November 02, 2018

『アンダー・ザ・シルバーレイク』 失速したカルト映画

Underthesilverlake
Under The Silver Lake(viewing film)

毎年、夏休みのお子様向け映画が終って秋になると、粒ぞろいの映画が公開される。でも今年は特に洋画がつまらなかったように感ずる。個人的に忙しくて本数が見られなかったのに加え、こちらの選択も悪かったのかもしれない。でも、好みの映画で見たいと思うものもあまりなかった。だから『アンダー・ザ・シルバーレイク(原題:Under The Silver Lake)』は楽しみにしていた作品なんだけど、これもまた期待外れだった。

「ヒッチコックとリンチを融合させた悪夢版『ラ・ラ・ランド』」というイタリア紙の評がキャッチとして使われていて、確かにその通りではある。1920年代の女優、ジャネット・ゲイナーの映画から、50年代の『ボディ・スナッチャー』『大アマゾンの半魚人』(『シェイプ・オブ・ウォーター』の元ネタ)といったカルト映画、マリリン・モンロー(『女房は生きていた』)やヒッチコック(『裏窓』)の引用、『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』といったロスを舞台にしたミステリーのプロットを踏襲といった具合に、映画好きならあれもこれもと指摘したくなるようなシーンにあふれている。

映画だけでなく、音楽やコミック、ゲーム、古い『プレイボーイ』誌、アングラ風俗もふんだんに言及され、全編がカルト的なアイテムに満ち満ちている(公式HPで町田智浩が詳細に解説してる)。でもそれらが無秩序にとっちらかっているだけで、肝心の本筋に結晶してこない。『チャイナタウン』や『マルホランド・ドライブ』に比べるべくもない。

中年にさしかかろうというサム(アンドリュー・ガーフィールド)は職もなく、アパートも家賃滞納で追い出されそうになっている。楽しみは双眼鏡で他の部屋やプールを覗くこと。水着姿を覗いていたサラ(ライリー・キーオ)に声をかけられ、彼女の部屋でいい感じになる。また明日ね、と別れたが翌日、サラの部屋は引き払われていた。

失踪したサラを探して、サムがロスのあちこちを彷徨う。怪しげな3人組の女と片目の男。出没する犬殺し。この世界は何者かに操られていると信じこむ男。フクロウのキスと呼ばれる、梟の仮面をかぶった女殺し屋。カルト的な音楽が演奏されるパーティー。墓場の地下のライブハウス。ホーボー(30年代の放浪者)の暗号。丘の上の大邸宅に独り住む音楽家。目に入る文字や風景が、サムにはなにかの暗号か陰謀に思えてくる。現実ともサムの幻想とも判然としない迷宮。

探偵役のサムに工夫はある。たぶん俳優かミュージシャンを目指してロスにやってきたけれど、挫折。職も金もなく、心配する母親からしょっちゅう電話がかかってくる。そんなダメ男の目を通した享楽的な都市風俗。ハードボイルドを今ふうに蘇らせようという意図は分かるけど、P.T.アンダーソンの『インヒアレント・ヴァイス』がそうだったように、オフビートなリズムがハードボイルドという古風なジャンルとうまく適合しなかったのかもしれない。そんな意図がうまく生かされたのはロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』とハル・アシュビーの『800万の死にざま』(こちらはNYからロスへの舞台変換)くらいだろうか。ま、年寄りの感想ですけど。

しかしとりあえず、散りばめられたアイコンを楽しんでいれば退屈はしない。監督はデヴィッド・ロバート・ミッチェル。


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October 29, 2018

『ここは退屈迎えに来て』 誰も迎えに来ない

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廣木隆一監督の映画を初めて見たのは寺島しのぶが魅力的な『ヴィアイブレータ』だった。以後、廣木監督は『軽蔑』『さよなら歌舞伎町』『彼女の人生は間違いじゃない』といった作家色の濃いインディペンデント映画をつくる一方で、『余命1ヶ月の花嫁』『100回泣くこと』『ナミヤ雑貨店の奇蹟』といったメジャー系のエンタテインメント映画にも起用されてきた(こちらの系統はあまり見てないけど)。恋愛映画がうまいとか、女優をきれいに撮るといった評価が高かったからだろう。

KADOKAWA映画『ここは退屈迎えに来て』は後者のエンタテインメント系統だけど、いかにも廣木監督らしいテイストの作品に仕上がっていて楽しめる。まず「余命1ヶ月」のようなドラマチックな設定がない。最大の出来事が、高校時代の憧れだった男子に会いにいくというだけの話。そこでなにが起こるわけでもない。それに青春映画といっても高校生のキラキラした青春が中心になるわけでなく、30歳近くなった彼ら彼女らそれぞれの悔恨といった感情が映画の底を流れている。

