December 14, 2009

『チャイルド44』 旧ソ連の掟

Child44

このところミステリーにご無沙汰していたら、なんだか無性に読みたくなってきた。以前はハードボイルドや警察ものをけっこう読んだんだけど、本家のアメリカでもハードボイルドが下火になって面白い小説が少なくなった。今も新作が出るとすぐ読むのはマイクル・コナリーくらい。

新幹線で大阪へ往復する仕事もあったので、車中で読もうと選んだのがトム・ロブ・スミス『チャイルド44』(上下、新潮文庫)。作者のデビュー作だけど、去年の「このミス」で1位になっている。ローレンス・ブロックの訳者・田口俊樹の訳だから、はずれないだろうとの読みもあった。

いちばん惹かれたのは、スターリン時代のソ連を舞台にしていることだ。旧ソ連を素材にしたミステリーといえば『ゴーリキー・パーク』や『レッド・フォックス』が記憶に残るけど、秘密警察と密告者の網が隅々まで張られた社会は、それだけでミステリーの要素をたっぷりはらんでる。作者がイギリス人というのも納得がいく。ナチス時代を舞台にしたフィリップ・カーの「ベルリン三部作」のように、近過去に材を取った歴史ミステリーの流れがある。

こういう小説は「入り」が勝負だね。プロローグで、どう読者を小説の空気に引っ張り込むか。1933年のウクライナ。飢餓で全滅しそうな真冬の村。近所の飼い猫を捕らえて食べようと森に入った兄弟が、逆に「獲物」として狙われ、離れ離れになってしまう。寒くて、飢えて、全員が全員の敵である世界。

物語は一転して20年後のモスクワになる。主人公レオは国家保安省の捜査官。スパイ摘発に失敗して田舎の民警に左遷され、少女惨殺事件に遭遇する。捜査するうち、広範囲で同じ手口の事件が数十件起きていることを知り、レオはそれが同一犯の犯行であることを確信する。

本文の合間に、ソ連社会に生きる掟や登場人物の独白が書体を変えて挿入されるのが効いている。

「この社会には犯罪は存在しない」(犯罪は存在してはならない。理想社会なのだから)
「自分たちが信用する者たちこそ調べるべきだ」(スターリンの言葉)
「職員は鍛錬し、自らの心を無慈悲にしなければならない」(秘密警察の祖、ジェルジンスキーの言葉)
「きみの名前を覚えていれば、いずれきみを糾弾することができる」
「それが夜眠れるようにするためのあなたのやり方なの? その日起きたことを記憶から消し去るというのが」(レオの妻でスパイ容疑をかけられたライーサが、妻を調査している夫の寝姿につぶやく言葉)

友人や家族ですら、いつ告発しあうことになるか分からない社会の恐怖と緊張が小説を貫いている。ミステリーの探偵役はいつも単独行動だけど、この社会ではそれもご法度だ。「それ(単独行動)は国家が定めたシステムが機能しなかったことを意味し、場合によっては、国家にできなかったことを個人が成し遂げてしまうかもしれないからだ」。後半、逃亡して単独行動するレオを助ける村人たちが登場して、この暗い社会のなかにも一筋の灯りが灯っていたことを暗示するのも気持ちいい。

少年少女の大量惨殺事件は、1970~80年代に実際に旧ソ連であった事件を過去に移しかえている。そこに「カインとアベル」的な兄弟物語を重ね、身内の敵対者を倒すことでスパイ容疑と国家への忠誠が紙一重で逆転するどんでん返しが繰り返されて、これは面白いぞ。

続編も翻訳されてるみたいだけど、この結末は初めからそのつもりで書かれたんだろうか。妻をスパイと疑ったレオと、夫の権力を恐れて結婚したと告白したライーサの夫婦は、続編ではどういうコンビになっているんだろう。最初悪役として登場した田舎の民警署長ネステロフは、レオの相棒になりそうだ。

この小説、リドリー・スコット監督で映画化されるらしい。楽しみだな。


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November 19, 2009

近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』

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「アッツ島玉砕」(『藤田嗣治展』図録<2006、NHKなど刊>から)

近代日本の洋画というやつに心を動かされたことがない。高校時代にブリジストン美術館で初めて見た青木繁「海の幸」とか画集で知った岸田劉生「切通しの写生」とか記憶に残ってるものもあるし、その後熱心に日本人の洋画を見たわけでもないので他人に同意を求めるつもりはないけど、個人的経験としてはそうだ。

そのほとんど唯一の例外が藤田嗣治「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」。3年前の藤田嗣治展(国立近代美術館)で見て、その異様な迫力に、立ちどまったまましばらく足を動かすことができなかった。ともに2メートル×3メートル近い大作。悪名高い戦争絵画である。

それ以来、藤田の戦争絵画が気になっていたけど、だからといってなにか調べたわけでもない。4日ほど前、散歩の途中に寄った古書店で近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』(講談社文庫)を見つけて買った。著者はNHKのディレクターで、「空白の自伝・藤田嗣治」などの番組をつくった人。この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。

戦後、「日本に捨てられ」(藤田の言葉)、フランス国籍を取って日本を捨てた藤田は、亡くなってからも日本で大規模な展覧会が開かれたり画集が出版されることはなかった。それらを拒みつづけた未亡人と、著者は15年ものあいだ接触して番組をつくり、それが僕が見た回顧展開催につながった。

この本は残された藤田の日記や未亡人の談話、未発表の自伝などをふんだんに使って、彼の生涯を追っている。

パリで名声を得た藤田が2度と帰らないと誓った日本に戻ったのは1933年、2.26事件の年だった。南京虐殺があった翌年の1938年、軍部は美術家の戦争協力を求め、戦意高揚を目的とした戦争絵画の制作がはじまる。藤田もこれに応じた。

藤田がノモンハン事件に取材して1941年の「聖戦美術展」に発表した「ハルハ河畔戦闘図」は、「日本に油絵が入って以来の最大なる作品」と絶賛され、藤田は「聖戦美術の巨匠」と呼ばれるようになる。生涯で初めて日本画壇に受け入れられた藤田は、戦争画に傾斜していく。

僕が見た「アッツ島玉砕」は、藤田の戦争画の代表作。近藤が「ただ『死』だけが画面を支配する地獄絵」と描写するように、日本兵とも米兵とも定かでない戦士が銃剣をかざして殺し合い、死体が重なりあっている。異様に暗い画面の背後には、雪を抱いた山々がそびえている。少なくとも、この画を見て「戦意高揚」する人間は誰一人いないだろう。

藤田は、青森の巡回展で見た光景について記している。年老いた男女がこの絵の前に「膝をついて祈り拝んでいる」、また「御賽銭を画前になげて画中の人に供養を捧げて瞑目していた」と。絵画愛好者でもなんでもない、でも家族や友人を戦場に送った普通の人々に訴えるものを、この絵はもっていた。しかもお賽銭をあげ、祈り拝むという宗教的な所作を引き起こすなにものかを。

戦後、藤田は戦争画を描いた代表として責任を負うよう、画壇のなかで追及される。GHQが画家の戦争責任を追及することはなかったが、再び裏切られた(というのは、パリで名声を得たとき、画壇の反応は異国趣味を売り物にした宣伝屋だと冷ややかだった)と感じた藤田は日本を捨て、カソリックに改宗してフランスに永住することになる。老年の藤田は、少女の絵とともに宗教画に熱中した。

そんな藤田の生き方や、絵を前にした人々の反応からして、「アッツ島玉砕」は戦争画というより宗教画、鎮魂の図だったんだろうな。いずれにしても、作者の行為の是非や正義不正義の20世紀的問題設定が無意味になるかもしれない遠い将来、この絵は近代日本の絵画を代表する作品になるような気がする。

