July 23, 2017

『彼女の人生は間違いじゃない』 福島と渋谷の間

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『不貞の季節』(2000)から一昨年の『さよなら歌舞伎町』『娚の一生』まで、廣木隆一監督のミニシアター系の映画はだいたい見てきた。今この国で好きな映画監督は? と聞かれれば、真っ先に名前を挙げる監督のひとりでもある。でも今度の新作は、見るのにちょっとためらいがあった。

というのは『彼女の人生は間違いじゃない』というタイトルが、なんだか廣木監督らしくないなあと感じていたから。もっとも、これが廣木監督自身の小説を原作としていること、福島県郡山出身の廣木が東日本大震災と原発事故を素材にした小説であることは情報として知っていた。

にしても、主人公の存在に対する価値判断をあらかじめ読者や観客に明らかにしてしまう、それも断定口調で同意を強いてくるようなニュアンスが、この監督にふさわしくないと思ったから。廣木監督の映画(ミニシアター系)は、いつも善悪正邪の単純な価値判断をしにくい人物ばかりを描いてきたのではなかったか。今回は自らの故郷を舞台にしたことで、ちょっとつんのめっているんじゃないかな。

そんなふうに身構えていたせいか、始まってしばらく映画に入りきれなかった。ちょっとした説明的なセリフに引っかかったり、東京スカイツリーや渋谷駅といった分かりやすい東京の象徴が繰り返し出てくるのが気になったり。でも主人公のみゆき(瀧内公美)がデリヘルとして派遣されたホテルでトラブルになり、三浦(高良健吾)が助けに入るあたりから、いつもの廣木映画のリズムに入りこめるようになった。

みゆきは福島の海岸沿いの町で仮設住宅に住み、市役所に勤務している。母は津波で流され行方不明、父(光石研)は農地が放射能汚染されて耕作できず、補償金を毎日パチンコにつぎこんでいる。週末には、父に英会話教室に通うと嘘をついて東京へ行き、デリヘルのバイトをしている。

映画は福島でのみゆきの生活と東京でのデリヘル嬢の日々、そして高速バスでの往復を淡々と描写してゆく。みゆきはなぜデリヘル嬢になったのか。映画のなかでは、まったく説明されない。彼女は市役所勤務だし、補償金もあるし、少なくとも経済的理由からではない。

ただ終盤の回想で、デリヘル嬢を志願してきたみゆきと三浦とが会話をかわすシーンがある。切羽詰まった目をしたみゆきが、「デリヘルやりたいんです」と言うと、三浦が「お前にはやれないよ」と告げる。押し問答したあげく、みゆきは三浦の前で裸になってみせ自分の決意を伝える。このシーンが伝えるのは、みゆきは自分でもよく分からない衝動に突きあげられている、ということだろうか。両親に愛され、市役所職員として堅実に働いてきたそれまでの自分を破壊するものか、解放するものか。それはみゆきだけでなく、監督にも、見ている観客にもよく分からない。ただその切実さだけが伝わってくる。

最後に近くなって、みゆきの周囲ではいくつかの変化が起きている。三浦はデリヘルのマネジャーをやめ、本業の役者に戻って舞台に出る。父は出荷の見通しが立たないままではあるが、畑の雑草を狩りはじめる。東京駅のトイレでいつも会うデリヘル嬢は、みゆきに「交通費かかるから一緒に東京で住まない?」と誘いかけるが、みゆきは答えない。みゆきは、これからどうするのか。答えの出ないまま映画は終わる。

そういうみゆきのすべてをひっくるめて、監督は「彼女の人生は間違いじゃない」と言う。とはいえ、やっぱりこのタイトルはそぐわない、観客の想像力に任せても同じ答えが出るにちがいない、それだけの力を持った映画だと思った。

いつもながら廣木監督は女優を美しく撮る。バスの座席からぼんやり窓の外を眺めるみゆき。ホテルのバスでお湯に顔を浸し目を開けるみゆき。デリヘルを志願して三浦に訴えるみゆき。瀧内公美の、いくつものはっとさせるショットがある。だからこそ、いろんな女優を使ったメジャーな映画のオファーが次々にあるんだろう。


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July 19, 2017

『ハクソー・リッジ』 沖縄戦のリアル

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Hacksaw Ridge(viewing film)

