May 23, 2019

『シャドー・オブ・ナイト』 インドネシアの格闘技映画

Photo_31

ネットフリックスのオリジナル作品はアメリカ映画が圧倒的に多いけど、ネット配信に進出した国々でそれぞれにオリジナル映画をつくったり配給権を買ったりしている。だから、日本ではあまり見る機会のない国の映画(主にエンタテインメント系)を見ることもできる。『シャドー・オブ・ナイト(原題:The Night Comes For Us)』はインドネシアのアクション映画。

インドネシアやマレーシア、ベトナムには「シラット(プンチャック)」と呼ばれる伝統武術がある。素人の見た目では、ブルース・リーの中国拳法に関節技を加えたような実践的格闘技。実際に、軍隊や警察に取り入れられているらしい。この映画の主な役者は、シラットの男女の武術家たち。彼らが映画の冒頭から終わりまで入れ替わり立ち替わり死闘を繰り広げる。血糊の海、首や指がちぎれ内臓が飛び出し、そのすさまじさと残虐さは半端じゃない。かつての香港カンフー映画を、うんとどぎつくした感じ。

イトゥ(ジョー・タスリム)は、東南アジアに広がる麻薬組織トライアッドの殺人部隊の幹部。ある村で村人を虐殺したとき、レイナという少女を助けたことから、逆にトライアッドから命を狙われることになる。イトゥを殺すために、イトゥの昔の仲間で、やはりトライアッドの構成員としてマカオにいたアリアン(イコ・ウワイス)が呼び戻される。アリアンを筆頭に、腕に覚えのある何十人もの団員が次々にイトゥの命を狙う。イトゥはレイナを守りながら、3人の仲間とそれに立ち向かう……。

もともとシラットによる格闘を見せる映画だから、リアリズムじゃない。昭和の時代劇でヒーローが何十人もの敵をばったばったと斬って捨てたように、次々に襲いかかる相手を血みどろになりながらも叩き伏せる。そういう「お約束」の世界。インドネシアの観客はそれを楽しんでるんだろう。女対女の格闘を見せるために、レイナを守る仲間たちが危なくなると、どこからともなく黒づくめの謎の美女が現れてイトゥの仲間に加勢し、敵の女格闘家との戦いになる。謎の女の正体は、遂に明かされない。物語の整合性なんかどうでもよく、そんな説明をしている暇があればシラットの格闘を少しでも多く詰めこもうという姿勢が、いさぎよいといえばいさぎよい。

格闘の背後に写るのは、近代化しつつあるインドネシアの都市風景。高速道路や港や倉庫、イトゥが住む、ちょっと古びた感じのビルのアパート。そして海や自然風景。そういった点景が、いいアクセントになっている。

最後はお約束通り、かつての仲間であるイトゥとアリアンの対決になる。カッターの刃が口中から皮膚を破って外へ突き出たり、これまたすさまじい格闘になって、けりがついたと思ったら、さらにまた次がある。僕はカンフー(シラット)映画のファンではないし残虐趣味もないので、そのサービス精神に辟易しつつも、中国(香港)映画やハリウッドがワイア・アクションからVFXへの道をたどったのに、インドネシアのシラット映画が肉体と肉体のぶつかりあいにとことんこだわっているのに(経済的事情もあるだろうが)好感を抱いたりもした。

僕は見ていないけど、シラットをふんだんに盛り込んだアクション映画『ザ・レイド』(2011)が世界の映画祭で評判になった。ジョー・タスリムとイコ・ウワイスは、この映画でも主演を務めていたシラット格闘家。それ以来、シラット映画は盛り上がり、日本でも何本か公開されたようだ。

監督はティモ・ジャント。若い監督だけど、深みのある映像と切れのいい演出に才能を感ずる。

 

| | Comments (0)

May 13, 2019

『セレニティ 平穏の海』 青い海の非現実

Serenity

マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ、ダイアン・レインと魅力的な役者がそろっているのに、『セレニティ 平穏の海(原題:Serenity)』はアメリカ国内では興行的にこけてしまったようだ。ネットフリックスが海外配信権を手に入れたのは、そのことと関係があるのかどうか。

