October 15, 2017

『立ち去った女』 聖性と獣性と

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The Woman Who Left(viewing film)

今年3本目のフィリピン映画。『ローサは密告された』も『ダイ・ビューティフル』も面白かったけど、世界中の映画祭で注目されているフィリピン映画の、今年の「本命」。ベネチア映画祭の金獅子賞を得た。

『立ち去った女(原題:Ang Babaeng Humayo)』で驚くのは冒頭からワンシーン・ワンショットの徹底ぶり。刑務所の庭で、元教師のホラシア(チャロ・サントス・コンシオ)が女囚たちに本を朗読させ、自ら詩を語る。やがて仲間の女囚が、ホラシアが罪を問われた殺人の真犯人だったことを告白し、30年服役していたホラシアの冤罪がわかる。出所。そんな展開を、カット割りしない長回しで語る。

ワンシーン・ワンショットは、よほど力のある監督でないと緊張を持続させられない。かつてのテオ・アンゲロプロスやホウ・シャオシェン、タル・ベーラの映画のように。これを3時間48分もやるのかと思ったら、その通りだったのにびっくり。このスタイルは正直言って体力気力が弱った年寄りにはきつい。途中何度か落ちそうになったけど、白黒のコントラストがくっきりしたモノクロームの映像が素晴らしく、話が進むほどにしゃんとした。

物語はホラシアの復讐譚。ホラシアに罪を着せたのは彼女の元恋人であるロドリゴ。大地主だ。出所したホラシアはロドリゴの大邸宅のある島に家を借りて復讐の機会を狙う。と、筋だけ書くとサスペンスかアクションものみたいだけど、そうではない。ホラシアが島で出会う人間たちをじっくり描いてゆく。

ロドリゴの情報を得るために、教会の前で声をかけた物乞いの女。ロドリゴ屋敷の武装した守衛に夜食を売るバロット(アヒルの卵)売りの老人。路上で踊りながらてんかんの発作を起こす女装のゲイ、ホランダ(ジョン・ロイド・クルズ)。スラムや路上で生きる貧しい人間たち。

ホラシアは彼らと親しくなり心を通わせて手をさしのべる。一方、秘めた復讐の意思はゆるぎない。バロット売りの老人に頼んで拳銃を買う。ホラシアの秘密を知ったホランダの額に銃をつきつける。でもその後で、彼女は言う。「あなたが家に来た夜、ロゴリゴを殺すつもりだった。あなたのお蔭で殺人者にならずにすんだ」。

ホラシアは善人でも悪人でもない。あるいは善人でも悪人でもある。獣性と聖性をともに持つ宿命から逃れられないのがわれわれ。ホラシアが昼はクリスチャンとして白いベールをかぶり、夜は男のような服装をしているのがそれを象徴している。時折はさみこまれる善と悪、光と闇に関する哲学的つぶやきとともに(監督はトルストイの短編からこの映画の想を得たという)、そんなホラシアの肖像と、彼女が生きるフィリピンの社会を観客に差し出す。

固定カメラで長回しの映像がつづいた後、一カ所だけ、手持ちカメラがホラシアの目線になってぐらぐらと揺れて移動する。それまでまったくなかった音楽も聞こえてくる。ホラシアが海岸に出ると、人々が歌い踊っている。この海辺のシーンだけ、生きる歓びがあふれている。その解放感が快い。

ラヴ・ディアス監督は自ら脚本・撮影・編集も手がける。ディアス監督の作品は上映時間8時間とか11時間とかの超長編が多い。一般公開されるのは本作が初めて。機会があれば他の作品も見てみたい。

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October 13, 2017

『あゝ、荒野(前篇)』 新宿の過去・未来

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熱い日本映画を久しぶりに見た。

寺山修司の『あゝ、荒野』が刊行されたのは1966年。小説の舞台になる新宿の街は若いエネルギーをためこんで発火寸前の状態にあった。翌67年にはアメリカ西海岸のヒッピー運動を受けたフーテンが新宿駅前広場に姿を現し、68年、新左翼のベトナム反戦「武装闘争」が新宿駅と一帯を占拠して騒乱罪が適用される。69年には西口広場に集まったフォークゲリラが機動隊と衝突した。花園神社では状況劇場(赤テント)がアンダーグラウンド演劇を上演し、ピット・インでは山下洋輔トリオが過激な前衛ジャズを演奏していた。渋谷を拠点にしていた寺山修司の劇団・天井桟敷は唐十郎の状況劇場と乱闘を繰り広げ、寺山も唐も逮捕された。そういう時代だったのだ。

