October 08, 2009
August 17, 2009
浦和ご近所探索 二七市場跡
旧中山道の沿道に慈恵稲荷神社がある。無住で、賽銭箱も置いてない。わが家から5分ほどのところで、浦和駅方面への通り道だけど、お参りしている人を見たことがない。隣に蕎麦屋があり、鳥居の前は、いつもその店のバイクの駐車場になっている。
境内には「御免毎月二七市場定杭」の石碑がある。「天正十八年(1590)」とあるから、近世以前にもうここに2と7のつく日に市が立っていたんだな。かつてはここいらが浦和宿の中心地だったらしい。本陣の跡も近くにある。昭和のはじめまでは、ここで市が開かれていたようだ。
明治に入って鉄道ができた後、繁華街は東の浦和駅近くに移り、浦和駅と北浦和駅の中間に当たるこのあたりは、やや人通りが少ない。
ここがにぎわうのはお祭りのときくらい。
August 03, 2009
浦和ご近所探索 調(つき)神社

(旧中山道に面した神社の入口。昔から鳥居がなく、狛犬の代わりにウサギの石像がある)
調(つき)神社というのは正式な名前で、旧浦和市民はみな「つきのみや」と呼ぶ。漢字を当てれば「調宮」か「月の宮」だろう。市民にいちばん親しまれている神社で、わが家の神棚にも調神社の神璽がある。
前回の「ご近所探索」で大宮の氷川神社に行ったのは数十年ぶりだったけど、ここには月に1、2度は行く。家から歩いて25分ほど。ちょうどいい散歩コースなのだ。
「書評 book navi」(LINKS参照)のために原武史『松本清張の「遺言」』と松本清張『神々の乱心』を読んでいたら、大宮の氷川神社だけでなく、この調神社も出てきた。
『神々の乱心』では、ツクヨミを祀る月辰会という新興宗教団体の本部が埼玉県にあると設定されている。その理由を原はこう推察している。
「中山道の浦和宿に近い岸村には、もともと『月読社』『月の宮』といわれた調神社がありました。……どうやら清張は、秩父のほかに、調神社が埼玉にあることから、月辰会の本部を埼玉に設定したようですね。……『月読社』『月の宮』といわれたことからもわかるように、月と関係のある神社であるのは間違いありません」
原武史が書いているように調神社は中世や江戸時代には「月読社」とか「月の宮」と表記されていた。中世以来、この地域で盛んだった月待信仰の中心地だったんだろう。近くには「二十三夜」など、月待信仰にちなんだ地名もある。月にウサギはつきもだから、境内にはウサギの石像、彫刻がたくさんある。
祭神はアマテラス、トヨウケビメ、スサノオの三神。氷川神社とはスサノオを祀ることで共通するけれど、こちらにはアマテラスが入っている。スサノオを祀る出雲系である氷川神社と調神社の関係はよくわからない。でも共に延喜式に記載された「式内社」だから、古くからの由緒ある神社であることは確かだ。
「調」というのは租庸調(そようちょう)と呼ばれた律令時代の物納税のひとつで、ここが調の集積所だったために調神社と呼ばれるようになった。入口に鳥居がないのは、調を運びいれるときに邪魔になったからだと言われる。
「調(つき)」は「月」であるとともに「槻=ヒノキ」でもある。境内には樹齢数百年のヒノキの並木がある。この下を歩くのが好きだ。
July 23, 2009
浦和ご近所探索 氷川神社

(旧中山道、さいたま新都心駅近くから氷川神社の参道が別れている。参道は約2キロ。並木に囲まれた道の片側が一方通行の車専用、片側が遊歩道になっている)
氷川神社はご近所とはいえ、旧浦和市ではなく旧大宮市にある。
かつて浦和は急行の停まらない、どころか電車(京浜東北)しか停まらない県庁所在地として「有名」だった。20年ほど前まで、大宮駅を出た東北線や高崎線の列車は浦和駅を素通りして東京都内に入った。なぜそういうことになったのか。そこには氷川神社の存在が大きくかかわっている。そこに面白い角度から光をあてた本を読んで、久しぶりに氷川神社へ出かける気になった。
