May 13, 2018

『タクシー運転手』 カーチェイスもある光州事件

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A Taxi Driver(viewing film)

光州事件が起こったとき、同時進行ではほとんどなにも伝えられていなかった。ソウルでの戒厳令解除を求める学生デモや金大中の逮捕は大きく報じられたけれど、事件が起こって数日たってから、どうやら光州が大変な事態になっているらしい、という報道を読んだように記憶する。記者が直に光州に入っての報道ではないから、映像はなかった。この映画の主人公、ドイツ通信社の記者が撮影した映像を見たのは、だいぶたってからだったように思う。

全羅南道にある光州の学生市民が立ちあがったのは、同じ全羅南道出身の政治家、金大中が逮捕されたことが大きかった。全羅道は、なにかといえば慶尚道出身者が多い朴正熙政権に差別されてきた歴史があるわけだし。

立ちあがった学生・市民に対し軍が発砲・鎮圧し200人以上の死者・行方不明者を出したという事件の全貌が明らかになったのは、盧泰愚政権によって不十分ながらも民主化が進められた後だった。『タクシー運転手 約束は海を越えて(原題:택시운전사)』は、そんな韓国現代史の重大事件を、事実に基づきながら笑いと涙、おまけにカーチェイス(!)まである王道のエンタテインメントに仕立てあげた。そこが面白い。

ドイツ通信社の日本特派員ピーター(トーマス・クレッチマン)は光州でなにかが起こっていると聞き、宣教師と身分を偽って韓国へ入る。ピーターを乗せたソウルのタクシー運転手マンソプ(ソン・ガンホ)は、小学生の娘をアパートに残したまま、なにもわからずタクシーを走らせる。光州では軍がデモ隊に発砲するなか、2人はタクシー運転手のテスル(ユ・ヘジン)や学生のジェシク(リュ・ジュンヨル)と行動を共にすることになる……。

親一人子一人で暮らすマンソプは家賃も払えず、壊れたサイドミラーを直すのも値切ったり、金のために仲間を出しぬいて客のピーターを奪ったり。そんな情けない男をやらせればソン・ガンホの独壇場。ピーターが事件を追う緊迫と、マンソプの人情喜劇ふうな笑いが並行して描かれる。互いにどこまで信用していいかわからないピーターとマンソプの掛けあいも、定型どおりだけどガンホの大げさな身振りとクレッチマンの無表情が対照的。ソウルでは学生デモに顔をしかめていたマンソプも、光州の惨状を見てピーターのことを放っておけなくなる。人情に厚く人のいい光州人をユ・ヘジンが、音楽好きな大学生をリュ・ジュンヨルが演じ、これも「寅さん」映画に出てくる面々みたい。

マンソプはアパートに残した娘が心配で一人ソウルへ引き返すが、途中でタクシーをUターンさせ光州へ戻る。ここでのソン・ガンホは感情を抑えた演技。画面は光州での弾圧のすさまじさをたっぷり見せる一方、軍警察とマンソプたちの追っかけもある。光州からの脱出では、テスルたち光州のタクシーが2人を助けてカーチェイス(もちろんフィクション)をたっぷり見せる。はらはらドキドキのうちに、観客は光州でなにがあったのかを知る。

チャン・フン監督はキム・ギドクの助監督を務め、デビュー作の『映画は映画だ』は映画俳優とヤクザの友情を絡めた映画づくりの話だった。『高地戦』は朝鮮戦争休戦時刻ぎりぎりの南北の戦闘を描いて、いい映画だった。『タクシー運転手』もそうだけど、立場の違う男たちの葛藤と友情というテーマが通底しているように思う。韓国映画で目を離せない監督の一人だ。


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May 01, 2018

『女は二度決断する』 憎悪の連鎖

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In The Fade(viewing film)

僕はドイツ語を知らないので『女は二度決断する(原題:Aus dem Nichts)』の原題をどう訳したらいいのか分からないけれど、英語タイトルのIn The Fadeは「虚無のなかで」といった意味になるだろうか。

ところで、この映画のポスターは日本はじめどの国もほぼ共通して、上の図柄(ドイツ語版)が使われている。このショットは、ファティ・アキン監督が写真家に「『タクシードライバー』みたいなのを」と注文して撮影したものだそうだ(どこかのサイトでそう語る監督のインタビューを読んだのだが、検索できない)。監督は、この映画の主人公のカティヤ(ダイアン・クルーガー)にどこかしら『タクシドライバー』のトラビス(ロバート・デ・ニーロ)を重ねているのかもしれない。

ファティ・アキン監督はハンブルク生まれのトルコ移民二世。これまでもトルコ系ドイツ人としてドイツとトルコという二つの国家と民族にまつわる映画をつくってきた。『女は二度決断する』はその最新作。

