January 28, 2023

『シャドウプレイ』の陰影

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久しぶりに劇場で見た映画がロウ・イエ監督の『シャドウプレイ 完全版』。実に面白かった。

ロウ・イエといえば、天安門事件を題材にした『天安門、恋人たち』で中国政府から5年間の製作禁止、上映禁止の措置を食らっている。その後につくった『ブラインド・マッサージ』など3本は、どれもロウ・イエらしい実験的で完成度も高い映画だったけど、中国の政治や社会を正面から扱ったものではなかった。新作『シャドウプレイ』は、再び中国現代史ともいうべき時代を背景にしている。天安門事件の1989年から習近平が権力を掌握した2013年まで。改革開放から高度成長と不動産バブルの時代を生きた、男と女の野望と犯罪を巡る物語だ。

2013年、広州。林立するオフィスビル群をカメラが上空から俯瞰して移動していくと、高層ビルに囲まれて古びた住宅の一帯がある。カメラがさらに近づくと、瓦礫に囲まれた空間で少年たちがサッカーをしている。出だしのリズムとテンポが素晴らしく、一気に引き込まれる。この地区で再開発の賠償金を巡って住民暴動が起き、駆けつけた市の開発責任者タン(チャン・ソンウェン)が死体で発見される。刑事のヤン(ジン・ボーラン)が調べを進めると、再開発を請け負った不動産会社の社長ジャン(チン・ハオ)とタンはかつての仲間で、タンの妻リン(ソン・ジア)はかつてジャンの恋人であり、今は愛人となっていた。ジャンは台湾に渡って不動産業で成功したが、その共同経営者で一緒に広州に戻った愛人の台湾人アユン(ミシェル・チェン)が失踪していたことも分かる。

描かれてるのは不動産業者と役人の癒着、腐敗に絡む2件の殺人なのだが、この映画がよく中国で公開されたなあ、と思う。実際、完成してから公開まで2年、当局と検閲をめぐって長いやりとりがあったという。今回、「完全版」とうたっているのは、中国国内ではカットされた5分間が復元されているから。

今の中国ではリスキーなこの映画を製作するに当たって、ロウ・イエと、妻で今作の脚本家でもあるマー・インリーが考えぬいたんじゃないかな、と思うことがふたつある。ひとつは、映画の「現在」を習近平体制が生まれた2013年に設定したこと。権力を握った習近平は、この映画に描かれたような腐敗の摘発(という名目で政敵の排除)に乗り出した。だからこの物語は表面的には、習近平を批判することになっていないという理屈が成り立つ。もちろんロウ・イエの視線がそのような短いスパンの政治でなく、改革開放から現在までを貫く中国資本主義の暗部に向いているのは、映画を観た誰もが感ずることだが。

いまひとつは、ノワールというエンタテインメント仕立てにしたこと。犯罪、サスペンス、犯人捜しは映画の王道で、どの時代、どの国でも繰り返しつくられてきた。この映画は手持ちカメラを多用したり、現在と過去のいくつもの時制が複雑に入り組んだり、ロウ・イエらしい実験的なつくりは変わらないけど、ノワールという「ジャンル映画」のスタイルを取ることで、深刻な社会批判の映画でなく大衆的な娯楽映画という顔も持つことになった。無論、ロウ・イエが目指したのは社会批判のいわゆる「社会派」映画ではなく時代に翻弄される男と女の物語だから、ノワールになったのは戦術ではなく必然だったかもしれない。ここでは探偵役の刑事も第三者的な観察者でなく、リンの娘ヌオ(マー・スーチュン)と関係を持つことで欲望の渦に巻き込まれた当事者になってしまう。

6人の男と女が絡み合うドラマのなかで、広州市幹部の妻で、富豪の開発業者の元恋人、現在は愛人であり、ある秘密を抱えて生きるリンを演ずるソン・ジアのたたずまいが、哀しみを湛えて心に残る。台湾や香港も舞台になり北京語広東語台湾語が入り乱れるので、聞き分けることができるとこの映画の複雑な陰影がもっとよく分かるだろう。

