July 10, 2021

金子隆一さんを悼む

Dsc00440-1

写真史家である金子隆一さんの訃報が新聞に出た。フェイスブックでは数日前から亡くなったとの情報が流れていたが、ご家族の意向で葬儀後の公表になったようだ。

金子さんにはじめて会ったのは1990年代、20年ぶりに『アサヒカメラ』誌に復帰したときのことだった。金子さんは既に日本写真史の第一人者として、また東京都写真美術館立ち上げの中心的なスタッフとして知られていた。そのときは雑誌編集者と執筆者という関係にすぎなかったが、親しくつきあうようになったのは雑誌部門から書籍部門に移り、念願の写真集『定本 木村伊兵衛』(2002、朝日新聞社)をつくったときからだった。

『定本 木村伊兵衛』では、木村伊兵衛の弟子である田沼武能さんとともに金子さんに監修をお願いした。「監修」というクレジットは名目的なものから実質的なものまで、本とのかかわりはさまざまだが、金子さんには編集の細部にいたるまで相談に乗っていただいた。なにしろ金子さんは東京都写真美術館の学芸員として500点の木村作品を収集し、その収蔵作品を基に「木村伊兵衛の世界」展を開いた実績がある。

そこでこの本でも収録作品の選定をお願いした。といって、写真美術館と同じでは意味がない。田沼さんから木村伊兵衛の全コンタクトを拝借し、一から写真選びをしていただいた。沖縄や秋田といった写真史に残る名作のコンタクトを一枚一枚眺めながら二人であれこれ語り合ったのは、今となっては至福の時間だったとしか言いようがない。そうして選んだ265点のプリントが出来あがり、新聞社の大会議室に並べたときの興奮は、はっきり覚えている。名作といわれる作品は網羅し、それ以外に読者がはじめて目にするだろう新鮮な写真も選んだ。だからこの写真集は、実質的に金子隆一選と言える。

そんなふうに金子さんを中心に、デザイナーで木村の盟友・原弘の研究家でもある川畑直道さん、年譜作成者の石井亜矢子さんという強力なスタッフに支えられてこの本は出来あがった。定価14,000円の写真集がほぼ完売したのも、写真集の出来もさることながら、まだそういう時代だったのだろう。黒字になったので、田沼さんも含め4人のチームで続けて『木村伊兵衛のパリ』『木村伊兵衛の秋田』、木村のエッセイ集『僕とライカ』を出すことができた。

金子さんとのつきあいは、別の場面でもあった。二人ともボランティアで日本写真協会の表彰委員会という部門に属していたからだ。毎年、その年の優れた作品や新人を選んで賞を差し上げる。そのために年に何回か集まって話し合う。なにか分からないことや困ったことがあると、金子さんに相談するようにしていた。するとあの穏やかな笑顔で的確なアドバイスが返ってくる。編集者として必ずしも写真専門ではなかったので、僕にとって金子さんはこちらの無知をさらして遠慮なく聞ける知恵袋のような存在だった。

最後にお目にかかったのは数年前、その年の外国関係の賞について意見を伺ったときだった。金子さんの自宅である谷中のお寺で、檀家の方や写真仲間と語らったであろう大きなテーブルのある和室で、資料を広げていろいろ教えていただいた。

その後、僕は病気をしたので会合に出席できなくなり、コロナ禍もあって金子さんに会うことはなかった。金子さんの体調が悪いことも知らなかった。こちらが病気をしたせいもあり、木村伊兵衛の本をつくる過程で手に入れた木村関係の資料は金子さんに託せば安心、と思っていた。それが、いきなりの訃報。取り残された気持が消えない。ご冥福を祈ります。

| | Comments (0)

June 29, 2021

yuuki君の『I'm fish』

Dsc00432-2

かつての仕事仲間Iさんが、中学1年の息子yuuki君の小学時代の絵を集めて小冊子をつくった。元単行本の編集者だから本をつくるのはお手のもので、タイトルは『I'm fish』。

収められている15点ほどはすべて魚の絵。yuuki君がゲームの「どうぶつの森」でメガネモチノウオという魚を釣り上げ、その青く複雑な模様に興味を持ったのが始まりだったという。yuuki君の絵を見ていくと、魚がどんどん複雑になり形を変えていく。食ったり食われたりしながら他の生きものとの境界があいまいになって、魚から海藻や植物が生えてたりする。たしか国際的な児童画のコンクールで賞をもらったこともあったんじゃないかな。

Iさんはクッキーづくりも玄人はだしで、バタークッキーやレモンケーキと一緒に送ってくれた。ありがとう。

| | Comments (0)

March 27, 2021

畑の土起こし

Img_1655


このところ事情があって忙しく、庭のミニ畑がほったらかし。春菊が周囲の草に埋もれてしまっていた。例年より遅くなったが、春菊を鍋のために採り、草を抜いて土を起こす。4月になったらいつも通りゴーヤとミニトマトの種を蒔き、今年はネギと枝豆をつくるつもり。

| | Comments (0)

February 09, 2021

病院で

Img_1596_20210209123201

通っている病院は改築工事中で、工事中の渋谷駅みたいに通路がよく変わりお年寄りがまごついている。昨日は窓の外のフェンスが取り払われて、はじめて工事現場が見えた。

| | Comments (0)

February 04, 2021

タイサンボクの葉

Img_1591

年が明けてはじめて都心に出て病院へ。正面入口にタイサンボクの大樹がある。巨大な花の季節はもちろん、冬も緑のままの大きく分厚い葉に強靭な生命力を感じていつも見入ってしまう。

| | Comments (0)

