October 08, 2009
August 17, 2009
浦和ご近所探索 二七市場跡
旧中山道の沿道に慈恵稲荷神社がある。無住で、賽銭箱も置いてない。わが家から5分ほどのところで、浦和駅方面への通り道だけど、お参りしている人を見たことがない。隣に蕎麦屋があり、鳥居の前は、いつもその店のバイクの駐車場になっている。
境内には「御免毎月二七市場定杭」の石碑がある。「天正十八年(1590)」とあるから、近世以前にもうここに2と7のつく日に市が立っていたんだな。かつてはここいらが浦和宿の中心地だったらしい。本陣の跡も近くにある。昭和のはじめまでは、ここで市が開かれていたようだ。
明治に入って鉄道ができた後、繁華街は東の浦和駅近くに移り、浦和駅と北浦和駅の中間に当たるこのあたりは、やや人通りが少ない。
ここがにぎわうのはお祭りのときくらい。
August 03, 2009
浦和ご近所探索 調(つき)神社

(旧中山道に面した神社の入口。昔から鳥居がなく、狛犬の代わりにウサギの石像がある)
調(つき)神社というのは正式な名前で、旧浦和市民はみな「つきのみや」と呼ぶ。漢字を当てれば「調宮」か「月の宮」だろう。市民にいちばん親しまれている神社で、わが家の神棚にも調神社の神璽がある。
前回の「ご近所探索」で大宮の氷川神社に行ったのは数十年ぶりだったけど、ここには月に1、2度は行く。家から歩いて25分ほど。ちょうどいい散歩コースなのだ。
「書評 book navi」(LINKS参照)のために原武史『松本清張の「遺言」』と松本清張『神々の乱心』を読んでいたら、大宮の氷川神社だけでなく、この調神社も出てきた。
『神々の乱心』では、ツクヨミを祀る月辰会という新興宗教団体の本部が埼玉県にあると設定されている。その理由を原はこう推察している。
「中山道の浦和宿に近い岸村には、もともと『月読社』『月の宮』といわれた調神社がありました。……どうやら清張は、秩父のほかに、調神社が埼玉にあることから、月辰会の本部を埼玉に設定したようですね。……『月読社』『月の宮』といわれたことからもわかるように、月と関係のある神社であるのは間違いありません」
原武史が書いているように調神社は中世や江戸時代には「月読社」とか「月の宮」と表記されていた。中世以来、この地域で盛んだった月待信仰の中心地だったんだろう。近くには「二十三夜」など、月待信仰にちなんだ地名もある。月にウサギはつきもだから、境内にはウサギの石像、彫刻がたくさんある。
祭神はアマテラス、トヨウケビメ、スサノオの三神。氷川神社とはスサノオを祀ることで共通するけれど、こちらにはアマテラスが入っている。スサノオを祀る出雲系である氷川神社と調神社の関係はよくわからない。でも共に延喜式に記載された「式内社」だから、古くからの由緒ある神社であることは確かだ。
「調」というのは租庸調(そようちょう)と呼ばれた律令時代の物納税のひとつで、ここが調の集積所だったために調神社と呼ばれるようになった。入口に鳥居がないのは、調を運びいれるときに邪魔になったからだと言われる。
「調(つき)」は「月」であるとともに「槻=ヒノキ」でもある。境内には樹齢数百年のヒノキの並木がある。この下を歩くのが好きだ。
July 23, 2009
浦和ご近所探索 氷川神社

(旧中山道、さいたま新都心駅近くから氷川神社の参道が別れている。参道は約2キロ。並木に囲まれた道の片側が一方通行の車専用、片側が遊歩道になっている)
氷川神社はご近所とはいえ、旧浦和市ではなく旧大宮市にある。
かつて浦和は急行の停まらない、どころか電車(京浜東北)しか停まらない県庁所在地として「有名」だった。20年ほど前まで、大宮駅を出た東北線や高崎線の列車は浦和駅を素通りして東京都内に入った。なぜそういうことになったのか。そこには氷川神社の存在が大きくかかわっている。そこに面白い角度から光をあてた本を読んで、久しぶりに氷川神社へ出かける気になった。
原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(講談社学術文庫)。著者の原武史は近代日本政治思想史を専門とする研究者で、『大正天皇』(朝日選書)、『昭和天皇』(岩波新書)とユニークな天皇論で立て続けに賞を得た。
『<出雲>という思想』は二部に分かれている。第一部が長くて「復古神道における<出雲>」、第二部は短く「埼玉の謎 ある歴史ストーリー」。

