

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友人に誘われてフランスで活動する太陽劇団の公演「金夢島」に出かけた(池袋・東京芸術劇場)。1970~80年代に見た寺山修司や唐十郎のアンダーグラウンド演劇のような(実際、寺山の天井桟敷と交流があったらしい)ワクワクする祝祭空間に身を置いて楽しかった。

多民族の役者によって多言語のセリフ(仏語、日本語、英語、ポルトガル語、アラブ語、ロシア語、ペルシャ語等々)が話されるという、今日的つくり。舞台は日本の、小さな島。カジノリゾート建設の計画が持ち上がり、推進する資本家や地方政治家と反対する漁民との対立、ドタバタが話の軸になる。筋はすんなり展開するわけでなく、劇中劇の演劇祭で中東や中国の政治問題や先住民虐殺など寸劇がコラージュされてダイナミック。大道具小道具はすべて観客の前で役者が出し入れする。舞台背後には国芳、小林清親、川瀬巴水の版画が大写しに。音楽と舞もたくさん。非日本人による能の舞と謡い。ビートルズの「Because」や昔のヒット曲「We'll meet again」が印象的に使われる。最後は竹馬のような高下駄に乗った役者の着ぐるみによる鶴が現れ、役者が「We'll meet again」に合わせて舞う大団円。

鋭い批評精神、集団による手づくりの非商業演劇という軸を60年保ち続ける太陽劇団。それを支える観客がいることも含めて、文化の厚みを感じたなあ。

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December 29, 2016

根津甚八を悼む

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「ジョン・シルバー 愛の乞食篇」(根津甚八ダイアリーから)

根津甚八が亡くなった。小生と同い年、69歳。

根津甚八を最初に見たのは状況劇場の『二都物語』だったか『鉄仮面』だったか。よく覚えていない。強烈な印象を受けたのは李麗仙の相手役に抜擢された『唐版・風の又三郎』(1974)。翳りを感じさせながらも爽やかな二枚目で、奇優、怪優の多い状況劇場の面々のなかでは異色の存在だった。一緒に見に行った女の子がころりと参ってしまい、嫉妬しようにも相手が悪すぎた。

その後、映画にも進出し、素晴らしかったのは秋吉久美子と共演した『さらば愛しき大地』(1982)。鹿島臨海工業地帯をバックに、高度経済成長からはぐれた男と女の愛が息詰まるようだった。アパートから見える林が音もなく揺れるのが、どんづまりの2人の存在の揺らぎそのもののように見えた。この映画でキネマ旬報主演男優賞を受けている。

最後に見たのは、引退後にただ一度だけ復帰した映画『GONIN サーガ』(2015)。かつての根津甚八とその後の闘病生活を知る者には、感慨なしに見られない映画だった。最後まで恰好よかった根津のダンディズム。

同世代、ましてや同い年の死はこたえる。合掌。


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May 12, 2016

追悼・蜷川幸雄

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the memory of Ninagawa Yukio,Director

蜷川幸雄が演出した『元禄港歌』を今年1月に見た。

瞽女の母役を演じた市川猿之助がひたすら哀しく、若い瞽女の宮沢りえはひたすら美しい。舞台の最初から最後まで、天井から紅い椿の花がぽたりぽたり落ちてくるのが、いかにも蜷川だった。その花が落ちてくる速度、床に落ちるときの音がひとつひとつ違うことからも、蜷川が細かいところまで気を配っているのがわかった。鈴木杏はじめ若い役者も熱演して、蜷川の群像劇らしいエネルギーに満ちている。この舞台の稽古中に入院したそうだけど、そんなことをちっとも感じさせない舞台だった。

鈴木杏さんとはニューヨークの語学学校で、短い期間だったけど同じクラス。その縁で無理を言ってチケットを取ってもらった。今となっては貴重な舞台を見られたわけで、杏さんに感謝。

1980年の『元禄港歌』初演は見ていないが、その前年に平幹二朗、太地喜和子、寺島しのぶで評判を取った『近松心中物語』は見た。芝居をそんなにたくさん見てるわけじゃないけど、過去に見た最高の舞台のひとつ。築地本願寺の石段を舞台にした『オイディプス』や『NINAGAWAマクベス』にも興奮した。あの舞台がもう見られないのは寂しい。合掌。