こけた理由は映画を見ればすぐに分かる。ミステリーといっても、特に謎があるわけではない。クライマックスにいたるサスペンスも、普通のエンタメならじわりじわり盛り上げるところを、ほんの一瞬の描写であっけなく通りすぎてしまう。確かに、肩透かしをくらった感は否めない。でも、だからといってつまらない映画ではなかった。

映画全体が、これが現実なのか非現実なのか、よく分からないつくりになっている。怪しげな登場人物が、「これはゲームの一部なんだ」というセリフを繰り返す。その人物が、バグが生じたようにいきなり画面から消えてしまったりする。その奇妙なテイストが捨てがたい。

ディル(マシュー・マコノヒー)はフロリダ沖の島(架空)で釣船の船長として、何かから隠れるように暮らしている。彼は巨大マグロを何度か釣りかけたが失敗し、「ジャスティス(正義)」と名づけたそのマグロを釣ることに情熱を燃やしている。ある日、元妻のカレン(アン・ハサウェイ)がディルの前に現れる。元妻はディルとの間に生まれた子供を連れて裕福な男と再婚したが、夫の暴力に耐えられない、釣りが趣味の夫を釣船に乗せ、沖で事故に見せかけ殺してほしいとディルに頼みこむ。ディルは新しい父親に心を開かない息子のために、その依頼を承諾する。

一方でディルが巨大マグロを「ジャスティス」と名づけたり、釣船の名が「セレニティ(平穏)」だったりする非現実感に対して、バハマ諸島あたりをイメージしているのかアフリカ系住民が住む色彩豊かな港町のストリートのリアル感がとてもいい。港に一軒だけのバー兼レストランの、いかにもそれらしいオーナー。バーの定席にいつも座っているアフリカ系の老人。港が見える家に住む、ディルの愛人コンスタンス(ダイアン・レイン)との束の間の情事。コンテナを改装したような、ディルの殺風景な家。ひとりだけスーツにネクタイで、ディルにつきまとう釣具会社の謎めいたセールスマン。

元妻の夫を殺すことを心に決めたディルが、島の地図を取り出して広げる。島の周囲の海域にはバハマ諸島があるはずだが、地図にはただ海が広がっているだけ。ふっと入りこむ非現実。

監督のスティーブン・ナイトは脚本家として知られ、クローネンバーグの『イースタン・プロミセズ』も彼の手になる。そうと知って、このテイストも納得。現実と非現実のからくりは最後に明らかになるけれど、青い海と、脳内の妄想がうまく絡みあって、サスペンスとは別の味わいの映画でした。

マシュー・マコノヒーがいいな。

| | Comments (0)

April 23, 2019

『鋼鉄の雨』 韓国の政治エンタテインメント

Steel-rain

Steel Rain(viewing film)

南北分断を逆手にとって政治・アクション・友情の物語をエンタテインメント映画に仕立てるのは、いまや韓国映画の得意技。ネットフリックス・オリジナル(韓国で公開された後、ネットフリックスがグローバル版権を獲得)『鋼鉄の雨(原題:강철비)』もそんな一本だった。数年前の北による核実験とミサイル発射、アメリカによる先制攻撃論、韓国の大統領選挙・政権交代といった政治情勢をうまく取り入れ劇画っぽく誇張しながら、男と男の友情物語になっているのが面白い。

主人公は北朝鮮偵察総局の工作員オム(チョン・ウソン)と韓国の大統領府外交安保首席クァク(クァク・ドウォン)。

オムは上司の偵察総局長から、軍にクーデターの計画があると知らされ首謀者を殺すよう命じられる。北の党委員長「一号」は核ミサイルを開発したがそれを使おうとせず、米国との交渉の道具にしていることに軍の強硬派が反発しているらしい。

「一号」が出席する開城工業団地の式典で、オムが軍幹部を暗殺しようとしていると何者かによるヘリ攻撃があり、「一号」は重傷を負う。オムは歓迎に動員された少女二人と「一号」を助け、混乱に乗じて韓国国境内に逃げ込む。オムは近くの町の産婦人科に押し入り、居合わせた女医に「一号」を治療するよう脅す。女医はクァクの元妻である医者の友人で、やがて元妻とクァクも産婦人科でオムと顔を合わせることになる。