原題「風中有朶雨做的雲(風のなかに雨でできた一片の雲)」は劇中で使われる曲のタイトルをそのまま。監督自身はエンディングで使われる別の曲「一場遊戯一場夢(一夜のゲーム、一夜の夢)」にしたかったようだが、検閲でダメと言われたという。The Shadow Play(影絵芝居)は英題。

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November 18, 2022

「あちらにいる鬼」映画と小説

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「あちらにいる鬼」の映画と小説をそれぞれに楽しんだ。

井上荒野の小説は、作者の母・笙子と、父の愛人みはる(瀬戸内寂聴)、両者の視点から父・篤郎(井上光晴)とみはるの関係を描く。作者は寂聴にも取材しているが、母・笙子の視点から見た二人の関係が面白かった。いわゆる三角関係でなく、篤郎が笙子にみはるのことを意識的に知らせたり、篤郎の死後は笙子とみはる(寂光)が仲良くなったり。一方、篤郎の男としての狡さ、でたらめさはよくわかる。娘にこんなふうに書かれて、あの世の井上光晴はどんな顔してるだろう。いや、喜んでいるか。井上荒野を読むのははじめてだったが、こんなうまい、いい小説を書くのかと驚いた。

映画はこの長編小説のエッセンス、三人三様の愛の微妙な関係をうまく掬いとっている。状況としては修羅場であるはずの場面でも、誰も泣かず喚かず、画面が終始穏やかさを保っているのがいい。主演・寺島しのぶ、監督・廣木隆一、脚本・新井晴彦は『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』という印象に残る映画のトリオだから期待して見にいったが、期待にそむかず。廣木隆一は女優をきれいに撮るのがいい。剃髪前も剃髪後も、寺島しのぶが美しかった。

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July 31, 2022

イタリア映画祭

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『剥製師』(イタリア映画祭2022公式HPから)

先日、数年ぶりに映画館で映画を楽しみ、さて次はと思っていたらあっという間にBA5の感染者が増え、また映画館に行きにくい状況になってしまった。で、その間に楽しんでいるのがネットの映画配信。特にイタリア映画祭2022が粒より。今年の映画祭に出た新作のオンライン配信は終わったが、過去の出品作から選ばれた作品が8月7日まで見られるようになっている。アート的なものもエンタテインメントもあり、旧作は1000円で見られるのもありがたい。

新作でよかったのは『笑いの王』。20世紀初頭のナポリ演劇界を風刺的な笑いで席捲したスカルペッタの栄光と没落。100年前のナポリの人間と街にうっとりする。『ある日、ローマの別れ』はひねりの効いたロマンチック・コメディ。旧作で見たのは『剥製師』。小人症の動物剥製師と彼に弟子入りした若い男、旅の途中で加わる若い女の不思議な関係。ロードムーヴィーふうな味わい。『南部のささやかな商売』も楽しめた。女のことで神父をやめた中年男が故郷に帰り、村から離れた灯台にひとり住む。そこにワケアリの男や女が集まって……。笑いあり、ほろりともさせ、元気にもしれくれる。ほかに『日常のはざま』や『乳母』も見てみたい。今週はイタリア映画漬けになりそう。

 

 

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June 29, 2022

3年半ぶりに映画館

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3年半ぶりに映画館で映画を見た。自分の病気、コロナ、カミさんの病気と続き、自分のときもカミさんのときも感染症が最大の敵、と言われて映画館から足が遠のいた。カミさんがいなくなり、自分もコロナ感染を経験して、次の変種が流行するまで大丈夫だろうと、まずは美術館に出かけ、今日はようやく映画館に行った。小学5、6年で映画少年になって以来、こんなに映画館に行かなかったのは初めてだ。この間、TSUTAYAの郵送レンタルやネットフリックスや配信を利用していたから映画をまったく見なかったわけではないけど、とりわけミニシアター系の映画は見逃したものが多かった。今日は自宅からいちばん近いシネコンで『ベイビー・ブローカー』を。後ろに人がいるのは気になるからと最後尾の列を選んだら、同じことを考える人が多いのかこの一列だけ満席だった(笑)。