映画『あゝ、荒野』は、東京オリンピックが終わった2021年の未来の新宿に設定を移している。オリンピックのから騒ぎも終わり、世の中は不景気らしい。歌舞伎町では、テロだかなんだか爆発騒ぎが起きている。少年院育ちの新次(菅田将暉)はオレオレ詐欺グループの一員で、刑務所から出所してきたばかり。グループに戻るか、離れるか、迷っている。建二(ヤン・イクチュン)は朝鮮人とのハーフで床屋で働くが、吃音に悩んでいる。居場所のない二人は新宿の裏町でボクシング・ジムを経営する堀口(ユースケ・サンタマリア)の誘いを受けて入門し、ジムに住み込むことになる。

新宿という「ネオンの荒野」をさまよう二人の青年が、孤独な魂を燃焼させるようにトレーニングにはげむ。年上の建二が若い新次を兄を慕うような目で見る。そんな二人に、新宿に流れてきたいろんな男と女がからむ。新次には、ラーメン屋で働きながら男をホテルへ誘っては金を盗むことを繰り返す芳子(木下あかり)という恋人ができる。芳子は東日本大震災で被災し、やはり身体を売っていた母と別れ上京してきた。幼い新次を捨てた母・京子(木村多江)は、ボクシング・ジムのパトロンである実業家の秘書(愛人)になっている。建二の父は元自衛官で、ホームレスになっている。自殺防止を名目に自殺法を研究する大学生グループ(原作では早稲田大学自殺研究会)も出てくる。

寺山修司の原作は寺山言語とも言うべきフレーズの奔流と歌謡曲や詩の引用、大衆小説めいた親子の因果物語、章の冒頭には自作の短歌を掲げ、いかにも1960年代ふうな実験小説。あまりにも時代に寄り添いすぎ、寺山ファンには楽しめても決して出来のいいものではなかったと記憶する。この小説の面白さを実感できるのは、おそらく団塊以上の世代だろう。その原作を、いかに今の若者に届くものにできるか。孤独な魂はいつの時代にもいる。自分を変えたいと願う青年もいつの時代にもいる。二人の姿に原作を超えた今日性を持たせられるか。映画の出来はその一点にかかっている。

前編を見るかぎり、その試みは成功していると思う。菅田将暉は自分のまわりすべてを憎み、饒舌に突っかかる。ヤン・イクチュンは韓国映画『息もできない』とは正反対、内向的で自分に閉じこもる。ノートに書くスケッチと言葉だけが自分を表現する場。二人がそれぞれ自分を変えようともがく。ボクシング・シーンは得てして劇画調になりがちだけど、二人ともきちんとトレーニングして役づくりしたのがわかる。木下あかりがからむセックス・シーンも、かつての日活ロマンポルノの雰囲気。ユースケ・サンタマリアも、いい味を出してる。加えて、新宿にはゴールデン街やモルタルアパートなど1960年代からつづく風景が残っている。新宿でロケしているのが何よりの強み。

1960年代風の懐かしさと2010年代の社会意識を持ったエンタテインメント。前篇は二人がデビュー戦でリングに上がるまで。後篇は当然、二人が対決することになるだろう。楽しみだ。監督はテレビマン・ユニオン出身の岸善幸。細かくカット割りせずドキュメンタリーのような風合いがいい。


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October 02, 2017

『オン・ザ・ミルキー・ロード』 生きる歓び哀しみ

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On The Milky Road(viewing film)

エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』や『黒猫・白猫』を見たときは、ほんとうに驚いた。バルカン半島の映画になじみがなかったせいもあるけれど、バルカンの複雑な歴史と民俗を背景に、映像と音楽が一体になったお伽噺のような人間の悲喜劇。その祝祭的なリズムはクストリッツァ監督以外の誰にもつくれない。『オン・ザ・ミルキー・ロード』は、久しぶりにそのリズムにひたることのできる映画だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか。銃弾飛び交うセルビア人地域最前線の村。戦う兵士の傍らを、コスタ(エミール・クストリッツァ)が戦闘など知らぬ気にミルク缶を運んでゆく。内戦で家族を殺され精神に変調を来したコスタを、銃弾もよけて飛んでいるようだ。

ミルクを生産しているのは壁に大時計を持つ農家。祖母が仕切るこの家の孫娘ミレプ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)はコスタに惚れている。祖母が、軍の将校で戦争に出ている孫のジャガ(ブレドラグ・ミキ・マノイロヴィッチ)に嫁を取り、ジャガとミレプ、2人の孫の結婚式を同時にやろうと考える。町から花嫁(モニカ・ベルッチ)がやってくるが、花嫁は実は多国籍軍(英国軍)に追われている。コスタは花嫁に恋をしてしまう。村の楽団が陽気な民族音楽を奏で歌って踊ってどんちゃん騒ぎの後、敵の英国軍が村を襲ってジャガとミレプの兄妹は殺される。生き残ったコスタと花嫁も敵に追われるのだが……。