原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(講談社学術文庫)。著者の原武史は近代日本政治思想史を専門とする研究者で、『大正天皇』(朝日選書)、『昭和天皇』(岩波新書)とユニークな天皇論で立て続けに賞を得た。
『<出雲>という思想』は二部に分かれている。第一部が長くて「復古神道における<出雲>」、第二部は短く「埼玉の謎 ある歴史ストーリー」。

(一の鳥居からしばらくは人通りも少ない。周囲は閑静な住宅地で、ケヤキの古木を主とした見事な並木が続く)
氷川神社というのはほとんどが荒川流域、つまり埼玉県と東京都に集中している。埼玉に162社、東京に59社、それ以外の県には7社しかない。その中心が大宮の氷川神社で、昔から武蔵一の宮とされてきた。
祭神はスサノオ、オオクニヌシ、クシイナダヒメの三神。いわゆる出雲系の神だ。『国造本紀』によれば、景行天皇(実在しない)の代に出雲族がスサノオを奉じてこの地に移住してきたと言い伝えられている。
スサノオはアマテラスの弟。オオクニヌシはスサノオの子孫にあたる。『日本書紀』によると、葦原中国(日本)を治めていたオオクニヌシに対し、高天原を治めるアマテラスの子孫タケミカズチらが国を譲れと要求した。オオクニヌシはいったん拒否するが、やがて国を譲って退き、死者の国を治めることになった。
いわゆる「国譲り」というやつで、神話の背後に、スサノオを奉ずる出雲族がアマテラスを奉ずる大和朝廷勢力と争い、敗北したのではないかという仮説を考えることができる。

(10分ほど歩くと、参道は大宮駅前からまっすぐ延びる道と交差する。その交差点を超えると人通りが多くなり、すぐに二の鳥居がある。僕も昔何度か氷川神社へ行ったときは、大宮駅からこのコースをたどった。参道の両側にはちらほら商店もある)
1968(明治1)年10月、京都から江戸城に入った明治天皇は、わずか4日後に大宮氷川神社を「武蔵国総鎮守」とする勅書を出し、10日後には大宮氷川神社を訪れて親祭を行った。新首都に入った明治天皇の最初の行幸が氷川神社だったのはなぜか。
原はこう書いている。「スサノオを武蔵国、もっと端的にいえば『帝都』を守護する神として公式に認めたことのもつ思想的意義は、決して小さくない。それは結局、<伊勢>ではなく大宮、つまり<出雲>こそが、新しい首都にとっての祭祀的、宗教的中心であることを、天皇自らが認めたということにもなる」。
新政府が氷川神社の重要さを認めたのを証明するように、翌1869(明治2)年1月、廃藩置県に先立って大宮県(現在の埼玉県東部一帯)が置かれ、大宮に県庁が置かれた。ところが8カ月後の9月、突然に大宮県は廃止され、浦和県とされて県庁も浦和に移ってしまう。
当時、浦和は中山道の小さな宿場町で、人口も経済規模も大宮とは比べようもなく小さかった。その後、1871(明治4)年の廃藩置県で埼玉県となり、その5年後には西隣の熊谷県(県庁は熊谷)を吸収して、ほぼ現在の埼玉県ができあがる。
もう一度、引用。「この奇妙な県庁移転の背景に、<伊勢>と<出雲>の対立をめぐる問題があったのか、そのことを含めて、廃止の理由はよくわかっていない」。
原は研究者らしい慎重さで「よくわかっていない」と書きながら、県庁が大宮から浦和へ移ったことに伊勢系神道と出雲系神道の対立が絡んでいたのではないかと匂わせている。

(三の鳥居。やけにJ1のユニフォームを着た人が多いと思ったら、この日は大宮アルディージャ対FC東京のゲームがあるんだった。神社の周囲に広がるかつての神域が大宮公園になっていて、スタジアムがある)
この本の第一部「復古神道における<出雲>」は、幕末から明治にかけての復古神道をたどり、それがアマテラス中心の国家神道に取ってかわられるまでを追っている。一地域の動きに中央新政府の動向を重ねてみると、県庁移動の背後にどんな事情があったのか、おぼろげながらわかってくる。
復古神道を確立したのは幕末の平田篤胤で、その神学の特徴はアマテラスではなくオオクニヌシを中心に据えたことだった。尊王攘夷を思想的に支えたのは水戸学と神道だったが、神道内部では、篤胤門下でオオクニヌシを重視する平田派と、アマテラスを重視する津和野派が主導権を争っていた。