やはり映画館の大スクリーンで見る映画はいい。空気感からして違う。画面の小さな動きや揺れが、映画のリアルに直結している。疑似家族が各地を旅するロードムーヴィーはまぎれもない是枝映画。冒頭の雨の街から、ホン・ギョンピョ撮影の釜山やソウルや地方都市の風景に見惚れた。

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January 27, 2021

『Mank マンク』 『市民ケーン』の誕生

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ネットフリックスでなければ多分つくれなかった映画がまた一本。デヴィッド・フィンチャー監督の『MANK マンク(原題:MANK)』は、監督が以前ハリウッドで撮ろうとして挫折した企画を、ネットフリックス・オリジナルで実現した作品だ。

MANKとはハーマン・J・マンキウィッツの愛称。ハリウッドの古典『市民ケーン』で、監督のオーソン・ウェルズとともに共同脚本を書いたことで知られる。というより、今ではアカデミー賞脚本賞を受賞したこの映画でのみ記憶されていると言ってもいいだろう。マンキウィッツと言えば『イヴの総て』や『クレオパトラ』を監督した、ハーマンの弟であるジョセフ(『MANK』にも登場する)のほうが有名だ。

『MANK』はハーマンが『市民ケーン』の脚本を書きあげる60日間を、過去現在を交錯させながら描いたもの。フィンチャーのことだから、そこに過剰とも思えるほどいろんな仕掛けをほどこしている。

冒頭、ネットフリックス製作のロゴマークが映しだされる。『市民ケーン』はRKO製作。ハリウッド映画のロゴマークといえばMGMのライオンが有名だけど、RKOのロゴといえば地球儀にそびえる電波塔から電波が四方に放たれるもの。このロゴを借用して、電波塔から電波が放たれ、その中心にネットフリックスのNがデザインされている。そこから始まって、あらゆるところで『市民ケーン』のスタイルが踏襲される。だから画面は当然モノクローム。録音もモノラル録音という凝りよう(ただし画面の比率だけはスタンダード・サイズでなく、テレビ画面の比率に合わせている)。製作された1941年当時の映画のあり方をそのまま再現しようとする。

中身も『市民ケーン』のスタイルを踏襲している。この映画は過去と現在を繰り返しフラッシュバックさせる構成を取っている。当時は斬新な手法で、だからこそアカデミー賞を受賞したんだろう。『MANK』も同じ。マンクが『市民ケーン』の初稿を書く現在と、そこに至る背景を描く過去とが複雑に絡み合う。

マンク(ゲイリー・オールドマン)は二人の人物と葛藤を繰り返す。ひとりは、『市民ケーン』のモデルである新聞王ハースト(チャールズ・ダンス)。莫大な遺産を受け継いだハーストは、ニューヨークはじめ各地の新聞や放送局、映画会社を支配する富豪。宮殿のような大邸宅に住み、女優になりたいと望む愛人のマリオン(アマンダ・サイフレッド)を主演に何十本もの映画をつくった。『MANK』の冒頭でマンクは撮影中のマリオンと顔を合わせる。マンクはハーストが催すパーティの常連でもあった。ハーストは酔って辛辣な言葉を繰り出すマンクを面白い男だと「飼って」いた(マンクのことを時に「MONK(EY)」と呼んだ)。MGMに所属する脚本家のマンクは、MGMにも影響力をもつハーストに喧嘩を売るかっこうで、彼とマリオンをモデルに大富豪の孤独と独善的な愛が語られる『市民ケーン』の脚本を書きすすめる。

マンクが葛藤を繰り広げるもうひとりは監督のオーソン・ウェルズ(トム・バーク)。このときウェルズはまだ20代。実験的な劇団を持ち、ラジオドラマ「火星人襲来」で本物と間違えた聴取者がパニックを引き起こして有名になり、この天才的な才能をRKOが映画製作の全権を与える条件で迎え入れた。最初の契約で、マンクは名前をクレジットされないゴーストライターだった(最初のプランはコンラッドの『闇の奥』──コッポラ『地獄の黙示録』の原案──の映画化だった)。ニューメキシコの砂漠にある牧場に滞在して初稿を書きあげたマンクは、その出来に自信を深めたのか、ウェルズに自分の名を脚本としてクレジットするよう要求する。怒り狂ったウェルズがトランクを投げて部屋をぶち壊すと、マンクはさっそくそれを映画で使おうとメモを書き始める。