January 15, 2021

ホウレンソウがようやく

Img_1574


この冬はホウレンソウとシュンギクを育てているけど、種を蒔くのが遅れたので、なかなか大きくならない。冬で太陽が傾き、隣家や庭のカエデの影がミニ畑にかかっていることもある。年が明けて、ホウレンソウがようやく収穫できる程度になってきた。シュンギクは鍋の季節だというのに、まだ小さなまま。春まで大きくならないのか。

| | Comments (0)

January 07, 2021

モニカからの年賀

Img_1572

モニカから新年のグリーティング・カードが届いた。モニカは南米コロンビアからニューヨークへやってきた美術アーティスト。14年前にアメリカで一年間暮らしたとき、マンハッタンの語学学校で知り合った。当時20代半ばだったろう。英語を勉強しながら美術活動をしていて、一度彼女のスクラップブックを見せてもらったら、1ドルショップで売っているような日用品や新聞の切れ端に加工して日々の記録ふうな作品になっていた。

モニカと話すようになったきっかけは授業中の小さな出来事。そのとき彼女はアナイス・ニンの小説を持っていて、そのエロチックな表紙を見た若いクラスメートが「モニカがポルノを読んでる」と言い出し、何人もが「見せて、見せて」と教室中がうるさくなった。教師が困惑顔をしていたので、僕が「アナイス・ニンはポルノじゃないよ。ちゃんとした小説だよ(実はかなりエロチックではあるのだが)」と言ってその場は収まった。授業が終わった後、帰りがけにモニカとしゃべったら、シャーデーの曲とかポランスキーの映画とか好みが共通していて、それから時々話すようになった。日本へ帰ってきてからも、ニューヨークの彼女とフェースブックでつながっていたから折々にメッセージを交換していた。

去年、病気治療をしているあいだに自費で1冊の本をつくり、それをモニカに贈呈した。むろん彼女に日本語は読めないけれど、フランス装で装幀した本の手づくりな触感を気に入ってくれて、自分の作品を飾った部屋の机にディスプレイしたと、その写真をグリーティング・カードとともに送ってくれた。手紙にはもうひとつ、漁網をピンクに染めた「Cherry Blessings」というモニカの作品のポストカードが入っていたので、フレームに入れて本棚に飾った。その写真を彼女にメールで送ったら、さっそく「とても嬉しい」と返事が来て、そんなわけで今日は気分のいい日なのです。

 

 

| | Comments (0)

January 01, 2021

明けましておめでとうございます

Img_1568


明けましておめでとうございます。
今年は初詣に行けないので、浦和の氏神である調宮の神を祀ったわが家の神棚に挨拶しました。
このところ諸事情がありブログの更新もままなりません。
でも時間を見つけてなんとか続けたいと思っています。
よろしくお付き合いください。

| | Comments (0)

October 20, 2020

鬼海弘雄さんを悼む

Dsc00409

写真家の鬼海弘雄さんが亡くなった。

鬼海さんから携帯に電話がかかってきたのは6月17日のことだった。その日付をなぜ覚えているかというと、昨年秋に悪性リンパ腫が寛解した後、再発がないかどうか調べるため病院で定期検査を受けていたからだ。ちょうど会計を済ませたところに呼び出し音が鳴った。その数カ月前、抗がん剤治療中に自費出版した本を鬼海さんに送り、その中で病気について触れていた。

携帯を耳にあてるといきなり、「私、山崎さんと同じ病気なんですよ」と、いつもの鬼海さんの声が聞こえてきた。悪性リンパ腫は血液のがんなので手術はできず、抗がん剤治療が中心になる。聞くと最初の抗がん剤の効果がはかばかしくなく、別の薬を使って入院中らしい。といっても声の調子からは元気な様子で、同じ病気仲間としてエールを交換した。今年1月、渋谷での「や・ちまた」展に鬼海さんは病院から姿を見せたようだが、そのとき会えなかったので少し安心した。

鬼海さんから「トルコに行きたいんです」と相談されたのは、『アサヒカメラ』編集部にいた1996年の秋だった。『王たちの肖像』や『INDIA』に感銘を受けていたので、一も二もなく承知した。2カ月の取材のうち最初の1週間だけ、編集部のSさんに同行してもらうことにした。そのときの作品は1997年4月号に「アナトリア紀行」として16ページ掲載されている。Sさんは同行記で、鬼海さんのこんな言葉を記録している。「人を撮るには絶対的に相手を肯定しなきゃ。第三者になって分析するんじゃなくて、対象の中に自分自身が見えなきゃ、おもしろくない」。これは浅草を舞台にしたポートレートでも、インドやアナトリアのスナップでも、また東京の風景を撮っても共通する鬼海さんの基本的な姿勢だろう。

その後、暑くなったころにまた電話がかかってきた。声に以前より張りがないのは気になったけれど、「まだ写真集を2冊、つくりたいんですよ」と意欲は満々だった。出版社とも話がついたという。「1冊は東京の風景で、タイトルも決めた。あと少し撮りたせばできるんですけどね。早く東京を歩きたい」というのが、鬼海さんから聞いた最後の言葉だった。「そうしたらまたSさんと3人で、いつかみたいに神楽坂で飲みましょう」と約束したのだが、その約束も果たせなくなってしまった。合掌。

 

 

 

 

 

 

| | Comments (0)

September 02, 2020

クチボソ釣り

Img_1500-2


30分ほどの激しい雷雨がおさまったので高沼東縁排水路を散歩していたら、近くの人がクチボソ釣りをしていた。この排水路には50センチ以上の大きな鯉がたくさんいるけど、誰も手を出さない。悠々と泳いでいる。昔ながらの生態系が保たれているけど、ここから少し下流には誰かが雷魚を放したらしく、雷魚が繁殖してクチボソはいなくなったという。雷魚は姿かたちが気味悪いので、誰も釣ろうとしない。

| | Comments (0)

より以前の記事一覧