1867年、大政奉還直後に出された政治綱領「献芹譫語」には、王政復古を助けたのはアマテラスとオオクニヌシであることが記されている。翌1868(明治1)年には祭政一致を実現するため神祇事務局が置かれ、平田派の神官が判事に任命された。ところが、この平田派の判事は任命わずか1カ月で職を解かれてしまう。
1869(明治2)年に設置された神祇官では、アマテラスを中心とする神学の津和野派が主要ポストを独占した。「結局彼ら(平田派)の神学は、実際には一度も日の目を見ることなく維新の表舞台から姿を消しているのである」と原は書いている。
こうした新政府の動きと、大宮から浦和への県庁の移動を重ねてみると、明治天皇が氷川神社を訪れ、大宮に県庁が置かれた1968年から翌69年にかけて、ほんの一瞬だけ、スサノオを重視する平田派の神道が明治政府の中枢を占めていたことが分かる。
しかし平田派はすぐに新政府から排除された。ここからアマテラスを中心とする伊勢神道が主流を占めることになり、それがやがて国家神道となる。スサノオを中心とする出雲神道は、その後、大本教など民間宗教に受け継がれるが、これも昭和に入って弾圧された。出雲の神々は記紀の時代に抹殺されただけでなく、近代国家建設の時代にもう一度抹殺されたわけだ。

(社殿。スタジアムに向かうサポーターが立ち寄ってチームの勝利を(?)祈ってゆく)
その後、大宮氷川神社は全国に数十ある官幣大社のひとつになり、昭和天皇や皇太子時代の現天皇も訪れているから、それなりに遇されてはいる。でも明治初年に、伊勢神宮に代わる国家の守護神とされた一瞬の光芒を今の氷川神社から想像することはむずかしい。
埼玉県の県庁が浦和に置かれたいきさつについては、もうひとつの政治的事情もありそうだ。
江戸時代、いま埼玉県になっている地域で、氷川神社の門前町・大宮と並ぶ大きな都市は川越だった。川越藩の城下町で、藩主は松平氏。徳川の親藩だったから、維新直後の新政府にとって川越は警戒を要する土地だった。大宮が束の間、大宮県となったように、川越もごく短期間、川越県となったが、すぐに入間県、次いで熊谷県(県庁は熊谷)となり、明治9年には浦和を県庁とする埼玉県に編入されてしまう。
大宮、川越という大きな都市をさしおいて、小さな宿場町だった浦和に県庁がおかれたのには、そんな政治的いきさつがあったらしい。その後、高崎線と東北線が大宮で分岐することになったことも含め、さまざまな歴史の紆余曲折の結果として、浦和は列車の停まらない県庁所在地になったのだった。
April 19, 2009
浦和ご近所探索 前地通り商店街
うまい煎餅屋があると聞いて、浦和駅東口の前地通り商店街へ出かけた。わが家から歩いて30分近くかかり、行ったのははじめて。
狭い通りに個人店が並ぶ地元商店街。スーパーもコンビニもドトールもない。戦前、戦後の商店街がそのまま残っているのだろう、他では見られなくなった店がある。
自家製こんにゃく、トコロテン、くず餅の専門店。
金物店の店先。
氷室も営業中。氷を売ってます。
この洋服店は営業中かどうか、よく分からない。
八百屋・青果店と肉屋は数軒ずつある。タイル張りの店構えは、かつてのモダン。
仕舞屋(しもたや)が何軒もあり、空地や小さなマンションも目につく。
都市計画でつくられた直線道路でなく、商店街はゆるやかに湾曲し、はずれには江戸時代の庚申塔がある。そのころから使われていた道なんだろう。
歴史を遥かに溯れば、縄文時代、このあたりまで東京湾が入り込み、大宮台地の端である浦和はたくさんの入江が複雑な海岸線を描いていた。近くには貝塚もある。
商店街の左右は下り坂になっている。坂を下って低地になっているあたりは、僕がガキのころ沼地が多かった。だからこの商店街の通りは、はるか昔から沼地に挟まれた台地の尾根を走る道だったんじゃないかな。「前地」という地名もそういうことに関係していそうだけれど、よく分からない。この道をずっと行くと「大谷場」「大田窪」といった低地を意味する地名もある。
