June 22, 2020

ようやく見た『鉄西区』

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アップリンク・クラウドにはアップリンク(最近、社長のパワハラが問題になってる。一人で立ち上げ急拡大したミニシアターにありがちなこと)だけでなく、他の会社の映画も配信されている。配給会社ムヴィオラの見放題パックに中国のワン・ビン監督のデビュー作『鉄西区』があった。9時間16分の長大なドキュメンタリー。これ以後の監督の作品はだいたい見てるけど、世界各国の映画祭で受賞したこの伝説的な映画だけは未見だった。

『鉄西区』(2003)は中国東北部の都市・瀋陽を舞台に1999~2003年にかけて撮影された3部作。「工場」(240分)、「街」(175分)、「鉄路」(130分)に分かれている。第1部「工場」は、貨物列車の上から撮影された線路と沿線風景が延々とつづく長い長いショットから始まる。雪のなかに延びる単線線路。両側にはレンガづくりの古びた工場。直前で踏切を横切る人や車。それが10分近くつづくんだけど、時折り機関車の汽笛が響くだけの単調な工場街の風景に惹きつけられる。列車に乗って車窓を流れてゆく風景に見入ってしまうのと同じ感覚。

やがてカメラは工場に入っていく。現場で働き、休憩所でだべったり将棋で遊んでいる労働者たち。ここは国営の瀋陽精錬所で、経営不振から労働者の解雇がつづく。工場の民営化や倒産も噂されている。カメラは彼らの後を追う。ナレーションが入らないので必ずしも理解できるわけではない会話の切れ端から、誰それは辞めるときいくらもらったとか、診断書を書いてもらって仕事をさぼるとか、上司の悪口とか、来年はもうだめだなとか、労働者の声が聞こえてくる。誰もカメラを意識しないのは、ワン監督との信頼関係が既にできあがっているからだろう。やがて銅や鉛の精錬工場が次々に操業を止め無人になってゆく。

おそらく戦前に建設されたままの古びた工場で働く労働者の姿を捉え、会話に聞き入る。その長いショットが一見無造作に積み重ねられ、印象としては断片の寄せ集め(実は周到に編集されているに違いないが)のなかから、彼らが置かれている状況がじわっと見えてくる。効率よくいいとこだけ編集して分かりやすく解説してくれるドキュメンタリーとは正反対の240分の画面から、目が離せなくなる。

「街」でもそれは変わらない。舞台は艶色街という、古びた労働者の住宅街。再開発のため取り壊しが決まっている。カメラが追うのは、街に住むティーンエイジャーたちと、その家族。若者はほとんど職がなく、日がなぶらぶらし雑貨屋に集まってはタバコをふかしてだべっている。その無為を、ただ黙って見ている。大人たちは、立ち退いても今より狭い住居しかもらえないと文句をたれている。それでも1軒、また1軒と引っ越し、取り壊されて、街は瓦礫になってゆく。

「鉄路」は1、2部とは肌合いが異なる。最初は工場群を結ぶ貨物鉄道網で働く労働者たちを1、2部と同じように追っているけれど、やがてカメラは一組の親子に焦点を絞ってゆく。老杜と17歳で無職の息子。老杜は文革世代で農村に下放され、瀋陽に戻っていっとき鉄道で働いていた。やがて職を失い、鉄道敷地内の壊れかけた家に(どうやら不法に)住み、かつての仲間がかすめてくる屑鉄を買う屑拾いで生計を立てているらしい。やがて老杜は鉄道警察によって拘留される。それまでカメラに向かって無表情で一言も言葉を発しなかった息子が、はじめて感情を露わに泣き始める。釈放された老杜と息子が食堂で酒を飲み、泥酔した息子は抑えていた感情を爆発させる。9時間16分のなかでただ一箇所、物語的なクライマックスが訪れる場面だ。立ちあがることもできない息子をおぶって老杜が家へ戻る姿に泣く。やがてこの長大な映画は、新年に老杜が新しい家で鉄道の仲間たちと酒を酌み交わすショットで終わる。

『鉄西区』以来、ワン・ビン監督は10本以上のドキュメンタリーと1本の劇映画をつくっているが、中国国内では1本も公開されていない。その映画にあからさまな政治的主張はないけれど、この20年間、経済発展する中国の影の部分を見据えてきたからだろう。1980年代の改革開放以後の中国をいろんな素材、いろんなスタイルで描いてきたジャ・ジャンクー監督の映画群と、このワン・ビン監督の映画群を併せ見ると、中国現代史をそのいちばん底から理解できるような気がする。