この映画は人間ばかりでなく、動物も重要な登場人物。コスタは戦闘現場のそばをロバに乗り、飼っているハヤブサを肩に載せて歩いてゆく。村ではガチョウが、食用にされたブタの血に羽を赤く染めガアガアと歩きまわる。コスタは崖に棲む大蛇にミルクをやっている。この蛇がやがてコスタと花嫁を救う。クマもいる。羊の群れもいる。コスタと動物は同じ世界に住んでいるみたいだ。

音楽が常に鳴っている。バルカンのロマ音楽をベースにしたブラス音楽。コスタも民族楽器を弾く。戦闘シーンでも音楽が鳴り響き、砲弾の音とドラムの音の区別がつかなかったりする。

後半は敵の兵士に追われたコスタと花嫁の逃避行。音楽に合わせて深刻な物語が陽気なリズムで進むうち、クストリッツァの映画がいつもそうであるように、現実からふわっと離陸してお伽噺の世界に近づく。敵に追われ大樹に登って隠れたコスタと花嫁が、抱き合ったまま昇天していくように空中に浮かび上る。クストリッツァだなあ、と思う。

一方、群れに隠れた2人を囲んだ羊たちが地雷に接触し、次々に飛び散って死体になってゆく俯瞰のショットは、内戦の記憶が今も癒えない悲しみを伝えてくる。ユーゴ内戦やボスニア紛争で、正教のセルビアはカトリックのクロアチアを支援した欧米から敵役のように見られたけれど、戦争の死者に国籍や宗教による違いがあっていいはずがない。日本人にはよく分からないけど、セルビア人であるクストリッツァの映画は、欧米ではいまだ微妙な問題を孕んでいるのかもしれない。

50代も半ばになったモニカ・ベルッチが、顔に深く皺をきざみながらも美しい。クストリッツァは、モニカをヒロインに迎えたいがためにこの物語を書き、モニカの相手役を務めたんじゃないかと思いたくなる。戦争に引き裂かれる愛を描きながら、にもかかわらず生きることは歓びというクストリッツァ流の寓話に昇華させた傑作だと思う。

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September 27, 2017

『三度目の殺人』 三度目に殺したのは誰?

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The Third Murder(viewing film)

「三度目の殺人」というタイトルは何を意味してるんだろう。

殺人犯の三隅(役所広司)は映画のなかで二度の殺人を犯す。一度目は北海道で、二度目は出所後に横浜で。三度目はない。出所後に住んだアパートで飼っていた小鳥を殺すけれど、これは殺人とはいえない。

三隅が二度目に殺したのは、勤務する小さな食品工場の社長。殺人罪で起訴された三隅を、重盛(福山雅治)が弁護することになる。方針は、死刑が予想される判決を無期懲役にすること。重盛は、「法廷は真実を明らかにする場ではない。いかに被告に有利な判決を引き出すか。だから被告の人間性を理解する必要はない」というクールで現実的な考えを持っている。

重盛は同期の摂津(吉田鋼太郎)、若手の川島(満島真之介)と三隅に接見するが、三隅は会うたびに言うことが違う「虚言癖」で、殺害の動機について何が本当なのか見当がつかない。三隅は何の動機もなく殺人を犯す「空の器」ではないのか。

殺害現場の多摩川河川敷に行った重盛は、殺された社長の娘・咲江(広瀬すず)を見かける。やがて咲江が三隅のアパートに出入りしていたことが判明する。重盛が咲江を問い詰めると、咲江は殺された実父に性的嫌がらせを受けていることを三隅に話していた。三隅はそれを知って社長を殺害した可能性が高い。咲江は公判でそのことを証言し、三隅を助けたいと願う。

公判で殺人を認めていた三隅は態度を180度翻し、殺していないと主張する。そのため咲江の証言は実現しなかった。摂津や川島は反対するが、重盛は三隅の豹変を認める。裁判長と裁判員の印象は悪く、死刑の判決が出る。判決後、三隅と接見した重盛は、「態度を翻したのは公判で咲江が実父とのことを証言し、好奇の目に晒されるのを防ぐためだったのか」と問う。重盛は、「仮にそうだとしたら、私も誰かの役に立ったわけだ」と語る。2人の対話シーンが見事。

判決後、裁判所を出た重盛は、頬をぬぐう仕草をする。それ以前に、三隅も咲江も同じ仕草をしている。河原での犯行後、三隅は頬についた血をぬぐう。その後、現実とも幻想ともつかないショットで、頬の血をぬぐう三隅のかたわらに咲江がいて、咲江もまた頬についた血をぬぐう。三隅、咲江、重森と、同じ仕草が三度繰り返される。

一度目の殺人は、咲江が心の中で父を殺した。二度目の殺人は、「空の器」である三隅が咲江の殺意を器に充填して、現実に咲江の父を殺した。三度目は重森が三隅の豹変を認めて無期懲役の方針を放棄し、三隅を死刑においやった。そして裁判で真実は明らかにならなかった。だから裁判所を出た重盛の頬にも見えない血しぶきがかかっていて、重森はそれをぬぐった。