商店街の脇道。
前地通り商店街がいちばん栄えたのは、おそらく高度成長以前。氷室とか自家製こんにゃくとか、僕らがガキのころには見かけたけど、その後はとんとお目にかからない。そういう店がちゃんと営業してるのが嬉しい。
浦和駅東口一帯は長いあいだ開発から取り残された住宅地で、都市計画上、旧浦和市の大きな「問題」だった。近くにスーパーもショッピング・センターもなく、だからこそ駅前といっていい立地なのに、こういう商店街が生き残ってこられたのだろう。夕方になると人通りが増え、近くに住む人が八百屋、肉屋、豆腐屋、パン屋と回って総菜を買ってゆく。
去年、浦和駅東口が再開発されてパルコがオープンし、地下にはスーパーもできた。高度成長期~バブル期と変わらぬ再開発の手法で、反対側の西口再開発で駅前商店街がシャッター通りになってしまった過去を少しも学んでいない。本当は地元商店街をどう生かしてゆくかを考えた再開発であるべきなのに。スーパーは商店街から歩いて5分ほど。人の流れも変わってゆくのだろうか。
April 06, 2009
March 31, 2009
浦和ご近所探索 別所沼の桜
浦和は全国でただ一カ所というサクラソウの自生地があるけれど、桜の名所は少ない。せいぜい別所沼と、そこから延びる遊歩道程度だろうか。どちらもここ20年ほどで植えられた若木で、あまり風情はない。この日も別所沼には何組もの花見客がいたけれど、僕はいつも素通りすることにしている。そこから200メートルほど離れた公園の片隅に2本だけ染井吉野の老木がある。
僕はこの老木が好きで、桜の季節になるといつもこの桜を見に足を運ぶ。この日もたまに散歩して立ち寄る人がいる程度で、花見客はいない。もっとも今年は樹木保護のためか、花の下での飲み食いはできないようロープが張られてしまった。
開花宣言のあと花冷えが続いているので、まだ3~4分咲きといったところ。
苔むした幹に花が直に咲いている。
March 21, 2009
March 15, 2009
浦和ご近所探索 日本茶喫茶
浦和駅近くの旧中山道に、古い商家建築のまま営業しているお茶屋さん(といっても「待合」ではなく文字通り茶葉を売る店)がある。その敷地内の納屋が改造されて日本茶喫茶「楽風(らふ)」になっている。
店舗の脇、かつては自宅の門だったらしいここが入口で、喫茶は奥の左手にある。
店には靴を脱いで入る。自宅の庭がそのまま喫茶店の庭になっている。
2階はギャラリーになっていて、写真展や陶磁器、草木染の展示会などイベントが開かれる。この日は、かつて一緒に仕事をしたこともある山本宗補さんの写真展「老いの風景 Part2」をやっていて(~3月17日)、久しぶりに顔を合わせた。納屋は明治24年建築だそうで、土壁を露出させた壁面が素敵だ。
今日は、ほうじ茶で一服。器もいつも吟味されている。近くに延喜式社の調神社(つきのみや)があり、そこへ散歩に来たとき寄るのが楽しみ。もっとも、わが家も和風建築に和風の庭、日本茶も好きなので、気分が変わらないのが難点。
February 17, 2009
February 10, 2009
浦和ご近所探索 新しい風景
いま、いちばん浦和らしい風景ってなんだろう、と考えてみた。
浦和は戦前から東京へ勤める中産階級の住宅地として発展してきた。もともと中山道の宿場町だったから、明治に入って県庁が置かれたものの産業らしい産業もなく、旧制浦和高校を中心とした文教都市というイメージが強かった(最近は浦和レッズの町だけど)。
戦後もその構造は変わることなく、現在まで続いている。
かつて公教育のレベルが今より高かった時代、旧浦和市民の教育のエリート・コースは高砂小学校―岸中学校―浦和高校(女の子なら浦和第一女子高)などと言われた。その高砂や岸町はかつての浦和宿の中心で、今も延喜式の神社があり、旧中山道沿いは商店街として、一歩裏に入れば閑静な住宅地として昭和のたたずまいを残している。
そんな住宅地に、高層マンションが続々と建設されている。その風景こそ、今いちばん浦和らしいのではないかな?