点描される時代背景も興味深い。大恐慌後の不況で、多くの人々が生活苦にあえいでいた。カリフォルニア州の知事選は民主党のリベラルと共和党の保守の対決となる。ハリウッドの経営者やハーストは民主党の候補を「共産主義者」と攻撃し、マンクの友人の監督にフェイク・ニュースをつくるよう強要する。ハーストや経営者はヨーロッパで台頭してきたナチスにも関心を示すが、マンクはナチスから逃れてきたユダヤ系ドイツ人を援助したりしている。映画の最後に近く、ハースト邸のパーティで酔ったマンクがハーストを悪しざまにののしるシーンは、ゲイリー・オールドマンの見せ場。フィンチャー監督は、この時代の描写に戦後の赤狩りや、さらにトランプ時代を重ねているようでもある。

でもフィンチャーはことさらドラマチックに演出することなく、いつものようにクールなタッチで、歴史のなかに消えかけているアルコール依存で反骨で辛辣な、しかし心優しい男の肖像を描いている。だからこの映画、『市民ケーン』やオーソン・ウェルズ、ハーストについて多少の知識がないと、その面白さが十分に伝わらない。その意味でもハリウッド映画としては成り立たず、善くも悪くもネットフリックスでしかつくれなかった、観客を選ぶ映画かもしれない。

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January 01, 2021

2020年の映画10本

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昨年は、一昨年に引きつづいてリハビリと、言うまでもなくコロナのせいで、一度も映画館に行けませんでした。ですから気になる新作をほぼ見られず、見たのはDVDとネットフリックスだけです。毎年つくるのを愉しみにしていたベスト10はおこがましいので、備忘録を兼ねて順不同で10本挙げることにします。

●『ダ・ファイブ・ブラッズ』
スパイク・リー版『地獄の黙示録』。ベトナム戦争に従軍したアフリカ系兵士5人が45年後に現地を訪れる。モータウン・サウンドをバックに老人たちが宝探ししながら、戦後PTSDを発症したある出来事に向き合う。面白かった。

●『ロングデイズ・ジャーニー』
中国映画第7世代と呼ばれる若手、ビー・ガン監督の第2作。現実の小都市から幻想の都市への旅。全体が夢か記憶のなかの出来事のように儚げで美しい。年長世代のように社会や政治への関心を示さないのは成熟なのか閉塞なのか。

●『マザーレス・ブルックリン』
このところハードボイルド映画は流行らないけど、久しぶりに出会った1本。しかも10年前に暮らしたブルックリンが舞台で、なじんだ風景が出てくるのが懐かしい。都市開発に絡む犯罪で、エドワード・ノートンが脚本・監督・主演を兼務。

●『ザ・ライダー』
怪我を負ったロデオ・カウボーイが調教師として再出発を志す。アメリカ中西部の風景のなかで荒馬との交流が心に沁みる。寡黙な青春映画。主演はじめカウボーイが本名で出演し、監督は中国系女性のクロエ・ジャオ。

●『パラサイト』
 倒錯したホームドラマであり、サバイバル映画であり、ホラー的な要素もあり。こういうのが映画だぜ、という監督の自信。家族観や単純化には批判もあるけど、骨太のエンタテインメントだからこそアカデミー賞まで行きついた。韓国映画の力。

●『オールドガード』
とにかくシャーリーズ・セロンが恰好いい。ショートカットを黒髪に染め、セクシーなブロンド娘を封印して暴れ回る。アメコミ原作の荒唐無稽なお話だけど、アクションの切れにも惚れ惚れ。

●『リチャード・ジュエル』
最近のクリント・イーストウッドは現実の事件を素材にした映画が多い。これや『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』のように本人が出演しないと普通の社会派映画に見えかねないけど、『運び屋』のように本人が出演すると俄然、血が通ってくる。とはいえ、それでも楽しめるのがイーストウッド。