とはいえ、藤田が戦争に協力した事実は残るし、藤田を含めた画家(だけでなく芸術家)の戦争責任の問題は、戦後半世紀以上たつのにまだきちんと議論されていない。

十数枚ある藤田の戦争画のうち藤田展に出品されたのは5点だけだし、米軍が集め、後に日本に「永久貸与」された藤田、藤島武二、中村研一、川端龍子、橋本関雪、宮本三郎、小磯良平、向井潤吉らの戦争画が国立近代美術館に大量に眠っている。

ぜひ「戦争美術展」をやってほしい。大部分は作品として見るに耐えないものかもしれないけど、戦争期にこういうものがあったときちんと公開するのは公的施設の義務のはずだ。関係者のほとんどが亡くなった今、感情的な、あるいはイデオロギー的な反応から離れて、絵そのものにきちんと向き合えるはずだから。

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October 29, 2009

『ユリイカ臨時増刊 ペ・ドゥナ』

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長いこと雑誌編集者をしていたのに、最近、雑誌に魅力を感じることが少なくなった。多いときは4冊ほど定期購読していたのに今ではゼロになったし、本屋へ行っても、雑誌売り場であれこれ覗いて面白そうなのを予算オーバーなのについ買ってしまう、そんなことが少なくなった。近頃の雑誌に魅力がなくなったのか、こちらのアンテナが錆びついたのかは分からないけど、中身が薄い、買って損した、とがっかりする経験が続いたことは確かだ。

久しぶりに、わくわくしながらレジへ雑誌を持っていったのが『ユリイカ臨時増刊 ペ・ドゥナ』。「『空気人形』を生きて」というサブタイトルがついて、1冊206ページがまるごとペ・ドゥナ特集に当てられている。

彼女が主演する『空気人形』公開に合わせての発売。24ページをカラーにして定価1300円ということは、1万5千から2万部くらい刷ったんだろうか。ペ・ドゥナはいわゆる韓流スターの人気者でははないけれど、コアなファンはそれなりにいる。僕も映画を見にいったし、そもそもペ・ドゥナのファンだから、まさしく『ユリイカ』の狙う読者ターゲットだったわけだ。それにしても現代詩の雑誌が女優をテーマにまるごと1冊特集するとは、それだけでもえらい。

ペ・ドゥナへのインタビュー、『空気人形』スチールと撮影現場でドゥナ自身が撮ったスナップ、『空気人形』の是枝裕和監督と『リンダ・リンダ・リンダ』でドゥナを使った山下敦弘監督の対談、そして野崎歓、宇野常寛ら12人の論者によるペ・ドゥナ論、フィルモグラフィーと、この手の別冊としてはまず王道をいく構成。

いちばん面白いのは是枝・山下両監督の対談だったな。2人はそもそも彼女の熱烈なファンなんだね。そこから出演の話が始まった。現場では2人とも「すげえなあ」「可愛いなあ」「キッとにらまれて、すごく怖かった(笑)」「もう完敗」と、めろめろ。そんなふうにヒロインを立てながら、「身体のコントロールが完全にできてる」「プロフェッショナル」とペ・ドゥナの凄さをきちんと見つめてる。

あとは野崎歓の、「なまめかしすぎるペ・ドゥナに、共感ではなく欲望を、友情ではなく恋情を覚えかねない自分を発見」するドゥナ論、彼女が出演した映画ばかりでなく韓国のテレビドラマまで丁寧に追った木村立哉、韓流ドラマのなかのドゥナの立ち位置と韓国の社会状況との関係を考えた田中秀臣のエッセイが読ませる。

不満もある。肝心のドゥナ・インタビューが短すぎることだ。公開前のプロモーションで来日したときのインタビューで、小生も経験があるけど、プロモーションは取材がびっしりつまっていて1時間くらいしか時間をもらえない。写真撮影もあるから、話をできるのはどんなに頑張っても40~50分。通訳が入ると、実質はもっと短くなる。新聞の短い記事や雑誌の1ページ程度ならなんとかなるけど、増刊の目玉としてはつらい。

ここは2~3時間、あるいはもっと長時間のロング・インタビューで、『空気人形』だけでなく他の作品や、女優としての道筋、バックグラウンドをじっくり語らせてほしいところだ。今は北海道や沖縄へ行くよりソウルへ行くほうがカネも時間もかからないんだから、段取りさえきちんとすれば可能だったと思うけど。『ユリイカ』なら、そのくらいの期待をしてしまう。

あと、『ユリイカ』らしく現代思想ぽい言葉遣いのエッセイが並んでいるけど、どれも同じような感触で、読んでいて飽きがきた。インタビュアーでもある宇野のエッセイ1本あればいい感じ。その代りに、例えば韓国の書き手を探してほしかったな。もうひとつ。映画のなかの重要なシーンで吉野弘の詩が引用される。詩の雑誌なんだから、そっちの視点もほしい。

などと、ないものねだりしたけど、久しぶりに雑誌の面白さを堪能しましたね。


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August 08, 2009

『虹色のトロツキー』再読

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田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(岩波新書)を読んだ。

詳しくは書評「ブック・ナビ」(LINKS参照)の9月分で書くつもりだけど、日ソだけでなく、ノモンハン戦争(「事件」ではなく「戦争」と田中は書く)のもう一方の当事者だったモンゴル人の視点からこの歴史的出来事を追った刺激的な本。読了後、安彦良和の『虹色のトロツキー』をもう一度読みたくなって本棚から引っぱり出した。

『ノモンハン戦争』を読んだ後で『虹色のトロツキー』を読むと、日本とモンゴルの混血青年ウムボルトを主人公にしたこの傑作マンガの背景が実によくわかる。20年近く前に書かれたこの作品がどれだけ綿密な調査に基づいていたか、そしてソ連崩壊、中国でのチベット、ウイグルの反乱という事件を経た後でも、その基本的な立ち位置がまったく色あせていないことに驚く。

『ノモンハン戦争』が明らかにしているのは、満州国のモンゴル人はブリヤート系で、その多くは革命ロシアから逃れてきた白系モンゴル人であることだった。彼らは古くからロシア文明に触れ、近代的な民族思想をもっているインテリも多かった。

ノモンハン戦争は表向きは満州国とモンゴル人民共和国の国境紛争だった。当時、満州国は日本の傀儡、モンゴル人民共和国はソ連の傀儡だったから、実質は日本軍(関東軍)とソ連軍の戦いになった。そのなかで満州国のモンゴル人は、戦争相手であるモンゴル人民共和国のモンゴル人とも連絡を取り、日本やソ連を利用もしながら反漢汎モンゴル独立運動を進めていた。

主人公ウムボルトは、関東軍将校で謀略活動に従事する日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたという設定になっている。「五族(日中朝満蒙)共和」を実現するために創設された建国大学に石原莞爾の手で送り込まれたウムボルトは、日本とモンゴルに引き裂かれたアイデンティティに苦しみ、ことあるごとに自分を「日本」から引きはがしモンゴルに同一化しようとする。

そんなウムボルト像の背後に田中克彦描くブリヤート知識人を置いてみれば、日本支配に反発しながらも満州国に反漢反ソ独立の夢を託そうとしたモンゴル系青年の濃密なリアリティに裏打ちされていることが分かる。満州国高官という地位を利用して独立を企てた実在のウルジン将軍も重要人物として登場する。