『ハクソー・リッジ(原題:Hacksaw Ridge)』は第二次大戦の沖縄戦、首里郊外の前田高地(米軍の呼び名はハクソー・リッジ─のこぎり断崖)での激戦を描いている。でも日本の予告編や宣伝では日米戦の映画であることが徹底的に隠されている。

どうやらアンジェリーナ・ジョリー監督の『アンブロークン』が反日映画とネトウヨに騒がれ、きちんと公開されなかったことに過剰反応したらしい。でも、この映画を見て「反日」だと感ずる人はいないだろう。もちろんアメリカ側の視点からだけど、武器を持つことを拒否した実在の一衛生兵の目を通して(ハリウッド映画的な誇張はあるにせよ反日でもなんでもなく)沖縄戦が描かれている。

ハクソー・リッジ(前田高地)は沖縄守備軍司令部のあった首里の東北5キロほどにある高地。日本軍は首里を取りまく丘陵地帯に司令部を守るための防衛陣地を敷いていた。前田高地もそのひとつ。十分な兵力を持たない守備軍は米軍の沖縄本島上陸を黙って見守り、洞窟陣地を築いて艦砲射撃に耐え、敵が近づいたところで反撃に出る持久戦の態勢にあった。大本営は沖縄戦について、「米軍に出血を強要し、本土攻撃を遅延せしむる」ための「捨て石作戦」と考えている(大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』)。

衛生兵ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の属する大隊が、消耗した部隊に代わってハクソー・リッジに投入される。激しい艦砲射撃の後、のこぎりの刃のような断崖をロープ網をつたって登ってゆく(前掲書にロープ網で断崖を登る米兵の写真が収録されている)。高地には、それまでの戦闘で死んだ米兵や日本兵の死体が散乱している。霧のなかを部隊が進んでゆくと、地下陣地から日本兵が湧き出るように現れて白兵戦になる。腕や脚がもがれ、火だるまになった身体がとび、下半身がぐじゃぐじゃになり、早回しを使っての戦闘シーンはすさまじいの一言。

これまで戦争映画のリアルな戦闘シーンといえば『プライベート・ライアン』や『父親たちの星条旗』だったけど、それを上回るかも。『プライベート・ライアン』も『父親たちの星条旗』も当時のVFX技術の進化によるところが大きいけれど、この映画ではそれが更に進んでいる。殊に、もがれ、つぶされ、挽き肉のようになった身体表現は超リアル。この映画は別に反戦映画ではないけれど(主人公は良心的兵役拒否だから、存在そのものが反戦と言えば言えるが)、接近戦の戦闘のむごたらしさには目を背けたくなるはずだ。

映画の前半は、ドスがなぜ非暴力を決意するに至ったかを描く。

ドスはヴァージニア州の田舎町で育った。父は第一次大戦に兵士として参加し、親友二人が戦死したことから、戦後、アル中に陥った。家はプロテスタントの異端であるセブンスデイ・アドヴェンティスト教会の敬虔な信者。壁には十戒(「汝、殺すなかれ」)のポスターが貼ってある。ただ、セブンスデイ・アドヴェンティストはクエーカー(フレンド派)のように非暴力・平和主義を強調しているわけではないようだ(良心的兵役拒否の多くはクエーカー教徒)。だからドスの非暴力は、あくまで個人の信念による。

アル中の父は母に暴力を振るう。見かねたドスが、かっとなって拳銃を父に向ける。友を失い、家族に暴力を振るい、自分に絶望していた父はドスに「引き金を引け」と言う。が、ドスは引けない(後で「心のなかで引いた」のセリフがある)。それを契機に、ドスは武器に手を触れることをやめようと決意する。第二次大戦が始まり、兄や友が志願するのを見て、ドスも衛生兵なら武器に手を触れなくてもすむ、戦争で人を殺すのでなく、人を助けようと陸軍に志願する。

映画の中盤は、異端の兵士を抱えた軍隊のいじめと教練の物語。ハリウッド映画のお手のものといったストーリー展開だ。銃の訓練を拒否して軍法会議にかけられるが、父の上官だった将軍の一声で衛生兵として従軍することを許される。ハクソー・リッジで75名の負傷兵を救い(日本兵も救おうとする)、仲間の信頼を勝ち取る(現実のドスは沖縄以前にサイパン、レイテの戦闘に従事した)。

こう見てくると、良心的兵役拒否とはいえ、ドスがいかにもハリウッド映画好みのヒーローであることが見えてくる。どんな状況にあろうと個人の信念を貫きとおす強靭な意思。仲間を決して裏切らない友情。銃を持たなくとも役に立てると軍隊に志願する愛国心。アメリカ映画が繰り返し描いてきたヒーローと重なる。