●『シカゴ7裁判』
1968年シカゴ民主党大会でのデモ隊の衝突で起訴された7人の裁判を描く法廷映画。冤罪で起訴されたアフリカ系過激派ブラックパンサーと白人学生との対立を交えながら、テンポよく公判を追って政府の嘘を暴く。

●『ロマンスドール』
美大出のラブドール職人・高橋一生と美術モデル・蒼井優のラブストーリー。ピエール瀧がいい味出してる。蒼井優とタナダユキ監督のコンビは『百万円と苦虫女』以来だけど、相性はぴったり。

●『マリッジ・ストーリー』
スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーの夫婦がニューヨークとロスを舞台に苦い別れ。監督は『イカとクジラ』など現代的ホームドラマを得意とするノア・バームバック。

 

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December 13, 2020

『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』 成熟か閉塞か

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先日見た『凱里ブルース』だけでなく、今年2月に劇場公開されたビー・ガン監督の新作『ロングデイズ・ジャーニー
この夜の涯へ(原題:地球最后的夜晩)』もネットフリックスで見られるとは思わなかった。後半のワンシークエンスショット60分が3Dであることがこの映画のウリだけど、テレビ画面で見るわけだから3Dにはならない。でも当方、劇場ではIMAX3Dもあえて2Dを見るくらいだから何の支障もない。

『ロングデイズ・ジャーニー』は『凱里ブルース』とほぼ同じ構造をもっている。主人公が現実の場所を動き回るうちに夢とも記憶ともつかない架空の場所に紛れ込む。監督のデビュー作『凱里ブルース』は低予算で役者も親戚知人を使って撮った自主映画ぽい作品だったけど、これが世界の映画祭で評価されたことでつくることができた『ロングデイズ・ジャーニー』は、『凱里ブルース』の商業映画版リメイクといえるかもしれない。

ホンウ(ホアン・ジュエ)は母の死を知って故郷の凱里(貴州省)に帰ってくる。彼は死んだ友人<白猫>を殺したならず者ヅオの愛人だったチーウェン(タン・ウェイ)を見つけるが、彼女はホンウの夢に出てくる女とそっくりだった。ホンウとチーウェンは愛し合うようになりヅオを殺そうと話しあうが、ある日チーウェンは姿を消した。彼女がダンマイという町で歌っていると聞いて、ホンウはダンマイを訪れる……。

艶やかな映像が素晴らしい。赤くネオンが光る凱里の街角。濡れたトンネルを歩くチーウェンの緑のワンピース(『めまい』のキム・ノヴァクを思い出す)。天井から水の滴る廃屋(こちらはタルコフスキーか)。そして現実の町・凱里から劇場なら3D眼鏡をかけて架空の町・ダンマイへ。露天にしつらえられた舞台では、ひと時代前のようなCポップが歌われている。思い思いの恰好でそれを見る男や女や子供たち。ビリヤードに興ずる少年。駄菓子を売る夜店。夢のなか、あるいは記憶のどこかに残っている風景のような懐かしい気配がただよう。

これに似た風景に20年前に出くわしたことがある。一人旅で行った台南(台湾)。日曜日の夕方に町をぶらぶら歩いて、遠くから聞こえてくる台湾歌謡曲に導かれて広場に出た。野天の舞台では曲にのせてストリップまがいの踊りが披露されている。男たちが笑いながらそれを見ていて、その間を子供やイヌが走り回っている。露店では色とりどりのパジャマやネグリジェが売られている。台北よりもっと南の湿気の高い空気が肌にまとわりついて、ちょっと怪しげな、でもどこか懐かしい風景をしばらくながめていた。

そんな個人的記憶が引き出されたように、おおかたの中国人にとってもこの架空の町の手触りはどこか記憶の底にある風景に違いない。31歳のビー・ガン監督は台湾のホウ・シャオシェンや香港のウォン・カーウァイが好きだと語っている。郷愁を誘う風景を好むホウ・シャオシェンの影響は明白だけど、都会的な映画をつくるウォン・カーウァイの影はどこにあるだろうか。彼の映画には1990年代、中国返還前後の香港の植民地のような孤独な浮遊感が漂っていた。そんな孤独な魂の彷徨が、『ロングデイズ・ジャーニー』にも感じられる。その背後にあるのは、現在の中国社会の成熟と言えるかもしれないし、裏から見れば閉塞とも言えるかもしれない。