国家と民族が複雑に絡んだ当時の東アジア情勢や、「敵の敵は味方」という政治の論理からすれば、このマンガの壮大な設定──スターリンに粛清されたトロツキーを建国大学に招聘し、満州国の亡命ユダヤ人、シベリアのユダヤ人と結んで反乱を起こし、ソ連との戦争にもちこもうとする石原莞爾の陰謀──も、どれほどの現実性があったかはともかく、まったくの荒唐無稽とはいえない。

ウムボルトはその陰謀の駒として使われ、歴史の渦に翻弄されるわけだが、彼の恋人・麗花のバックグラウンドも複雑だ。中国名を名乗っているが、彼女は満州ツングース系シボ族の父とウイグル族の母から生まれた混血のコミュニスト(中国共産党でなくコミンテルン系)として設定されている。

ウイグル族の母という設定は、当時、トロツキーが新彊ウイグルと国境を接したアルマアタに流刑になっていた事実をストーリーに利用するためだろう。ウムボルトは、新彊ウイグルに行ってトロツキーに連絡するよう命令を受けたりもする。実際に物語はそうは運ばないが、もしウムボルトと麗花が新彊ウイグルに行ったらどんな展開になっていたのか、ものすごく興味があるところだ。

『虹色のトロツキー』はノモンハンの戦場でウムボルトが傷つき、突然のように終わってしまう。作中のトロツキー計画にも麗花との愛の行方もまだ決着がついていないように思えたから、読者の誰もが驚いた。作者もここで終わらせていいのか、迷いに迷ったようだ。

もしウムボルトがノモンハンの戦場で死なず、まだ物語がつづくとしたら、どういう展開が考えられるのか。楽しみつつ考えてみた。

(1)ウムボルトは最終巻で、たった一人戦場を離脱するようにして死んでいった。これは、モンゴル独立を夢見ながら関東軍の駒として働かざるをえず、日本とモンゴルに引き裂かれたままだった人格の死を意味する。生きかえったウムボルトは、麗花とともに満州国の反漢反日武装ゲリラのリーダーとして転生し、関東軍に復讐戦を挑む。

(2)満州国にいられなくなったウムボルトは、麗花とともに彼女の故郷、新彊ウイグルへ脱出する。麗花はそこでウイグル族独立運動のリーダーとなり、ウムボルトは麗花の影の参謀として生きる。

(3)ノモンハンを生き延びたウムボルトは満州国軍のモンゴル族部隊の長となる。1945年8月、ソ連軍が満州国に侵攻するさなか、高校時代の友人で麗花の元恋人でもあったコミンテルン系コミュニストのジャムツと、戦場で敵同士として再会する。ウムボルトとジャムツは互いに銃を向けあい……。

(4)満州国崩壊を生き延びたウムボルトと麗花は中華人民共和国の人民として、内モンゴル自治共和国で過去を隠しひっそり生きる。胸にモンゴル独立の火を抱えたまま、ラスト・エンペラーのように文革をも生き延びて往生する。ウムボルトと麗花の息子は、内モンゴル独立を志す反政府運動の闘士に成長する。

どのシナリオがいいだろうなあ。

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February 05, 2009

桐野夏生浸り・5

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(『out』ドイツ語版)

桐野夏生の小説にはしばしば「毀れる」「壊れる」といったキーワードが出てくることを書いた。

村野ミロ・シリーズの第2作『天使に見捨てられた夜』には、その言葉こそ出てこないけれど、彼女の小説の主人公が「毀れる」とはどういうことかを暗示するシーンが出てくる。

行方不明のアダルト・ビデオ女優探しを依頼されたミロは、ビデオ制作会社の社長で魅力的な肉体をもった矢代と出会う。ミロは矢代にレイプまがいの脅しを受け、彼が女優の行方不明に絡んでいるかもしれないのに、結局は男の魅力に負けて関係をもってしまう。

その展開は、主人公の探偵が女に設定された「逆ハードボイルド」だから、読んでいて、おやおやとは思うけれど、ハードボイルドというジャンルにとっては「お約束」のうちとも言える。探偵が調査を続けるうちに、魅力的な女に出会う。探偵と女はいい感じになり、時には寝てしまう。

斎藤美奈子サンが喝破したようにハードボイルドが「男のハーレクインロマンス」である以上、そのストーリはしばしば男の通俗的な夢をなぞることになる。だから、これはありうる展開だ。そしてそのエピソードは、男にとっては「一瞬の夢」とか「束の間のアバンチュール」にすぎず、女が実は事件の犯人だったりして、物語の終わりに探偵が噛みしめる苦さをいっそう増すための香辛料として処理される。

ところがこの小説では、ミロが調査対象の男と関係を持ってしまったことが「一瞬の夢」「束の間のアバンチュール」として処理されることはない。

ミロはその後、徹底した屈辱を受けることになる。その関係を刑事に知られ、「仲良しさん、か」「あんたら女はいいねえ。からだ張って調査できるもんね」と薄ら笑いを浮かべた軽蔑を受ける。それだけでなく、やはり調査探偵の父親や、彼女が思いを寄せるゲイの男友達にまで知られてしまう。主人公の颯爽とした格好よさは地に落ちる。

なぜ桐野夏生はミロをここまで屈辱にまみれさせるのか。これは明らかにハードボイルドの「お約束」をはみ出している。読者にしてみれば、「お約束」で成り立っているエンタテインメントに安心して身を委ねていたら、いきなりその快さをぶち壊されたようなものだ。実際、この部分は発表後にファンの間で議論になったらしい。

桐野夏生が「毀れる」「壊れる」という言葉を使うのは、小説によって明示されていることも暗示にとどまる場合もあるけれど、たいていこういうシチュエーション、あるいは体験を指している。

一言でいえば、社会とか世間というものの掟に違反してぶちのめされ、屈辱を受け、人格がどこか深いところで変わってしまうことを、「毀れる」「壊れる」と表現しているように思う。桐野の小説で「毀れる」のはたいてい女性であり、しかもそのシチュエーションには性が絡んでいることが多い。

『天使に見捨てられた夜』は全体としては「お約束」にのっとったハードボイルドだから、ミロは屈辱に耐えて調査を続け、事件を解決する(結末は、ロス・マクドナルド以来の「家族の秘密」ものを踏まえた鮮やかなもんです)。

ではハードボイルドの「お約束」から自由になった他の作品で、「壊れた」主人公たちはどうなっていくのか。

『グロテスク』の語り手である「わたし」は、コンプレックスを抱いている「美人の妹・ユリコ」、高級娼婦から街娼におちぶれて殺された妹に対して嫉妬と憎しみの言葉を全編にわたって吐きつづけている。社会的には区役所勤めの、どこにでもいる平凡な女である「わたし」は、でも最後の章に来ていきなりそんな内面の「毀れ」を行動に表わす。

妹の息子で盲目の美少年・百合雄とともに、街娼として渋谷の街角に立つことになるのだ(皮肉なことに百合雄にばかり客がつくのだが)。初めてラブホテルの門をくぐりながら、「わたし」は内心でこうつぶやく。

「これから起きることを想像して心臓は激しく打っていましたが、それを上回る感情と意志がわたしを支配していたのです。わたしを侮り始めた百合雄に対する憎しみとわたしも変わりたいという欲望でした。わたしは男の体重に喘ぎ、優しさなど微塵もない男の愛撫を受けながら、きっとこう思うでしょう。和恵(注・同級生。殺された街娼)は醜くなった自分を晒し、そんな自分を男に買わせることによって、自分に、そしてこの世に復讐していたのだと。今、わたしも同じ理由で身を売るのです」

