February 16, 2017

『たかが世界の終わり』 中身とスタイル

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Juste la Fin du Monde(viewing film)

中身とスタイルがこんなにドンピシャ一致している映画もめずらしい。

『たかが世界の終わり(原題:Juste la fin du monde)』は家庭劇。家を出て12年、劇作家として名の出たルイ(ギャスパー・ウリエル)が故郷に帰ってくる。「余命は長くない」と家族に伝えるために。ルイと、彼を迎える家族それぞれが内心に愛と葛藤を秘めながら、ぎこちない会話が交わされる。

ひとつの家族──ルイと、彼を待ちわびる母(ナタリー・バイ)、冷笑的な態度の兄(ヴァンサン・カッセル)、ルイとは初対面の嫂(マリオン・コティヤール)、ルイの記憶をほとんど持たない妹(レア・セドゥ)。その5人以外、ほとんど出てこない。この映画には「世界の終わり」と反語的なタイトル(家族こそが世界だという)がついているが、ふつうの意味で「世界」がマクロだとすれば家族というミクロの世界に焦点が絞られている。

ミクロの世界にふさわしく、クローズアップの映像が多用される。顔を正面から、あるいは横からのクローズアップ。顔の微妙な筋肉の動きや、目の動き(マリオン・コティヤールの大きな目がモノを言う)。うなじに滲み出る汗。かすかなため息(の小さな音)。しかも被写界深度(ピントの合う範囲)のきわめて浅いレンズを使っているので前景と後景はボケて、ものの形がはっきりしない。見る者はいやおうなく、ピントの合っているごく狭い空間に注意を向けることになる。

ほとんどが家の中(原作は舞台劇)。外界は、音として入ってくる。ルイと兄が言い争いをしているとき、雷鳴がとどろく。家の外の社会は、兄を通して描かれる。この家庭には父がいない。なぜかは説明されないが、兄が父の代理として外で肉体労働者として働き家計をささえているらしい。彼の社会常識に沿った価値観と、作家でありゲイであるらしいルイの価値観とは相いれない。ルイが家を出たのも、それと関係あるのかもしれない。

兄の立場もルイの立場もわかりながら、間に立つ母。初対面のルイと、互いに惹かれあうように見える嫂。普段はしない化粧をして、帰って来た兄の存在にはしゃぐ妹。怒りを爆発させてしまう兄。ほとんどしゃべらず、しゃべりかけても口をつぐんでしまうことの多いルイ。フランスを代表する5人の役者が息詰まるような演技を見せる。

ルイは家族と半日を過ごすだけで、兄といさかいを抱えたまま帰ってゆく。過去のいきさつも語られず、ただぶっきらぼうに、でも拡大鏡で覗いているような細密さで濃密な半日を描き出す。背後で英語やフランス語のいろんなポップスが鳴っている。「Home is where it hurts」という曲の題名は、映画のテーマそのもの。

カナダ(フランス語圏)のグザヴィエ・ドラン監督の映画。カンヌ映画祭グランプリ。好き嫌いでいえば、あまり好みの映画ではないが。

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February 07, 2017

『変魚路』の不思議

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Hengyoro(viewing film)

『ウンタマギルー』(1989)を見たときの驚きは忘れられない。登場人物が話すのはすべて沖縄言葉で、日本語の字幕が入る。物語は現実と幻想が入り混じった琉球の神話というか、伝承の世界だった。主役の小林薫と戸川純を支えるのは沖縄芝居の役者。嘉手苅林昌の琉歌。南島の濃厚な色彩感覚。東南アジアに共通する気怠い空気が快い。底に流れるのは本土への違和の感情。監督の高嶺剛は石垣島の出身。これは日本映画ではない。琉球映画が生まれたと思った。

高嶺監督の18年ぶりの新作『変魚路(へんぎょろ)』は、その琉球映画度がさらにヒートアップしている。いつの時代、どこなのかも定かでなく、物語も、それらしきものがゆるくあるだけで、次第に現実と夢、現在と過去、すべてが入り混じってしまう。セリフはもちろん沖縄言葉で日本語字幕。