カティヤはクルド系トルコ人ヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚し、男の子がいる。ヌーリはハンブルクのトルコ人街で会社を営み、幸せな家庭生活を送っている。ある日、事務所の前に爆弾が仕掛けられ、ヌーリと息子が犠牲になる。犯人はネオナチのカップルだったが、裁判でギリシャ人極右が二人にアリバイがあると証言し、カップルは無罪になる。カティヤは怒り、絶望して……。

映画は三つのパートに分かれ、サスペンスのスタイルで語られる。最初のパートは事件。カティヤと夫と息子との生活が突然に破壊される。警察はテロよりトルコ移民社会内部の政治や麻薬のトラブルを疑う。ヌーリには麻薬がらみで服役した過去がある。また警部がカティヤに「ヌーリはクルドか?」と聞くのは、トルコではクルド人が徹底的に弾圧され、両者が対立している現実があるからだろう。事件が起こり、白人であるカティヤの両親とクルド系のヌーリの両親がカティヤの家で顔を合わせると、互いに不信感がつのる。事件をきっかけに、カティヤの周囲がきしみはじめる。

次のパートは裁判。ギリシャの極右が、爆発があった日、カップルはギリシャにいたと証言する。夫と息子を失ったカティヤが麻薬で悲しみをまぎらわせていたことから、犯人の一人を見たというカティヤの証言の信ぴょう性が疑われる。犯人の男の父親が、息子はネオナチで爆弾の材料を持っていたと証言するが、弁護士はその証言の小さな穴を衝く。

最後のパートは復讐。カティヤは一人で、無罪放免されギリシャに逃げたカップルを追う。最初のパートでのハンブルク路上のリアルさ、次の緊迫した法廷ドラマから一転、地中海の青い海へという転換が効いている。カティヤはカップルのトレイラーに爆弾を仕掛け、しかし逡巡し、いったんは爆弾を回収するのだが……。

最後、地中海をバックに爆弾が破裂する場面で『気狂いピエロ』を思い出した。自分の顔にペンキを塗り、自ら爆弾に火をつけたジャン・ポール・ベルモンド。もっとも、ふとした気まぐれが生んだ偶然のような結末の軽みは、この映画のダイアン・クルーガーにはない。カティヤの怒りと悲しみのあまりの行動。

その思いの深さは十分に描かれているし、理解できるにしても、この結末は憎悪と報復の連鎖をまたひとつ積み重ねただけのように思える。そのことに対するアキン監督の視線が、例えばトラビスに対し感情移入すると同時にそこから身をはがすマーティン・スコセッシ監督の複雑な視線のようには感じられないのが気になった。


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April 30, 2018

『ワンダーストラック』 無声映画のスタイル

Wonderstruck2
Wonderstruck(viewing film)

トッド・ヘインズ監督の映画でいつも感心するのは、その時代の空気が見事に再現されていること。『エデンより彼方に』は1950年代東部の都市に住む裕福な白人住宅街が舞台になっていた。「豊かなアメリカ」の風景の中で白人主婦と黒人庭師の恋がメロドラマのタッチで描かれる。ボブ・ディランを複数の役者が演じた『アイム・ノット・ゼア』では、女優ケイト・ブランシェットがボブ・ディランそっくりの扮装で1970年代の空気を生きていた。『キャロル』では1950年代のニューヨークの街が再現され、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラーの女性同士の愛を彩っていた。

『ワンダーストラック(原題:Wonderstruck)』では二つの時代が舞台になっている。1927年と1977年の、ともにニューヨーク。二つの時代の少年と少女の物語が並行し、遂には一つになる。そのときの驚き(ワンダーストラック)は、こういう瞬間が映画を見る快楽だなと感じさせる。

1927年。ニュージャージー州ホーボーケン(ハドソン川をはさんでニューヨークの対岸)に住む少女ローズは耳が聞こえない聴覚障害者。裕福な家庭だが母は離婚して不在、無声映画で女優リリアン・メイヒューを見るのが唯一の楽しみ。孤独なローズは、リリアンに会いたい一心でフェリーに乗り、ニューヨーク自然史博物館に勤める兄を頼ってニューヨークに出る。

1977年。ミネソタ州に住む少年ベンは、父は行方不明、母は事故死。引き取られた叔母の家で落雷のため聴覚を失う。母の遺品で、父から母宛てに「愛してる」と書かれたニューヨークの書店の栞を見つけ、父を探そうとニューヨークに旅立つ。