日本人としてこの映画を見ると、もちろん足りないものはたくさんある。たとえば沖縄戦は日本軍が住民を人間の盾のように巻き込んで戦った戦闘だったが、戦闘のすぐ近くにいたはずの民間人の姿が一人も出てこないこと。たとえば洞窟から出てくる日本兵が、まるでウンカの群れのように無個性で無気味に見えること(いや、これはアメリカ側から見た正確な印象かもしれない。大本営から見て沖縄戦の兵士は「捨て石」で、死を運命づけられた集団のふるまいは相手から不気味に見えるだろうし、そもそも日本軍はドスのように良心的兵役拒否する個人が存在できる組織ではないから、米兵の目に昆虫の群れに見えても不思議はない)。

いずれにしてもこれはアメリカ映画で、ここに足りないものを描くのは日本映画の責任だろう。沖縄戦を描いた日本映画は『ひめゆりの塔』や『沖縄決戦』以来、40年以上つくられていないのではないか。


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July 15, 2017

『裁き』 インド社会の断面

Court
Court(viewing film)

いっとき、インド映画といえば歌って踊ってのエンタテインメントばかり公開されたことがあった。もちろんそれがインド映画の大きなジャンルなのは確かだけど、それだけがインド映画じゃない。僕はインド映画といえばサタジット・ライを思い浮べる世代なので釈然としなかったが、このところいろんな映画が公開されるようになった。

マラーティー語映画『裁き(英題:Court)』も、そんな1本。もっとも、この映画にも歌や踊りはある。ただし物語に密接にからむ重要な要素として。

ムンバイのスラムの広場に仮設舞台が設けられ、歌と踊りが演じられている。背後に掲げられる肖像は不可触民解放運動に貢献したマラータ人リーダーの肖像らしいから、そういう団体が開いた催しなんだろう。そこに歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)が登場して、民族楽器とコーラスをバックに歌いはじめる。「♪立て! 反乱のときはきた。己の敵を知るときだ。カースト差別の森。人種差別の森。民族主義者の森」。ボブ・マーリーのインド版といった感じ。

そこに警官が来て、カンブレは逮捕される。スラムに住む下水掃除夫(不可触民の仕事)が自殺したのは、カンブレが自殺をそそのかす歌を歌ったからだという自殺ほう助の容疑。そこから裁判劇がはじまる。

もっとも、ここからがこの映画のユニークなところ。並みの裁判映画のように、法廷での丁々発止のやりとりにはならない。法廷の合間に被告のカンブレ、弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーグ・ゴールバン)、女性検事、判事、それぞれの日常生活が挿入されて、彼らがどんな階級に属し、どんな生活を送っているかが描かれる。

民衆詩人であり歌手である被告のカンブレは、スラムで少年少女を教える教育者でもある。マラーティー語を話すマラータ人。冤罪を主張する正義漢の弁護士は、登場人物のなかでいちばん豊かな階級に属しているらしい。高級スーパーでワインとチーズを買い、自家用車のなかではジャズを聞く。法廷では英語でカンブレを弁護する。日常生活はクジャラート語らしい。女性検事は中流階級の出身。冤罪であることを知ってか知らずか、政府の方針に忠実に論告するが、日常生活ではごく平凡な主婦。どちらにも組しない判事は大家族をもっていて、夏休みにはバスを仕立てて一族でバカンスに出かける。

そして自殺したとされる下水道清掃夫が住むスラム。崩れかけた建物にゴミが散乱する凄惨なショットにぎくりとする。裁判に関わる人物たちを通して、インド社会の断面図が見えてくる。カンブレの裁判の前後には別の微罪の裁判も進行していて、いろんな人間模様が点描される。人種、宗教、言語、カースト、貧富の差、さまざまな分断線が引かれた複雑な社会。

やがてカンブレの無罪が証明されて釈放されるが、すぐに今度はテロ防止法違反の容疑で逮捕される。もっとも、映画は冤罪を声高に叫ぶわけではない。淡々と事実を描くだけだ。

そのクールな視線を生みだしているのがキャメラ。据えっぱなしの長回しも使った撮影で、カットとカットのつなぎも今ふう。インド映画でこういうスタイルの作品を見るのは初めてかも。チャイタニヤ・タームハネー監督がこの映画を撮ったときは20代だった。