「島ぷしゅー」と呼ばれる大きな出来事(何か分からないが、たくさんの死者が出たらしい)があった後、死にぞこないばかりが生きているパタイ村でタルガニ(平良進)とパパジョー(北村三郎)が「水中爆発映画機械所」を営んでいる。ふたりは海辺で伝統的な沖縄芝居の一場面を演じ、それを撮影もしているらしい。挿入される、ふたりの子供の頃の写真や、戦争?の業火に焼かれる老人。「島ぷしゅー」の記憶を留めるらしい、ポップで色鮮やかな男の石膏像。さまざまな断片が、脈絡なく重なってゆく。

村の雑貨屋からタルガニが秘密の媚薬を知らずに盗んだことから、二人は村を出ることになる。ずぶ濡れの(死者の国の?)女三人が二人を追う(出迎える?)。大城美佐子が三線を弾く。坂田明のアルトサックスが吼える。裸の男が舞う(演ずるは木村伊兵衛賞の写真家、石川竜一)。デジタル合成で、摩訶不思議な風景が現出する。村のなかを山羊と牛がゆったり歩いてゆく。白蛇がうねる。全体を貫くのは『ウンタマギルー』と同じ、ゆるりとした空気と神話的な気配。

先日、50年ぶりにジャン=リュック・ゴダールの『中国女』を見た。一貫したストーリーに沿って映像が展開してゆくという映画の常識を、商業映画の枠内でぎりぎりまで解体してみせた、ヌーヴェル・ヴァーグの極北といった作品だった。その後、さまざまなスタイルの実験があったけど、『変魚路』もそうした延長上にある。そして実験というだけでなく、沖縄のゆるい、しかしいろんな歴史を秘めた空気をしこたま詰めこんでいるのが素晴らしい。不思議な、でも面白い映画だった。

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February 03, 2017

『沈黙-サイレンス』 外からの視線

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Silence(viewing film)

切支丹時代の歴史を読んでいると、今の僕たちが考える日本と日本人の常識に照らして、この国でこういう出来事があったとは信じられないことにぶつかる。

たとえば、キリスト教が急速に広がったこと。九州の有馬氏、大友氏など大名がカソリックに改宗したのは、スペイン、ポルトガルとの貿易の利を求めてという面もあるけれど、農民たちにまで広がったのは純粋に宗教として彼らを惹きつける力があったからだろう。例えば島原・天草で布教したイエズス会のトレス神父が20年間で授洗した信者は3万、建てた教会は50だった。

秀吉時代の最盛期には切支丹信者は20万人、教会は200を数えたという。もし切支丹禁令が発されなかったら、この勢いは全国に広がったかもしれない。もしカソリックがこの時代に日本に根づいたら、以後のこの国の歴史はどう変わっただろう?

あるいはまた、禁令が発された後、捕えられた神父や信者を拷問し、処刑するやりかたの想像を絶する惨さ。イスラム国も真っ青、いやそれ以上の方法が考案された。

簑を着せ柱に縛って火をつける「簑踊り」。弱い火であぶって苦痛を長引かせることもあった。映画にあったように、雲仙の熱湯をかける。籠に入れて流れの速い川につける。絶命まで1週間くらいかかった(妊娠した若い嫁がこの刑に処せられたことが島原・天草の乱の発端になった)。これも映画にも出てくる穴吊り。穴を掘って逆さに吊るし、頭に血が逆流してすぐに死なないようこめかみに穴をあける。この世のこととも思えない。この時代の日本人がとりわけ残酷だったわけではない。人間という生きもの、一定の条件におかれれば誰もがここまで残虐になれるのだと考えるしかない。

にしても、遠い過去の話とはいえ、この国の出来事とは思えない。『沈黙-サイレンス(原題:Silence)』からは、そんな距離感─自分と地続きとは感じられない、ある種、異国の出来事のような感覚─が感じられた。その距離感が、映画を面白くしたと思う。

その理由は、ひとつは言うまでもなく米国人のマーティン・スコセッシが監督していること。もうひとつは、日本ではなく台湾でロケされていること。長崎に似た地形を台湾で探したそうで、画面に違和感はないし、村のセットもよくできているけれど、ただ木々の緑の濃さはやはり南の国と感じられる(撮影はロドリゴ・プリエト)。日本人観客にとっては、かすかながらも異国感がある。