「一度落下してしまえば、その後の道行は案外、楽しいのかもしれません。……だとしたら、憎しみも混乱もすべてを背負って、船出いたしましょう。わたしも怖れずに参ります。まあ、わたしの勇気を称えて、あちらで、ユリコと和恵が手を振っているではありませんか」

区役所勤めをしている女が街娼になる。妹のユリコや同級生の和恵(「東電OL殺人事件」の被害者をモデルにしている)と同じ道筋をたどって社会的な網からこぼれ落ちた「わたし」は、小説のなかで初めての解放感を味わっている(斎藤美奈子サンも文庫版解説で「爽快」「不思議な解放感」という言葉を使っていて、小生の感じ方もあながち間違いではなかったと嬉しくなった)。その解放感は、この件で使われる別の言葉でいえば「意志」的に実現した「変わりたいという欲望」から来ている、ということになるだろうか。

『out』のラストシーンはこうなっている。

ばらばら殺人事件の犯人と間違えられた男・佐竹は、死体処理を実行した雅子を追いつめる。佐竹には快楽殺人を犯した過去がある。「毀れて」いる雅子は、いつか佐竹に出会い、滅ぼされたいと願うようになる。2人は物語の最後で出会う。佐竹は雅子を拉致し、深夜の廃工場で乱暴するが、2人の間には愛とも憎しみともつかない奇妙な感情が生まれる。

「雅子は佐竹と自分の不思議さを思い、自分の中で動く佐竹にもっと強い意志的な憎しみを抱いた。……何とかこ男をこの刃で貫いてやりたい」

雅子は一瞬のすきを突いて佐竹の頬をえぐり、死にゆく佐竹とこんな会話を交わす。

「『死なないで』雅子は静かに言った。
『自由になろうぜ』佐竹がつぶやいた。
『うん』
佐竹が腕を伸ばし、雅子の頬にそっと触れた。その指の先は冷たかった」

佐竹が死んだ後、ラストシーンで雅子はこうつぶやく。

「佐竹とも、ヨシエや弥生(注・犯罪の仲間)とも違う、自分だけの自由がどこかに絶対にあるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない」

ここでも「意志的」という言葉が使われている。雅子の行動は制御できない感情の結果でなく、あくまで「意志的」なものとして描かれている。また「自分だけの自由」という言葉が使われている。

『グロテスク』の「わたし」も、『out』の雅子も、物語の最後に来てすっくと立ち上がる。社会や世間の網の目からこぼれ落ち「壊れた」主人公たちが「自分だけの自由」を求めて「意志的に」立ち上がる。もっともそれは社会的に見れば、「わたし」は街娼になったということであり、雅子は殺人・死体損壊遺棄犯として逃亡するということである。

言葉にしてしまえば「意志」とか「自由」という単語になるけれど、それらの言葉を背後から支える感情の深さを、桐野はそこへ来るまでに、これでもかとばかりに描いている。だからこそ読者は主人公の最後のすっくとした立ち姿に解放を覚えるのに違いない。

主人公たちは売春や犯罪に加担するわけだけれど、主人公のなかにも、それを描く作者のなかにも、社会秩序をつくる法への意識が微塵もない。イデオロギー的な反体制というのではなく、法の規範意識や世間の「お約束」がきれいさっぱり消えうせているのだ。そこにひっかかると、もしかしたら主人公の解放感を共有できないのかもしれないが。

桐野夏生の読者に女性が多いのは、作者が女性だというばかりでなく、売春や犯罪とまではいかなくとも、女性が世間の掟にそむいて屈辱を受け「壊れる」体験が、大なり小なりこの社会のありふれた出来事だからだろう。だからこそ、屈辱の底から立ち上がる主人公に共感を覚えるのだろう。

最後に桐野夏生の想像力について。

彼女の小説は、何度も書いたように「東電OL殺人事件」とか少女誘拐・長期監禁事件とか、実際に起こった事件に素材を求めることが多い(『東京島』も戦争中に起こった事件をヒントにしている)。

でもそれはあくまで素材で、小説の中身は現実の事件とはかけ離れ、事実を追うのではなく妄想に妄想を重ねたものになる。それは作家の想像力なんて整除された言葉ではなく、桐野夏生は事件の当事者に憑依するのだ、とでも言いたくなる。まるで殺された女に憑き、その女になりかわって語りつづける巫女みたいに。

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February 01, 2009

桐野夏生浸り・4

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(『out』タイ語版)

桐野夏生の書くものは今ではミステリーでない小説のほうが多いけれど、ミステリーで賞を受け、ベストセラーになったから、ミステリー作家という印象が強い。実際、『out』と『柔らかな頬』は日本のミステリーからベストを選べば共に入ってきそうな傑作だ。でもそれ以前のハードボイルド小説を別にすれば、ミステリーらしいミステリーはこの2作しか書いてない。

そして改めて考えてみると、2作ともハラハラどきどきの連続であるにもかかわらず、普通に言われるミステリーの約束事というか、ルールにのっとっていないことに気づく。

ミステリーには定型があって、まず冒頭で何らかの事件が起こり、何らかの謎が提示され、最後にその謎が解かれ、犯人が名指されたり、何らかの解決を見ることによって終わる。その過程が読者を面白がらせ、カタルシスをもたらす。

ところが『out』も『柔らかな頬』も、事件は最後まで解決しない。

『柔らかな頬』は、北海道の別荘地で幼女が行方不明になることから始まる。幼女の家族と、もうひとつの家族がからみあってストーリーが展開し、読者は物語を追いながら誰が幼女をなぜ、どのように誘拐したのか、あれこれ想像をめぐらすことになる。

ところが最後の「謎とき」に当たる部分に来て、いきなり行方不明の幼女の告白が出てくる。そしてそれを読んでも、誰が幼女を誘拐した犯人なのかはっきりしない。事件の真相がはっきりしないまま、小説は終わる。そして読後感は、犯人が分からないままのほうが、いや分からないからこそ登場人物それぞれの切なさが心に残る。

『out』も同じようなものだ。主婦の弥生が夫を殺してしまい、仲間の雅子たちが協力して死体をばらばらにして処分する。読者は雅子たちの行動を追いながら、このバラバラ殺人事件が、どこで破たんするのかをはらはらしながら見守ることになる。

ところが前に書いたように、小説は途中から大きく方向転換してしまう。殺人犯の弥生は、犯人と間違えられた男に保険金を盗られるものの警察からは見逃されたままだし、死体損壊・遺棄犯の雅子はいろいろあった末に物語の最後で颯爽と旅立つ。つまり社会的に見れば、事件は解決しないまま小説は終わる。

しかも『out』も『柔らかな頬』も複数の人物の視点が登場し、その視点ごとに事実が異なっているために、読者は本当のところ何が起こったのかが分からない。事実が確定されないために、「真相」とか「真実」というものが意味をなさない(この手法が全編に効果的に用いられたのが『グロテスク』)。

2作ともミステリーの常套的なルールに従っていないわけで、これはむろん桐野が意図したことだ。

『out』『柔らかな頬』以前に桐野が書いたハードボイルド小説でも、ハードボイルドの「お約束」が彼女には不自由で、拘束されるものと感じられたに違いない、と書いたけれど、もっと広いミステリーの分野に進出しても事態は同じだったらしい。桐野がミステリーを2作しか書かず、しかもそれがミステリーの定型的な「お約束」を逸脱したものだったことが、それを示していないだろうか。