地方都市(富山)を舞台に、2013年の現在、2004年の高校時代、そして2008年、2010年と、四つの時を自在に行き来しながら語られる群像劇。それぞれの時制でまず車に乗る男女(あるいは女性同士)が登場して話がどんどん広がり、しばらくは人間関係もよく分からない。ついに主人公とすれ違わない登場人物もいる。最後になってやっとつながる人間関係がある。そんなドラマの崩し方が、ドラマチックとは正反対なのに快いリズムになるから面白い。

「私」(橋本愛)は東京で仕事をしていたが故郷に戻り、タウン誌のライターをしている。ひょんなことから、高校時代はサッカー部のエースで女子の憧れの的だった椎名(成田凌)に会いにいくことになる。椎名は今、自動車教習所の教官をして地味に生きている。椎名に教官の職を紹介したのは新保(渡辺大知)で、新保は同性の椎名にほのかな思いを持っている。「私」は内気な新保に「椎名の元カノ」だと思われているのが嬉しい。

実は高校時代、椎名とつきあっていたのは「あたし」(門脇麦)だが、別れた後も椎名を忘れられず、椎名を知る元同級生とズルズルの関係をつづけている。美人のあかね(内田理央)は東京でモデルをしていたが仕事がなくなって戻り、フリーターの生活をしながら結婚願望がある。ほかにも何人かの登場人物が出てくる。

彼らが車に乗り、地方都市の特徴のない風景のなかを走りながら会話することで話ともいえない話が動いていく。一種のロードムービーと言えるかもしれない。ファミレスやゲーセンでも会話がつづく。東京が忘れられないタウン誌のカメラマン(村上淳)とか、女子高生と援助交際している皆川(マキタスポーツ)とか、脇役もいい味を出している。いかにも青春映画らしいのは、プール掃除をしていた「私」と新保がプールに飛び込み、周囲の高校生たちもみんな飛び込んで水をかけあうシーン。逆光に光る水しぶきが、ここだけは輝いている。

なんの変哲もない地方都市で、なんの変哲もない日常を、それぞれが悔恨を抱えながら生きていく。誰も迎えに来ないことは、登場人物のみんなが分かっている。その姿がじわっと沁みてくる。


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October 26, 2018

『僕の帰る場所』 二つの祖国

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Passage of Life(viewing film)

日本は移民を認めていないけれど、合法非合法の外国人労働者なしに国が回らなくなっていて、実質的には移民受け入れ国になりつつある。しかし建前の上では彼らは移民ではないので、その狭間でさまざまな問題が起こる。矛盾のしわ寄せは当然ながら法的に不安定な在日外国人にくる。また難民についても、例えば去年の難民申請者数は約2万人だが、難民として認められたのはわずかに20人、認定されなかったが在留を認められた者を含めても65人にすぎない。

日本=ミャンマー合作映画『僕の帰る場所(原題:Passage of Life)』に登場するのは在日ミャンマー人の家族。夫のアイセ(アイセ)は難民の認定を申請中で、審査の結果が出るまでは日本に滞在することができる。その間、本当は働いてはいけないらしいが、アイセはホテルのレストランで働いて拘束されたりもしている。妻のケイン(ケイン・ミャッ・トゥ)は不安定な暮らしに精神のバランスを崩し、国に帰りたいと訴える。夫婦には小学生のカウン(カウン・ミャッ・トゥ)と弟のテッ(テッ・ミャッ・トゥ)の子供がいる。二人は日本語しかしゃべれず、ケインにビルマ語を習っている。

一家の日々の生活がドキュメンタリーのようなタッチで描かれる。拘留が解かれ久しぶりに家へ帰ったアイセに子供たちが甘える。子供たちが寝た後、夫婦は深刻な表情で話し合う。会話シーンでは2台のキャメラで定番の切り返しショットなど使わず、手持ちのキャメラ1台でセリフごとに左右にキャメラが振られる。資金が乏しいせいもあるだろうけど、あえてこういうスタイルを取っているのかもしれない。

アイセが日本人支援者と入管に出かけるシーンもあるけれど、観客に難民申請についての細かな説明はせず、ともかく外国人に扉を閉ざしていること、職員がぶっきらぼうで不親切なことだけを伝える。アイセはそれに対して、辛抱強く穏やかに対応する。