この映画は遠藤周作の原作を、スコセッシ監督が20年以上シナリオを何度も書きなおして温めた末に映画化したものだ(脚本はジェイ・コックスとスコセッシ)。スコセッシという、一方で外国人の視線と、他方でイタリア系米国人のカソリックである信者としての共感の視線が、この映画を善悪で切り分けられない深いものにしていると思う。

面白いなと思ったのは、奉行の井上筑後守(イッセー尾形)と通辞(浅野忠信)の人間像。井上は映画に出てくるいちばんの権力者だが、切支丹を必ずしも敵視せず、常識的で穏やかな男として描かれている。囚われたロゴリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)を丁重にもてなしながら、一方では信者に惨い拷問を繰り返してロドリゴに転び(棄教)を迫る。しかも踏み絵を踏むのも形だけでいいと、物わかりのいいところも見せる。ハリウッド的な分かりやすさからすれば、井上は権力を笠にきた居丈高な男と描かれるのが常道だけど、人柄のよさを感じさせながら、しかし幕府の命には忠実という複雑な男に描かれている。イッセー尾形が好演。

原作はずいぶん昔に読んだきりなので確信はもてないけど、奉行の人間像は原作もそれに近かったんじゃないか。でも通辞の造形は、仕事と割りきった官僚的な男と描かれていた記憶がある。映画では、通辞もまた複雑な描かれ方をしている。ロドリゴ神父に無邪気な笑顔を見せ、あれこれ世話を焼いて、とても親切そうだ。でもロドリゴに親切な顔を見せた一瞬後には、「パードレ(神父)は今日、転ぶ」とつぶやく。優しさの陰に隠れた冷酷さを見せる。爽やかな笑顔と秘められた冷酷さ、どちらが本心かしかと分からない微妙な役どころを、浅野忠信がうまく演じてる。

当初、通辞役は渡辺謙が予定されていたという。もし渡辺謙だったら、浅野忠信のような不気味さはないかわり、良くも悪くもストレートな人間像になっていたろう。

ほかの日本人の役者たちも皆いい。ロドリゴ神父と深い信頼関係を結ぶモキチの塚本晋也。信者のリーダーであるイチゾウの笈田ヨシ。とりわけ、何度も転び裏切り、「弱い者の居場所はどこにあるのか」とつぶやくキチジローの窪塚洋介が印象深い。

穴吊りされた5人の信者の命を救うことと引きかえに踏み絵を踏み、棄教したパードレ。宗教的な価値観でいえば許されない行為だろうが、近代的なヒューマニズムの価値観からすればその行為は理解できる。とはいえ神に背くのは宗教家として最大の罪。人間としての弱さは許されない。しかし神はなぜ沈黙しているのか。そんな問答劇をスコセッシは背景の音楽をいっさい使わず、虫や蝉の声、風音、森のざわめき、遠い雷鳴など自然音を強調し緊張感に満ちて描く。

製作費4000万ドルに対して興収1300万ドル(wikipedea)。テーマや素材からしてある程度予測された結果かもしれないが、スコセッシの執念を感じた。

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January 30, 2017

『ホワイト・バレット』 超絶スローモーション

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Three(viewing film)

『ホワイト・バレット(原題:三人行)』は、10分くらいありそうな最後のスローモーション銃撃戦のために、それまでのすべてがある。三人の主人公はじめあらゆる人間関係や心理戦、物語の伏線がそこで炸裂する。驚嘆し、笑える。見ていて惚れ惚れ。さすが、ジョニー・トー。

香港ノワールといえばまずこの人の名が挙がるジョニー・トーの映画には、たいてい二つの要素が入っている。ひとつは男と男の友情と対立の物語。もうひとつは、長回しやスローモーションを織り込んだ斬新なアクション。そんな二つの系が分かちがたくからみあっている作品が多い。この映画は、そのうちアクションの要素を全面展開させたもの。

宝石強盗団グループのシュン(ウォレス・チョン)がチャン警部(ルイス・クー)らに追いつめられ、自ら頭に銃弾を撃ち込んで病院にかつぎこまれる。脳外科医のトン(ヴィッキー・チャオ)はシュンを手術しようとするが、彼は手術を拒否する。チャン警部は、シュンの拒否は仲間が救出にやってくるのを待つ時間かせぎと判断し、病院に包囲網を敷いて強盗団を待つ……。