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November 09, 2020

『凱里ブルース』 現実と夢の狭間で

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ネットフリックスにこの映画があるとは思わなかった。『凱里ブルース(原題:路边野餐)』。中国新世代を代表するビー・ガン監督が26歳でつくった長篇第1作。日本では今年6月に公開された。監督が低予算で親戚や友人を出演者に、故郷の貴州省凱里で撮影した2015年の作品。ロカルノ映画祭などで高く評価され一躍その名を世界に知られた。

リアリズムと非リアリズムの間をたゆたう110分間。亜熱帯の官能的な緑と、後半、40分間のワンシーンワンカットの過去現在未来が入りまじった夢のような世界に酔う。これが処女作とは信じられない。

刑務所を出所したチェン(チェン・ヨンゾン)は、凱里の老女医が営む小さな診療所で人目を忍ぶように働いている。服役の間に妻は亡くなった。腹違いの弟の息子ウェイウェイを可愛がっていたが、ある日、そのウェイウェイがいなくなる。チェンは甥を探し、また老女医の若き日の恋人に思い出の品を届けるため旅に出、その途中でダンマイという町に入り込む。

そのダンマイのシーンが40分のワンカット。バイタクシーの背に乗ったチェンが道を走って町に入り、裁縫店で取れたボタンを縫ってもらうと、カメラはチェンから離れ裁縫店の女性ヤンヤン(ルナ・クオック)に寄り添って彼女とともに町をひとめぐりし、カメラは再びチェンに戻って理髪店に行って散髪してもらい、理髪店の女性と野外のライブを見に行く。裁縫店のヤンヤンはチェンの亡き妻の面影に重なるようでもあり、バイタクシーを運転する青年はウェイウェイの未来の姿のようでもある。カメラが町をひとめぐりするのと、過去現在未来の時間がひとめぐりするのがシンクロしているように感じられる。

ワンシーンワンカットでは常に手持ちカメラが動いている。一瞬たりとも静止することのない40分が独特の浮遊感をもたらす。夢を見ているように感じられるのは、そのせいもあるんだろう。

過去現在未来が混然となった世界を象徴するように、いくつもの時計が登場する。ウェイウェイが壁に釘を打ってつくった時計に光が射して釘の影が回る。チェンの乗る列車がトンネルに入ると、逆回りする(過去に遡る)時計がトンネルの壁に映っている。

そんな非リアリズムとリアリズムが絡みあっている。リアリズムのパートはホウ・シャオシェンの影響が歴然。なかでも『恋恋風塵』へのオマージュかと感じられるくらい。どちらも緑濃い亜熱帯の自然。基隆山によく似た山影。鉄道線路とトンネルへの偏愛。『恋恋風塵』でも野外ライブではないが野外映画が上映されていた。別の映画だが、バイクでの疾走もホウ・シャオシェンが好む映像だ。音楽も、ホウ・シャオシェン映画で担当し、出演もしている台湾のリン・チャンによるもの。80年代台湾ポップスがノスタルジックだ。

古い街区が再開発され高層ビルも見える凱里の現在から、主人公は改革開放後の1990年代あたりのような架空の町ダンマイに迷い込む。ふっと一瞬蘇っては消える記憶や夢。ビー・ガン監督は、そんな世界に惹かれているようだ。

中国の映画監督たちは、ジャ・ジャンクーやワン・ビンは言うまでもなく、もっと若いディアオ・イーナンやロウ・イエも中国と中国人が体験している時代と社会に、ナマな批判ではないにしても静かに目をこらしている。この映画だけから判断すると、ビー・ガン監督の資質は彼らのそれとは少し違うようだ。2月に公開された次作『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』を見たい。

 