やり手の工作員らしく切れのいい格闘アクションを見せるオムと、仕える大統領からいまひとつ信頼されず、小太りでつい愚痴が出るクァクと、「バディ・ムービー」の定番ともいえる対照的な二人のやりとりが分かってはいるけど楽しめる。クァクの娘も、北で密かに聞いているオムの娘もG-DRAGONの歌が好きで、車のなかに流れる音楽が対立し喧嘩していた二人の感情を和らげる役目を果たす。

任期末の韓国大統領は、この際、北をつぶしてしまおうという強硬派。新しく選ばれた大統領は南北融和派。現大統領は米国に攻撃を要請し、米国は核搭載機を発進させる。搭載機が北に達するまで猶予は十数時間。クァクは新大統領と協力しながら、「一号」を治療してオムとともに北に戻そうと試みる。北の軍強硬派の工作員が、「一号」を暗殺しようと攻撃してくる。オムの上司である偵察総局長が事態を収拾に地下トンネルで韓国にやってくるが、これが実は……と、どんでん返しもあり。

この映画は文在寅政権下の2017年に公開されているから、当然のことながら全体として南北融和という大筋のなかで物語が進行していく。でも部分的には、北の軍強硬派が核ミサイルをぶっ放し自衛隊のイージス艦が日本海上でこれを迎撃、核爆発が起こるとか 刺激的な描写もある。最後に「かくして韓国も核武装しましたとさ」という結末になるのは、(日本の一部にそういう勢力があるように)韓国の一部にもそうした願望があることの表れだろうか。監督はヤン・ウソク。

| | Comments (0)

April 10, 2019

『アウトサイダー』 J・レトの花田秀次郎

The_outsider

The Outsider(viewing film)

1950年代大阪を舞台にした米国製ヤクザ映画。主演は『ダラス・バイヤーズクラブ』でアカデミー助演男優賞を得たジャレッド・レト、監督は『ヒトラーの忘れもの』が話題になったデンマーク出身のマーチン・サントフリートとくれば、どんな映画か見たくなるってもの。ネットフリックスが『アウトサイダー(The Outsider)』の世界独占配給権を買ったのも、その異色の組み合わせにあったかもしれない。

見ていて、過去のいろんな映画の断片や記憶が呼び起こされた。『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『仁義なき戦い』『キル・ビル』『アウトレイジ』、そして『昭和残侠伝』などなど。

『ブレードランナー』はリドリー・スコットらしい美学的なオリエント趣味の映画という意味で。『ブラック・レイン』を経由して、『アウトサイダー』もその延長上にある。『ブラック・レイン』とこの映画は大阪が舞台ということで共通しているが、映像的にも影響を受けているんじゃないかな。『ブラック・レイン』は冒頭、機上からながめる阪神工業地帯の工場群と煙突の煙が印象的だったけど、この映画でも似たショットが繰り返し出てくる。

元米兵で日本で犯罪を犯し服役中のニック(ジャレッド・レト)は、囚人仲間に殺されそうになった清(浅野忠信)を助けたことから、大阪のヤクザ白松組組員である清の引きで客分となる。白松組は年老いた親分(田中泯)をオロチ(椎名桔平)が補佐しているが、大阪に進出してきた神戸のヤクザに押され、小競り合いがつづいている。ニックは白松組の先兵となり、親分の信頼を得て杯をもらう。

対立するヤクザ組織の抗争という設定は、言うまでもなく『仁義なき戦い』や『アウトレイジ』を下敷きにしてる。椎名桔平など、『アウトレイジ』からそのままこの映画に移ってきたみたい。設定だけでなく、指を詰めるシーンも共通。『仁義』では指を詰めるシーンにはコミカルな味があったが、こちらはまるで羊羹でも切るようにスッと指を切り落とす。