前半はアクション場面がほとんどなく、病院の手術室や病室での言葉と視線のやりとりでストーリーが語られる。手術を拒否したが発作が起きる不安は残るシュンと、医師として手術を主張するトンのやりとり。医療を優先するトンと捜査を優先するチャン警部の対立。シュンとチャン警部の、互いに相手の裏を読もうとする探り合い。

そこにサイド・ストーリーが絡む。トン医師の手術は医療ミスだったと訴える入院患者。やたら院内を歩き回って引っ掻き回す、トー映画の常連ロー・ホイパン演ずる入院患者。やはり常連のラム・シュー演ずる間抜けな刑事。このあたり、緊張と笑いをうまく織り交ぜるトーの職人芸は絶品。

そして最後の銃撃戦がやってくる。CGも使いながら、すべてスローモーションで描写される10分近く(多分)が圧巻。これまでもトー映画で銃弾がスローモーションになったりすることはあったけど、これだけ長いのは初めてじゃないかな。長回しもあって、どんなふうに撮影したんだろう。見惚れてしまう。

この映画、香港だけでなく大陸でも公開され、トー映画として最高の興収をあげたという。自分のスタイルを徹底させながら、映画もヒットさせる。改めてジョニー・トーのしたたかさに脱帽。

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January 23, 2017

『静かなる叫び』 冷え冷えした風景

Polytechnique
Polytechnique(viewing film)

「未体験ゾーンの映画たち 2017」のタイトルで未公開映画63本が特集上映されている(~3月31日、ヒューマントラスト渋谷)。ほとんど見ることのないホラーが多いけど、気になるクライム・アクション映画も何本かある。なかでいちばん見たかったのがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が2009年にカナダでつくった『静かなる叫び(原題:Polytechnique)』。この作品の次につくった『灼熱の魂』が国際的に評価され、監督はハリウッドに呼ばれることになった。

1989年にモントリオール高等技術専門学校(polytechnique)で銃乱射事件が起こり、14人の女子学生が殺された。『静かなる叫び』はその事件を映画化したもの。銃を乱射した学生と、犠牲になった女子学生2人、友人の女子学生を見殺しにしたことで罪責感にさいなまれる男子学生の4人を中心に事件が描かれる。

映画がはじまって数秒、観客になんの情報も与えられないまま、学生がコピー機に群がるホールでいきなり銃が乱射される。血を流した学生が逃げまどう。見る者は、なにがなんだかわからないまま心臓をぎゅっと掴まれる。

そうしておいてからカメラは、自室で銃口を口にくわえ自殺のシミュレーションをした後、銃を隠し持って激しく雪が舞うなかを大学へ向かう男子学生の行動を追う。理由は説明されないが男はフェミニズムを憎んでいて、その憎悪が理系女子学生に向けられる。同じ朝、ルームメイトである2人の女子学生もインターン試験を受けるひとりのファッションをチェックしながら大学へ向かう。銃を持った学生が授業に乱入し、女子学生だけを残し、教師と男子学生を教室の外に追い払う。2人の友人の男子学生も、ためらいつつも銃を持った男に逆らえない。そして惨劇が起こる。

ともかく緊迫感が半端じゃない。事件へ向かう冒頭、教室の内と外での乱射、女子学生を救おうとする男子学生の行動などを時間を行きつ戻りつ、さらに事件後の男子学生が自分を苛む姿や生き残った女子学生のその後も挿入しながら、何本もの糸を織り上げるように縒ってゆく。長編映画3本目とは思えないサスペンスの才能。ノイズのような音が画面の背後に流れて緊迫感をいよいよ高める。

そして監督の映画の多くに共通する、北国の都市の冷え冷えした風景がここでも印象的だ。惨劇は、窓の外に雪が激しく降る室内で静かに進行する。モノクロームであることも、寒々した空気を強調している。

この映画は犠牲者に捧げられているが、ハリウッドはそのテーマでなくサスペンスの才に注目したんだろう。とはいえヴィルヌーヴ監督は職人としてでなく、自分の「質」をハリウッドでも保持することで『プリズナーズ』『ボーダーライン』という秀作を生みだした。今年秋に公開されるという『ブレードランナー』続編が楽しみだ。


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January 19, 2017

『The NET 網に囚われた男』 矜持と悲しみ

Net
The NET(viewing film)