映画はこのまま進むのかと思ったら、ケインが国に帰ることを決め子供たちとミャンマーに戻ったところから、がらりとタッチが変わる。このままいけばアイセの一家を通して在日ミャンマー人の生活と入管法・難民認定の壁といった社会問題を訴える映画になったろう。ところが、ミャンマーが舞台になる後半で、実はこの映画の主役はカウンとテッの兄弟、なかでも兄のカウンであることが分かってくる。

ヤンゴンの母の実家に着いたカウンは拗ねて、日本に帰りたいと繰り返す。日本の小学校でクラスメートと仲良く学校生活を送っていたのだ。ある晩、カウンはクラスメートからの餞別を持って、家を飛び出す。路上で拙いビルマ語で「空港はどっち?」と聞くと、路上の物売りからは「日本人かい?」とからかわれる。少年にとって見知らぬ街の夜のショットが素晴らしい。路上をさまよい歩く、不安と好奇心がないまぜになったカウンの表情も素晴らしい。昔、ヴェンダースのモノクロームの映画でこんな感情を掻きたてられたことがあったなと思い出す。カウンの少年らしい意思的な表情からは、『誰も知らない』の柳楽優弥を思い出す。

兄弟は母のケインに連れられ、農村にある父方のおばあちゃんの家を訪れ、温かく迎えられる。日本人学校にも行けることになる。最初、故国へ拒絶反応を起こしたカウンだが、少しずつミャンマーの生活になじんでくる。

映画は人間がきちんと描かれていなければつまらない。何かを訴えるにしても、その人間を通してでなければリアルなものにならない。この映画はカウンという少年を通して、移民の問題を考えさせられる。監督の藤元明緒はこれが長編デビュー作で、脚本も書いている。二つの祖国を背負って成長していくであろうカウンを、こんなふうに造形した力はすごい。


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October 06, 2018

『運命は踊る』 砂漠のステップ

Foxtrot
Foxtrot(viewing film)

イスラエルの映画を見るのは初めて。近頃、世界の映画祭でイスラエル映画の評判が高い。『運命は踊る(原題:Foxtrot)』もヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を得た。例えば韓国がそうであるように国家が映画製作を支援して、その成果が出始めたということだろうか。もっとも国の基金による支援を受けたこの映画、文化大臣ら右派政治家から「イスラエルにとって有害な映画。基金から資金が与えられるべきでなかった」とクレームがついた。

といって、映画が政治的なテーマを扱っているわけではない。イスラエルは周囲を敵対するアラブ国家に囲まれ、さまざまな戦争を経験してきたし、パレスチナ人との内戦もある。でも、そんな敏感な問題に触れてはいるわけではない(サミュエル・マオズ監督の前作『レバノン』はレバノンとの戦争を扱ったものだそうだが)。では何が「有害」なのかといえば、実はよく分からない。

イスラエルには表現の自由がどの程度あるのか、これもよく分からない。ちなみに世界各国の「報道の自由度ランキング」でイスラエルは87位。アメリカは45位、日本67位、中国176位。日本よりも悪いが、中国よりずっとまし、ということか。少なくとも政治批判をすれば映画製作を禁止されたり、亡命を余儀なくされるようなことはなさそうだ。だから時々中国映画にあるように、隠喩的な政治批判をしなければならない状況ではないだろう。では何が「有害」なのかという先の問いに戻れば、人間の精神の「弱さ」を扱っているから、だろうか。戦後ずっと周囲のアラブ国家と戦争をしてきた国の国民として、弱くあってはならないということか。

ミハエル(リオール・アシュケナージー)とダフナ(サラ・アドラー)夫妻のもとに、息子のヨナタンが戦死したという知らせがもたらされる。ダフナは失神し、ミハエルは一見悲報に耐えているように見える。国境でヨナタンに何が起こったかの描写をはさんで、戦死したという知らせは間違いで、ヨナタンは生きていたことが分かる。その知らせにダフナは喜ぶが、ミハエルは一転して怒りだし、ヨナタンを今すぐここへ連れてこいと居丈高に軍の担当者に食ってかかる。そのことが逆にヨナタンの運命を狂わせる……。

リアリズムで物語を語るのでなく、象徴的な映像で見せるのが新鮮。ヨナタンら兵士が守る国境の検問所をラクダがのんびり横切ってゆくのを真横から捉えた皮肉なショット(このショットがラストで生きてくる)。ヨナタンが銃を抱え砂漠でフォックスタロットのステップを踏むショット。コンテナのような兵士の宿舎の水平が傾いていて、事あるごとに缶詰がころころと床を転がってゆくショット。どれも素晴らしい。