ニックは清の妹(忽那汐里)と愛し合うようになるが、オロチも妹に執心している。オロチは白松組を見限り、神戸の組織と手を結ぶ。親分が命を狙われ、清も命を落とす。ニックは、妹を守るためにと清から手渡された日本刀を手に、、、。

『仁義』や『アウトレイジ』は熱気あふれる映画だったが、この映画は登場人物も声高に叫ばず、全体に静かな印象がある。それはニックが口数少なく、無表情でいることと関係しているだろう。この主人公の人物造形のモデルは、僕の見るところ『昭和残侠伝』の高倉健ではないか。ジャレッド・レトは役になりきることで有名な役者だけど、でも文化的な基盤を僕らと共有しているわけではない。高倉健の無口と無表情に、僕らは憤怒や悔恨といったいろんな感情が満ちあふれているのを理解するけど、ジャレッド・レトからは無口と無表情以上のものを感じられない。

だから作り手の思いとしては高倉健の花田秀次郎でも、ジャレッド・レトのニックの生きざまにすっと一本筋が通っているように見る者に受け取れない。最後の殴り込みも、花田秀次郎はがんじがらめの日本的しがらみをぶった切ることで見る者にカタルシスを与えたが、ニックのそれはオロチの裏切りによって清が死んだことへの個人的怨恨を晴らすためのように見えてしまう。ラストでニックが妹と抱き合うのも、その印象を強くする。カタルシスは来ない。

いまひとつ残念だったのは、そういうものから切れた『ブラック・レイン』から30年もたつのに、観光客レベルのオリエンタル趣味(大衆演劇ふうの心中劇や相撲、刺青、日本刀──これは『昭和残侠伝』というより『キル・ビル』)が出てくること。逆に驚いたのは、1954年の大阪という設定を不自然に感じさせないロケをしていること。実際に大阪で撮影したようだけど、路面電車の走る市街などはどこだろう。夜、山の麓の市街を電車が光をあふれさせて走る、神戸らしきショットも印象的だ。

あれこれ言ったけど、ともあれ楽しめる映画ではありました。

| | Comments (0)

April 04, 2019

『バスターのバラード』 コーエン流「西部開拓史」 

The_ballad_of_buster_scruggs

The Ballad of Buster Scruggs(viewing film)

コーエン兄弟の『バスターのバラード(原題:The Ballad of Buster Scruggs)』は、もともと6本のテレビシリーズとして企画されたらしい。でもネットフリックスが配給権を買ったことで、6本をまとめて1本の映画にした。だから6本のテイストもスタイルもばらばらだけど、それが逆にオムニバス映画としての面白さになっている。コーエン兄弟のいろいろな面──陰鬱さやブラックユーモアや残酷さや、残酷を突き抜けたあっけらかん──を楽しめる。兄弟が脚本を書き、演出したコーエン流「西部開拓史」だ。

第1話はミュージカル仕立て。流れ者の凄腕ガンマンがウェスタンの名曲「クール・ウォーター」を口ずさみながら、酒場で次々に立ちはだかるカウボーイを殺してゆく。ところが、1対1の決闘であっけなく殺されてしまう。殺されたガンマンは背中に羽が生え、天使になって天に上ってゆく人を食ったラスト。

第2話は、荒野にポツンとある銀行でカウボーイ(ジェームズ・フランコ)が強盗に変身する。ところが銀行員がなぜか強く、カウボーイは捕まって絞首刑になりそうになる。やっと逃れたと思ったら、今度は牛泥棒に間違えられて絞首刑になるというオチ。

第3話は沈鬱だ。主人公は馬車を駆り町から町へ流れる旅一座の男(リーアム・ニーソン)。出し物は、男がロンドンで買った両手両足のない青年の一人芝居だ。青年はシェークスピアばりのセリフを語り、「人民の人民による人民のための政治を絶やしてはならない」とリンカーンの演説を繰り返す。だが客は少ない。窮した男は、足し算できる芸をもつ鶏を買うが、青年が足手まといになって、、、。