キム・ギドク監督の映画をずっと見てきた者として、新作『The NET 網に囚われた男(原題:그물)』には驚く。異端と言われたギドクらしさが消え、一見ヒューマンな人間ドラマになっている。南北朝鮮の政治問題を映画に取り込んだのも(監督作品としては)はじめてだろう。顔を背けたくなるような性や暴力の過激な描写も抑制されている。登場人物の思いや行動が極端なまで突っ走って映画に非現実的な空気が漂うのも、ここでは避けられている。でもやっぱりキム・ギドクだなあと思う。

黄海に面し南北国境線に近い北朝鮮の漁村。漁に出たナム(リュ・スンボム)はモーターに網がからまって流され、韓国側に漂着してしまう。ナムはソウルに連れて来られ、スパイ容疑で取り調べを受ける。取調官(キム・ヨンミン)は暴力を使って自白させようとするが、警護官のオ(イ・ウォングン)はナムの無実を確信するようになる。上官はナムにソウルの繁華街を見せて亡命させようとするが、その映像が流れて南北の政治問題になってしまう。ナムはスパイではないとして送還されるが、北ではまた厳しい査問が待っていた。

北朝鮮の貧しい漁師ナムの造形がていねいで素晴しい。朝、漁に出る前に布団のなかで妻(チェ・グィファ)を抱く。幼い娘が寝たふりをする。その短い描写で、観客はナムのことをわかってしまう。ナムと警護官のオが少しずつ心を通わせはじめる。繁華街の明洞にひとり放り出されたナムは、繁栄する街を見てしまえば北へ帰って追及されると目を閉じたままさまよう(低予算早撮りのギドクらしくゲリラ撮影が効いている)。目を開けたナムは用心棒に暴行される風俗嬢を助けて、繁栄の裏側を知る。ナムを信じてベンチで待つオのところへ戻ってくる。ひとつひとつの描写で、ナムの人となりがきちんと描かれていく。それがこの映画にリアリティーをもたらしている。

リュ・スンボムははじめて見たけど、いい役者だなあ。妻役のチェ・グィファも出番は多くないけど好演(廣木隆一『さよなら歌舞伎町』のデリヘル嬢もよかった)。強面の取調官を演ずるキム・ヨンミンが、取調べのでっちあげが分かって追い詰められ、いきなり北の歌を歌いだすシーンもすごい。両親が北の出身ということなのか、彼自身が北のスパイということなのか。韓国の観客はこれをどう受け取るんだろう。

韓国ではこういうテーマはイデオロギー的になりやすいけど、北でもなく南でもなく、ひとりの男の矜持と悲しみ、家族への思いを描いて見ごたえがある。最後、ナムがみずから網に囚われていくところは、やっぱりキム・ギドクだなあと感じた。

酒を飲むシーンでチャミスルが出てきて、6年前、冬のソウルで友人たちと飲んだチャミスルを思い出した。ちょっと甘味のある安い酒だけど、妙に舌が覚えている。また飲みたいなあ。


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December 31, 2016

映画・今年のBest10

Sicario
Best10 Films in 2016

今年は秋以降、いくつかの事情が重なって映画を見る本数がぐっと減った。見ても感想を書けない映画も増えた。とてもベスト10を選ぶような本数を見てないけれど、お遊びだし、自分の楽しみのために10本を選んでみた。いつものように洋画も邦画も一緒。

1  ボーダーライン
2  光りの墓
3  彷徨える河
4  さざなみ
5  オーバーフェンス
6  キャロル
7  エクス・マキナ
8  山河ノスタルジア
9  暗殺
10 ディストラクション・ベイビーズ

1 今年、映画を見ることの快楽をいちばん味わった作品。トランプのアジテーションで話題になったメキシコ国境。麻薬カルテルのボスを殺すため、CIAが国境を越えて暗殺者を差し向ける。といっても社会派でなく、寡黙なベニチオ・デル・トロの殺し屋が絶品。砂漠のノワールになっているのが素敵だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督とロジャー・ディーキンス撮影監督はハリウッドの最強コンビ。

2 タイの地方都市で日常のなかに当り前のような顔をして過去や死者が入りこんでくる。眠り病患者の夢が呼び起こされる。政治的なメッセージを発することのなかったアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が、森と光と風の「クメールのアニミズム」の根拠地から軍事政権を批判する。監督は、これから国内では映画をつくれないだろうと言うが、どうなるのか。