もうひとつこの映画が画期的だったのは、小型デジタルカメラを使うことで、低予算、ごく少ない人数で映画をつくっていることだろう。画面には時折りカメラマンの影が映りこむが、いつも影はひとつ。ワン監督がたったひとりでカメラを回している。夜や老杜の家のなかは暗いけど、自然光で撮影でき、それがまたリアリティになってもいる。新しい機材が新しいスタイルを生み出したいい例だろう。

 

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June 05, 2020

『リアリティのダンス』

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2980円60本見放題のアップリンク・クラウドで『リアリティのダンス(原題:La Danza de la Realidad)』を見る。

チリの映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキ監督の『エル・トポ』を見たのはもう40年近く前のことになる。西部劇スタイルでガンマンが荒野を放浪する話だけど、それがいつの間にか地下世界のフリークスが登場したり大虐殺が繰り広げられたり。南米の土俗的キリスト教の匂いのする、奇妙な、でも記憶に残る映画だった。以後、SF大作『DUNE』が挫折したり(デヴィッド・リンチが映画化した)、数本しか映画を撮ってない。『リアリティのダンス』(2013)は監督が23年ぶりにつくった作品。

1930年代、ホドロフスキ自身の少年時代が回想されている。といっても普通のリアリズムじゃない。奇妙奇天烈な登場人物やエピソードが脈絡なくつながってゆく。冒頭、監督自身が画面に登場して、子供時代の自分であるアレハンドロ少年(イェレミアス・ハーコヴィッツ)の心臓に手を当てながら独白する。「心の奥に住んでいる子供を感じる。その子の瞳は永遠の不在で満たされ、常によそ者と感じている」。このセリフが、映画の通奏低音となる。

続いて荒地に張られたサーカスのテント。ピエロが手品を演じ、観客はみな仮面をかぶっている。一転して、黒衣に黒傘の数百人の集団が荒野を行進する無気味なショット。後にこれがペストで隔離された病者の集団と分かるのだが、過酷な風景と極彩色の人工物。登場するフリークスたち。まぎれもなく『エル・トポ』につながる世界だ。

アレハンドロ少年は、ウクライナから亡命してきた両親とチリの港町で暮らしている。アレハンドロは、母サラ(パメラ・フローレンス)の手で長い金髪の鬘をつけさせられ、少女と見紛う美少年。サラは豊乳の大柄の女性で、敬虔なカソリック信者。洋品店(店にはスターリンの肖像画)を営む父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキ──監督の息子)はスターリンを崇拝する共産主義者。全体が少年の目から見た父と母の物語になっている。母はアレハンドロを過剰に愛し、父は軟弱なアレハンドロの鬘をはぎ、男として鍛えようとする。

母サラのセリフがすべてオペラのように歌になっている。最初は違和感があるけど、やがてそのゆったりしたテンポとメロディが快感になる。父ハイメの遍歴が語られる。独裁者を殺そうとして逆に独裁者に気に入られ、愛馬の世話をすることに。やがて記憶喪失。手が萎えたハイメは信心深い椅子職人と出会う(聖書にある話みたい)。ナチスを信奉する政権からの拷問。このあたり、1970~80年代のピノチェト政権が暗喩されてるのかもしれない。そんな遍歴の果てにハイメは家に戻る。サラの愛がハイメとアレハンドロを包み込む。サラを演ずるパメラ・フローレンスが圧倒的な存在感。

『フェリーニのアマルコルド』か寺山修司『田園に死す』か、というフィクショナルな自伝でした。フェリーニや寺山と同じく、いやそれ以上に個性的で面白いなあ。

 

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May 23, 2020

『ブラインド・マッサージ』 ロウ・イエの成熟

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「2980円、60本見放題」のアップリンク・クラウドで中国のロウ・イエ監督の映画を見ている。『ふたりの人魚』『パリ、ただよう花』につづいて今日は『ブラインド・マッサージ(原題:推掌)』を。これまで小さなパソコン画面で見ていたが、Nさんに教えてもらってHDMIケーブルでテレビにつなぎ、テレビ画面で見られるようになった。大きさはもちろん、色の深みがずいぶん違う。