第4話は、それまでとはテイストが異なる。人跡未踏の谷(コーエン兄弟はじめてのデジタル撮影が見事)にやってきた金鉱掘りの老人(トム・ウェイツ)が金脈を掘りあてる。なるほど金脈はこんなふうに探していくのか。ところが老人は彼をつけてきた男に襲われる。老人は反撃。トム・ウェイツのキャラクターもあって、この挿話は美しい風景のなかで、ほのぼのした感じになっている。

第5話は、いちばんストーリー性が豊かで、いわゆる西部劇ふう。オレゴンを目指す幌馬車隊。旅の途中で兄が病死した娘は案内人の男を頼り、やがて結婚の約束をするまでに。ところが先住民の襲撃に遭い、殺されると早とちりした娘は自ら命を絶ってしまう。

第6話は、駅馬車のなかのセリフ劇。馬車の屋根に死体が載っているのがミソだ。この死体は、二人の賞金稼ぎが殺したお尋ね者。イギリス人とアイルランド人の賞金稼ぎらしからぬ身なりの二人が、ガチガチの老婦人と罪と潔白をめぐって議論し、老婦人は怒りで発作を起こしてしまう。山だしの漁師やフランス人の男がそれをなだめる。宿に着き、賞金稼ぎは死体を持って階段を上ってゆくが、果たしてあとの3人は? 

見終わって、死者累々という印象を持つ。実際、西部開拓史はそのように無数の死者の上に成り立っているのだろう。それを歴史や社会性といった側面でなく、死をめぐる残酷と皮肉のドラマに仕上げているのがコーエン流ということか。

 

| | Comments (2)

March 26, 2019

『風の向こうへ』 O.ウェルズ、未完の遺作

Photo_30
The Other Side of The Wind(viewing film)

 

『風の向こうへ(原題:The Other Side of The Wind)』は、タイトルだけ知っていたオーソン・ウェルズ監督の未完の遺作。それがネットフリックスで見られるとは思わなかった。

 

もともとこの映画は、ヨーロッパからアメリカに戻ったウェルズがハリウッドでの再起をかけて1970年から1976年にかけ断続的に撮影していた。けれども製作資金に行き詰まり、またイランを追われた前国王パーレビの縁者から資金を得ていたことから、(詳しいことはよく分からないが)裁判で撮影済フィルムの所有権は彼の手元を離れてしまった。そのままウェルズは85年に亡くなる。

 

100時間以上あったという撮影済みフィルムの権利を500万ドルで買ったのがネットフリックス。この映画に協力し、出演してもいるピーター・ボグタノヴィッチ監督が、残された脚本やメモをもとにフィルムを編集して作品に仕上げた。オリジナル映画を製作するだけでなく、こういうこともやるからネットフリックスは侮れない。

 

作品の出来は、ひとことで言えば壮大な失敗作。いかにも天才と言われつつ監督としては不遇をかこったオーソン・ウェルズらしい。

 

映画は劇中劇の入れ子構造になっている。年老いた映画監督ジェイク・ハナフォード(ジョン・ヒューストン)が人生最後の映画をつくっている。「シネマのヘミングウェイ」と呼ばれるハナフォードのまわりには、商業的に成功した映画監督でハナフォードを崇拝するオターレイク(ピーター・ボグダノヴィッチ)や映画評論家(スーザン・ストラスバーグ)など、さまざまな人間が集まってくる。彼らを相手に、ハナフォードはヘミングウェイばりに葉巻を手に酒を飲み、それらしいセリフを吐く。パーティではスタッフや取り巻きが乱痴気騒ぎを演じている。

 

ハナフォードが撮影している映画は、男と女の話。「イージー・ライダー」ふうのバイクに乗ったジョン・デール(ボブ・ランダム)が、アメリカ先住民の女性レッド(オヤ・コダール)を追いもとめる。友人が運転する車のなかで、彼らは長いセックスをする。それ以上、さしたる筋はない。デールが廃墟になった映画セットを彷徨うのは、ウェルズを受け入れなかったハリウッド批判なのか。そのジョン・デールは、撮影途中で行方をくらませてしまう。パーティの日、映画の上映会が催されるが、それが完成した映画なのか未完成のままなのかよく分からない。