岸町周辺を歩いて驚いた。このあたりは散歩ルートにしていたからよく歩いたけど、ニューヨークから帰って訪れるのは初めて。
数年前から、静かな住宅地のなかに高層マンションが建ちはじめたなと思っていたけれど、今では場所によっては空き地と高層マンションだらけ、そのなかに古い住宅がぽつんぽつんと残っている風景に変貌しているではないか。とても繁華街からわずかに裏に入った場所、浦和駅から歩いて10分もかからない場所とは思えない。まるで新開地じゃないか。
想像できる理由は2つ。ひとつは、駅からも旧中山道の繁華街からも近いので、都市計画上は「商業地域」に指定されているに違いないことだ。商業地域だと建築物の高さ制限や容積率がゆるいので高層マンションが建てられる。
もうひとつは、文教都市の神話が実態はともかくまだ生きているらしいこと。もともと旧浦和市は全域にわたって学齢児童を抱えた家族の流入が多いけど、高砂とか岸町の住民になればかつての「エリート・コース」に通うことができる(友人の話では、「もう普通の学校だよ」だけど)。新聞に折り込まれるマンション広告のチラシにも、今では規制されているかもしれないが、かつては「○○小学学区内」「○〇中学学区内」などとうたったものがあった。
この地域の、戦前や戦後間もなく建てられた木造住宅は耐用年数ぎりぎりだ。和風住宅に2世帯は住みにくいから、子供世代は出ていって年寄りだけが残る。そこが代替わりする。狙われる条件はそろっている。
この風景はいつか見たことがある。バブル全盛期に地上げされた東京都心の住宅地、神田とか愛宕あたりの風景によく似ている。
今後、「100年に一度」の世界的不況のなかで高層マンションの建築がストップし、無残な空き地が残ることになるのか。それとも、条件の良いこのあたりは不況と関係なく建設が進むのか。現在も工事中のマンションが2棟あり、建築予告が張られた空き地もある。
空家らしい家の屋根で日向ぼっこする猫。
こんな張り紙があったから、なんとかしようという動きも出ているようだ。
僕は都市計画上では「住宅地域」に指定された場所に住んでいる。だから高層マンションは建てられないのだが、近所には小規模のマンションがじわじわ増えている。
20年ほど前、隣にワンルーム・マンションが建設されることになり、近所の人たちと裁判に訴えて争ったことがある。そのときの経験では、地裁の裁判官は、再開発して新しい住宅を供給することがなぜ悪いの、という態度だった。結局は条件闘争になり双方が譲って和解したけれど、現行法に違反していない以上、町と、それに伴ってコミュニティーが壊れていくのを止めるのはなかなかむずかしい。
そもそもさいたま市も、商業地域の「土地の高度利用」を推進しているらしい。だからこの風景は行政の意思でもあるわけだ。
住民全員が賛成すれば、自分たちで高さなどを制限できる「住民協定」を結ぶこともできるけれど、「全員」というのがこれまた難題で。
というわけで、これが今いちばん新しい岸町の風景。まだ町の一角だけれど、いずれこのあたり一帯がこういう高層マンション街になるのか。
地域も建物も時代とともに変わっていくのは自然なことだ。でも、こんなふうに土地の記憶と風景が根こそぎになるのを見るのは悲しいし、腹立たしい。
January 27, 2009
浦和ご近所探索 仕舞屋
歩いて5分ほどのところに旧中山道が走っている。