3 こちらは南米コロンビアのアニミズム。近代化と植民地主義にさらされたアマゾン奥地を舞台に、西洋人の宣教師と人類学者、西洋化した先住民と自らを失ったシャーマンが旅する。アマゾンの源流への旅は過去へ遡る旅でもあり、主人公のシャーマンが自らを回復する旅でもある。コロンビアの現在を典型として描いたように思えた。

4 『愛の嵐』以来のシャーロット・ランプリングのファンとして、その悪魔的な魅力と怖さに年輪を加えていよいよ磨きがかかったのを堪能。のどかな田園風景のなか、淡々とした老夫婦の日常に静かに深い亀裂が入ってゆく。若い監督だけど、イギリス映画の成熟を感ずる。

5 佐藤泰志原作、函館3部作の3作目。どんよりした北の空の下、オダギリジョーと蒼井優が出会い、傷つけあい、もういちど出会う。地方都市のゆるい空気や、脇役の点描もこなれている。前2作より、かすかな明るさを感じさせるのがいい。こちらも山下敦弘監督の成熟を感ずる。

6 1950年代ハリウッド映画を思わせる濃厚なメロドラマに酔う。とはいえ、男と女ではなく女と女の愛。そこからくる偏見や差別など、今日性を持たせている。ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラがひたすら美しい。

7 アンドロイドのクールなエロチシズムがたまらない。SF+密室ミステリー+猟奇殺人といったジャンル映画をうまく組み合わせて楽しませる。ノルウェーの山岳地帯でロケした人里離れた静寂が雰囲気を出す。

8 ひとりの女性の過去・現在・未来。彼女の人生を2人の男とひとりの息子が彩り、ジャ・ジャンクー流の大河ドラマといった趣だ。ジャ・ジャンクーの映画は中国で上映禁止になることが多いが、これは受け入れられるだろう。

9 日本植民地下のソウル。親日派実業家と日本軍将校の暗殺を描くアクション・エンタテインメント。表の顔は反日だけど、映画の中身は植民地下で協力者として生きざるをえない者の悲しみに力点をおく。型どおりの二分法からはみでるものを感ずる。チョン・ジヒョンがかわいい。

10 映画全体から発する暴力と破壊の衝動。不穏な空気が全編にみなぎる。殺人者の誕生を演ずる柳楽優弥の面構えは、『復讐するは我にあり』の緒方拳を思い出させる。

ほかにリストに入れるか迷ったのは、『火の山のマリア』『サウルの息子』『殺されたミンジュ』『蜜のあわれ』『007 スペクター』『淵に立つ』『シン・ゴジラ』といったところ。

改めてリストを見てみると、女優で選んだ映画が多いなあ。『007 スペクター』のレア・セドゥとモニカ・ベルッチもそうだし。

一年間おつきあいいただいて、ありがとうございました。良い年をお迎えください。

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December 21, 2016

『ジムノペティに乱れる』 小味でひねりのきいた

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20代のころ、ほんの一時期、週刊誌の芸能担当記者をしていたことがある。

そのころ、日活ロマンポルノが猥褻図画公然陳列で摘発され、裁判になった。当時の目で見ても(ピンク映画などに比べて)特に性表現が過激だったわけでもなく、作品の出来も大したことはなかったけれど、これ幸いとプロデューサーや監督に話を聞いて記事にしたことがある。それをきっかけに日活調布撮影所に行って何人かの監督や女優のインタビュー記事を書いた。映画好きが趣味を仕事にできた、会社勤めのなかでいちばん幸せな時期だった。

この時期の日活ロマンポルノは、神代辰巳の『一条さゆり・濡れた欲情』や『四畳半襖の裏張り』、藤田敏八『エロスは八月の匂い』、田中登『マル秘・女郎責め地獄』『屋根裏の散歩者』など傑作を連発していた。

『ジムノペディに乱れる』(行定勲監督)は「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」とタイトルされた5本の映画の第1作。このプロジェクトは「総尺80分前後、10分に1回の濡れ場、製作費は一律、撮影期間1週間、完全オリジナル作品、ロマンポルノ初監督」という条件。かつての日活ロマンポルノに近い制約のなかで新しい試みをということだろう。ほかに園子温『アンチポルノ』、塩田明彦『風に濡れた女』、中田秀夫『ホワイトリリー』などが控えている。