 

映画製作の場面と劇中劇の場面のスタイルは対照的だ。劇中劇は、男と女の髪型、服装や鮮やかなカラー画面の流麗な映像など、当時流行っていたアメリカン・ニューシネマふう。現在から見ると、アメリカン・ニューシネマは反ハリウッドのインディペンデント精神に貫かれていたというより、あっという間にハリウッドに取り込まれ、そのスタイルもいっときの流行にすぎなかったから、オーソン・ウェルズがこだわるほどのものではなかった。

 

一方、映画製作のシーンは、即興でストーリーをつくり演出をほどこすヌーベルヴァーグふう、というかゴダールふう。実際に映画のなかでゴダールやアントニオーニ、ベルトルッチなどの名前が出てくるから、ウェルズが彼らを意識していたのは確かだろう。早いテンポで映像に、筋と関係ない早口の台詞がかぶさってくるのも、ある時期のゴダールに似ている。アメリカン・ニューシネマといい、ヌーベルヴァーグといい、1970年前後の世界の新しい映画を意識しながら、俺ならその双方を軽く超えてみせるぜ、というのがオーソン・ウェルズの心の内だったろうか。

 

映画製作の部分はほとんど自伝的というか、ウェルズのアメリカでの孤立や、少数の崇拝者のひとりボグダノヴィッチとの関係など、現在進行形の私小説めいている。『風の向こうへ』のメイキング映画『オーソン・ウェルズが遺したもの』によると、ウェルズは映画製作中に起こった出来事を、そのまま即興的に映画に取り込んでいった。実験的ではあるが、話はどんどん拡散してゆく。その上、行方不明になったフィルムもあるらしく、「shot missing」「scene missing」といった字幕が頻繁に出てくる。まあ、起承転結のある映画ではないから、部分部分を楽しめばいいのだが……。作品としての完成度は低くても(オーソン・ウェルズがこれを見たら、俺がつくりたかったのはこんなもんじゃないと怒りだすかもしれないが)、映画監督ジェイク・ハナフォード(=オーソン・ウェルズ)の孤独と苦悩だけは十分に伝わってくる。

 

ハナフォードを演ずるのは『マルタの鷹』などでハリウッドの巨匠監督として知られるジョン・ヒューストン。風貌からも実績からしても「シネマのヘミングウェイ」にふさわしい。ヒューストンは俳優としても活動しており、『チャイナタウン』で見たことはあるが、こんな素晴らしい役者だとは思わなかった。彼はハリウッドで、ウェルズの数少ない友人のひとりだった。

 

ともかく映画好きには話題満載で、オーソン・ウェルズに興味があれば『オーソン・ウェルズが遺したもの』(ネットフリックス・オリジナル映画)とともに必見の一本。

| | Comments (0)

March 14, 2019

『ROMA/ローマ』 先住民召使いとの甘美な記憶

Roma
Roma(viewing film)

メキシコを舞台にした映画がなんで『ROMA/ローマ(原題:ROMA)』なのかと思ったら、メキシコ・シティ市内の地名なんですね。歴史地区の西にある上・中流階級の住宅地。その漆喰造りの邸宅(僕らの感覚からすると邸宅)に住む医師一家と、住込みんでいる先住民の召使いとの日常が美しいモノクローム画面で描かれる。アルフォンソ・キュアロン監督の自伝的映画だ。

1971年。メキシコは制度的革命党の一党独裁が長くつづき、腐敗した政権に対する国民や学生の不満が高まっていた。それが物語の背景。

医師のアントニオと妻で教師のソフィアの仲は壊れかけている。アントニオは仕事でカナダへ行くと言って家を出るが、実は愛人とアカプルコで暮らしている。子どもは4人兄弟で、次男坊のパコ(カルロス・ペラルタ)が少年時代のキュアロン監督らしい。パコは召使いのクレオ(ヤリッツア・アパリシオ)と仲良し。まるで母子のように睦まじい。クレオはメキシコ中部の先住民ミシュテカ族。もうひとりの召使いもミシュテカで、二人でいるときはミシュテカ語を話す。家庭ではスペイン語に英語が混じる。