1927年のパートはモノクロ、1977年のパートはカラーと描きわけられる。主人公の少年少女はともに耳が聞こえない設定。だから沈黙や、言葉でなく身振りや表情や手話でものごとを伝える場面が多くなる。ということは、ローズが見ている無声映画の世界に近くなる。実際、モノクロのパートは意図的に無声映画の手法が使われる。場面と場面をつなぐのは音楽。カメラも移動やズームはなしで、固定カメラで撮った短いカットが積み重ねられる。

動かないカメラが1977年になると動きだし、カラーになり、街路を歩くベンを追う。70年代のニューヨークはベトナム戦後で景気が悪化した時代。アフリカ系の住民はアフロヘアに原色の服装で闊歩しているが、街の空気はすさみはじめているようにも感じられる。このパートはネガのカラーフィルムで撮影されており、いかにもこの時代の猥雑な雰囲気が懐かしい。

ローズもベンも、時代は違うが自然史博物館に引き寄せられる。自然史博物館は『イカとクジラ』でも重要な役割を果たしていたけど、ここの有名なジオラマが二人を結ぶ鍵になる。時代を超えて、二人が同じ隕石にそっと触れるショットがいい。

二人が出会い、その関係が明かされるのはクイーンズ美術館にあるニューヨークの細密なパノラマ模型の前で。1977年のローズ(ジュリアン・ムーア)はベンに、ジオラマ製作者だったベンの父親のことを語る。映画の冒頭、ベンがオオカミの夢を見ているショットがつながってくる。

原作は『ヒューゴの不思議な世界』と同じブライアン・セルズニックの小説。どちらの映画も少年少女の目から見たこの世界の驚異を見事に映像化してみせた。トッド監督は人種差別や同性愛、障害者といったテーマをメロドラマや少年少女小説に巧みに溶かし込んで、さりげなく浮かび上がらせている。


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April 22, 2018

『さよなら、僕のマンハッタン』 父と息子の物語

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The Only Living Boy in New York

マーク・ウェブ監督はミュージック・ビデオの出身らしい。『さよなら、僕のマンハッタン(原題:The Only Living Boy in New York)』には、1960~70年代の音楽がいっぱい散りばめられている。というより、その時代の音楽にインスパイアされた映画といってもいいくらい。

そもそもThe Only Living Boy in New Yorkというタイトルからして、サイモンとガーファンクルの曲から取られている。この曲の歌詞は「トム」という男に呼びかける形になっているが、トムはこの映画の主人公トーマスの愛称だ。NYでひとりぽっちの少年。それからルー・リードの「パーフェクト・デイ」。ジェフ・ブリッジス(僕と同年代)の姿にこの曲がかぶさると、1970年代の空気が蘇る。さらにボブ・ディランの「ジョハンナの幻」。映画のなかで主人公が憧れる年上の女もジョハンナだ。懐かしいプロコル・ハルムの「青い影」、ジャズのデイブ・ブルーベックやビル・エヴァンスも流れている。

みんな「あの時代」の音。それにひたり、甘酸っぱい物語に身を委ねていれば、ま、たまにこういう映画もいいか、という気分。

トーマス(カラム・ターナー)は、上品なアッパー・ウェストサイドで育ったコロンビア大学の学生。家を出て、雑多な人種が住むロウワー・イーストサイドのアパートで暮らしている。ガールフレンドのような友だちのようなミミ(カーシー・クレモンズ)は、トーマスと別れて外国に行こうか迷っている。トーマスの隣の部屋に初老のW.F.(ジェフ・ブリッジス)が引っ越してくる。ある日、トーマスは出版社を経営する父イーサン(ピアース・ブロスナン)が女性と親密にしているのを見てしまう。その女性、ジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)の後をつけ、知り合いになったトーマスは年上の彼女に惹かれていく……。

と書いてきて気づいたけど、これはサイモンとガーファンクルの名曲がフィーチャーされた『卒業』のヴァリエーションだなあ。もちろん、それをなぞるわけでなく、こちらは「父と息子」の話。トーマスは作家志望だが、書いたものへの父の評価は「よくある話」。でも、作家であることがわかったW.F.は、トーマスの書いたものに才能があると評する。さらにはトーマスの両親とも古い知り合いであることがわかってくる。

両親とW.F.の過去にはちょっと無理があるけど、ま、リアリティを求めるのも野暮というもの。アッパー・ウェストサイドの典雅な褐色砂岩の住宅街。ロウワー・イーストサイドの、下層階級や移民や貧乏アーティストが暮らすアパートメント。ダウンタウンの、チャイナタウンなどの街並み。ニューヨークという魅力的な都市を舞台にした苦く甘い青春物語を楽しめばいいんだろう。僕も10年前に住んだニューヨークを懐かしみながら、気分だけは若くなっていた。それ以上の、またそれ以下の映画ではないけれど。