もうひとつ、彼女の小説を読んで感ずることがある。

ミステリーは、読者をハラハラどきどきさせることで満足感を与えるエンタテインメントだ。では僕らは何をめぐってハラハラどきどきするのか。読者がミステリーを読んで期待するのは、例えばある犯罪が主題とされたとき、その犯罪がどのような形で行われ、犯人が誰で、結局はそれがどのように露見あるいは解決するのか、ということだろう。

読者がなぜハラハラどきどきするのか。僕の考えでは、読者はストーリーを追いながら、それと明示されているわけではないが物語の奥に引かれた何らかのラインを巡って心が動揺するからだと思う。そのラインは、いろいろな形でありうる。例えば男と女の愛と憎しみのラインとか、社会的役割の責任と逸脱をめぐるラインとか。

でもミステリーでいちばん使われるのは、法の遵守と逸脱をめぐるラインじゃないだろうか。典型的なのは刑事を主役や重要な脇役に据えた小説で、何らかの事件が起こり、刑事がそれを調べるなかで犯人を見つけ、謎を解く。

読者はその過程でハラハラどきどきするわけだけど、そのときハラハラどきどきを生じさせるラインは何かといえば、読者の無意識に内面化された法というものだと思う。感情移入した主人公が法を犯しているなら、読者はそれがいつ露見するのかとはらはらする。そのとき、読者はそう思っていなくとも、意識下では法という規範が働いている。

ところが桐野夏生の小説では、ハラハラどきどきを生じさせるために読者の意識下の法を使うということをしない。『out』で主人公の雅子が逃げるのは、法の執行者である警察からではなく、彼女らに復讐しようとする殺人者からだった。

『柔らかな頬』でも、物語のハラハラどきどきは、行方不明になった幼女の母親と、彼女と不倫の関係にある男とその妻との心理的な葛藤から来ていた。小説の後半で元刑事が母親の娘探しに協力するかたちで登場するけれど、元刑事は病気で余命を宣告された身であり、もはや法を執行することに何の情熱も持っていない。

だいたい桐野夏生の小説は、ハードボイルド、ミステリー、あるいは「東電OL殺人事件」や少女誘拐・長期監禁事件といった犯罪を素材にした小説でも、警察官が主要な登場人物として描かれることがほとんどない。どんな事件や犯罪も、法の執行者がそれを調べ暴くという展開にはならず、法というものをほとんど意識させずに物語られてゆく。

そういえば、正月の新聞で桐野と分子生物学者の福岡伸一が対談していたとき、彼女はこんなことを言っていた。

「法律とは感情を整理する道具でありシステムだそうですね。でも……法律の網目から落ちていくものをどうするか、どう折り合いをつけるかというのが、小説の本質かもしれません。……是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していくことが面白いし、大事だと思います」(朝日新聞、1月5日付)

「是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していく」。そう言う彼女の立ち姿は明快で、颯爽としている。

桐野夏生の小説はハードボイルドの「お約束」を逸脱し、ミステリーの「お約束」を逸脱し、作者や読者の心のうちにある法という「お約束」も逸脱して物語られてゆく。彼女のジャンルからジャンルへの移り行きは、そういう逸脱の繰り返し、束縛からの逃走として読めるのだと思う。

そしてそういう桐野のありようは、当然のことながら彼女が描く小説の主人公たちにも投影されている。と、ここまできて、彼女の小説が不安や嫉妬や憎しみに満ちているのになぜ読後に解放感があるのか、がようやく分かってくるような気がする。

(付記:このエントリー、『out』も『柔らかな頬』も手元になく、1カ月以上前に読んだ記憶で書いたので、間違いがあればご容赦を)

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January 31, 2009

桐野夏生浸り・3

Out_
(『out』ノルウェー語版)

それまでジュニア小説を書いていた桐野夏生が初めてミステリーを書いて江戸川乱歩賞に応募し、見事に賞を獲得したのが『顔に降りかかる雨』(1993)だった。主人公は女探偵の村野ミロで、以後、桐野はミロ・シリーズの続編やミロの父親を主人公に据えた作品で「女流ハードボイルドの旗手」と呼ばれる存在になる。

そんな評判にもかかわらず、彼女はハードボイルドの世界に長くはとどまらず、もっと広い場所へ出てゆく(ずっと後にミロ・シリーズが書き継がれるが)。そこで生まれたのが『out』(1997)、『柔らかな頬』(1999)といった傑作ミステリーだった。

日本のミステリーとして初めてエドガー賞にノミネートされ(『out』)、直木賞を受賞し(『柔らかな頬』)、高い評価とたくさんの読者を得たにもかかわらず、しかし桐野の小説はさらに変貌をとげて、もはやミステリーとも呼べないような作品へと変わってゆく。それは『玉蘭』(2001)を経由して、『グロテスク』(2003)で花開くことになる。『グロテスク』は見方によってはミステリーとも言えるし、そうでないとも取れる境界線上の作品かもしれない。

前のエントリーで、桐野夏生の小説が不安や嫉妬や憎悪に満ちているのに、読後にある種の解放感があるのはなぜかを考えてみたいと書いたけど、そこへ至る回り道として、彼女の書く作品がジャンルからジャンルへと移り行く、その経過を見てみる。

ハードボイルドはミステリーの一ジャンルだけど、ひとことで言えば「お約束」の世界である。

主人公は私立探偵か警官。事件が起き、主人公が調査に乗り出す。謎がある。ファム・ファタールを思わせる魅力的な女性が登場する。疑似恋愛。やがて謎が解かれ、真相が明らかになり、意外な犯人が判明する。残るのは、主人公の苦い思い。

ざっとこんなところが基本的な「お約束」だろうか。物語が主人公の一人称で語られることも多い。しゃれた会話と、舞台装置として都会的なファッションやジャズ。どの作家も、こういう「お約束」をベースに、そのなかでなんとか新味を出そうと知恵をしぼる。

時に「お約束」を裏切ったり、パロディにしたりするのも、あくまで「お約束」の掌のうちにある。読者も「お約束」を承知しているからこそ安心して、快く小説に身をゆだねることができる。

桐野夏生の『顔に降りかかる雨』や『天使に見捨てられた夜』『水の眠り 灰の夢』も、こういう「お約束」の上に成り立っている。彼女の場合、書き手も主人公も女性で、「お約束」の男女の役割がひっくり返されるのが新鮮だった(アメリカではたくさんあるけど)。読者にも女性が多かったらしい。

僕が読んだ3作はどれもよくできた、楽しめる小説に仕上がっている。主人公の村上ミロが魅力的だし、事件も1990年代の社会風俗をうまく取り入れている。『水の眠り』では資料を調べて1963年の東京、オリンピックと高度経済成長を目前にした東京(とりわけ銀座)の雰囲気が鮮やかに再現されている。いま読んでも上等のエンタテインメントだね。

ところで、ハードボイルドの「お約束」の上に成り立つ快さの正体をずばっと指摘した人が、僕の知るかぎり二人いる。

一人は『要塞都市LA』(青土社)を書いたマイク・デイヴィス。この本はロサンゼルスという都市を生成史、建築、都市社会学、セキュリティ論、文学、映画といった多角的な視点から論じた刺激的な一冊だ(読みにくいけど)。このなかでハードボイルドとノワールがロサンゼルスの都市文学として読み解かれている。

彼は言う。ハードボイルド作家が描く「彼らのプチブル・アンチヒーローは、まさに自伝的感情の表現であり」、「チャンドラーのマーロウも同じように、ギャング、悪徳警官、働かずにぶらぶらしている金持ちとの闘いに閉じこめられたちっぽけな自営業店主を象徴している――スタジオの大物や三流ライターと作家との関係の、ロマンチックなシミュラクラである」。要するにハリウッドに雇われたインテリ(作家)の嘆きと反抗のポーズ、つまりプチブル・アンチヒーローにすぎないと、さんざんな言われようだ。