もっとも、この映画の主役は息子のヨナタンではなく父親のミハエルであり、主題は出来事ではなく精神の内であることが途中から分かってくる。ヨナタンが描くイラスト(動画)を通して、ミハエルが抱えるトラウマが見えてくる。もっとも僕はイスラエルという国もユダヤ人という民族も、キリスト教の母体となったユダヤ教もよく知らない。だからミハエルの内面が実のところよく分からない。マオズ監督がHPのインタビューで語る、思い上がりの罪とその罰というユダヤ=キリスト教の観念もよく理解できない。ただ、魅力的な映像が記憶に残る。

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September 30, 2018

『きみの鳥はうたえる』 正統派の青春映画

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佐藤泰志原作の「函館もの」は3本とも見ている。それぞれタッチの違う映画で、記憶だけでいうと『海灰市叙景』はモノクロームの絵画的ショットが記憶に残るノスタルジックな小品、『そこのみにて光輝く』は手持ちカメラを多用した、1970年代の神代辰巳ふうの文芸もの、『オーバー・フェンス』は山下敦弘監督らしくけだるいけれど、そこはかとなく明るい今ふうの映画に仕上がっていた。

『きみの鳥はうたえる』はそれらに比べると、丹念につくられた正統派の青春映画といった印象だ。男二人に女ひとりのカップルも、青春ものの定番ともいえる組み合わせ。冒頭とラスト近くで函館山を望む夜景のショットが入るほかは、誰もが函館と分かるショットはない。でも行ったことのある人なら、いかにも函館の街だなあと感じられる空気が写しこまれている。

書店で働く「僕」(柄本佑)は、行きがかりで同僚のアルバイト佐知子(石橋静河)とデートし、僕のアパートでベッドを共にする。僕はアパートで、仕事もせずぶらぶらしている静雄(染谷将太)とルームシェアしている。やがて顔を合わせた三人は仲良くなり、一緒にバーやビリヤードやクラブで夏の夜をすごす。「僕」は、佐知子が静雄と親しくなるのを見て、むしろその背中を押すような態度を取る……。

なにがいいといって、「僕」を演ずる柄本佑が素晴しい。いつも自分の気分だけで動き、書店員としての仕事も佐知子との恋の行方も成行きまかせ。世の中どうでもいいといった風情の青年のぶっきらぼうとあてどなさが身体から滲み出ている。相手役の石橋静河も『夜空はいつでも最高密度の青色だ』よりずっとのびやかで、生き生きしてる。染谷将太もマザコンふうな男の子を好演。三人が徹夜明けで街にさまよい出て、朝日が反射する路面電車の線路をふらふら歩くショットがいいな。

最後に「恋か友情か」ふうな古典的問いかけで終わるのも、この正統派の青春映画にふさわしい。監督は三宅唱。意固地な同僚の書店員や佐知子と不倫している店長、静雄を心配する母親など、誰にも温かい目を向けている。

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September 21, 2018

『寝ても覚めても』 人間の分からなさ

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ヒロイン朝子(唐田えりか)がはじめて麦(東出昌大)と会うときも、亮平(東出の二役)と会うときも、写真が二人をつないでいる。それも同じ写真。同じ服を着た双子の少女が、手をつないで並んでいる。若くして亡くなった写真家・牛腸(ごちょう)茂雄の代表作として、知る人ぞ知る作品だ。

この写真が、麦と亮平という双子のように同じ顔をした二人の男に朝子が否応なく惹かれていくことの予兆の役割を果たしている。主に子供たちを撮った牛腸茂雄の作品群には、子供時代の無垢と、裏腹にどこか無気味な残酷さが感じとれる。この背中合わせの背理の感情は、『寝ても覚めても』の底を流れる通奏低音でもある。

麦と朝子の恋は稲妻のような一撃で始まり、稲妻のような一撃で消える。亮平と朝子の愛は時間をかけて、ゆっくり熟成されてゆく。でもどちらも、それが成就するのか、次の瞬間に何が起こるのかは本人たちにも分からない。その分からなさが、この映画の魅力だ。

大阪。朝子は麦と出会い、恋に落ちる。熱烈な恋だが、ある日、麦はいきなり姿を消す。5年後の東京。喫茶店で働く朝子は、コーヒーの出前先で、麦そっくりなサラリーマンの亮平と出会う。亮平は朝子に積極的で、やがて朝子も亮平の優しさに惹かれてゆく。一方、大阪時代の女友だちから、麦がモデルとして活躍していることを知らされる。