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April 20, 2018

『レッド・スパロー』 大人になったジェニファー

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Red Sparrow(viewing film)

ジェニファー・ローレンス、シャーロット・ランプリング、ジェレミー・アイアンズと気になる3人の役者が出ているとあっては、見ないわけにいかないなあ。しかも好みのスパイ・ミステリーものだし。

ジェニファー・ローレンスを最初に見たのは『あの日、欲望の大地で』。シャーリーズ・セロンの子供時代を演じて、魅力的な少女だった。次の『ウィンターズ・ボーン』では、貧しい白人の村に生きる健気な少女。大人になりかけた意思的な表情が素晴らしかった。『ハンガー・ゲーム』は見てないけど、アカデミー主演女優賞を取った『世界にひとつのプレイブック』でブレイクし、『アメリカン・ハッスル』では、え、こんな色っぽい女優になったの? と驚いた。少女時代とこんなに印象が違うなんて。

『レッド・スパロー』のジェニファーは、セックスと心理操作で敵を絡めとるロシアの女スパイ、ドミニカ。バレエ団のスターだったがケガでバレエを断念し、情報機関で働く叔父(プーチンそっくりなのが笑わせる)によってスパイ養成学校に送り込まれる。与えられた任務は、米のCIA要員ネイト(ジョエル・エドガートン)に接触し、ネイトに内通するロシア高官の名前を掴むこと。

ドミニカがネイトを誘惑し、でも2人は愛しあうようになったように見え、ドミニカは国を裏切ったのか、あるいはスパイとして仕事に忠実なのか、見ていてわからないところからサスペンスが生まれる。といって、あまり内面の葛藤みたいな描写はない。演技派というより、存在が醸しだす魅力で見せる女優かな。ジェニファーを少女時代から見ている身としては、こんな大胆なシーンもやるようになったんだと複雑な気持になる。

シャーロット・ランプリングはスパイ養成学校の校長。グレーのツーピースに身を包み、生徒にハニートラップの仕掛け方を冷たい表情で指導する。似合いの役柄。1960年代の『地獄に堕ちた勇者ども』から見てるけど、50代になって『まぼろし』や『スイミング・プール』あたりから若い頃とは別の年齢を重ねた魅力を発するようになった。見ているだけで満足する女優。

ジェレミー・アイアンズはロシア軍の将軍。出番は少ないけど複雑な役どころを演ずる。『戦慄の絆』以来、いい役者だなあと思って見ている。役者としての格を考えると、内通者は誰か想像がついてしまうけれど……。でも、終盤でもうひとひねりあって、ドミニカは自分をスパイに送り込んだ叔父に復讐する。

最後に飛行場で互いの人質を交換するシーンは、米ソが対立していた時代のスパイ映画の雰囲気。『寒い国から帰ったスパイ』を思い出してしまった。スパイものスリラーとして特に際だった映画じゃないけど、東西冷戦時代のスパイものの雰囲気を出しているのが面白かった。

そういえば、ソ連が崩壊しロシアになってからの話なのに、なんで「レッド・スパロー(赤いスズメ)」なんだろう。「レッド」は共産主義を意味しソ連国旗も赤なのに対し、ロシア国旗は赤・青・白の三色旗。原作(未読)のタイトル通りだけど、ソ連もロシアも体質として同じということか。映画でも小説でもエンタテインメントでは強力で魅力的な敵役が必要で、クリミア半島を強奪したロシアはソ連を引き継いでその資格十分というところ。

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March 21, 2018

『ハッピーエンド』 ブルジョア一族の腐臭

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Happy End(viewing film)

ミヒャエル・ハネケ監督の映画には映画音楽がいっさい使われない。音楽が流れるのは、物語のなかで出てくるときだけ。それだけに、数少ないその音楽が印象に残る。『ハッピーエンド(原題:Happy End)』では2カ所。一度目は北フランスのカレーで建設業を営むブルジョア一家、ロラン家の三代目ピエール(フランツ・ロゴフスキ)が密室のクラブでストリート・パフォーマーみたいな歌とダンスを披露する場面。遊び仲間らしき何人かが彼の歌を聴いている。会社の重役になっていながら仕事を放棄したピエールの反抗とやけっぱちが露出する。

もう一度は引退したジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の誕生日を祝う自邸でのパーティで、女性チェリストが披露するチェロ。ざわざわと感情を乱す一節が弾かれる短いショット。このチェリストとジョルジュの息子トマ(マチュー・カソヴィッツ)は愛人関係にあり、チャットでわいせつな会話を交わしているのを、前妻との間の子供で13歳になるエヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)に覗き見されてしまう。その後の波乱を予感させる音。