(一の鳥居からしばらくは人通りも少ない。周囲は閑静な住宅地で、ケヤキの古木を主とした見事な並木が続く)
氷川神社というのはほとんどが荒川流域、つまり埼玉県と東京都に集中している。埼玉に162社、東京に59社、それ以外の県には7社しかない。その中心が大宮の氷川神社で、昔から武蔵一の宮とされてきた。
祭神はスサノオ、オオクニヌシ、クシイナダヒメの三神。いわゆる出雲系の神だ。『国造本紀』によれば、景行天皇(実在しない)の代に出雲族がスサノオを奉じてこの地に移住してきたと言い伝えられている。
スサノオはアマテラスの弟。オオクニヌシはスサノオの子孫にあたる。『日本書紀』によると、葦原中国(日本)を治めていたオオクニヌシに対し、高天原を治めるアマテラスの子孫タケミカズチらが国を譲れと要求した。オオクニヌシはいったん拒否するが、やがて国を譲って退き、死者の国を治めることになった。
いわゆる「国譲り」というやつで、神話の背後に、スサノオを奉ずる出雲族がアマテラスを奉ずる大和朝廷勢力と争い、敗北したのではないかという仮説を考えることができる。

(10分ほど歩くと、参道は大宮駅前からまっすぐ延びる道と交差する。その交差点を超えると人通りが多くなり、すぐに二の鳥居がある。僕も昔何度か氷川神社へ行ったときは、大宮駅からこのコースをたどった。参道の両側にはちらほら商店もある)
1968(明治1)年10月、京都から江戸城に入った明治天皇は、わずか4日後に大宮氷川神社を「武蔵国総鎮守」とする勅書を出し、10日後には大宮氷川神社を訪れて親祭を行った。新首都に入った明治天皇の最初の行幸が氷川神社だったのはなぜか。
原はこう書いている。「スサノオを武蔵国、もっと端的にいえば『帝都』を守護する神として公式に認めたことのもつ思想的意義は、決して小さくない。それは結局、<伊勢>ではなく大宮、つまり<出雲>こそが、新しい首都にとっての祭祀的、宗教的中心であることを、天皇自らが認めたということにもなる」。
新政府が氷川神社の重要さを認めたのを証明するように、翌1869(明治2)年1月、廃藩置県に先立って大宮県(現在の埼玉県東部一帯)が置かれ、大宮に県庁が置かれた。ところが8カ月後の9月、突然に大宮県は廃止され、浦和県とされて県庁も浦和に移ってしまう。
当時、浦和は中山道の小さな宿場町で、人口も経済規模も大宮とは比べようもなく小さかった。その後、1871(明治4)年の廃藩置県で埼玉県となり、その5年後には西隣の熊谷県(県庁は熊谷)を吸収して、ほぼ現在の埼玉県ができあがる。
もう一度、引用。「この奇妙な県庁移転の背景に、<伊勢>と<出雲>の対立をめぐる問題があったのか、そのことを含めて、廃止の理由はよくわかっていない」。
原は研究者らしい慎重さで「よくわかっていない」と書きながら、県庁が大宮から浦和へ移ったことに伊勢系神道と出雲系神道の対立が絡んでいたのではないかと匂わせている。