「三度目の殺人」というタイトルを僕はそのように解釈した。是枝裕和は最後まで謎解きをしないで観客に任せているから、別の解釈もできる。でも是枝監督の映画をずっと見てきて、彼は根元のところで人間を信頼していると思っている。だから、三隅は実の娘と重なって見える咲江の殺意を引き受けて彼女の父を殺し(「空の器」が空でなくなり)、裁判は勝ち負けがすべてとクールな重盛も、負けを覚悟で三隅の「死刑志願」に乗った、と考えたい。本当のところはどうだろう。


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September 25, 2017

『パターソン』 映像で詩を書く

Paterson2
Paterson(viewing film)

『パターソン(原題:Paterson)』を見ていて、やたらに双子が出てくるのが目についた。これって何なんだろう?

主人公はニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)。彼は密かにノートに詩を書きためている。パターソンが朝、歩いて仕事場に向かう途中、道のベンチに老いた双子の兄弟が同じ服を着て談笑している。バスを運転していると、乗客には双子の少女がいる。仕事を終えて帰る途中、詩を書いている少女に出会うが、彼女もまた双子のかたわれ。

パターソンは、この町が生んだアメリカを代表する詩人、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズが好きで、彼のぶ厚い初期詩集を愛読している。テキスタイルデザイナーの妻・ローラ(ゴルシフラ・ファラハニ)が朝の会話で、ウィリアムをカルロス・ウィリアム・カルロスと名と姓をひっくり返し、他愛ない冗談に夫婦で笑う。ウィリアム-ウィリアムズをカルロス-カルロスにして言葉遊びを楽しんでいる。パターソンに住むパターソンも、パターソン-パターソンということになる。

そうか。何度も出てくる双子は、同じ言葉の重なりを面白がる感覚を映像に移したんだな。パターソン-パターソンの言葉の重複も、同じ服を来た双子の姿も、どこか微笑をさそうおかしみを湛えている。そんなあたりから、この映画の主題が見えてくる。ジム・ジャームッシュは映像で詩を描いてみようとしたんじゃないか。

この映画は、ちゃんと韻も踏んでいる。月曜日から一週間の物語だけれど、月曜日から次の月曜日まで、一日の始まりは決まって夫婦がベッドで寝ているのを上から俯瞰する同じショット。パターソンが枕元の腕時計を見ると日によって6時10分だったり15分だったり。ローラと言葉を交わしたり交わさなかったり、ローラがシーツに首までくるまっていたり、美しい背中を見せていたり、日によって微妙にショットが異なる。

韻を踏みながら、映像を少しずつ変奏させてゆく。それはパターソンが詩を書くスタイルに同期している。パターソンが書きとめる詩は、ごく日常的な題材や記憶を材料にしている。例えばこんな感じ(詩はロン・パジェットがこの映画のために書いた)。スクリーンに、パターソンの手書きの文字が映しだされる。

When you’re a child/you learn/there are three dimensions:/height, width, and depth./Like a shoebox./Then later you hear/there’s a fourth dimension:/time./Hmm./Then some say/there can be five, six, seven… /I knock off work, /have a beer /at the bar./I look down at the glass/and feel glad.(PBS NEWSHOUR

パターソンは毎日決まった時間に起き、ニュージャージー・トランジット社パターソン23番ルートのバスを運転し、昼休みにはお気に入りの滝が見える公園で弁当を食べ、仕事が終わると家に帰って愛犬マーヴィンの散歩に出て、アフリカ系老人が経営するバーでビールを一杯だけ飲む。ローラがつくったケーキがオープンマーケットで200ドルを売り上げ喜んだり、バーで別れ話の男女のトラブルに巻き込まれたり、その日、その日、誰にでもあるような小さな出来事がある。なにしろこの映画の最大の事件は、マーヴィンがパターソンの詩作ノートを食いちぎってしまうことくらい。パターソンは「I hate you.」と一言だけ言ってマーヴィンを許す。パターソンの日々から滲みでる詩と映像とが一体になっている。

ローラがデザインする、白黒の丸や波形を使ったカーテンや服のデザインが繰り返し出てくるのもまた、この映画にヴィジュアルな韻を与えている。穏やかな夫婦の日々が、そのまま美しい。

最後に永瀬正敏が日本から来た詩人として、おいしい役どころで登場。ローラのゴルシフラ・ファラハニはどこかで見た顔だと思ったら、イラン映画『彼女が消えた浜辺』に出ていた。ジャームッシュは若い頃は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のタイトルのようにストレンジな味を好んだけれど、年をとるにつれ普通(オーディナリー)のなかに映画の題材を見つけるようになった。ニュージャージーの、ニューヨークから十数キロに位置する取りたてて特徴のない町の風景も素敵だ。


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September 18, 2017

『ダンケルク』 逃げまどう戦争映画

Dunkirk
Dunkirk(viewing film)