原題の推掌とは、マッサージのこと。南京で視覚障碍者が集まって営むマッサージ院を舞台にした群像劇だ。群像劇といっても、同性や異性の愛をずっと描いてきたロウ・イエ監督のことだから、何組かのカップル(カップル未満)が中心になっている。院長のシャー(チン・ハオ)は健常者の女性と見合いして断られたばかり。院生で美人と評判のドゥ(メイ・ティン)にご執心だ。自らの美しさを知る由もないドゥは、美人と言われることに苛立っている。マッサージ学校で院長の同級生だったワン(グオ・シャオドン)が恋人のコン(障碍者であるチャン・レイが演じている)と深圳からやってくる。若いシャオマー(ホアン・シュエン)がコンに執着する。みかねた仲間がシャオマーを風俗に連れていき、シャオマーは風俗嬢と愛しあうようになる。


ロウ・イエ監督はいつもの手持ちカメラでぐらぐら動く映像に加えて、周辺をぼかしたり、被写界深度を極端に浅くしたり、光がほとんどない暗い視界になったりする。またマッサージを受ける人の肌を舐めるように撮る触感や、音に敏感になるなど五感を総動員して視覚障碍者の世界を伝えようとする。といってこの映画、障碍者を特別な存在として見ているわけでもない。僕たちの側にいる、ごくふつうの隣人として描いている。


映画には視覚障碍者もたくさん出ている。役者たちは、目に不透明のコンタクトレンズを入れて演じたそうだ。撮影現場は大変だったろう。その甲斐あって誇張やわざとらしさがなく、ごく自然な感じ。見ているうちに、障害者の世界だということを忘れてしまう。ラスト、南京の古びたアパートで健常者と障碍者の一組のカップルが誕生することを祝福したくなる。実験的なスタイルが中身と調和して、ロウ・イエ監督の成熟を感ずる。


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May 10, 2020

『ふたりの人魚』 アップリンク・クラウド

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ミニシアターのアップリンクが「アップリンク・クラウド」として60本の映画を2980円で3カ月見放題というサービスを始めた。アレハンドロ・ホドロフスキ、ロウ・イエ、想田和弘といった監督の映画(旧作)も含まれている。彼らの映画は見てないものが多い。苦境にあるミニシアターを応援する意味もこめて申し込んだ。パソコン画面で映画を見るのは抵抗があるけど、まあ仕方ない。最初に見たのはロウ・イエ監督の2000年作品『ふたりの人魚(原題:蘇州河)』。

冒頭から川の水面と、川岸にびっしり建つ古びた建築物が延々と映しだされる。川は上海の下町を流れる蘇州河(呉淞江)。ぐらぐら揺れる手持ちカメラが、やがて主人公の目である一人称カメラになっていることが分かる。主人公の独白がかぶさって、「ふたりの人魚」を巡るふたつの恋物語が語られる。

 

 ひと組はビデオ撮影を生業にしている主人公(最後まで顔は映らない。手だけ)と、カフェバーの水槽で人魚の恰好で泳ぐメイメイ(ジョウ・シュン)。もう一組はバイクの運び屋マーダー(ジア・ホンシャン)と、母親が荷物でなく娘を運ぶことを頼んだことから恋人同士になったムーダン(ジョウ・シュンの二役)。マーダーがムーダンを犯罪に利用したことから、ムーダンは川へ身を投げる。服役から戻ったマーダーはムーダンを探し求め、メイメイをムーダンと信じて近づこうとする。

マーダーがムーダンを探して上海の下町をさまよい歩く。右に左に揺れる手持ちカメラがそれを追う。それがこの映画のすべてと言っていいくらい。その不安定な映像から、マーダーの悔恨と孤独が滲みでてくる。その切迫した息づかいはいま見ても新鮮で、2000年の中国映画としてはびっくりするくらい斬新なスタイルだったろう。 

 ロウ・イエはこの後、天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』を撮って国内上映禁止になり、5年間新作をつくれない罰をくらって話題になったが、映画としてはこっちのほうが上。記憶に残る青春映画になっている。秋に公開予定だったコン・リー&オダギリジョー共演の新作『サタデー・フィクション』が公開延期になってしまった。いつになったら見られるだろうか。

 