ハネケ監督の映画がいつもクールで、対象を冷たく見つめている印象を与えるのは、見る者の感情をかきたてる映画音楽を使わないこと、カメラも移動やズームの動きが少なく据えっぱなしの長回しが多いことに依っているだろう。一方、物語を語る口調は説明なしに断片を放り出すことが多く、見る者はしばらく人間関係や全体の構図がわからない。そこからミステリアスな緊張が生まれる。

大家族が住む邸宅で一家の夕食シーンがある。引退して認知症気味のジョルジュは背広にネクタイを締めている。会社を切りまわしているのはジョルジュの娘アンヌ(イザベル・ユペール)。ハネケ監督の前作『愛 アムール』といい『エル』といい、クールでやり手のブルジョア階級というイザベル・ユペールにうってつけの役どころ。アンヌとアンヌと出来の悪い息子ピエールが口喧嘩をしている。ジョルジュの息子で家業を継がず医者として働くトマと新妻は黙ってナイフとフォークを動かしている。格式ばってはいるが、家族としての一体感や愛はまったく感じられない。トマは前妻の入院で一人になった娘のエヴを引き取り、孫娘がジョルジュを長とする一家の食事の席に加わることになる。

ジョルジュは自殺未遂と疑われる交通事故を起こす。車椅子になったジョルジュは、出入りの床屋に銃を手に入れてくれと頼む。アンヌは会社の顧問弁護士と愛人関係にある。ピエールは家を出て、放蕩の生活を送っている。トマは新妻との間に子供が生まれたばかりなのに、女性チェリストとサドマゾ的な愛人関係にある。

でもこの映画でいちばん得体が知れないのは、13歳の可愛いエヴだ。映画の冒頭、スマホの動画が映し出される。エヴが母親を撮ったもの。彼女は母親に大量の抗うつ剤を与えて昏倒、死亡させる。エヴがやったことは誰にも気づかれず、彼女はロラン家に引き取られる。邸宅のなかで孤独なエヴは、やはり孤独なジョルジュと会話する。ジョルジュは、かつて介護していた妻に手をかけたことをエヴに語る。映画の最後、海辺のレストランでのアンヌと顧問弁護士の婚約パーティの席で、ジョルジュはエヴに車椅子を押させて海辺に出る。ジョルジュは波打ち際まで車椅子を寄せさせる。ジョルジュが車椅子で海に入っていくのを、エヴは何も言わず離れてスマホで動画に撮っている。

冒頭と対になって13歳のエヴが撮る動画が海の光にあふれ美しく、それだけに入水するジョルジュと、それをスマホに収めるエヴの孤独と酷薄さを際立たせる。エヴにとって生の現実よりスマホ画面を通した画像のほうが、彼女の氷の心にリアルなのだろう。

舞台になるカレーは数年前、イギリスに渡ろうとする中東やアフリカからの難民が集まりカレー・ジャングルと呼ばれるキャンプができてニュースになった。この映画でも、邸宅にモロッコ人夫婦が下働きとして住込み、建設現場では移民が働いていたり、パーティ会場にピエールが難民を引きつれ乱入するといったかたちで姿を見せる。ハネケはそれを正面から取り上げることはしないけれど、こうしたヨーロッパの現実を踏まえてこのブルジョアジー一家の腐臭を描いている。それが「ハッピーエンド」と(なぜか英語の)タイトルをつけられているところにハネケの辛辣なメッセージを見る。


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March 18, 2018

『ラブレス』 タルコフスキーのDNA

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Loveless(viewing film)

その瞬間、空気が一変したように感じた。行方不明になった息子のアレクセイを探す捜索隊が、立入り禁止地区の廃ビルに入った場面だ。人けのないコンクリートの廃墟、水たまりの床、天井から水がしたたり落ちる。あれっ、これはタルコフスキーの『ストーカー』じゃないか。

それまで、離婚寸前にある別居夫婦の夫と妻それぞれが恋人と過ごす時間が描写されて、男と女が織りなす身の下の世界の話だったのが、いきなり観念的というか、精神的な世界がそこに重なってくるようなショックを受けた。二組の男と女の話でありながら、同時にこれは彼らが暮らすロシアの精神状況についての映画であり、さらに言えばこの時代に生きる僕たちすべてについての映画であるような気がしてくる。廃墟のビル、モスクワ郊外の冷え冷えした風景、グレーを基調に色彩に乏しい映像が見る者に迫る。

ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は裕福な夫婦で、別居生活をしている。一流企業に勤めるボリスには妊娠中の恋人がいるが、会社のオーナーが厳格なキリスト教徒で離婚を認めないのを苦慮している。美容サロンを経営するジェーニャには成人した娘をもつ年上の恋人がいる。ボリスとジェーニャは住んでいたマンションを売ろうとしているが、顔を合わせれば喧嘩になる。ある日、12歳になる息子のアレクセイの姿が見えなくなる……。