クリストファー・ノーラン監督の映画は時間と空間の描き方が直線的でなく、独得にねじれている作品が多い。

『メメント』は、脳に傷を負って記憶が10分しか保てない男が、自分の行動をメモ書きしたり身体に刺青として刻みこんだりしながら追いつ追われつするサスペンスだった。同じ時間が何度も繰り返され、円環する感覚が新鮮だった(このインディペンデント系の長編2作目が評価され、ミステリアスな『インソムニア』を経て『バットマン ビギンズ』に抜擢される)。『インターステラー』は太陽系のワームホールを通って別の銀河系に行き、時間と空間がニュートン力学とは別の仕方でつながっている世界を描いた。

『ダンケルク』の面白さは、陸海空の戦いがそれぞれ別の時間軸で描かれていることだろう。陸の戦いは、ドイツ軍にダンケルクの海岸に追い詰められた英仏軍が、大きな犠牲を出しながらも撤退する1カ月を描く。海の戦いは、撤退する兵を乗せた輸送船が独空軍によって撃沈されるなか、徴用されたイギリスの民間船がダンケルクに救助に向かう最後の1週間を描く。空の戦いは、英仏の輸送船を狙う独空軍に対して攻撃を仕掛ける英空軍戦闘機3機の最後の1時間の戦闘を描く。1カ月と1週間と1時間の戦いが入れ子状になって1本の映画になり、最後に3つの時間が合体して終わる。

それぞれの戦いに主人公がいる。陸の戦いは英軍兵士のトミー(フィオン・ホワイトヘッド)。戦いといっても、独軍に攻撃されて銃を捨てて逃げ、ダンケルクの海岸でも独軍戦闘機に掃射され、別の隊にまぎれこんで乗った輸送船も独戦闘機に攻撃されて沈没し命からがら海岸に舞い戻りといった具合で、ただ逃げまどうだけ。桟橋の下に隠れて救助の輸送船に潜り込んだり、兵士としての規律を失ってしまったようにも見える。

海の戦いの主人公は観光船ムーンライトの船長・ドーソン(マーク・ライランス)。息子と息子の友達を乗せて、徴用された多くの民間船とともにダンケルクに向かう。海上で救助したショック状態の英兵(キリアン・マーフィー)は、ムーンライトがダンケルクに向かうと聞いて、英本土に戻れと暴れる。船長はダンケルクに行く訳をこう説明する。「自分たちの世代が戦争を始めた。でも息子たちの世代を戦場にやってしまった」。

空の戦いは戦闘機スピットファイアのパイロット・ファリア(トム・ハーディ)。ダンケルクへ出撃したのは3機。1機だけ残り、本国へ帰投する燃料がなくなってもなお独戦闘機と戦い、独機を海に沈めた後、燃料切れでダンケルク海岸に不時着して独軍の捕虜となる。空中戦や駆逐艦の脇をスピットファイアが飛ぶシーンなど、すべてCGでなく実写。飛行できるスピットファイアを飛ばしたというからすごい(65ミリのIMAXで撮影されているが、日本公開は35ミリ版。大スクリーンで見たらどんな感じだろう)。ファリアはずっと防風眼鏡をかけているので、最後に機体から離れるまでトム・ハーディとわからなかった(笑)。

この陸海空の1カ月と1週間と1時間のドラマが時間を行ったり来たりして描かれる。もっとも、それぞれのパートのなかで時間は順を追って進むので、そうと分かれば混乱はない。3つのパートが重なる最後の1時間、兵士のトミーは既に英国に帰り、列車に乗っている。逃げ回ってばかりいたトミーだが、駅のホームにかけつけた住民から、「生きて帰ってきただけでよい」と声をかけられる。一方、最後にトム・ハーディが格好良く愛機に火をつけ捕虜になるあたりは、いくら負け戦の撤退戦とはいえ、ヒーローがいないと映画が終らないんだろう。

でも、いちばん感情移入できたのは不甲斐ない兵士のトミーだった。身を隠す場所もない海岸で戦闘機の機銃掃射や爆撃を受け、別の隊にまぎれこんで乗った駆逐艦は爆撃され船室が浸水して溺れそうになり、再びダンケルク海岸に戻って干潮で座礁した船倉に隠れたところを銃撃される。兵士というより普通の人間に戻り、殺される恐怖にさらされるのがなんともリアル。『プライベート・ライアン』から『ハクソー・リッジ』まで、すさまじい戦闘シーンを売りものにした映画は多いけど、殺される恐怖をこんなふうに描いた戦争映画は負け戦だからこそかも。

セリフは最小限に抑えられ、そのかわりハンス・ジマーの音楽が負け戦にふさわしい(?)恐怖感をあおる。

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September 14, 2017

『散歩する侵略者』 観念的台詞とB級テイストの映像

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Before We Vanish(viewing film)