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January 17, 2020

『マザーレス・ブルックリン』 NY開発の光と影

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12年前、ニューヨークに1年滞在したとき、ブルックリンのフォート・グリーンという地域にアパートを借りた。『マザーレス・ブルックリン(原題:Motherless Brooklyn)』の舞台がここで(設定は1950年代だが)、フォート・グリーン地域の高速道路建設とアフリカ系住民立ち退きに伴う犯罪がテーマ。実際に、僕が住んだアパートから5分ほど歩くとブルックリンとクイーンズを結ぶ高速道路が走っていた。その脇には、50年代に建設された「ザ・プロジェクト」と呼ばれる低所得層向け高層団地が建っている。ここがこの映画の「現場」。これは見にいかねば。

映画は、今では懐かしさを感じさせるほど古典的なハードボイルドだった。もちろん現代ふうな味つけはされているけど、そのミックス具合が心地よい。

ハードボイルド映画だから、主人公はもちろん私立探偵。探偵のフランク(ブルース・ウィリス)が事件を調査中に殺される。そのフランクに孤児院から救い出され、事務所のスタッフになっていたライオネル(エドワード・ノートン)が、フランクが殺された理由を調べ始める。ライオネルの前には、立ち退きを迫られる住民を支援するアフリカ系のローラ(ググ・バサ=ロー)や謎めいた男ポール(ウィレム・デフォー)、そして市の都市計画を推進するモーゼス(アレック・ボールドウィン)が現れる……。

古典的なハードボイルド映画を代表する役者はハンフリー・ボガートだけど、ボガートのキャラクターを引き継ぐのは冒頭に特別出演ふうに出てくるブルース・ウィリス。彼をボスと慕うエドワード・ノートンの探偵はチック症状に悩まされ、自分に自信を持てない男。そのかわり記憶力は抜群。でもチック症状に伴って、相手が嘘をついたりすると内心の声が自分の意思と関係なく声になってしまう。それが映画のピリッとした辛みになり、情けないあたりは今ふうでもあるところ。主人公が悩みや弱さを抱えているのは1970~80年代、ベトナム戦争後に生まれたネオ・ハードボイルドに似てる。

ハードボイルドにもうひとつ欠かせないのは男をたぶらかす魅力的なファム・ファタール。古典的なハードボイルド小説・映画では、主人公がいっとき惚れるファム・ファタールが犯人であることが多い。でもこの映画ではその定型を踏まない。ローラがアフリカ系でありながら肌の色が薄いところが謎解きの鍵になってくるのだが、探偵ライオネルとローラの道行きよりもニューヨーク再開発の光と影という社会的要素が前面に出てくる。

モーゼス(名前)のモデルになっているのは1920~70年代の長期にわたってニューヨーク州と市にさまざまな役職で大きな権力を持ち、橋や高速道路、公園などの都市インフラを整備したロバート・モーゼス(姓)。 マンハッタンとブルックリンやスタッテンアイランドを結ぶいくつもの橋を架け、高速道路網を整備して、都市で働き郊外に住むというアメリカ中産階級の生活スタイルの基盤を築いた男だ。その陰ではスラムや低所得者層が住む地域が取り壊され、アフリカ系住民は周辺へ、周辺へと追いやられた。

またモーゼスは「プロジェクト」と呼ばれる低所得者向け高層住宅を市内にいくつもつくったが、これが暗褐色レンガ造の陰気な建物。従来そこにあったコミュニティは破壊され、街が荒廃した1980年代には犯罪の温床となった。僕が暮らしていたときも、フォート・グリーンの「プロジェクト」の敷地を横切るときは周りに注意しながら歩いた。

映画では、こうした計画の住民立ち退きを巡る汚職が殺人を引き起こす。 アフリカ系住民の側に立ったライオネルは最後にモーゼスと対面する。現実のモーゼスは今にいたるまで評価の分かれる人物だが、ここでは全くの悪玉として描かれているわけではない。

もうひとつ、楽しんだこと。途中で、ハーレムのジャズ・クラブが何度か出てくる。トランペッターのグループが演奏しているのだが、これが素晴らしい音。調べたらウィントン・マルサリスが参加しているので納得。
『バードマン』が印象に残るエドワード・ノートンは製作、脚本、監督、主演を兼務。なかなかの才能だ。