ストーリーはしごく単純で、前半は二組のカップルの行方を追い、後半は息子の捜索を追う。警察は手一杯で頼りにならず、ボランティアの捜索隊が組織される。これはロシアの現実を反映しているんだろう。捜索隊がゆく冬枯れの林や野原、河原、長回しされるショットが素晴らしい。

冒頭と終わり近く、同じショットが繰り返される。彼方に中心街の高層ビル群が見える雪の丘陵、カメラがゆっくり引くと公園で遊ぶ人々が小さく見え、さらに引くとマンションのアレクセイの部屋。愛のなくなった一家の空気と、寒々した風景が二重映しになっている。冒頭と終わり近くで、変わったのはアレクセイがいなくなったことだけ。そのことを本当には誰も気にしていないように思える。寒いのは風景ではなく人間のほう。

ラストは二組のカップルの数年後。ボリスは若い妻から早くも愛想をつかされたような雰囲気、小さな子供を邪険に扱う。ジェーニャと年上の男の愛も少しさめたようで、ベッドから出たジーニャは一人、ベランダに出てランニングマシンで走る。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画はデビュー作の『父、帰る』でもタルコフスキーへの親近を感じさせた。現代ロシア人の精神風景を描きつづけることはタルコフスキーと同じ。デビュー作以来ズビャギンツェフ監督と組むミハイル・クリチマンの撮影する映像も、情感を排した静かなカメラでロシアの風景を撮りながら背後の精神性を感じさせる。共同脚本のオレグ・ネギンも含めて、ロシアの最強チームだなあ。


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March 11, 2018

『シェイプ・オブ・ウォーター』 50年代映画への愛

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The Shape of Water(viewing film)

『大アマゾンの半魚人(原題:Creature from The Black Lagoon)』を見てはいないけれど、ポスターは覚えている。公開された1954年といえば、こちとら小学校低学年。この怪奇映画はけっこう話題になったから、その後、長いこと全国の三番館で上映されていたと思う。僕がポスターを見たのは川口市の映画館だったか、工場の住込み職人に連れられて遊びに行った浅草六区だったか。監督のギレルモ・デル・トロはメキシコで少年時代、この映画を見たそうだ。

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『シェイプ・オブ・ウォーター(原題:The Shape of Water)』はデル・トロ監督がこの映画の記憶をもとにつくった怪奇ファンタジー。ラブロマンスであり、ミュージカルふうな味もあり、かと思うと冷戦時代のスパイもののサスペンスも織り込まれている。さらに、デル・トロ監督の映画への愛がそこここに詰めこまれているのが楽しい。

1962年、冷戦下のアメリカ。宇宙開発を進める秘密研究所に南米で発見されたクリーチャー(半魚人)が送られてくる。研究所の掃除婦で唖者のイライザ(サリー・ホーキンス)はクリーチャーと手話で心を通わせるようになり、半魚人を生体解剖する計画を知って逃がそうとする。同僚の掃除婦でアフリカ系のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と、研究所員で実はソ連のスパイ、ホフステトラー博士がイライザに協力する(スパイといっても子供向け読物ふうだけど)。研究を指揮するストリックランド(マイケル・シャノン)が彼らを追う。

イライザが住むアパートは一階が映画館。映画の全盛時代を思わせる立派なつくりで、『砂漠の女王(The Story of Ruth)』がかかっている。イライザに匿われたクリーチャーが部屋を抜け出して映画館に迷い込む。映写されているスクリーンを背景に、イライザとクリーチャーが抱き合う。

映画へのこだわりは物語のなかだけでなく、そのスタイルにも見てとれる。1950年代、2本立ての添え物としてつくれれたB級映画は低予算で上映時間も90分程度だった(『大アマゾン……』は79分)。そのため無駄をできるだけ削ぎ、簡潔に物語を進めることが求められた。CGなどない時代、映像的な遊びも少なかった。またヘイズ・コードと呼ばれる検閲によってヌードや残酷シーン、殺人の描写が禁じられていたから、それらは間接的な映像で暗示された。そうした条件に制約され、いやむしろそれを逆手にとって、1940~50年代のアメリカ映画は映像も、カットとカットのつなぎも簡潔なスタイルができあがった。この時代のフィルム・ノワールはその最上の成果だろう。