クレオにはマーシャル・アーツをやっている先住民系のフェルミンという恋人がいて、ある日、妊娠していることに気づく。映画館でフェルミンにそれを告げると、彼は失踪してしまう。デートの場面では立派な映画館がたびたび出てきて、この時代の空気を伝えてくれる(フランス映画『大進撃』がかかっている)。

お腹が大きくなったクレオは一家の祖母に連れられ、ベビーベッドを買いに町なかへ出る。街路では政府に不満を持つ学生デモが行われている。クレオがベッドを選んでいるといきなり発砲音が聞こえ、学生が店に逃げ込んでくる。武装した集団が学生を追って乱入し、学生を殺す。ひとりの男がクレオにも銃を突きつけるが、それは失踪したフェルミンだった。

フェルミンが属しているのは「ロス・ファルコンズ(鷹)」という民間武装団体。政権党である制度的革命党が組織し、アメリカで訓練をほどこされ反政府的な団体や学生の弾圧に使われている「政府の犬」だ。カソリックの祝日であるこの日は、120人のデモ隊が虐殺された事件として知られる。恋人に銃を向けられショックを受けたクレオは死産してしまう。

そんな歴史的事件を点描しながらも、一家の日常はつづく。映画の基調は、あくまでもパコ少年の眼から見たクレオとの甘美な記憶。一家のなかでは、白人系の一家と先住民のクレオとの間に差別意識はまったくない。キュアロン監督の映画は、同じく自伝的な『天国の口、終りの楽園。』もそうだったけど、社会的な問題に深入りしない。それが彼の個性なんだろう。それはそれでよし。この映画がこれ以上政治を描いたら、監督の個性もこの作品の良さもそがれてしまう。

ある時間を切り取り、それを物語として構成せず(言いかえれば時間を濃縮せず)、映像として切りとった時間に流れる物語の断片を淡々と積み重ねる。冒頭の、廊下のタイルに流れる長い長い水のタイトル・ロール、ラストで邸宅の上空を遠く飛ぶ飛行機のショットなどが、キュアロン監督の時間(映像)感覚を示している。

この映画は今年のアカデミー外国語映画賞で、『万引き家族』などを抑えて受賞した。『万引き家族』は物語の結構といい社会的問題意識といい実によくできた映画だけれど、キュアロン監督のこのスタイルの新しさが評価されたのではないかと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (2)

March 02, 2019

『最後の追跡』 静かな西部劇

Photo
Hell or High Water(viewing film)

体調が悪く、療養中です。そのため、このブログのタイトルのひとつである「映画」について、当分の間、新作映画を取り上げることができなくなりました。その代わりというわけでもありませんが、ネットフリックスに加入しました。

ネットフリックスは独自に映画製作に乗り出しており、そのオリジナル映画は、『ROMA/ローマ』がベネチア映画祭金獅子賞やアカデミー賞外国語映画賞を受賞したことからもわかるように、評価の高い作品を生みだしています。そしてそれらのオリジナル映画は、映画館では公開されません。そこでしばらくの間、ネットフリックスのオリジナル作品を中心に「ネットフリックス浸り」をしてみたいと思います。まずは『最後の追跡』から──。

       ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

この映画のことを知ったのは昨年、『ウィンド・リバー』を見たときだった。アメリカ先住民居留地を舞台にしたクライム・ストーリーである『ウィンド・リバー』の監督、テイラー・シェリダンの履歴を調べていたら、ネットフリックス・オリジナル映画『最後の追跡(原題:Hell or High Water)』の脚本を書いている、とあった。この映画は評判になり、2016年アカデミー賞作品賞にノミネートされている。見たいなあ、と思ったが、当時はネットフリックスに入っていなかった。だから今回加入して最初に見たのが、この作品。期待は裏切られなかった。

静かな映画だなあ、というのが見終わっての印象。といって物語は決して静かではない。現代のテキサスを舞台に銀行強盗と、それを追うテキサス・レンジャーとの追跡劇。車での逃走シーンは多いし、銃撃戦もある。現代的な西部劇といった趣きだ。