もう一人は斎藤美奈子サンで、彼女はもっと分かりやすく簡潔だ。曰く、ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだ、と。

うーん。苦笑しながらうなずくしかないね。

実は小生、ハードボイルド大好きである。もっとも読むのはアメリカの小説ばかりで、だから桐野夏生も発表時には読んでない。ハメット、チャンドラーの古典からジェームズ・クラムリー、ローレンス・ブロックといった70~80年代のネオ・ハードボイルド、ジェームズ・エルロイやマイクル・コナリーなどノワールふうな90年代以降の小説まで、けっこう追いかけてきた。

ハードボイルドの始祖であるハメットもチャンドラーも、1930年代にロサンゼルスにやってきて、ハリウッド映画の原案作者や脚色家として生計を立てながら、パルプ・マガジンと呼ばれる大衆的な雑誌に小説を発表していた(今の日本でいえば『アサヒ芸能』か『日刊ゲンダイ』という感じか)。

彼らの関係する映画(その多くはノワールと呼ばれるギャングもの)も小説も多くの人に見たり読んだりしてもらわなければ成り立たない大衆的商品だから、かつての東映やくざ映画や寅さんがそうだったようにパターン化し、「お約束」の世界になってゆく。

作家としての意欲や矜持と「お約束」の間にねじれが起こり、そのねじれが作品に反映して、ハードボイルドやノワールの陰影という隠し味になる。デイヴィスが「アンチヒーロー」と言うのは、小説家が「お約束」にのっとってヒーローを描こうとして、そのねじれが否応なく単純な「正義の味方」でないアンチ・ヒーローを生みだしてしまったのだと僕は解する。

しかし一方でそのヒーローはあくまで大衆(ほとんどが男)に受け入れられるものでなければならないから、男の通俗的な夢をなぞった「ハーレクインロマンス」ともなる(ここからイデオロギー的な「フェミニズム批評」というやつなら、女性が男の差別的視線を倒錯的に内面化したものとしてミロ・シリーズを批判するかも)。

デイヴィスが言うようにハードボイルドはロサンゼルスの都市小説(もう少し一般化すればアメリカの都市小説)とも読める特殊なものだから、それを日本に移し替えようとすると色んな困難がある。そもそもアメリカのような私立探偵はいないわけだし。

大藪春彦や生島治郎の先駆的な小説の後、五木寛之や船戸与一、佐々木譲、逢坂剛あたりを読んだ1970~80年代に、日本のハードボイルドもこの国の風土に合わせて成熟したなあと思った記憶がある。

僕はその後、日本のミステリーをあまり読んでないけれど、今度読んだ桐野夏生の小説も明らかにそういう流れの上に成り立っている。

ハードボイルドの「お約束」をちゃんと踏まえ、それが日本の現実のなかで不自然さを感じさせないように消化されている。ハードボイルド小説の魅力のひとつは風俗小説としての面白さだと思うけど、死体愛好や異装といった倒錯世界やアダルト・ヴィデオ業界、ネオ・ナチなんかをからませるのもうまい。主人公・村上ミロ(この名前はクラムリーの主人公・ミロドラゴビッチから取ったもの)の服装や音楽の趣味もいい。

それにしても桐野夏生は、はじめっから文章がうまかったんだなあ。その艶っぽさと、イメージの鮮やかさにはうなる。いちばん印象に残ったのは『顔に降りかかる雨』、ミロが雨の鎌倉の邸宅で、裏世界の顔役が首を吊っているのを発見するくだり。

「一瞬、白いものが目に留まった。雨によって新緑の緑が冴え、だから白いものが目にとまったのだろう。何か布が風に煽られて揺れたかのようだった。
 私は濡れ縁に出て、ガラス戸越しに庭を眺めた。またちらっと白いものが見える。あれは着物のような、と思った瞬間、ぞっとするものが背筋を走った。……
 私は顔に雨を受けながら、庭石づたいにその白いもののそばに近づいていった。椿の木の裏。その横の大きな馬酔木の陰。青桐のすべすべした木の枝に何かがぶら下がっている。毛のない真っ白な脛がいきなり目に入った。ひらひらと白麻の着物の裾がはためいている」

 雨中の緑と白の対照。風に揺られる着物の動き。読む者にも感じられる、顔に受ける雨の冷たさ。椿、馬酔木、青桐と映画のカメラのように移動してゆく視線。その先に現れる白い脚の不気味な感触。とてもミステリー作家としてのデビュー作とは思えない。

ミロ・シリーズは好評だったし、新しいハードボイルド・ヒロインの誕生として期待された。でもシリーズは、長編としてはひとまず2作で終わってしまう。どんなにうまく処理されていても、「お約束」が桐野にとっては不自由に、拘束として感じられたのだと思う。想像するに、「お約束」の上に成り立つ世界では自分の書きたいことが十分に展開できない、と考えたんじゃないかな(しばらくしてミロ・シリーズの続編が書かれたのは、もっと広い小説世界を確立し、「お約束」を楽しむ余裕ができたからだろう)。

船戸、佐々木、逢坂といった小説家がハードボイルドだけを書いたのではないように、日本の風土でアメリカ生まれの「お約束」の上に小説世界を展開するのはどこかで無理が生ずる。

桐野夏生は、ひとまずハードボイルドを離れ、もっと広いミステリーの世界へと転進してゆく。

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January 30, 2009

桐野夏生浸り・2

Out_china
(『out』中国語版)

桐野夏生の小説を何冊か読んでいると、どの作品にも共通するキーワードがいくつか出てくるのに気づく。そのひとつが「壊れる」、あるいは「毀れる」という言葉だ。

「壊れる」あるいは「毀れる」という言葉が発された瞬間に、桐野の小説世界はいちだん深い場所へと入ってゆく。そう感じられる。

たとえば『魂萌え!』の主人公。世間知らずの専業主婦だった敏子は、夫の死後、息子や娘との相続争い、夫の愛人との対面、自身の不倫などを経て、ひとりで生きていこうとする自分自身の胸に問いかける。

「壊れるのか、それとも新しい何かが生まれるのか」

あるいは『玉蘭』の医師・松村。彼は元恋人で娼婦まがいの生活を送っている有子と再会し、砂を噛むような思いで有子を抱きながら、こう考える。

「もっと感じてほしい。その願いは、有子にもっと壊れてくれ、と言っていることと同じだった。さっきはあれほど大事に壊れ物を扱うように抱いていたのに。有子はとっくに壊れていたのだ。松村は激しく上下に動きながら、有子に囁いていた。二人でどこまでも壊れよう」

この「壊れる」あるいは「毀れる」という言葉がとりわけ印象的な、それだけに凄まじいシチュエーションで使われているのが『out』だろう。

『out』はベストセラーになったから、今さらここで解説するまでもないけど、ちょっと詳しく見てみようか。いま読むと、こんな危ない小説がよくベストセラーになったね。

主人公は東京郊外に住む40代の主婦・雅子。彼女は自宅近くのコンビニ弁当工場で夜勤の期間労働者として働いている。彼女には工場でラインを組む3人の仲間がいるが、そのうちの1人・弥生がふとしたはずみで夫を殺してしまう。弥生に相談された雅子は、死んだ夫を行方不明に見せかけるために死体をばらばらにして処理することを提案する。