『シェイプ・オブ・ウォーター』は、その時代のスタイルを意識的に採用しているようだ。セットや色彩は、いかにも50年代ふう。もちろんCGが使われているけれど必要最低限に抑えられ、いかにもVFXという見せ方はしない。カメラも移動したりズームしたりせず、端正なカットを短く積み重ねる。イライザは手話で意思を伝えるから、50年代というより、もっと以前のサイレント映画の匂いさえしてくる。ただ、冒頭とラストの水中シーンだけは、抑制的なスタイルでなく想像力を解き放って映像として見せる。それも含めて、メキシコで育ったデル・トロ監督の、子供時代のアメリカ映画の記憶がいっぱい詰めこまれているような気がする。

全体が「むかしむかし」とでも言うように夢で始まり「めでたしめでたし」で終わるお伽噺のなかで、半魚人という異形や掃除婦として働く下層の人々に心を寄せ、アフリカ系やゲイ差別への批判も織り込まれているのは、アメリカではマイノリティーであるデル・トロ監督だからか。1962年はそういう時代だった。アカデミー賞を競った『スリー・ビルボード』のほうが僕には面白かったけど、楽しめる映画でした。


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March 02, 2018

『花咲くころ』 少女の息づかい

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In Bloom(viewing film)

映画が始まってしばらくして、これって『花とアリス』だよなあと思った。十代の鈴木杏と蒼井優が共演した『花とアリス』(岩井俊二監督)は、親友である女子高生2人を、彼女らが好意を寄せる男子学生を絡めて描いた青春映画だった。特に大きな出来事が起こるわけでもなく、2人の日常が斬新で抒情的な映像で捉えられている。

ジョージア(グルジア)映画『花咲くころ(英題:In Bloom)』も主人公は14歳の2人の女子学生。親友である2人の春から初夏にかけての数カ月が描かれる。最後にドラマチックな結末が待っているわけではない。だからジョージア版『花とアリス』だと思ったんだけど、当たり前の日常の背後で、そこかしこでこの国とジョージアの置かれた状況の違いに気づかされる映画だった。

ソ連が崩壊しジョージアが独立した翌年の1992年。エカ(リア・バブルアニ)とナティア(マリアム・ボケリア)は首都トビリシに住み、同じ学校に通っている。2人とも、日本の団地のような古びたアパートに暮らす。部屋のテレビが、国の西部にあるアブハジアで内乱が起きていることを伝える。

エカは母親、姉と暮らしているが、父は刑務所にいる。ナティアは両親、祖母と暮らすが、父親はアル中で妻とケンカが絶えない。『花とアリス』で2人の女子高生の家庭がどんなだったかは、まったく記憶にない。描かれていないか、描かれてもごく普通の家庭だったと思う。それに対し『花咲くころ』の2人の家庭は問題を抱えている。日本映画を見慣れた目からは、この設定は「やりすぎ」に見える。でもジョージア人が見ればこの設定は「やりすぎ」でなく、リアルさを感ずるのかもしれない。

ナティアはコテとラドという2人の少年から好意を持たれている。モスクワへ行くことになったラドは、これで身を守ってくれとナディアに拳銃を渡す。この設定も僕らの目からは「やりすぎ」、あるいは現実的ではないと感じられる。でもこれもジョージアの観客にとっては「ありうること」かもしれない。映画に拳銃が出てくれば、やがてそこから弾丸が発射され大きなドラマが生まれるだろうと、ハリウッドの犯罪映画を見慣れた僕らは予想する。でも、その予想は見事に裏切られる。銃がドラマチックな結末を生まないことが、この映画が描きたいことと関係しているにちがいない。

ある日、エカとパンの配給の行列に並んでいたナティアは、コテと不良グループに誘拐される。監禁されたナティアはコテと強制的に結婚させられる。写真家の林典子に『キルギスの誘拐結婚』という写真集がある。キルギスからジョージアにかけて、掠奪婚とも呼ばれるこの風習が今も残るという。結婚を披露する宴に出席するナティアにも、招かれたエカにも笑顔はない。エカは、笑顔を見せないまま踊り出す。怒りと悲しみと親友への愛を内に秘めたまま、固い意思的な表情でエカが長いこと踊るシーンが素晴らしい。

ほかにも見とれてしまうシーンが多い。変哲もない団地のベランダでエカとナティアがワインを飲む。突然の驟雨に街や植物が濡れ、エカもずぶ濡れになって家へ走る。コテと不良グループに追われて、ラドが旧市街のレンガ造りの街並みを縫って逃げる。そんな風景のなかでエカとナティアが互いに寄せる心情が、『花とアリス』のように華麗な映像でなく、どちらかといえばぶっきらぼうに語られてゆく。

この映画を「内戦の混乱や暴力的風土のなかで、けなげに成長してゆく少女」みたいに、社会派ふうな受取り方をすることもできる。でもそれより、エカとナティア、2人の少女が互いを思いながら日々を生きていく息遣いを描いた青春映画と受け取りたい。決して声を荒げることなく2人の少女の行動を見つめるこの映画は、そんな資質を持っている。内戦も誘拐婚も、その背景として生きてくる。