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January 14, 2020

『パラサイト 半地下の家族』 不敵な面構え

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先の読めない面白さを持ったエンタテインメントであり、同時に作家的メッセージも強烈。『パラサイト 半地下の家族(原題:기생충─寄生虫)』は、なんとも不敵な面構えの映画。韓国映画のパワーを思い知らされた。

不敵な、という印象を持ったのは、ポン・ジュノ監督をはじめとする作り手の大胆さを感じたから。テーマとして、格差社会に生きる3家族を取り上げ、貧しい者による富める者への寄生・復讐劇という本筋だけでなく、弱者が弱者をいたぶる、「良心的な映画」が避けるような脇筋もからめる。そして屈折した笑いを基調に、ホラー映画ふうなドキドキ感もたっぷり。倒錯したホームドラマであり、サバイバル映画であり、ホラー的な要素もありと、こういうのが映画だぜ、という監督の自信を感ずる。

一家4人が無職のキム一家が住むのは半地下のアパート。窓からは酔っぱらいが小便しているのが見える。大学受験に失敗したフリーターのギウ(チュ・ウシク)は友人のエリート大学生から、裕福な一家の娘に英語を教える家庭教師のアルバイトを紹介される。坂上の豪邸に住むのはIT企業の社長。社長には娘と絵が上手な息子がいて、娘の家庭教師になったギウは美術教師の知り合いがいると偽って、美大受験に失敗した妹のギジョン(パク・ソダム)を息子の家庭教師として送り込む。ギジョンは送迎してくれた社長の車に下着を残し、社長のお抱え運転手を追放して、失業中の父親ギテク(ソン・ガンホ)を新しい運転手として送り込む。豪邸には先代の住人から仕える家政婦がいるが、ギテクはその家政婦が結核にかかっていると社長の妻に信じ込ませ、自分の妻のチュンスク(チャン・ヘジン)を新しい家政婦として送りこむ。

と、ここまでが映画の前半。果たしてこの寄生は成功するのか。見る者ははらはらするけど、それが思いもかけない展開になってゆく。実は豪邸には社長一家も知らない地下室があって……。手持ちカメラが秘密の階段を下ってゆくあたり、ぞくぞくする面白さ。その先に新たな登場人物が出てきて、社長一家に寄生しているのがギテク一家だけでないことがわかり、弱者と弱者のたたき合い、サバイバルもからみ二転三転しながら話が進む。そして最後の惨劇。

キム一家は上流階級である社長一家の「純情で優しい」心根につけこんで入りこんでゆくのだが、その社長一家が下層のギテクに対して無意識に発する差別発言の元が匂いであるというあたりがうまい。半地下に住むギテクが知らずに発する匂いを社長や妻は敏感に感じてしまう。五感からする無意識の差別は、言葉による差別より深く人に突き刺さる。ギテクが車を運転しながら自分の服の匂いを嗅いでみるあたり微妙な表情におかしさと悲しさが入りまじるのは、名優ソン・ガンホならでは。

坂上の台地の豪邸と、大雨で浸水する低地のキム一家のアパート。建築家が設計したモダンで広々とした邸宅と、電線が錯綜するごみごみした密集地の半地下アパートの対照は黒澤明『天国と地獄』のような構図だけど、僕の知るかぎり丘と坂の町であるソウルは実際にそうなっている。この2軒の家と周辺の街路は、すべてセットをつくって撮影されたそうだ。

この映画はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞すると同時に、韓国やアメリカでの興行成績も大ヒットといえる数字らしい。もともと大衆的なエンタテインメントから出発し、娯楽でもありアートでもある映画の、ストライクゾーンのど真ん中に投げ込まれた作品。日本でも、こういう大人のエンタテインメントがほしい。

 

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December 30, 2019

2019年 10本の映画

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毎年、暮れになるとお遊びでその年の映画ベスト10を考えるのを楽しみにしています。ところが今年は半年以上の入院と通院であまり映画を見られませんでした。新作は20本も見ていないので、ベスト10などおこがましくてつくれません。それでも印象に残る映画が多かったので、順不同で10本を挙げてみました。これをやっておくと、備忘録として役に立ちますので。今年はブログもあまり更新できませんでしたが、おつきあいくださった皆さん、ありがとうございました。良い年をお迎えください。