亮平と朝子は同居するようになり、亮平に大阪本社へ異動の内示があったのを機に結婚を考える。しかし新居探しに大阪へ出向いた先の空き家で、朝子は麦が自分の前に姿を現すことを予感する。予感は的中し、亮平と朝子の歓送会の席上、いきなり麦が朝子の前に現れる……。

三人の関係はさらに二転三転するけれど、それはストーリーが複雑に絡んでクライマックスに向かうということではない。朝子の決断は、観客が納得するようには描かれていない。いや、朝子本人にすら分からないのだと言うふうに描かれている。ラストシーン。ベランダで亮平が朝子に静かに言う。「僕は朝子を一生信じられないかもしれないな」。

濱口竜介監督の前作『ハッピーアワー』では、監督と演技未経験の出演者自身が行った映像ワークショップの一部がそのまま映画に取り込まれていた。『寝ても覚めても』でも唐田えりかはこれがデビュー作で、同じようなワークショップを重ねて撮影に臨んだらしい。ただ、出演者が自分の経験を延長すればよかった『ハッピーアワー』に比べて、『寝ても覚めても』の朝子役はきわめて複雑な感情の動きを表現しなければならない。演技初体験の唐田えりかには荷が重く、彼女のその時々の表情に、観客としては「ああ、これはこういうことなんだろうな」と助け船を出す気持ちで見ていた。

でも未経験者を使うことは、濱口監督の映画のスタイルと密接に結びついている。本来は男女三人の絡み合いでストーリー的にも「アヤ」(by笠原和夫)満載で盛り上がるべきものなのだろうが、そうは撮らない。そこにある役者や風景を淡々と撮る。説明もしない。そこからこの映画の今日性が生まれてくる。例えばこの映画、演技派の二人(オダギリジョーと蒼井優とか)が演ずればまったく別の映画になってしまうだろう。日本映画にも新しい世代が出てきたことをひしひしと感ずる。


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August 22, 2018

『ミッション・インポッシブル/フォールアウト』 55歳、どこまで突っ走る?

Fallout_2
Mission: Impossibule- Fallout(viewing film)

映画の撮影現場で監督が撮影開始を告げる「ヨーイ、ハイ!」は、英語なら「Action!」だ。クリント・イーストウッドが映画監督に扮した『ホワイトハンター、ブラックハート』で、最後のセリフは「Action!」だった。

アクションが映画の原型的な魅力であることは言うまでもない。無声映画時代、バスター・キートンのアクロバティックなアクションは超人的で、崖をころがり落ちたり走る列車の屋根を走ったり、アクション映画の原点みたいなものだった。1980年代にフランス映画社が連続公開したのを見たんだけど、そのころはまたジャッキー・チェンの全盛時代だった。小学生だった息子と見た『プロジェクトA』や『ポリス・ストーリー』は、竹竿ひとつでビルの上階から飛び降りたり、これまた身体を張ったアクションの連続で子供と一緒に興奮した。

『ミッション・インポッシブル』シリーズは、VFXによってどんなインポッシブルなアクションも可能になったデジタル時代に、あえて生身の身体を張ることを売りものにしてきた。それがかつての二枚目、55歳のトム・クルーズというのがおかしい。『フォールアウト』はその6作目。

物語にそってアクションするというより、アクションのためにストーリーがつくられている感がある。撮影中、トムがロンドンでビルから跳んでくるぶしを骨折、6週間休んだというおまけつき。wikipediaによるとその間、8000万ドル払って役者とスタッフを他の映画に取られないよう拘束したそうだ。もっともこの金は保険でまかなわれたそうだから、トムが事故に遭う可能性は織りこみ済みということか。

「陸上選手さながらのビルジャンプ」「ヘリコプターにしがみつき、落下するアクション」「2000時間の飛行訓練を経たヘリコプター操縦」「高度7620mからのヘイロージャンプ」と売りものシーンがつづくなかで、いちばんすごいのは最後の断崖絶壁でのヘリコプター対決。まさかこれ全部実写じゃないよね。VFX使ってるよね。と思いながら、どこまで本当にやってるんだろうとはらはらしてしまう。設定はカシミールだが、ノルウェーの有名な絶壁で撮影したらしい。