とここまで書いてきて分かるように、常識的に考えれば主人公・雅子の提案に説得力はない。弥生とそれほど深いつきあいがあるわけでもないのに、進んで死体損壊・遺棄という重大な犯罪に加担しようというんだから。しかも、そう決心した雅子の心のうちはなんにも説明されない。

「『どうして。じゃ、どうしてここまでしてくれるの』
弥生は健司(注・死んだ夫)の脇の下に膝を差し入れながら、雅子に訊ねた。
『後で考える』」

「後で考える」ってセリフがすごいね。雅子たち4人が弥生の死んだ夫をばらばらにして捨てる、その成り行きを読者に納得させるのは、彼女らの内面や心理描写ではなく、彼女たちが働いているベルトコンベアの弁当工場を描く、その描写のすごさにある。主人公の内面を描かず、その外面を描いて内面を暗喩させるハードボイルドの手法の応用とも見える。

自動車工場やアパートや一戸建てや空地が混在する大都市近郊。弁当工場に深夜に出勤してゆくのは、彼女らのような主婦や日系ブラジル人労働者だ。その風景描写と、工場内でフォード・システムでコンビニ弁当をつくる描写がなんともリアルなんだなあ。

読んでいくうちに、このコンビニ弁当工場が現在の日本社会の比喩であることがだんだん実感されてくる。ちなみにこれは桐野夏生がしばしば使う手で、『グロテスク』で主人公たちが通う有名女子高の同質性と異分子排除の世界もこの社会の縮図だったし、無人島に漂着した日本人男女がミニ社会をつくる『東京島』はタイトルからして東京=日本を意味していた。

この都市近郊と弁当工場の生々しいリアリティが、4人の仲間による死体バラバラ処理という荒唐無稽なシチュエーションを読者に納得させてしまう。

「いつの間にかラインの向こう側で『肉均し』に就いた弥生がこちらを見ている。
『何? どうしたの』
『こうなっちゃえばわかんないね』
弥生は何度も肉に目を落として言った。その目に狂躁とでもいえる光があった」

その後、死体処理の細密描写が桐野独特の濃密な文章で延々と続くのもすごいけど、物語は途中から大きく思わぬほうへ方向転換してゆく。

『out』は最初、社会派ミステリーのような顔をしている。主人公たちによる殺人と死体バラバラ処理。バラバラ殺人の部分だけ取り出せば、現実に起こっている事件(最近も)であり、その意味で読者はリアルな思いを持つに違いない。

その上で、読む者は、主人公たちの行為はきっと失敗するに違いない、でもどこでどんなふうに暴かれてゆくんだろうとハラハラ(期待)しながら読み進むことになる。僕も途中まではそういうミステリーとして、宮部みゆきを生々しくしたような小説だなと思いながら読んでいた。

ところが、健司殺しの犯人と間違えられ警察に追及される男・佐竹が登場するあたりから、小説はがらりと様相を変える。男は犯人と間違えられた復讐をするために、雅子を追う。男にはかつて快楽殺人とも言える犯罪を犯した過去がある。追う男と追いつめられる雅子、そのあたりからまだ会わぬ2人の妄想の恋愛(官能)小説とでも呼べそうな展開になってくる(一方、日系ブラジル人労働者を脇役に配することで、この国の現実に錘を垂らすことも忘れていない)。

男の殺人の記憶。

「佐竹は自分で刺した女の腹に指を入れてみた。指はずぶずぶと付け根まで入った。だが女は何も感じない様子で、口をぱくぱく開いては囁くように『びょういん』と言い続けている。佐竹の指が手首まで鮮血に塗れた。佐竹はその血を女の頬で拭いた。自分の血で赤く頬を染めた女はこの世のものと思われないほど綺麗だった」

一方、追いつめられ、男の影を感ずる雅子の見る悪夢。

「締めつける指の温かさが、首筋にかかる男の荒い息が、次第に雅子を暗い衝動に突き動かしていく。そのまま強い力に身を委ね、縊り殺されてしまいたいという衝動に。その瞬間、雅子の恐怖が無重力状態に入ったかのようにかき消えた。代わりに、信じ難い恍惚が雅子を襲い、雅子は驚きと愉悦の声を漏らした」

追う男の記憶と追われる女の悪夢が遠く離れて感応し、雅子は男を恐れ、逃げ回りながら、男との出会いを心の底で期待するようになる。彼女は男への激しい憎しみに燃えながら、男に殺されることを願っている。

「毀れる」という言葉は、物語の終わり近く、弁当工場の隣にある廃工場で深夜、遂に2人が顔を合わせたところで登場する。男が雅子を拉致し、暴行した後の会話。

「『あんたは毀れてる!』雅子はまた叫んだ。
『そうだよ。おまえも毀れてるんだ。俺は最初に見たときからわかってた』
自分の毀れは、そんな佐竹に惹かれていることだ」

この暗闇の廃工場で繰り広げられる、2人の現実とも妄想ともつかないくだりはこの本の最高の場面であると同時に、桐野夏生の全作品(まだ全部読んでないけど)のなかでも屈指の美しい場面だね。しかも雅子の視点からと男の視点からと、細部が微妙に異なる同じシーンが2度繰り返され、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか読者にも(あるいは作者にも)判断がつかないのがすごい。

小説の冒頭で、夫を殺した弥生に対し、雅子がなぜ犯罪に加担すると申し出たのか。その理由を問われた雅子は「後で考える」と言っただけで、作者は何も説明していない。それは最後まで説明されないけれど、ここまでくると分かってくる。

家庭の主婦であり、弁当工場で期間労働者として働いている(つまり一見ごく普通の市民である)雅子は、この小説が始まった時点でもう「毀れていた」のだ。だから理由なんてどうでもよかったのだ。それを読む者におかしいと感じさせず、風景や人物のリアルな描写で納得させてしまうところが桐野夏生の力なんだと思う。

もしかしたら雅子は、「壊れるのか」と自問した『魂萌え!』の主人公・敏子の、その後の姿(年齢は違うけど)なのかもしれない。そう思うと、ホームドラマに終始する『魂萌え!』が実はとんでもなく怖い小説にも見えてくる。

桐野夏生はこんなふうに、この現実のなかに生きて否応なく「壊れる」(「毀れる」)ほかに途がない女を描きつづけている。その世界は不安と孤独と憎しみと性的妄想に満ちている。でも、彼女の小説を読んだ後には、そんな暗い世界を経由した果てなのに、ある種の解放感を感ずることが多い。

5年前に『グロテスク』の書評で、こう書いたことがある。

「これは現実の事件に沿った小説ではなく、あくまで『処女の姉(注・語り手のわたし)と娼婦の妹』が主人公なのだ。そこには最後のどんでん返しが用意されているが、それを明かしてはルール違反になる。でもそこで読者は、これは『転落』の物語ではなく『解放』の物語だったのだと、改めて気づくことになるだろう」

ここで「転落」という言葉は、名門女子高を卒業した登場人物たちが一流企業に就職したりモデルになったりした末に娼婦になったことが、通常社会的にはそう受けとめられる、という意味で使っている。一方、「解放」という言葉についてはまったく説明しなかった。

『out』もそうだけれど、彼女の小説を読み終わって『グロテスク』の解放感に近いものを感ずることがしばしばあるのに気づいた。そのことについて考えてみたい。

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January 29, 2009

桐野夏生浸り・1

Out_english
(『out』英語版)

年末から桐野夏生を読み耽っている。

デビュー作といっていい『頬に降りかかる雨』に始まり、『水の眠り 灰の夢』、直木賞を受けた『柔らかな頬』、さらに『玉蘭』『out』『残虐記』『魂萌え』『東京島』と来て、最新作『女神記』と、『錆びる心』『ジオラマ』などの短編集。これは読んだ作品を刊行された時系列で並べたんだけど、実際には目についたものから手当たり次第に読みつづけ、そして飽きることがない。