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May 01, 2006

庭の花々

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庭の花々

仕事が忙しい上に、ワープロ・ソフトの打ちすぎでまたまた腱鞘炎が悪化してしまい、更新がままならなくなってしまった。本も映画も音楽もたまっているのだけど、残念。ようやくひと山越えそうなので、少しずつアップしていきます。


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June 12, 2005

ピナ・バウシュの反復

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団を初めて見た(6月11日・新宿文化センター)。僕の信頼する何人かの書き手が彼女の舞踊について書いているのを読んでいたし、テレビで短時間だったけど見たこともある。アルモドバルの映画『トーク・トゥー・ハー』にも出ていた。それでも足が向かなかったのは、本と映画とジャズで(時間もお金も)手一杯だったし、前衛的な舞踊というのは退屈じゃないかと思っていたから。

ところが、これが全然ちがった。前半60分、後半70分。後半の出だしだけは、ソロのダンサーがイマイチに感じられて少々眠くなったけれど、最後まで飽きなかった。

出し物の「Nefes(呼気)」はイスタンブールでつくられたものらしく、幕が開くと公共浴場の場面。男たちが次々にバスタオル一枚で歩いてきては横たわり、別の男が横たわる男をマッサージする。と、今度はマッサージしていた男が横になり、横たわっていた男たちが立ち上がってマッサージをする。やがてドレスの女たちが出てきて、横たわる男たちの上で魅力的な長い髪をくしけずる動作をする。そんな繰り返しのなかにソロで、カップルで、集団でのダンスが挟まれる。音楽はビートの利いたトランス系ロックやインド音楽、アラブ音楽なんか。

ある動作が繰り返される。反復、ということに意味がありそうだ。反復は、ある単調さを生む。また反復は感情を高揚させず、逆にクールダウンさせる。時には、強制されているという感覚をもたらす。そんな反復があるからこそ、ソロやカップルでのダンスの激しさ、感情の爆発が際立つ。

ピナ・バウシュの舞踊は「コンテンポラリー・ダンス」というジャンルに入るのだろうけど、特にソロ・ダンサーの動きは西洋の動きではない。今回の「Nefes」ではインドのダンサーがゲストに迎えられているせいもあるのだろう、濃厚にアジア的。西欧のダンスは背骨がしゃんとしているけれど、ピナ・バウシュの踊りは背骨がないみたいに上半身と腕がくしゃくしゃになって自在に動く。

イブニング・ドレスに身を包んだゲストのインド人ダンサー、それにインドネシアと韓国のダンサー(いずれも女性)の踊りは、なんとも官能的。韓国のブルージーな歌でソロを踊った男性ダンサーもすごかった。

そんなふうに、いろんな場面設定とダンスが脈絡もなく進行していくのだが、特に物語的な意味はない。そこに無理に意味を求めようとすると、「難解」ということになってしまう。ダンスと、時にはコントふうな芝居を楽しみながら、そこから喚起される感情に忠実に従っていけばいいのだろう。

舞台の奥に水たまりらしきものがあった。それまでその周囲で踊っていたダンサーが、ある時、そのなかに入っていく。水しぶきがあがる。ダンサーがはね上げた飛沫に、うわぁ、やっぱり本物の水だったんだと驚く。と、次の瞬間、天井から滝のように水が落ちてくる。照明に輝く飛沫と、滝のなかで踊るダンサーの鮮烈さ!

もう一つ印象的だったのはフィナーレ。トム・ウェイツの音楽に合わせて、舞台前面では男性ダンサーたちが横向きに座り、足を組み換える動作を反復しながら行進してゆく。水たまりの奥では逆方向から女性ダンサーたちが、やはり横になっていくつかの動作を反復しながら進んでゆく。音楽に合わせて反復される動作が、抑制された官能とでもいったものを醸し出す。余韻の残るエンディングだった。

次に機会があれば、また行こうと思う。

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