パリ市街の狭い道路でのカーチェイスも、実際に撮ってるんだろうなあ。すごい。

イーサン(トム・クル―ズ)を中心に、メカ(と笑い)を担当するベンジー(サイモン・ペッグ)、ルーサー(ヴィング・レイムス)、美女のスパイ、イルサ(レベッカ・ファーガソン)とチームが固定されてきて、いかにもシリーズものらしくもなってきた。今回はシリーズ3作目に出てきた婚約者のジュリア(ミシェル・モナハン)も再登場する。レベッカ・ファーガソンとミシェル・モナハンが同じタイプでどことなくトムの元妻ニコール・キッドマンと雰囲気が似てるのは、トム(プロデューサーでもある)好みの美女ってことなんだろうか。

アクション映画にしては上映時間が長すぎて(切れなかったんだろう。148分)、ロンドンのシーン、ちょいと中だるみする。個人的には、ジェレミー・レナーが相手役になった『ゴースト・プロトコル』(レア・セドゥも女殺し屋で出てきたし)と『ローグネイション』のほうが好みかも。

とはいえ猛暑には、やはり何も考えないで楽しめるこういう映画もいい。監督は前作につづいてクリストファー・マッカリー。「フォールアウト」は公式HPでは「余波」と訳してたけど、プルトニウムの争奪戦だから「死の灰(fallout)」のことかな?


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August 19, 2018

『カメラを止めるな!』の社会現象

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One Cut of The Dead(viewing film)

日比谷の東京宝塚劇場地下にある旧スカラ座は、今どきの映画館に珍しく大スクリーンで座席数も多い、大きな映画館だった。今は隣にできたミッドタウン日比谷のシネコン、TOHOシネマズと地下通路でつながり、その一部になっている。東宝配給のいわゆる大作は近くの有楽町マリオンにかかってしまうせいか、旧スカラ座は映画館の大きさに見合う作品があまり上映されていなかったように思う。たまにスカラ座に行っても、ぱらぱらとしか客が入っていなかった記憶しかない。

その旧スカラ座に『カメラを止めるな!』を見にいったら、平日の午後で座席の7割以上が埋まっているのに驚いた。若いカップル、女性同士も多く、ざわざわと映画が始まる前の期待感や熱気すら感ずる。旧スカラ座のさらに昔、道路を隔てたところにあった元祖スカラ座の満員の映画館(有楽座だったか?)で、『アラビアのロレンス』はじめ数々の映画を見たときの興奮をちょっと思い出した。

『カメラを止めるな!』は、6月にミニシアター2館で公開され、2週目から満員立ち見が出るようになり、7館、そして100館と上映館が広がっていった。低予算のインディペンデント映画が口コミやSNSで評判になり、客が詰めかける例は過去にもあったけれど、これほど大規模なのは日本映画で初めてじゃないかな。ふだん映画を見ない層が映画館にわざわざ駆けつけたわけで、ともかくもめでたい。これがきっかけで映画ファン、映画館で映画を見る楽しさに目覚める若い人が少しでも増えるといい。

映画はその成り立ちの当初から産業でもあった。いまデジタル化の波のなかで旧来の映画産業だけでなくアマゾンやネットフリックスが製作に参入してネット配信のみの映画が生まれるなど、映画をつくる環境、見る環境が大きく変わりつつある。そういう時代に映画館にたくさんの人が詰めかけるのは、僕のように古い映画ファンにはぞくぞくするほど嬉しい。

これだけの客を呼べたのは、やはり『カメラを止めるな!』が楽しめる映画になっているからだろう。正直のところ作品の質は映画のなかのセリフを借りれば「そこそこ」だけど、映画をつくることについての映画という通好みの題材をコメディーに仕立てて、いろんなアイディアが詰めこまれているのが買える。笑って、ちょっと怖がって、でも楽しんで、最後にみんなでいい気持ちになれる。映画ファンでなくても面白がれる要素をそなえている。

冒頭の37分は、ゾンビもの。人里離れた廃工場でゾンビ映画を撮影中のクルー。カメラマンや助監督が次々に本物のゾンビになってしまい、主演の女優(秋山ゆずき)や男優(長屋和彰)に襲いかかる。モノクロームで、37分が手持ちカメラのワンショット。不自然な間やセリフがあって、自主製作映画ふうのチープなつくりになっている。

エンドマークが出て、まさかこれで終わりじゃないよなと思っていると、次のパートが始まる。いわばゾンビ映画のメイキング。「早い、安い、そこそこ」と評判のテレビ番組の監督(濱津隆之)が、ゾンビ専門チャンネルの開局記念に、「ゾンビ映画をつくっていたクルーがゾンビに襲われる」番組を30分生中継、ワンカットでつくってくれと頼まれる。冒頭の37分が、その生中継の映像だったというわけ。