……と、ここまで前置きを書いて3週間たってしまった。家族の事情で週に何日か病院に詰めることになり、ブログの更新もままならない。映画も見られない。『ジムノペディに乱れる』もディテールを忘れてしまったけれど、とりあえず覚えていることだけメモしておこう。

主人公の古谷(板尾創路)は映画監督。かつてベルリン映画祭で受賞したアート派だが客の入りが悪く、今は志と異なる映画をつくっている。主役に起用した女優(岡村いずみ)はベッドシーンが嫌だとゴネて、映画を下りてしまう。鬱屈した古屋は、かつて訳ありだった女性スタッフや映画学校の生徒(芦部すみれ)、元妻など、女たちの間をさまよう。

懐かしかったのは、70年代の私小説ふうなやるせなさが画面に漂っていたこと。そういえば行定勲は『パレード』でベルリン映画祭の賞を取っていたなあ。これが行定の私小説だとは思えないけど、ロマンポルノのある種の定型を意識しているのかもしれない。記憶でいえば神代辰巳の『恋人たちは濡れた』に似たような空気を感じた。

ここぞというときエリック・サティが入ってくるのはお約束。サティの音と板尾創路の存在感が印象に残る映画でした。昔のプログラム・ピクチャーには、傑作とは言えないけど小味でひねりのきいた映画がときどきあって、そういう作品に当たるとお金を払った分は取り戻した気がして映画館を出た。そんなことも思い出した。

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November 30, 2016

『彷徨える河』 アマゾンをさかのぼる旅

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El Abrazo de la Serpiente(viewing film)

水面がゆらゆら揺れ、水に映る影も揺れている。カメラが上へパンすると、褐色の肉体を持ち、動物の歯の首輪をかけた先住民が水に映る影を見ている。上空からの俯瞰。熱帯雨林のなかをアマゾン河がアナコンダのように右に左に蛇行している。クローズアップ。熱帯の蛇がくねっている。鎌首をもたげ、獲物の小さな爬虫類を捕らえる。──なんとも印象的な3つのモノクローム映像が重なったところに、この映画の核がある。

『彷徨える河(原題:El Abrazo de la Serpiente)』のスペイン語原題は「蛇の抱擁」とでもいった意味だろうか。「蛇」はアマゾンに棲む熱帯の蛇そのものであるとともに、アマゾン河のことでもあろう。アンデス山脈の水を集めたアマゾンの最上流、コロンビアの熱帯雨林でひとりの先住民と二人の白人が蛇である河をさかのぼる。

先住民はカラマカテ(ニルビオ・トーレス=若者、アントニオ・ボリバル・サルバドール=老人)という名のシャーマン。彼の部族はどうやら白人の手で滅ぼされ、ひとりで流浪しているらしい。そのカラマカテのところへ、時代を経て二人の白人がやってくる。一人目はテオ(ヤン・ベイヴート)という病にかかった老司祭。彼は、文明化した先住民の助手に導かれてカラマカテに助けを求めに来た。カラマカテはヤクルナという植物を手に入れれば助かるといい、三人でアマゾンをさかのぼる。

数十年後。幻覚植物であるらしいヤクルナを求めて人類学者のエヴァン(ブリオン・デイビス)がカラマカテのところへやってくる。年老いたカラマカテはシャーマンとしての記憶を失い、「からっぽ」の人間になっている。二度目の旅は、カラマカテにとって案内者であるとともに自らを回復する旅にもなっている。二度の旅で、カラマカテとテオ、エヴァンはさまざまな部族や、自らを救世主として先住民に君臨する白人に出会う。

こう書いてきて思いだすのはコンラッドの小説『闇の奥(Heart of Darkness)』だ。この小説はアフリカのコンゴを舞台に、コンゴ河をさかのぼる主人公が、先住民に君臨して象牙を集める悪魔的な白人に出会う話だった。コッポラの『地獄の黙示録』はこの小説を原案にしていた。

『彷徨える河』も同じ構造をもっている。でもコンラッドの小説や『地獄の黙示録』、アマゾンに侵入する白人騎士を描いたヘルツォークの『アギーレ・神の怒り』なんかがあくまで欧米人の視点から描かれていたのに対して、この映画が新しいのは先住民の視点から描かれていることだろう。