彼女を読むのは初めてではなく、何年か前、『グロテスク』を読んで感想めいたものを書いたことがある(書評book-navi、LINKS参照)。そのときから、いつかちゃんと読んでみようと思っていた。

『グロテスク』も発表当初から話題になった小説で、ぐいぐい引き込まれるストーリー・テリングと濃密な描写に圧倒されたけど、彼女の主な長編をまとめて読んでみるとその印象はいよいよ強まる。だけでなく、『グロテスク』でも予感されたけれど、爽やか草食系が多い今のエンタテインメント系の作家には珍しく黒々とした地下水脈を湛えた、スケールのでかい小説家だなあと思った。

「東電OL殺人事件」や少女誘拐・長期監禁事件といった現実の出来事に触発された作品もあるから、桐野夏生の小説は社会派みたいな顔をしていて、それはその通りだし、この国の現実とその中に放り出された女性の姿に深い関心を持っていることは間違いないけれど、彼女の小説のすごいところはそんな社会性を突き抜けた<反社会>性にあるというのが、僕の今のところの感想だ。

彼女の小説を読んでいて連想するのは、大正期の谷崎潤一郎の妖しい世界か。あるいは桐野夏生のヒロインは、夫を戦争に取られまいとその脚を鉈で切り落とした増村保造映画のミューズ、若尾文子の化身なのか。

桐野夏生の小説群は大雑把に言って3つの時期に分けられる。

『頬に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を受賞して一躍その名を知られ、女流ハードボイルドの旗手と言われた時代。ハードボイルドからもっと広いミステリーに進出し、同時に多くの読者も獲得した『柔らかな頬』や『out』の時代。そしてそれ以後の、もはやミステリーとも呼べずただ小説としか言えないさまざまな作品を発表している、現在にいたる時代。

まだ途中経過だけど、桐野夏生の小説を読んで感じたことをメモしておこうと思う。

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December 05, 2008

昭和天皇の母子関係

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(貞明皇后。原武史『昭和天皇』-岩波新書-から)

原武史の天皇論は、いつも従来の政治権力論的な見方では見過ごされがちなところにスポットを当ててみせる。

『大正天皇』(朝日選書)は、存在そのものが希薄だった大正天皇の、帝国議会の開院式で証書を丸めて覗いたみたいなレベルでしか知られていなかった実像を追って、天皇として初めて一夫一婦制を取るなど意外に近代人だったり、地方へ出かけたとき気軽に外を出歩くなど昭和期に神格化される以前の天皇の知られざる側面を描いていた。

今年の司馬遼太郎賞を受けた『昭和天皇』(岩波新書)でなんてったって面白いのは、大正天皇の妻であり昭和天皇の母である貞明皇后と昭和天皇の母子関係について書かれた部分だね。なにせ大日本帝国の最高権力者のことだから、母子の葛藤は単に家庭内の問題ではすまず、帝国の運命にまで絡んでくる。

大正天皇の病が重くなるにつれて、妻の貞明皇后は「神(かむ)ながらの道」という新興神道にのめりこみ、夫の死後、息子が即位した昭和期に入るといよいよ神がかりの傾向を強めたという。

一方、息子の昭和天皇は、皇太子時代にヨーロッパ訪問をしたこともあってゴルフを楽しんだり生物学に熱中したり、イギリス王室を手本に皇室の近代化をめざして大奥のような女官制度を改革したりしている。

天皇は、新嘗祭など月に何度もの宮中祭祀をこなさなければならない(祭祀の多くは古いものでなく明治になって新たに定められた「創られた伝統」だった)。ところが明治天皇も大正天皇も必ずしも宮中祭祀に熱心でなく、それは昭和天皇も変わらなかった。そのことが、神がかりの貞明皇后(皇太后)には大いに不満だったらしい。

昭和天皇の宮中祭祀への態度について貞明皇太后は、「御正坐御出来ならざる(正坐もできない)」とか「形式的ノ敬神ニテハ不可ナリ、真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ」と、なんとも強い言葉で批判している。「神罰があるぞ」と告げる母親は、息子にとってかなり支配的・抑圧的な存在だったにちがいない。しかも時代は「現人神」として天皇の神格化が着々と進んでいたから、母に異を唱えるわけにもいかない。

一方、昭和天皇と2人の弟、秩父宮、高松宮との兄弟関係も微妙だった。秩父宮は2・26事件を起こした陸軍皇道派と近く、「秩父宮様帝位簒奪」との噂も立った。事件後の青年将校への処罰について、温情を期待された昭和天皇が冷たかったのは、秩父宮との関係も影響していたらしい。もうひとりの弟、高松宮は近衛文麿ら宮中グループと近く、敗色が濃くなった太平洋戦争末期に戦争継続を考える昭和天皇を批判し、以来、2人の間には溝ができた。

貞明皇太后は秩父宮と高松宮を「秩父さん」「高松さん」と呼んで可愛がった。家族のなかで孤立し、帝国が太平洋戦争へ突き進むなかで、独り言が目立つようになった昭和天皇はかつてとは様変わりして宮中祭祀に熱心になってゆく。月に何度もある祭祀をこなし、「神の御加護」を求め、伊勢神宮に戦勝を祈願した。

戦局の悪化に反比例して貞明皇太后の神がかりはいよいよ強くなった。敗戦の2カ月前、天皇は皇太后に会いに行く。恐らくは勝利の見通しが立たないことを母に説明した後、息子は嘔吐して2日間寝込んだという。

貞明皇太后の神がかりは、戦後、皇太后が亡くなってからも、「魔女」と呼ばれた皇太后側近のひとりの女官に引き継がれた。1970年、昭和天皇が遂に「魔女」の罷免を決意したとき、「言ふことをきかなければやめちまえ」ときわめて激しい口調で侍従長に告げている。「やめちまえ」という感情をあらわにした言葉からも、貞明皇太后の影が「魔女」を通して死後もいかに大きく昭和天皇にのしかかっていたかを推測できる。

想像をたくましくすれば、敗戦は昭和天皇にとって皇太后の告げる「神罰」が下りたと受けとめられたかもしれない。

昭和天皇は戦後も宮中祭祀に熱心だった。その理由について原は、「天皇は少なくとも『神』に対しては戦中期の過ちを自覚するがゆえに、戦後も一貫して宮中祭祀に努めてきた」「天皇が責任を痛感していたのは第一に皇祖皇宗に対してであり、国民に対する責任観念を意味するはずの『戦争責任』という言葉には、にわかに反応できなかったのではないか」と言っている。

宮中祭祀という視点から見るかぎり、戦前も戦後もそのありようはほとんど変わっていない。昭和天皇にとって敗戦時の最大の関心は「万世一系」の天皇家の維持だった。マッカーサーの政治的決断でそれが果たされ、戦後も亡くなるまで皇祖に祈りつづけた昭和天皇の姿を見ていると、天皇が統治者であり主権者でもあった大日本帝国から国民主権の日本国への大転換は、彼にとってさほどの意味を持たなかったのではないかと思えてくる。

原武史はさまざまな資料を当たり、側近や侍従の日記・手記を読みときながら、昭和天皇の宮中祭祀と家族関係という、天皇家の外からはうかがいしれない部分に光を当てた。

最近の新書は岩波も含めて内容が薄く失望することが多かったけど、久しぶりに充実した新書を読んで本を読む喜びを味わったな。


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