スポンサーやプロデューサーの意向にさからえない監督は、家庭でも元女優の妻(しゅはまはるみ)や演出家志望の娘(真魚)に頭が上がらない。情けない監督が、準備が進み、生中継の本番ではどんどん本気になってゆく(「カメラを止めるな!」の決めゼリフ)。主婦業の妻が現場でいきなり女優として出演し、のめりこんでゆく。娘がスタジオを仕切る。3人の、家庭と現場のあまりの差がおかしい。

冒頭のワンカット映画で不自然だった間やセリフも、ここで舞台裏が明かされる。30分ワンカットの最中にカメラマンが転んでしまい画像が止まったり、アル中の出演者が酒を飲んで泥酔状態になったり、機材がこわれてしまったり、そんなアクシデントをどうとりつくろって生中継をつづけるか。冒頭のワンカット映画とその舞台裏の落差が笑いになる。これらは脚本に書かれ演出された「アクシデント」だが、上田慎一郎監督のインタビューによると、ワンカットの撮影中にシナリオにない本当のアクシデントが起き、それもなんとかしながらの撮影だったそうだ。その必死さがまた笑いを呼ぶ。

映画のなかのカメラマンが撮影する画面。出演者であるカメラマンとカメラを撮っているカメラの画面。ワンカット映画がどうつくられたかを明かすメイキングの画面。三つのレベルの画面が入り組んで、映画をつくることについての映画になっているのは、この映画が監督・俳優養成学校であるENBUゼミナールのプロジェクトだからだろう。

上田監督はインタビューのなかで、ジョージ・A・ロメロとかトビー・フーパーとかゾンビ映画の古典をつくった監督の名前を挙げている。僕はゾンビ映画をほとんど見ないけど、ゾンビ映画のファンなら、ここはあの映画のあの場面、この映画のこの場面と、そんな楽しみもあるだろう。

ほとんど無名の役者たちだけど、監督役の濱津隆之がいい味出してる。面白いバイプレイヤーになるんじゃないかな。

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August 06, 2018

『ウィンド・リバー』 アメリカの「インビジブル・ピープル」

Windriver
Wind River(viewing film)

10年前、ニューメキシコ州サンタフェから先住民プエブロ族の保留地を車で走ったことがある。リオ・グランデ川の両岸に灌木の茂った荒野(砂漠)が延々とつづき、人家はほとんど見当たらない。そんな荒涼とした風景のなかに、いきなりカジノとホテルが出現する。先住民の保留地は自治権を持っているが、雇用と利益を生む産業(?)としてカジノが認められている。とはいえ鎌田遵『ドキュメント アメリカ先住民』(大月書店)によれば、カジノがうまくいっている保留地は少なく、大半の保留地では失業、アル―コール依存、ドラッグ依存、性暴力、ギャングなどの問題が蔓延している。

『ウィンド・リバー(原題:Wind River)』は、ワイオミング州にあるアラパホ族、ショショニ族の保留地。9000㎢の広大な地域にわずか26000人が住み、その80%が先住民だ(wikipedia)。そもそも保留地は、土地を追われた先住民を「人が住むべきでない地」(テイラー・シェリダン監督、公式HP)に強制的に押し込め、名目的な自治を与えたがドラッグ、暴力などさまざまな問題を生んだ「アメリカの最大の失敗」(同監督)と言われる場所だ。この映画は、そこを舞台にしている。

ワイオミングの映画といえば、心に残るのは雪の風景。『シェーン』で主人公シェーンは雪の山道を踏み越えてやってきたし、『ブロークバック・マウンテン』でも2人の男の背後にある山は雪に覆われていた。『ウィンド・リバー』の冒頭も夜の雪原。先住民の少女が、なにものかから逃げるように走っている。この映画でも、雪の風景が登場人物のさまざまな心象を映すイメージの鍵になっている。

先住民の妻と離婚した野生生物局のハンター、コリー(ジェレミー・レナー)が、保留地の雪原で狩りをしていて先住民の娘の死体を見つける。殺人事件なので部族警察でなくFBIが呼ばれ、新人捜査官のジェーン(エリザベス・オルセン)がやってくる。雪原での動き方すら知らないジェーンはコリーに助けを求め、部族警察のベンとともに捜査に当たることになる。死体があったのは人家から遠く離れた雪原だが、何キロも先にあるのは犯罪者やドラッグ中毒が集まる先住民の家と、石油掘削基地にある白人のトレーラー住宅だった。