ふつう中山道といえば国道17号を指すけれど、17号線はこのあたりでは昭和初期に蕨市から旧浦和、旧大宮にかけて旧中山道に沿ってつくられたバイパスのことで、お年寄りはこの道を「新国道」と呼ぶ。東京と上信越方面を行き来するトラックは新国道や、1970年代につくられたバイパスのバイパスを通り、旧中山道は町なかの生活道路として残っている。
浦和駅周辺の旧中山道は繁華街だけれど、少し離れて小生の家近くまでくると、商店もとぎれとぎれになってくる。駅周辺はすっかり新しい建物に建て替わったが、このあたりになると街道に面して戦前の商家建築がぽつんぽつんと残っている。そのうちの何軒かは、普通の民家に改造した仕舞屋(しもたや)になっている。
僕が1970年代に住みはじめたころはこういう商家建築がたくさんあって、まだ商売している家が多かった。今はなくなってしまったけれど、白壁に装飾をほどこした、保存しておきたいような立派な商家もあった。
そんな商家が1980年代あたりからどんどん商売を止めて仕舞屋になり、今はその仕舞屋も姿を消して新しいビルやマンションに変わりつつある。
仕舞屋は、もともと商店だから街道に面した間口が広い。仕舞屋になるとそこにガラス戸を嵌め、戸を開けると土間で自転車置場や物置になっているところが多い。この仕舞屋は間口の半分を仕切って温室にしている(あるいは2軒なのか)。
写真に撮った4件の仕舞屋の隣はいずれもマンション。ここもいつまで残っているか。
こちらはまだ営業中。どうも変な建物だなと思ったら、もともと長屋の商家建築で2軒入っていたのが、1軒が商売を止め、真ん中からすぱっと切り落してしまったらしい。
January 14, 2009
浦和ご近所探索 文化住宅・2
わが家の近所に「和風住宅の玄関脇に1室洋間」の文化住宅が2軒残っていることは前のエントリーで書いたけど、戦前からの住宅街のなかに1軒だけファサード(正面)が完全に洋風な文化住宅が残っている。
ここは古い開業医のお宅。昔、一度だけ行ったことがあるけれど、待合室や診察室など医院としての空間が当然のことながら洋風になっている。でもその奥の自宅部分は和風になっているようだ。脇の塀越しにこの医院を見ると、和風住宅としか思えないし、庭も和風になっている。
「(明治政府が推進した)文化住宅の目指したものは本格的な椅子座生活を営む洋館による住宅の改良だったが、その後広がっていった『文化住宅』のイメージはよりあいまいなものになった」(小沢朝江・水沼淑子『日本住居史』吉川弘文館)。これも和洋折衷の一例。
January 10, 2009
浦和ご近所探索 文化住宅
ニューヨークにいたとき、ブルックリンの我がアパート周辺を散歩してはブログに「ブルックリンご近所探索」を書いていた。それにならって、今度は自宅のまわりを徒歩と自転車で散歩しながら「浦和ご近所探索」を書いてみたい。
浦和には30年以上も住んでいるから、町をよく知っているつもりだけど、しかしそれは普段の行動範囲のなかだけで、行ったことのない場所もたくさんあるから、その実、よく知らないとも言える。1年間不在だったことで、見慣れた風景を新鮮な目で見ることができるといいんだけど。
僕は旧浦和市の住民だけど、旧大宮市などと合併して「さいたま市」になったことで旧市域は4つだか5つだかの区に分割された。その結果、中心部の浦和区以外は桜区だの緑区だの知恵のないネーミングで「浦和」の地名がはずされた地域が多い(区名を決める過程も、住民参加を装いながら予め決めていたらしくインチキだった)。