・象は静かに眠っている
29歳で自死したフー・ボー監督の処女作にして遺作。中国の田舎町に住む青年や老人の、どこにも行き場のない閉塞感。極端に被写界深度の浅いカメラで登場人物に密着する挑戦的なスタイル。切実な主題と文体の冒険が融合して、この一作で映画史に名を刻んだ。

・ROMA
メキシコ出身でハリウッドで活躍するアルフォンソ・キュアロン監督の自伝的映画。都市に住む中産階級の少年の目から見た先住民召使いとの甘美な記憶。点描される革命と反革命の歴史。美しいモノクロームで描かれるネットフリックス・オリジナル。

・Cold War あの歌、二つの心
戦後冷戦で東西に別れた男と女の運命的な愛。背後には常にポーランドの民族音楽とジャズが流れている。モノクロ・スタンダード画面は1950~60年代、黄金期のポーランド映画を思い起こさせた。レア・セドゥに似た主演ヨアンナ・クーリクに見惚れる。

・アイリッシュマン
マフィアの殺し屋として生きた男の一代記。10代からの知り合いというロバート・デ・ニーロとマーティン・スコセッシが、お互いこんな時代を生きてきたんだよなと確認しあっているように感じられた。ネットフリックス・オリジナル。

・運び屋
90歳でメキシコ・マフィアが手がけるドラッグの運び屋になった男。役と同じ90歳に手が届こうとするクリント・イーストウッドが監督兼主演、しかもこれだけ面白い映画をつくってしまうとは化け物と呼ぶしかない。次も期待してしまう。

・帰れない二人
中国の炭鉱町で雀荘を経営する女と恋人のヤクザ者が流浪する。ジャ・ジャンクー監督と彼の映画のミューズ、チャオ・タオが出演した『青い稲妻』『長江哀歌』の地が再び舞台になって、改革開放の中国現代史を綴ってきた二人の集大成的な作品。

・迫り来る嵐
ノワールというジャンルは犯罪を通して、その時代の精神風景を描く。中国国営製鋼所の町を舞台にした連続殺人事件。閉鎖されようとする製鋼所の警備員を探偵役に、灰色の空と激しい雨のなかで時代から取り残された人々の姿が浮かび上がる。

・ジョーカー
貧しいピエロとしてつましく生きる男が、いかにして世間を騒がすジョーカーになったか。その不穏で、見る者をアジテートする画面は、貧富の格差が拡大した社会を背景に『戦艦ポチョムキン』のようなプロパガンダ映画の匂いを漂わせる。

・冬時間のパリ
印象派の絵画を映画にしたらこんな感じかな、というフランス映画。パリに生きる女優や作家や編集者が、おしゃべりと大人の恋愛に明け暮れる。日々の小さな出来事を切り取って、映画的愉しさに満ちている。

・ゴッズ・オウン・カントリー
ヨークシャーの牧場で老いた祖母や父と暮らす孤独な男と、東欧からやってきた季節労働者の男が次第に惹かれあってゆく。寒々とした風景のなかで展開する、ひりひりするような愛。地に足のついたリアリズムはイギリス映画の伝統だろうか。

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December 26, 2019

『冬時間のパリ』 印象派のような

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今年最後に映画館へ行くので、何を見ようかと考えた。先週はリアリズムの社会派『家族を想うとき』を見たので、違う肌合いのものにしたい。で、選んだのが『冬時間のパリ(原題:Doubles Vies──二重生活)』。全編おしゃべりと大人の恋愛模様の、いかにもフランス映画でしたね。

二組の夫婦の話。一組は、パリで成功している出版社の編集者アラン(ギョーム・カネ)と、妻で女優のセレナ(ジュリエット・ビノシュ)。もう一組は作家のレオナール(ヴァンサン・マケーニュ)と、政治家の秘書をしている妻ヴァレリー(ノラ・ハムザウィ)。四人のうち三人が「二重生活」、つまり不倫している。

編集者のアランは、社内でデジタル化担当の若い女性ロールと関係してる。出版デジタル化のシンポジウムに一緒に出張して同じホテルに泊まって、なんてのはどこの国も同じ。一方、アランの妻セレナは、夫が担当する作家であるレオナールと関係している。レオナールは自分の体験を書く私小説作家で、セレナとは別のタレントとのつきあいを小説にして物議を醸している。レオナールの妻のヴァレリーは政治家秘書としての仕事が忙しく、こちらは政治家の買春スキャンダルの尻拭いに追われている。