保留地は自治ということになっているが、広大な保留地に部族警察官は6人しかいない。無法地帯と変らない。捜査は命がけだ。札付きの先住民の家では銃撃戦になる。石油掘削基地でも従業員は武装し、はじめから喧嘩腰で互いに銃を向け合うことになる。

捜査のなかであぶりだされるのは先住民の置かれた環境だ。札付きの先住民の家にたむろしていた被害者の弟はドラッグ中毒。先住民の妻との間にできたコリーの娘も、かつて行方不明になり死体で発見された。夜、コリーの妻の実家を訪れたジェーンに、コリーはそう自分の家族のことを語る。コリーの娘と被害者は高校の同級生だった。

それがコリーがジェーンに協力する理由なのだが、だから最後にコリーが犯人を追い詰めたとき、(もともと警察権を持ってないし)法の執行でなく復讐の色合いを帯びることになる。傷ついたジェーンもそれに同意していた。

いくつもの短いショットが先住民の悲しみを伝える。防寒具を用意してこなかったジェーンがコリーの娘(殺されていたことが後に観客にわかる)のものを着て部屋から現れたとき、娘の祖母が見せる一瞬胸をつく表情。無力感にとらわれながら、淡々と自分のなすべきことをする部族警察のベン。これから収監されたドラッグ中毒の息子を迎えにいく、と静かにコリーに語る被害者の父。

保留地とそこに暮らす人々は、ケイト・ブランシェットが『万引き家族』を評した言葉を借りれば、アメリカ人にとっての「インビジブル・ピープル(見えない人々)」だろう。8年前に公開された『フローズン・リバー』もカナダ国境の保留地を舞台にしたクライム・ストーリーで、コートニー・ハント監督の長編第1作だった。『ボーダーライン』の脚本家テイラー・シェリダンが監督第1作に選んだこの映画も居留地と先住民が主題になっていて、アメリカ(ハリウッド)でも意欲的な新鋭がこういうテーマを積極的に選ぶことに頼もしさを感ずる。

シェリダン監督は、本作の前に劇場公開しないネットフリックス・オリジナル映画『最後の追跡(原題:Hell or High Water)』の脚本を書き、これも評判になった(ジェフ・ブリッジス主演。アカデミー賞にノミネート)。いま、ネットフリックス・オリジナルやアマゾン製作などで、次々に意欲作がつくられている。劇場未公開映画のノミネートをめぐって、カンヌ映画祭とネットフリックスが対立したことは記憶に新しい。映画をつくる、見る環境がどんどん変わってゆく。映画館の暗闇、という映画を見ることの魅惑は20世紀のものだったのかもしれない。


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July 10, 2018

『ゲッベルスと私』 103歳に刻まれた皺

A_german_life
A German Life(viewing film)

ナチの宣伝大臣ゲッベルスの秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼル。撮影当時103歳の老女の顔、というより皮膚のすべてに刻まれた無数の深い皺を、カメラがあらゆる角度から撮影している。黒い背景のなか、椅子に座った彼女が語る。目元や口元のアップから上半身のバストショットまで、ほとんど変化のないモノクローム映像。時に皮膚の細部は人間のものとは思えない相貌を見せてぎょっとさせられる。その映像の力が、『ゲッベルスと私(原題:A German Life)』を支えている。

ブルンヒルデの語りの合間に、各国が製作したニュース・プロパガンダ用の記録映像が挿入される。彼女は30歳の1942年からナチスが敗北するまでの3年間、ゲッベルスの秘書として彼の近くにいた。でも「言われたことをタイプしていただけ」で「ホロコーストについては何も知らない」と言う。彼女が本当のことを語っているのかどうかはわからない。挿入される強制収容所や虐殺されたユダヤ人の映像。69年の沈黙を破った語りと記録映像。映画はそれを何のメッセージもなしに交互に観客に見せる。そこから何を受け取るかは観客に任されている。

ブルンヒルデの皮膚に刻まれた深い皺は、69年という時間を意味していよう。でも、ホロコーストを生んだ人種差別やナショナリズムの問題は何ひとつ解決していない。というより、21世紀になって人種や宗教上の対立や排外主義、ナチスと同様に大衆を動員するポピュリズムは世界のあらゆる場所で燃えさかり、世界は野蛮に向かっている。ブルンヒルデが仮に何も知らなかったとしても、知らなかったこと、知ろうとしなかったことが、ナチスを支えた。それは、この映画を見る私たちの問題でもある。

監督はクリスティアン・クレーネスら。クリスティアンが設立した映像プロダクション、ブラックボックス・フィルムの製作。撮影機材はソニーの高精細ビデオカメラHD-CAM。


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