黒沢清監督の映画に通底する特徴は、それが彼の映画のいちばんの魅力だと思うけど、「不穏な空気」とでも呼べるものじゃないかな。

ホラーでも、スリラーでも、黒沢清はおどろおどろしい仕掛けを好まない。ごく当たり前の日常がある瞬間、なにかをきっかけに「不穏な空気」が充満する場に変貌し、それが恐怖や不安を引き起こす。でも『散歩する侵略者』には、それがないように見える。

この映画はホラーでもスリラーでもなく、SF。SFといえば、街や人の服装が未来ふうなのが普通だろうけど、いま現在のこの国の風景のなかに宇宙人が人の形を借りて侵略してきたという設定。つまり普通じゃないSFをつくろうとしている。日常の風景と宇宙人の侵略という設定の齟齬を、映画としてどう処理するのか、それが観客にどう受けいれられるか。今まで見たこともない作品と評価されるのか、絵空事みたいに感じられるのか。

宇宙人に乗っ取られたのは真治(松田龍平)。夫のおかしな言動に妻の鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。宇宙人は乗っ取った人間から「家族」「仕事」といった概念を奪ってゆく。真治は鳴海と家族を構成していることを忘れ、仕事を忘れ、ただふらふら歩きまわるだけ。

一方、週刊誌記者の桜井(長谷川博己)は一家惨殺の殺人現場で少年の天野(高杉真宇)に声をかけられる。天野と、家族を殺した娘のあきら(恒松祐里)もまた宇宙人だった。桜井は天野とあきらが宇宙人であり、地球を侵略する偵察をしていると聞き、2人と行動を共にする。2人が、もう1人の宇宙人である真治と連絡を取り、故郷の星に通信すると侵略が始まる。

『散歩する侵略者』はもともと前川知大作の舞台劇。宇宙人が人間から概念を奪うという設定も、ここから来ている。舞台劇なら、観念的な設定や台詞も観客ははじめからそういうものと思っているから違和感を感じない。でも映画の場合、よほど周到なカメラと演技とともにでないと、観念的な台詞とリアルな映像とが齟齬を来しお尻がこそばゆくなって落ち着かない。去年見た『ふきげんな過去』もそうだった。

黒沢清監督は、その観念的な台詞に対して、アメリカの宇宙侵略ものB級映画みたいな映像をつけた。金をかけないチープ(に見える)テイストと、唐突というか、おざなり(に見える)展開。それを、あえてやっているように見える。

「家族」や「仕事」そして「愛」の概念を奪われた松田龍平と長澤まさみの夫婦が、もう一度ゼロから愛をつくりなおしていく物語。うまく映画的に処理すれば、黒沢監督得意のサスペンスや、『岸辺の旅』のようなテイストの映画にもなりえたと思う。でも監督はあえて観念的セリフとB級映画ふうな映像を組み合わせたように感ずる。

「不穏な空気」も、最後に宇宙人が襲来するところでちらっと見せるだけ。いつもの黒沢映画の面白さは感じられなかった。期待していただけに残念。


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September 08, 2017

『エル ELLE』 倒錯した精神性

Elle
Elle(viewing film)

ポール・ヴァーホーヴェン監督の悪女ものといえば、どうしたって『氷の微笑』を思い出してしまう。でも『エル(原題:Elle)』は、面白さでもサスペンスでも変態度でも『氷の微笑』より一回り上。『氷の微笑』がハリウッド製エンタテインメントだったとすれば、『エル』はエンタテインメントでありつつ作家性を感じさせる作品になっている。その理由は、ヒロインがただの悪女でなく、その生き方から倒錯した精神性が匂ってくるからだろう。

冒頭、暗闇のなかで鋭くガラスが割れる音がする。画面が明るくなると、いきなりショッキングなレイプ・シーン。パリの高級住宅地に住むミシェル(イザベル・ユペール)がダイニング・ルームで黒覆面の暴漢に襲われている。暴漢が去った後、ミシェルは事もなげに割れたグラスを集めて捨てる。その冷静さが普通ではない。

場面が変わるとミシェルの仕事場。彼女はゲーム会社の社長をやっている。若いスタッフが開発中のゲーム(モンスターが女性を襲う)に、ミシェルは冷たくダメを出す。スタッフには権力者であるミシェルへの反感が感じられる。ミシェルは元夫のリシャール(シャルル・ベルリング)、共同経営者のアンナ(アンヌ・コンシニ)、アンナの夫のロベール(ミシェルは彼と不倫の関係にある)と食事しながら、暴行されたこと、警察へは届けないことを告げて、「これ以上何も言わないで」と、すぐに話を切り上げる。

映画の前半は犯人捜しのサスペンス。レイプ犯はどうやらミシェルの知る人間らしい。自宅の近所には怪しげな人物が出没している。ミシェルは向かいに住むパトリック(ロラン・ラフィット)と、敬虔なカソリックであるレベッカ(ヴィルシニー・エフィラ)の夫婦と親しくなる。ミシェルはパトリックに惹かれたらしく、食事に招いた席のテーブルの下で彼に足を絡ませ誘惑する。