友だちづきあいしている二組の夫婦を中心に、まあよくしゃべること、しゃべること。話題は出版のデジタル化。セレナが出演している警察ものテレビ・シリーズの話。政治の話、などなど。そんなおしゃべりのなかで、日々の小さな出来事が起こってゆく。編集者のアランはレオナールの新作の出版を断るが、原稿を読んだ妻のセレナは面白いといい、結局は出版することに。出版社のオーナーは、会社をイタリア資本に売ることを考えている。女優のセレナはレオナールと別れることを決め、自分のことは絶対に書かないでねと迫る。レオナールは承諾するが、さっそく彼女とのことを小説にする構想を練っているらしい。大きなドラマはなく、いってみれば普通の日常生活を、ある時間切り取ってみせた映画。それでいて楽しいというか、愉しい。

監督のオリヴィエ・アサイヤスは、かつて「絵画における印象派のような映画への道、方法を探していた」と語っている。この言葉は『冬時間のパリ』にも当てはまりそうだ。たとえばモネ「草上の昼食」の登場人物が現代に蘇って動き出し、おしゃべりをはじめたら、こんな映画になるんじゃないかな。どちらの夫婦も収まるところに収まって、最後にレオナールとヴァレリーが海を望む林で寝そべっているショットなんか、光あふれる印象派そのもの。

アサイヤス監督の映画は、日本ではこんな軽い恋愛模様を描いたものを中心に公開されてきたけど、10年前にニューヨークで『ボーディング・ゲート』という全くテイストの異なる映画を見たことがある。あえてB級アクションふうな女殺し屋の物語。後半、いきなり舞台が香港へ飛び、香港ノワールになって面白かった。監督はもともと『カイエ・デュ・シネマ』の批評家出身で、マギー・チャン主演の映画をつくり、おまけに結婚していたこともあると知れば、それも納得。一筋縄ではいかない監督のようだ。

 

 

 

 

 

 

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December 23, 2019

『家族を想うとき』 外連味のない映画

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「外連味のない」という言い回しがある。はったりや誇張のない、といった意味あいで使われる。ケン・ローチの作品ほど、この言葉がふさわしい映画はないのではないか。

ケン・ローチの映画はたいてい社会的な問題を批判的に取り上げている。だからジャンルとしては社会派に分類されるんだろう。だけど問題それ自体を前面に出すことなく、人間を通して、主人公がその問題にどう巻き込まれたか、彼(彼女)はどう行動したのかを描いていく。人間がしっかり描きこまれているから、いつも映画として完成度が高い。

同じようなタイプのヨーロッパの監督としてミヒャエル・ハネケやダルデンヌ兄弟がいる。ハネケはミステリー的な手法を使って、冷ややかな眼差しでヨーロッパの上流階級の偽善を暴いたりする。ダルデンヌ兄弟はドキュメンタリー的な手法と映像を得意とする。ケン・ローチの場合はいつもオーソドックスな手法で堅実に作劇してゆき、底には常にヒューマニズムが流れている。それは、この『家族を想うとき(原題:Sorry We Missed You──宅配の「不在連絡票」のこと)』でも変わらない。

北アイルランドの都市、ニューカッスル。リッキーは持ち家を手に入れるため、個人事業主の宅配ドライバーとして働きはじめる。妻のアビーはパートの介護福祉士として働いている。息子のセブは高校生、娘のライザは小学生。妻の仕事の足である車を手放して宅配用に中古バンを買い、1日16時間の宅配をつづけている。セブは仲間とストリートアートを描いてトラブルになり、両親は学校に呼び出されるが、実態は下請け労働者であるリッキーは駆けつけられない。セブは停学になり、アビーとライザは精神が不安定になり、家族の歯車が負の方向に回転しはじめる。そんな折、リッキーは宅配中にかっぱらいの若者に襲われて……。

新自由主義的な経済の浸透によって、先進国はどこも同じ問題を抱えている。日本でも個人事業主の宅配ドライバーは多いし、コンビニのオーナーも個人事業主だ。個人事業主とかフリーランサーとか呼び方は美しいが実態は低賃金の長時間労働であることは、パートや派遣の非正規労働と変わるところがない。夫が個人事業主、妻がパートとして家計を支えている家庭の日常はイギリスでもアメリカでも日本でも似たようなものだろう。