(三の鳥居。やけにJ1のユニフォームを着た人が多いと思ったら、この日は大宮アルディージャ対FC東京のゲームがあるんだった。神社の周囲に広がるかつての神域が大宮公園になっていて、スタジアムがある)
この本の第一部「復古神道における<出雲>」は、幕末から明治にかけての復古神道をたどり、それがアマテラス中心の国家神道に取ってかわられるまでを追っている。一地域の動きに中央新政府の動向を重ねてみると、県庁移動の背後にどんな事情があったのか、おぼろげながらわかってくる。
復古神道を確立したのは幕末の平田篤胤で、その神学の特徴はアマテラスではなくオオクニヌシを中心に据えたことだった。尊王攘夷を思想的に支えたのは水戸学と神道だったが、神道内部では、篤胤門下でオオクニヌシを重視する平田派と、アマテラスを重視する津和野派が主導権を争っていた。
1867年、大政奉還直後に出された政治綱領「献芹譫語」には、王政復古を助けたのはアマテラスとオオクニヌシであることが記されている。翌1868(明治1)年には祭政一致を実現するため神祇事務局が置かれ、平田派の神官が判事に任命された。ところが、この平田派の判事は任命わずか1カ月で職を解かれてしまう。
1869(明治2)年に設置された神祇官では、アマテラスを中心とする神学の津和野派が主要ポストを独占した。「結局彼ら(平田派)の神学は、実際には一度も日の目を見ることなく維新の表舞台から姿を消しているのである」と原は書いている。
こうした新政府の動きと、大宮から浦和への県庁の移動を重ねてみると、明治天皇が氷川神社を訪れ、大宮に県庁が置かれた1968年から翌69年にかけて、ほんの一瞬だけ、スサノオを重視する平田派の神道が明治政府の中枢を占めていたことが分かる。
しかし平田派はすぐに新政府から排除された。ここからアマテラスを中心とする伊勢神道が主流を占めることになり、それがやがて国家神道となる。スサノオを中心とする出雲神道は、その後、大本教など民間宗教に受け継がれるが、これも昭和に入って弾圧された。出雲の神々は記紀の時代に抹殺されただけでなく、近代国家建設の時代にもう一度抹殺されたわけだ。