アマゾン流域にはゴム農園が広がり、先住民は農園労働者として搾取されている。先住民のひとりは「全部ゴムのせいだ」と叫んでゴム原液をぶちまける。先住民は、土俗宗教と混淆した奇妙なキリスト教を信仰している。ゴム農園とキリスト教、欧米の植民地主義がコロンビア(南アメリカ大陸)にもたらしたふたつの要素が部族社会を壊したことが示される。主人公が白人、自分を失った先住民、文明化した先住民というあたりも含めて、南アメリカ大陸の現在を典型として示そうという意図が感じられる。

シャーマンの能力を失った老カラマカテが現在を象徴しているとすれば、アマゾンをさかのぼる旅は空間だけでなく時間をさかのぼることによって、過去にあった自分を取り戻す旅になる。ヤクルナを見つけたカラマカテは、ここだけカラーになる幻覚とともに宇宙と一体化し、その存在は消えて目に見えなくなる。

モノクロームの映像が見事だ。言葉にも配慮が行き届いている。スペイン語、英語、ドイツ語、さらに複数の先住民の言語が使われているようだ。はじめて見たコロンビア映画、実に面白かった。


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November 01, 2016

『永い言い訳』の幸福感

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西川美和監督の映画は『ゆれる』が見事にそうだったように、いつも相対する人と人の微妙な感情の揺れを丁寧に掬いあげる。

バス事故で互いに妻を失った幸夫(さちお、本木雅弘)と陽一(竹原ピストル)が、陽一の息子・娘とともに初めて食事をした夜、娘の灯(あかり)がアレルギーを起こして陽一は病院に駆け込み、幸夫は陽一の息子・真平を陽一のアパートに連れ帰る。陽一が帰ってきたとき、幸夫は真平が成績がよく中学受験を考えていることを真平から聞いた、と陽一にしゃべる。そのときの陽一の反応。

長距離トラックの運転手で、いかつい風貌の陽一が、「今日はじめて会ったのに」と言って一呼吸おく。そんなプライバシーまで踏み込んで、と陽一が怒るのかと観客は不安になる。ところが陽一は、「あいつはサチオ君にそんなことまでしゃべったんですか」と顔をくしゃくしゃにして笑う。幸夫と陽一が友人関係になる瞬間だ。

あるいは、その後の展開にいろんな種をまく、陽一と妻・夏子(深津絵里)の映画冒頭の会話。ことあるごとに妻を思いだして泣く父の陽一に距離をおく真平の、父に対する感情。真平は幸夫に対してもはじめ口が重いが、やがて信頼して父への批判めいた言葉も口にしはじめる。灯もはじめは幸夫に口もきかないが、やがてべたっとしてくる。そんな、それぞれのちょっとした心の動きの描写が積み重ねられて、幸夫と陽一の子供たちとの交流が深まってゆく。いささか強引な設定だけど、その幸福感がこの映画のすべてと言っていいくらいだ。

幸夫が灯を自転車に乗せて息をきらせて坂道を上がるシーン。寝過ごし降りそこねた真一の乗るバスを追って、幸夫と灯が自転車で追いかけるシーン。幸夫と真一が机をはさんで会話するシーン。どれも心に残る。

もっとも、売れっ子作家の幸夫は善意でそうしているわけではない。妻がバス事故にあったそのとき、編集者の智尋(黒木華)と不倫していた。その罪悪感から妻の死に向き合えない。仕事で家にいられない陽一の代わりに子供たちの世話をするのは、妻の死に向き合えないことから目をそらす自分への「言い訳」であり、小説のネタにしようという下心でもある。酒を飲めばエゴイストの本音が出るし、陽一一家との交流を追うTVドキュメンタリーに出演しても、カメラに向かってキレてしまう。夏子が幸夫宛てに書いたメールの下書きに残した「もう愛してない。ひとかけらも」の言葉は、どう受け取ったらいいのか。

そのあたりの幸夫の内心の亀裂が深まっていくのかと思っていたら、一家との交流を描いた小説が賞をもらい、そこで幸夫は夏子の死を受け入れる、予定調和のエンディングになってしまったのはいささか肩透かし。印象的なシーンはたくさんあるけど、『夢売るふたり』なんかに比べてドラマの骨格が弱いように思えた。


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