それでも静かな映画だと感ずるのは、追う2人と追われる2人、それぞれの会話や彼らが何を背負っているかがゆったりしたテンポで描かれているからだ。そのことで、追い追われる4人がなぜそのようになったのかが鮮明に浮かび上がる。ことに定年目前のテキサス・レンジャー(州の警察活動に従事する)、マーカス(ジェフ・ブリッジス)と、強盗というには知的な風貌のトビー(クリス・パイン)が黙って物思いにふけるショットが何度か出てくるのが印象的だ。いまひとつ静かと感じた理由は、車を走らせるシーンや銃撃戦などアクション場面でも引きの画面が多く、ことさらにアクションを強調しないからだろう。

タナ―(ベン・フォスター)とトビーの兄弟は、銀行強盗を繰り返しながら移動している。2人はなぜかテキサス・ミッドランズ銀行の支店ばかりを襲って足のつく札束には手を出さず、バラのドル札数千ドルを奪って逃げる。テキサス・レンジャーのマーカスと、相棒のアルベルト(ギル・バーミンガム)が2人を追うが、マーカスは強盗の行動パターンから、まだ襲われていないミッドランズ銀行の支店を監視しはじめる……。

兄弟の会話から、兄のタナ―は強盗を繰り返し、父親を殺害して服役していたことが分かる。弟のトビーは妻と離婚、介護していた母が亡くなり、母が所有していた牧場を相続した。そこから石油が出て、庭先には業者の掘削機が動いている。しかし母は強欲なミッドランズ銀行に借金があり、それを返済しないと土地は銀行に取られてしまう。そんなことがわかってくる。かつて牧畜業はテキサスを代表する産業だったが、今はすたれ、兄弟は親や祖父母の代からの貧困にあえいでいる。銀行や石油業者がテキサスの富をひとりじめしている。兄弟の犯行は、そんな強欲資本主義に対するしっぺ返し的な様相を帯びる。

一方、マーカスの相棒のアルベルトは先住民とメキシコ人の血を引いている。マーカスは事あるごとに先住民の血について後輩のアルベルトをからかう。アルベルトは、内心ではマーカスを敬愛しながらも、苦い顔をしてからかいに耐えている。後輩を愛しながらも粗野な言動をやめないテキサス男の役どころはジェフ・ブリッジスにうってつけ。彼らも時代の波から取り残された男たちだ。

そんな2組の男たちが交差するところに、当然のように銃撃戦が起こる。テキサスの砂漠を舞台にした西部劇そのもの。ここで2人の副主人公が死ぬのだが、観客が感傷にひたる間を与えない。アルベルトがタナ―に撃たれたとき、カメラは撃たれたアルベルト目線で、上からのぞきこむマーカスの顔のアップが一瞬挿入されるだけ。次にタナ―の背後の岩山に回ったマーカスがタナ―をライフルで狙撃するときは、ライフルを構え岩に座ったままで絶命したタナ―と、そばで鎌首をもたげるガラガラヘビの印象的なショットが短くはさまれるだけ。ヘミングウェイかダシール・ハメットでも読んでいるようなリズムが快い。

西部劇の定型どおり、最後はマーカスとトビーの1対1の対決になる。この映画のいいところは、そこで1発の銃弾も発射されないことだ。別れ際、2人はこんな会話を交わす。「話があるなら、いつでも来てくれ」「また会おう」「早く終わらせたい」「何をしても終わらない。一生背負っていくのさ、お前も俺も」「来たら安らぎをやる」「俺もお前にやろう」。──「来たら安らぎをやる」とは、なんとも余韻の残るセリフだ。死の予感。

砂漠や、忘れられたような田舎町。元は牧場だった荒野に動く石油掘削機。テキサスの昼と夜の風景が美しい。監督はデヴィッド・マッケンジー。イギリス出身で、十数年前、『猟人日記』という地味だが忘れがたい作品を見たことがある。そうか、あの監督の映画なのか、と納得。

| | Comments (2) | TrackBack (0)