ケガをしたリッキーは家族が止めるのを振りきって仕事に出かける。アビーは夫が契約した宅配会社のマネジャーに切れるものの、介護する相手や子供にはどこまでも優しい。反抗期のセブも、父親の事情はわかっている。ライザは家族の事情を察しながらもけなけに振る舞っている。リッキーとアビーは、ストリート・アーティストとしてのセブの一面に気づく。どんなにうまくいかなくても、ともかく家族が家族としてまとまっているのがこの映画の救いだ。

アンダークラスと呼ばれる階級の典型的な一家を取り上げ、その日常を描くのは、ひと昔もふた昔も前のプロレタリア芸術の見本のようだけど、図式ではなくリッキーやアビーやセブやライザに血が通っていることで見応えのある映画になっている。原題は宅配の「不在連絡票」のことだけど、たぶん多義的な意味が含まれているんだろう。

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December 17, 2019

『Cold War あの歌、二つの心』 黄金期ポーランド映画のような

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治療中で映画館に新作を見にいけなかった時期のことを話していたら、映画や音楽について信頼する友人が「『コールド・ウォー』が良かったよ」と言う。調べてみると、ちょうど飯田橋・ギンレイホールにかかっていたので早速見にいった。

友人は、「いまどき珍しいモノクロ・スタンダードのポーランド映画なんだよ」とも言っていた。モノクロのポーランド映画といえば1960年代、僕が高校から大学時代はポーランド映画の黄金期で、アートシアターを中心に次々に新作がかかっていた。『夜行列車』『尼僧ヨアンナ』『夜の終わりに』『パサジェルカ』『水の中のナイフ』なんかは今でも鮮烈に覚えている。

『Cold War あの歌、二つの心(原題:Zimna Wojna)』は、すべてが古典的な映画だった。モノクロ・スタンダード、上映時間が90分足らずというのも昔の映画の標準的な上映時間だし。それだけでなく演出も、映像も、見事に当時のポーランド映画に似てクラシックだった。

主人公は、冷戦で東西に別れながらも時と場所を超えて愛しあう二人。第二次大戦直後の社会主義ポーランド。ズーラ(ヨアンナ・クーリク)は民族舞踏団に入団し、ピアノ教師ヴィクトル(トマシュ・コット)と愛し合うようになる。ヴィクトルはベルリン公演の際、ズーラと西側に亡命しようとするが、ズーラは約束の場所に現れず、ヴィクトルは一人で亡命してパリに住む。年月が経ち、ズーラは出国してパリに現われ、ジャズ・ピアニストとして生活するヴィクトルと暮らしはじめるのだが……。

15年に渡る男女の愛が、90分足らずのフィルムに描かれる。だから、くだくだしい説明はない。二人が恋に落ちるのは、ヴィクトルのピアノでズーラが「二つの心」を歌うシーン。言葉は一言もなし。風にそよぐ草原に二人が無言で寝転がっていることで、二人の愛が確認される。ヴィクトルが亡命を決意するに至る内面も説明されない。上司がスターリンを称える歌を強いるが、それに抗議するのはヴィクトルの同僚で、ヴィクトルは苦々しい表情で黙っている。亡命を決意しながらズーラがなぜ約束の場所に行かなかったのかも、その理由をヴィクトルに説明するのはずっと後のこと。それまでは見ている者にもその理由はわからない。

監督のパヴェウ・パヴリコフスキは省略的な描き方をしたことについてインタビューで、「因果関係の理屈をつけると安っぽく、貧相になるから」と語っている。このあたりもポーランド映画黄金期のワイダ、カワレロウィッチ、ムンクといった監督たちの映画と似ている。しんと静まりかえったようなモノクローム映像もポーランド映画の伝統だろう。

女優のヨアンナ・クーリクが素敵だ。ちょっとレア・セドゥに似た表情と仕草をする。モニカ・ヴィッティの若いころに似てるという人もいる。彼女が民俗舞踊を踊ったり、「二つの心」をジャズ・ヴァージョンで歌ったりするのを眺めているだけでも満足できる。そういえば『夜行列車』や『夜の終わりに』にも、けだるいジャズが流れていたっけ。

若いころ見たポーランド映画を思い出しながら、大満足した映画でした。

 

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