会社では、開発中のゲームでレイプされる女性にミシェルの顔を張りつけた動画がスタッフ全員に送信される。ミシェルは実直そうなスタッフに犯人捜しを命ずる。そんな事件と並行して、ミシェルの過去が明らかになってくる。ミシェルの父はかつて何人もの子どもを惨殺し無期懲役で服役中。少女だったミシェルも現場にいた。

ほかにも、ミシェル名義のアパートに暮らす厚化粧の母親と、若いアフリカ系の愛人。マザコンの息子・ヴァンサンと、妊娠した恋人(ミシェルとは互いに嫌いあっている)。ひと癖もふた癖もある人物が次々に出てくる。たくさんの登場人物を、短い描写のなかでキャラを立たせるのはさすが。

映画の中盤で、暴漢が再びミシェルを襲う。ミシェルはナイフで抵抗し、暴漢の覆面をはぎ取ってそれが誰であるかを知る。ここからは、その男とミシェルの倒錯したゲームが始まる。

襲われても、敵意に直面しても、嬉しいときも、ほとんどクールな表情を崩さないイザベル・ユペールがすごい。犯罪者の子どもから成り上がったパリのブルジョア。冷たい表情と裏腹に欲望とエゴイズムを隠さず、相手を傷つけることを何とも思わないミシェルに嫌悪を感ずる観客もいるだろうけど(隣に座っていたカップルは途中で出ていった)、ここまで徹底すると、すげえなあ、という気にもなってくる。ヨーロッパの個人主義の窮極の、しかし倒錯した形のようにも見えてくる。

ミシェルだけでなく、彼女をとりまく10人近い登場人物の誰もが、ミシェルほどでないにしても欲望とエゴイズムに支配されている。どの人物にもセリフや行動の端々に伏線が仕掛けられていて、なるほどと納得させられてしまう。ただ一人善人と見えた敬虔なカソリックのレベッカも、最後のセリフでそうでなかったことが明らかになり、うーん、やられましたと言うしかない。

ヒロインの存在だけでなく、スキャンダラスでモラルに反する描写を嫌う人も多いだろうけど、僕はこの映画、気に入った。


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August 27, 2017

『ベイビー・ドライバー』 車とダイナーと美少女

Baby_driver
Baby Driver(viewing film)

冒頭の5分間に目をみはった。大音量のパンク・ロックが流れている。真っ赤なスバルの運転席に座るベイビー(アンセル・エルゴート)が音楽に合わせて身体や唇や指先を動かす。ギアを入れたり、アクセルを踏む動作も音楽のリズムに乗っている。銀行強盗を働いた仲間が車に走りこんでベイビーが車を急発進させ、ドリフトし、スピンターンし、高速道路を縫うように逃走する。その動きもセリフのタイミングもすべてリズムに乗っている。それだけではない。カットとカットのつなぎも、音楽のリズムと同期している。まず音楽があり、すべてが音とリズムに合わせてつくられている。

これが全編つづいたらすごいと思ったら、さすがにそこまではいかない。物語を動かさなければいけないから説明的な会話も入るわけだし。とはいえ、カーチェイスの場面になると音楽と画面がシンクロすることは変らない。ほとんどの画面に音楽が鳴っている。

ベイビーは幼い頃の事故で耳鳴りがし、音楽を聞くと耳鳴りが消えるのだ。すると、天才的なドライブ・テクニックが発揮される。強盗団のボス、ドク(ケビン・スペイシー)に雇われ、逃走車のドライバーとして分け前をもらっている。仲間は強面のバッツ(ジェイミー・フォックス)、バディ(ジョン・ハム)とその愛人。

音楽はほとんど知らない曲ばかりだった。1960年代くらいからのソウル、ロック、パンク、ダンス・ミュージックなど。聞いたことがあるような音が数曲あり、調べてみるとビーチ・ボーイズ、デイブ・ブルーベック、T・レックス、サイモン&ガーファンクル(タイトルの「ベイビー・ドライバー」は彼らの曲)だった。時代もジャンルもさまざまで、どの世代が見ても、ああ、これ知ってるなと感ずる曲があるだろう。それも計算のうちか。

ベイビーの耳鳴りは、両親が運転中に事故死したとき、同乗して衝突の瞬間を目撃したトラウマによるらしい。母親への思慕が、バッツやバディからは「ベイビー」と呼ばれるキャラクターをつくっている。子どものように押し黙り、打ち解けようとしない。そんなベイビーが、母親が働いていたダイナーでウェイトレスのデボラ(リリー・ジェームズ)に出会う。デボラに若かった母の面影が重なる。