監督はジョージア出身でドイツで映画を学んだナナ・エクフティミシュヴィリと、ドイツ出身で夫のジモン・グロスが共同で。エカとナティアを演じた2人の少女はサラエボ映画祭で最優秀主演女優賞に輝いた。

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February 15, 2018

『スリー・ビルボード』 怒りは怒りを来す

Three_billboards
Three Billboards Outside Ebbing, Missouri(viewing film)

『スリー・ビルボード(原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)』の脚本を書き演出したマーティン・マクドナー監督はイギリス出身で、演劇の脚本家として名をなした人。彼がアメリカ南部のジョージア、アラバマ、フロリダを旅行したとき未解決事件についての野外広告(ビルボード)を見たことから、この映画のアイディアを得たという(wikipedia)。映画では物語の舞台はミズーリ州の架空の町、エビングになっている。なぜ、マーティンが実際に見た南部の州でなく、中西部のミズーリに設定を変えたんだろう。

ここから先は推測だけど、ジョージアやアラバマなどディープサウスはアメリカのなかでも特殊な地域という印象が強い。南方の緑濃い森や沼地といった自然環境も独特だし、アフリカ系などマイノリティーへの差別がきついのもこの地域。「怒り」がキーワードになるこの映画の舞台を南部にすると、「ディープサウスの闇」といったかたちで地域の問題と受け取られかねない。そうした誤解を避け、特殊ではなく人間誰しもが抱える普遍的な問題であることを強調するために、あえて中西部の架空の町を設定したのかもしれない(ビルボードが中西部の平原にあるほうが映像として効果的ということもあるだろう。実際、霧のなかにビルボードが浮かぶ冒頭の映像に惹きこまれる)。

娘がレイプされ焼き殺され、犯人も見つからないのに怒りをつのらせたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、町の外に放置されていた3つのビルボードに広告を出す。「レイプされ殺された」「そしてまだ逮捕されない」「どうしてくれる? ウィロビー署長」。癌に侵され余命いくばくもない署長のウィロビー(ウディ・ハレルソン)は、ミルドレッドに「やりすぎだ」と説得するが、ミルドレッドは受け入れない。町の人びとは病気の署長に同情し、ミルドレッドに冷たい目を向ける。なかでも、黒人への差別意識むきだしのディクソン巡査(サム・ロックウェル)はミルドレッドに敵意をあらわにする。町に怒りと憎悪が充満し、事件が起こる……。

「怒りは怒りを来す(Anger begets more anger.)」というセリフが出てくる。ミルドレッドの元夫のガールフレンドであるペネロペ(ギリシャ神話に出てくる女性の名)という若い娘が口にする。映画はその怒りの連鎖を追ってゆく。この映画が普通のハリウッド映画とちがうのは、ミルドレッドもまた怒りの連鎖から自由でないこと。頑固で、タフで、周りがすべて反対しても自らの信念を貫くミルドレッドは、西部劇をはじめとするアメリカ映画の典型的な主人公。でも正義の人でなく、彼女もまた怒りにかられて警察署に火炎瓶を投げつけ、人違いと判明した容疑者にまで復讐しようとする。

一方で、この映画には悪人も出てこない。親子そろってレイシストで、そのくせ軟弱で、母親のいいなりになるマザコンのディクソン巡査は、ハリウッド映画によくある悪人タイプ。でも、「君はいい刑事になれる」というウィロビー署長の遺書に心動かされ、レイプ事件の犯人を捜そうとする。並みの映画なら、ここから犯人探しと、小さな町に潜む闇の人間関係があぶりだされそうだけど、そうもならない。ディクソンが出会った容疑者は、あっさりとシロであることが明らかになる。それでもなお、怒りに駆られたディクソンとミルドレッドは自分の行動への後悔を内に秘めながらも、州外に住むこの容疑者を痛めつけようと車を走らせる。

ラストもまた、分かりやすい結末にならない。男を痛めつける覚悟はできてるかと聞くディクソンに、ミルドレッドは「あんまり」と答える。同じ質問をされたディクソンもまた「あんまり」と答える。二人とも怒りに駆られて行動を起こしたものの、躊躇してもいる。さて、二人は車をUターンさせるのか。答えを出さずに映画は終わる。登場したときの印象と反対にまっとうな男であるウィロビー署長、ディクソンに痛めつけれれる広告会社の青年、小人症のヒスパニック、いろんな登場人物がふっと示す優しさが、画面が溶暗した後の二人の行動を暗示しているようではあるが……。複雑な余韻の残る作品だった。


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