そもそも「埼玉」とは稲荷山鉄剣で知られる埼玉(さきたま)古墳群のある県北地域を指す地名だから、浦和や大宮を埼玉とは呼べないし、呼びたくもない。平仮名で「さいたま」と書かせるセンスも最悪だ(住所を書くたびに怒りがこみあげる)。僕がふだん散歩するのは旧浦和市(と旧与野市の一部)なので、行政的には浦和でなくなった場所もあるけれど、せめてもの抵抗の意思を込めて「浦和ご近所探索」とした。
10年くらい前まで、これらの写真のような家がそこらじゅうにあった。和風住宅の玄関脇に1間の洋間。大正から昭和前期に盛んにつくられた「文化住宅」と呼ばれる建築だ。どこかレトロなエキゾティシズムを感じさせる建物で、宮崎駿のアニメにもこういう家がよく出てくる。
僕は1950年代後半まで浦和に住んでいたので(その後引っ越し、1970年代に戻ってきた)、ガキのころ友達の「文化住宅」によく遊びに行った。
洋間にはたいてい絨毯が敷かれ、テーブルとイスが置かれている。壁には油絵がかかり、暖炉(もどきだったかも)のある家もあった。わが家は純和風住宅だったので洋間で遊ぶのが珍しかったし、うらやましくもあった。もっとも、大きな家具が詰め込まれ物置のようになっている家もあって、生活空間としてうまく利用されていたとは思えない。
70年代に浦和に戻ってきたとき、町はまだ昔の面影をとどめていた。自宅から歩いて5分の半径のなかに、こういう「文化住宅」が10軒はあったと思う。それが80年代のバブル時代以降に1軒消え2軒消え、今ではこの写真の2
軒だけになってしまった。
浦和は産業らしい産業もなく、戦前から東京へ通勤する中流階級の住宅地だった。そのためこういう「文化住宅」がたくさんつくられ、戦後も町の変化が少なかったためにそのまま残っていたんだろう。
小沢朝江・水沼淑子『日本住居史』(吉川弘文館)によると、あらゆる面で近代化・西洋化を目指した明治政府は住宅についても洋風化を推進した。日本人を畳の生活から椅子の生活に変えようとした。そのモデルとして、洋風の外観を持ち、椅子で生活する洋間からなる「文化住宅」のプランを考えた。
でもそれは性急すぎた机上の空論で、日本人は畳を捨てられなかった。洋間だけの「文化住宅」が建てられたのは一部の上流階級の家のみで、実際には洋間と日本間が混在する「文化住宅」や、さらには玄関脇に1間だけ洋間が残った「文化住宅」が普及していった。呼び方は同じでも実態は純洋風から和洋折衷へと変化していったわけだ。わが家の周辺に残っているのは、この最後の段階の「文化住宅」ということになる。
戦後の典型的な住宅プランは団地の2DK、2LDKというやつだ。これは洋間のダイニング(リビング)に畳敷きの2間という、和洋折衷の「文化住宅」を集合住宅のなかに押し込めたもので、これが今の僕らの生活様式の基本になっている。
もっとも、新聞に折り込まれる最近のマンション広告の間取り図を見ると、すべて洋間か、せいぜい畳敷きの間が1室というタイプが多い。同じ和洋折衷でも「1室だけ洋間」とは逆の「1室だけ和室」の「文化住宅」になってしまったわけで、明治政府の意図は1世紀半たって実現に近づいている。
今でも築80年の古びた純和風住宅に住んでいる僕としては、残った「文化住宅」にエールを送りつつ孤塁を守っている心境だ。

























































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