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October 10, 2020

『ダブル・サスペクツ』 地方都市の日常 

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『ダブル・サスペクツ(原題:Roubaix, une Lumière)』をDVDで見た。劇場未公開のフランス映画。wowowで『ルーベ、嘆きの光』のタイトル(このほうが原題に近い)で放映されたことがある。アルノー・デプレシャン監督の故郷である北フランス、ベルギー国境で人口10万足らずの小さな町ルーベを舞台にした作品。

町の警察署長ダウード(ロシュディ・ゼム)が車を運転しながら、路上で燃えている車を見つける場面から始まる。警察では、通報を受けてパトカーが出動している。バーの喧嘩。強盗。貧困地区のアパートで放火。娘の失踪。路上で炎上していた車の持ち主が、外国人にやられたと訴えにくる(保険金目当ての狂言)。

町にはイスラム教徒やアフリカ系移民が多い。ダウードもこの町で育ったアラブ系フランス人。一人暮らしで、家族は北アフリカ(アルジェリアだろう)へ帰った。刑事が少ないので、彼自身も現場に出かけ、当事者の話を聞く。仕事が終わるとホテルのバーで孤独に過ごす。賭けはしないが競馬が好きで、馬を買おうとしている。甥はイスラム過激派と関係したらしく収監されている。住民の多くと顔見知りである温厚な警察官ダウードの目を通して、ルーベの町が描かれる。

いくつもの出来事のなかから、放火事件に焦点がしぼられてくる。焼けたアパートから殺された老女が発見される。隣家に住む女性カップル、クロード(レア・セドゥ)とマリーが嘘の証言をしたことから、2人に疑いがかかる。映画の後半、署長のダウードを中心に2人の証言の矛盾をつきながら真相がわかってくる。といって、大きな謎や驚く事実があるわけではない。財布と日用品を盗み、はずみのように老女を殺してしまう。映画的な興奮はない。

淡々とした描写から浮かびあがるのは、移民が多く、貧困層も多い地方都市の日常。そんな町に起きる出来事を署長として日々処理するダウードは最後、馬を買うことを決め、その馬が走る姿を観客席から見つめる。デプレシャン監督は、特定の誰かでなく町そのものを描きたかったんだろう。そこに「une Lumière(光)」とタイトルをつけたあたりに、監督の目線がうかがえる。レア・セドゥが貧しいシングルマザーをすっぴんで演じているのが魅力的。

 

 

 

 

 

 

 

 

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August 23, 2020

『上海』 ヤヌス的映画

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前から気になっていた亀井文夫の記録映画『上海』のDVDを手に入れ、ようやく見ることができた。

『上海 支那事変後方記録』と題されたこの映画は1937年8月、日本軍が上海に上陸して国民党軍と戦闘になった「支那事変」の数カ月後の上海を記録したもの。上海の戦闘は終わり、日本軍は南京攻略めざして進軍していた(南京での虐殺は知られているが、この進軍の過程でも掠奪、捕虜・市民の殺害が起きている)。映画の中で軍の広報官が「無錫」「常州」の名を出しているから、撮影は11月下旬だろう。日本映画社の製作、陸海軍の全面的協力でつくられたこの映画は、日本軍の勝ち戦と、上海に平和が戻ったことを宣伝するために企画された。

典型的なプロパガンダ映画なのだが、内容はその一言では片づけられない。監督(クレジットは編集)の亀井文夫は、ソ連に留学して映画を学んだ日本のドキュメンタリストの草分け。この映画の後、武漢作戦を記録した『戦ふ兵隊』は厭戦的との理由で上映禁止になり、治安維持法違反で逮捕されてもいる。だから『上海』を「成功した宣伝映画」と言う人もいれば、逆に「反戦映画」と評価する人もいる。