監督のエドガー・ライトはイギリス出身の若手。映画フリークらしく、過去のいろんな映画の記憶が感じ取れる。ギャングのお抱え逃走運転手という設定が『ザ・ドライバー』を受けていることは言うまでもない。ほかにも、ダイナーと車と美少女、1950年代ふうファッションは『アメリカン・グラフィティ』、バディとベイビーが仲間割れして車同士ぶつかりあうシーンは、銃を車におきかえた『レザボア・ドッグズ』といった気配だ。ベイビーとデボラが車で逃げるのは『俺たちに明日はない』だし(通行人が2人を見て「ボニーとクライドか」と叫ぶ)、最後は『バニシング・ポイント』のシチュエーションになる(スバル、トヨタ、三菱と日本車が出てくるけど、最後はやっぱりシボレーでした)。

もっとも、バニシング・ポイントと思った観客は肩透かしをくらって、ベイビーは投降してしまう。1970年代ニュー・シネマとは違い、ベイビーは良い子なんだ。ラストは50年代ふうの車とデボラに迎えられてハッピーエンド。その、しれっとしたあたりが今どきなのかも。楽しめました。

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August 26, 2017

『夜明けの祈り』 信仰と命と

Innocentes
Les Innocentes(viewing film)

ポーランド映画、あるいはポーランドを舞台にした映画というと、つい見たくなってしまう(本作は仏・ポーランド・ベルギー合作)。若い頃、ポーランド映画に入れ込んだ記憶が今もうずくからだろうか。『灰とダイヤモンド』『夜の終りに』『尼僧ヨアンナ』『パサジェルカ』『水の中のナイフ』といった映画は青春時代の鮮烈な映画体験として残っていて、仮に生涯の10本を選ぶとすればどれを落とすか迷いに迷うだろう。

『夜明けの祈り(原題:Les Innocentes)』は修道院の物語と知って、すぐに『尼僧ヨアンナ』を思い出した。悪魔に憑かれ悦楽に身を委ねる尼僧と彼女を救おうとする青年僧を主人公にしたこの作品は、善悪正邪がはっきりしない、カトリック国で社会主義国だった当時のポーランドでは異色の映画だった。荒野に建つ石造の修道院を舞台にし、光と影のシンプルな構図のモノクローム画面が記憶に残っている。

『夜明けの祈り』の冒頭を見て、ああ、まぎれもなくポーランドの風景だなと思った(って映画の記憶で、行ったことはないんですが)。夜明けの祈りのあと、若い尼僧が修道院を抜け出して雪の舞う森を歩く。シンプルな構図も、色彩に乏しくモノクロームに近い画面も、音楽が入らない静謐さも、かつてのポーランド映画の空気に似ている。バルト海に近い北ポーランドの平原地帯で撮影されている。

1945年、第二次大戦末期。若い尼僧は町に来て、駐留するフランス赤十字に助けを求める。女医のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)が一緒に赴くと、修道院にはソ連兵に暴行され妊娠した7人の修道女がいた。事実に基づいた物語だそうだ。

厳格な修道院長は何が起こったかを隠そうとする。身ごもった修道女たちは、その事実と信仰を両立させることができず苦悩する。当初、修道女たちは他人に肌を見せるのは罪と考え診察を拒むが、マチルドはシスターのマリア(アガタ・ブゼク)の協力を得て夜、赤十字を抜け出しては診察をつづける(途中でソ連兵に乱暴されそうになったりしながら)。やがて、出産が始まる。

出産したばかりの我が子と添い寝する修道女の顔はすでに「母」になっている。修道院長は養子に出すと言って赤ん坊を抱いて修道院を出るが、後でマリアが訪ねると子どもはいない……。

マチルドが同僚の医師と酒を飲んだり、ダンスを踊ったり「世俗」のシーンではカメラが手持ちになったり、よく動き、修道院のシーンになると端正な構図の静止画になる。音楽も修道院の教会音楽と酒場のダンス音楽が対照的。

僕にはキリスト教がよく分からない。だからこういう映画の深刻な意味を受け取れていないかもしれない。近代になってからのラテン系カトリックはかなりゆるい宗教というイメージがあるが、北ヨーロッパの修道院にはまだ中世の厳格なカトリックの戒律が残っているのだろう。修道女の妊娠も出産も、あってはならないこと。突然襲った暴力に、修道女たちは祈る以外の対処法をもたない。そこにマチルドが、まず無垢な命(Les Innocentes)を救うという医師の倫理で対処することで、事態が動きだす。

最後、マチルドが修道院から赤十字へトラックで戻る途中、世俗に戻ることを決心して院を出た元修道女が歩いているのを乗せる。彼女はマチルドに「タバコくれない?」とねだって印象的な笑顔を見せる。

良い映画だった。ただヒューマニズムにのっとったこの作品、悪魔が青年僧を破滅させる『尼僧ヨアンナ』のように何十年も記憶に残るかというと、うーん、どうだろう。監督はフランスのアンヌ・フォンテーヌ。


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