(社殿。スタジアムに向かうサポーターが立ち寄ってチームの勝利を(?)祈ってゆく)
その後、大宮氷川神社は全国に数十ある官幣大社のひとつになり、昭和天皇や皇太子時代の現天皇も訪れているから、それなりに遇されてはいる。でも明治初年に、伊勢神宮に代わる国家の守護神とされた一瞬の光芒を今の氷川神社から想像することはむずかしい。
埼玉県の県庁が浦和に置かれたいきさつについては、もうひとつの政治的事情もありそうだ。
江戸時代、いま埼玉県になっている地域で、氷川神社の門前町・大宮と並ぶ大きな都市は川越だった。川越藩の城下町で、藩主は松平氏。徳川の親藩だったから、維新直後の新政府にとって川越は警戒を要する土地だった。大宮が束の間、大宮県となったように、川越もごく短期間、川越県となったが、すぐに入間県、次いで熊谷県(県庁は熊谷)となり、明治9年には浦和を県庁とする埼玉県に編入されてしまう。
大宮、川越という大きな都市をさしおいて、小さな宿場町だった浦和に県庁がおかれたのには、そんな政治的いきさつがあったらしい。その後、高崎線と東北線が大宮で分岐することになったことも含め、さまざまな歴史の紆余曲折の結果として、浦和は列車の停まらない県庁所在地になったのだった。
April 19, 2009
浦和ご近所探索 前地通り商店街
うまい煎餅屋があると聞いて、浦和駅東口の前地通り商店街へ出かけた。わが家から歩いて30分近くかかり、行ったのははじめて。
狭い通りに個人店が並ぶ地元商店街。スーパーもコンビニもドトールもない。戦前、戦後の商店街がそのまま残っているのだろう、他では見られなくなった店がある。
自家製こんにゃく、トコロテン、くず餅の専門店。
金物店の店先。
氷室も営業中。氷を売ってます。
この洋服店は営業中かどうか、よく分からない。
八百屋・青果店と肉屋は数軒ずつある。タイル張りの店構えは、かつてのモダン。
仕舞屋(しもたや)が何軒もあり、空地や小さなマンションも目につく。
都市計画でつくられた直線道路でなく、商店街はゆるやかに湾曲し、はずれには江戸時代の庚申塔がある。そのころから使われていた道なんだろう。
歴史を遥かに溯れば、縄文時代、このあたりまで東京湾が入り込み、大宮台地の端である浦和はたくさんの入江が複雑な海岸線を描いていた。近くには貝塚もある。
商店街の左右は下り坂になっている。坂を下って低地になっているあたりは、僕がガキのころ沼地が多かった。だからこの商店街の通りは、はるか昔から沼地に挟まれた台地の尾根を走る道だったんじゃないかな。「前地」という地名もそういうことに関係していそうだけれど、よく分からない。この道をずっと行くと「大谷場」「大田窪」といった低地を意味する地名もある。
商店街の脇道。
前地通り商店街がいちばん栄えたのは、おそらく高度成長以前。氷室とか自家製こんにゃくとか、僕らがガキのころには見かけたけど、その後はとんとお目にかからない。そういう店がちゃんと営業してるのが嬉しい。
浦和駅東口一帯は長いあいだ開発から取り残された住宅地で、都市計画上、旧浦和市の大きな「問題」だった。近くにスーパーもショッピング・センターもなく、だからこそ駅前といっていい立地なのに、こういう商店街が生き残ってこられたのだろう。夕方になると人通りが増え、近くに住む人が八百屋、肉屋、豆腐屋、パン屋と回って総菜を買ってゆく。
去年、浦和駅東口が再開発されてパルコがオープンし、地下にはスーパーもできた。高度成長期~バブル期と変わらぬ再開発の手法で、反対側の西口再開発で駅前商店街がシャッター通りになってしまった過去を少しも学んでいない。本当は地元商店街をどう生かしてゆくかを考えた再開発であるべきなのに。スーパーは商店街から歩いて5分ほど。人の流れも変わってゆくのだろうか。
April 06, 2009
March 31, 2009
浦和ご近所探索 別所沼の桜
浦和は全国でただ一カ所というサクラソウの自生地があるけれど、桜の名所は少ない。せいぜい別所沼と、そこから延びる遊歩道程度だろうか。どちらもここ20年ほどで植えられた若木で、あまり風情はない。この日も別所沼には何組もの花見客がいたけれど、僕はいつも素通りすることにしている。そこから200メートルほど離れた公園の片隅に2本だけ染井吉野の老木がある。
僕はこの老木が好きで、桜の季節になるといつもこの桜を見に足を運ぶ。この日もたまに散歩して立ち寄る人がいる程度で、花見客はいない。もっとも今年は樹木保護のためか、花の下での飲み食いはできないようロープが張られてしまった。
開花宣言のあと花冷えが続いているので、まだ3~4分咲きといったところ。
苔むした幹に花が直に咲いている。
March 21, 2009
March 15, 2009
浦和ご近所探索 日本茶喫茶
浦和駅近くの旧中山道に、古い商家建築のまま営業しているお茶屋さん(といっても「待合」ではなく文字通り茶葉を売る店)がある。その敷地内の納屋が改造されて日本茶喫茶「楽風(らふ)」になっている。
店舗の脇、かつては自宅の門だったらしいここが入口で、喫茶は奥の左手にある。
店には靴を脱いで入る。自宅の庭がそのまま喫茶店の庭になっている。
2階はギャラリーになっていて、写真展や陶磁器、草木染の展示会などイベントが開かれる。この日は、かつて一緒に仕事をしたこともある山本宗補さんの写真展「老いの風景 Part2」をやっていて(~3月17日)、久しぶりに顔を合わせた。納屋は明治24年建築だそうで、土壁を露出させた壁面が素敵だ。
今日は、ほうじ茶で一服。器もいつも吟味されている。近くに延喜式社の調神社(つきのみや)があり、そこへ散歩に来たとき寄るのが楽しみ。もっとも、わが家も和風建築に和風の庭、日本茶も好きなので、気分が変わらないのが難点。
February 17, 2009
より以前の記事一覧
- 浦和ご近所探索 新しい風景 2009.02.10
- 浦和ご近所探索 仕舞屋 2009.01.27
- 浦和ご近所探索 文化住宅・2 2009.01.14
- 浦和ご近所探索 文化住宅 2009.01.10





































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