映画を見て、ふたつのこと(ひとつは撮影された対象、ひとつは撮影スタイル)が印象に残った。 

まず、戦死者の墓標。街角に、路地に、陸戦隊本部のあるビルの屋上に、クリークの縁に、野原に建てられた、戦死した兵士の真新しい木の墓標が、これでもかというくらい執拗に撮影されている。通りかかった兵士や小学生が、頭を下げて通り過ぎてゆく。日本人兵士だけでなく、国民党軍と共に戦った中国人女子学生の墓標も撮影されている。どちら側という区別はない。そして墓標の映像が喚起するのは、言うまでもなく死。この映画に直接の戦闘場面は出てこないが、撮影される直前におびただしい死があったことを、否応なく思い出させる。この墓標のショットは冒頭から前半に集中する。これは間違いなく意図的に挿入されている。 

もうひとつ気がついたのは、移動撮影が多いこと。水平に移動するカメラが、戦闘で破壊された街を、激戦のあったクリークの土手道を、日本軍が上陸に使った船艇の浮かぶ川を、行進する日本兵を見つめる人々を、ゆったりした速度でなめるように映してゆく。屋根が落ち壁だけになった家の残骸。土手道に機銃を据えるため数メートルおきに掘られた窪み。租界を行進する日本兵を日の丸で迎える日本人と、対照的に無表情に見つめる中国人。車上から撮ったのか、右から左へゆっくりと流れる長いワンショットは、見る者の感情を掻きたてるというより、逆に鎮める効果をもつ。勝利の興奮を呼び起こす映像ではない。この撮影スタイルも、明らかに意図されていると思う。

これを撮影したのはカメラマンの三木茂で、監督の亀井文夫は現場に行っていない(当時はそんなスタイルで撮影されることもあったようだ)。そのかわり事前に亀井が構成を考え、三木と打ち合わせたという。だから墓標のショットがたくさん挿入されているのも、移動撮影が多いのも亀井の構想だったのではないか。移動撮影の前後は、今となっては目新しいわけではないカットのつなぎで編集されている。でも例えば、墓標のショット、土にまみれたラッパのショット、野を舞う蝶のショット、とエンゼンシュテインばりのモンタージュもある。

映画の後半は、明らかに「やらせ」のシーンが多い。住民に日本兵が米を配ったり、日本兵が子供と遊んだり、フランス人牧師が日本軍に感謝の言葉を述べたり、中国人生徒に日本の歌を歌わせたり。日本軍の駐留で上海は平和が保たれています、というメッセージ。軍の協力によってできた映画だから、部分はともあれ、「やらせ」を後半に集中させることで全体をプロパガンダに回収した作品にはなっている。その意味では、戦争による破壊と死をメッセージ抜きに静かに写し撮った部分と、「やらせ」のプロパガンダと、ふたつの顔を持ったヤヌスのような映画とも言えそうだ。

現在の目で見るなら、テレビやネットで無数の映像に日々さらされて、見る者の映像リテラシーは戦前と比べものにならないほど高くなっているから、「やらせ」かそうでないかは比較的簡単にわかる。でも映画が大衆的メディアだったとはいえ、ニュース映像はまだまだ貴重で接する機会も少なかったから、観客は戦勝の映像に飢えていた。『上海』は翌38年2月に公開され、映画館は鈴なりの観客にあふれたという。亀井文夫が続けて『戦ふ兵隊』の監督に指名されたことからして、会社にとっても軍部にとっても『上海』は、まずは満足のいく作品だったに違いない。戦前の戦争の時代、戦後しばらく、教条左翼的評価が幅をきかせた時代、『上海』に対する評価は大きく揺れたが、どちらも遠くなった今となっては、亀井文夫・三木茂組が1937年の上海を冷静に見つめ映像に残してくれたことが、なによりの価値だろう。

 映画とは関係ないが、これらの映像が撮影されたと同時期に、何人かの気になる人物が上海にいる。写真家の木村伊兵衛と渡辺義雄は、外務省情報部の委託で上海と、陥落後の南京を撮影していた。映画『上海』が公開された翌月、銀座三越で「南京─上海報道写真展」が開かれている。この写真展については会場風景しか残されておらず、どんな作品が展示されたのかはネガが戦災で焼失したので残念ながら分かっていない。またこの時期の上海には映画監督の小津安二郎が陸軍の一兵士として従軍していた。小津と木村は知り合いだったので、ライカを下げた軍服姿の小津を撮った木村伊兵衛の写真が残されている。

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