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July 01, 2017

『ドッグ・イート・ドッグ』 ピンクのノワール

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Dog Eat Dog(viewing film)

フィルム・ノワールと呼ばれるジャンル映画は間歇的に流行する。もともと1940~50年代にハリウッドで盛んにつくられた。とりあえず「暗い画面が特徴のスタイリッシュな犯罪映画」とでも言っておけばいいのか。その後1970年代に『チャイナタウン』など新しい感覚のノワールがつくられた。今どきのノワールの原型は『レザボア・ドッグス』あたりだろうか。

ハリウッドだけでなく「フレンチ・ノワール」「香港ノワール」と呼ばれる映画があるように、いろんな国でノワール調の映画が流行した。かつての「探偵」「ファム・ファタール」といった定型ばかりでなく、「犯罪」をキーワードにさまざまなパターンが生まれている。

もっとも、近頃のハリウッドでは暗い映画は好まれないのか、あるいはホラーや猟奇犯罪のような刺激の強い映画のほうがいいのか、ノワール(調)の映画はそう多くない。記憶に残るのは『ナイトクローラー』『ボーダーライン』くらい。『ドッグ・イート・ドッグ(原題:Dog Eat Do)』は、その貴重な1本だ。

もっとも冒頭から「ノワール」とは正反対、画面いっぱいのピンク色で始まる。ピンクのフィルターをかけているような、壁からなにからピンクに内装された家。コカイン中毒のマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)が愛人とその子供をさしたる理由もなく殺すファースト・シーンから、タガが一本はずれたような独特のリズムに巻き込まれる。

ムショ帰りのトロイ(ニコラス・ケイジ)は、ムショ仲間で大男のディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)とマッド・ドッグを誘い、地元ギャングのボスから裏金回収の仕事を請け負う。最初の仕事は成功するが、カジノと女でどんちゃん騒ぎし一晩で報酬を使い果たす。次の仕事はメキシコ系ギャングの息子を誘拐し身代金を奪う仕事。ところが、マッド・ドッグが暴発し身代金を払うはずのギャングを殺してしまったことから、すべてが狂ってゆく……。

ポール・シュレイダー監督は、『ザ・ヤクザ』『タクシー・ドライバー』など1970年代ノワールの脚本家として名をなした。自らも『アメリカン・ジゴロ』などを監督しているから、ノワールはお手のもの。だからこそ、いまノワールをつくるに当たって、かつての定型を壊したかったんだろう。冒頭のピンクの画面もそうだし、いろんな約束事をはずしにかかっている。

トロイとギャングのボス(シュレイダー監督自身が演ずる)の会話シーン。定型のカットバックで(セリフをしゃべる人物を交互にクローズアップで)撮っているけれど、向かい合っているはずの二人がまるで背中を向け合っているように撮影されている。定型をはずしたカットバックは、小津安二郎が視線の交錯しない撮り方をしているのが有名だけど、日本映画に詳しいシュレイダー監督のことだからそういうことも踏まえているのかもしれないな(トロイがハンフリー・ボガート好きなのも、シュレイダー監督らしく笑わせる)。

ほかにも、マッド・ドッグが殺した死体を運ぶ車のなかでディーゼルに「人生をやり直したい」「俺の欠点を5つ挙げてくれ」なんて、どこまで本気か狂っているのか分からないセリフを吐いたりする。その後、死体処理の現場でディーゼルはいきなりマッド・ドッグに銃をぶっ放して殺す。原題のDog Eat Dogは原作のノワール小説と同じで共食いとか食うか食われるかといった意味だけど、登場人物は誰ひとり互いを信用せず、自らの欲望のままに行動する。

ラストもまた冒頭のピンクに対応するように赤い霧のなか。ニコラス・ケイジは、こういうチンケな男をやらせると絶品だなあ。


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June 26, 2017

『セールスマン』 増幅される不安

Salesman
The Salesman(viewing film)

家族──それがアスガー・ファルハディ監督の映画を一貫している主題だ。

『彼女の消えた浜辺』から『別離』『ある過去の行方』、そして『セールスマン(英題:The Salesman)』まで、それは変わらない。近代化とイスラム教がぶつかりあうイラン社会のなかに生きるさまざまな家族。なんらかの問題をきっかけに、彼らが引きずり込まれる心理的葛藤を、ミステリー的な手法で映画にしてきた。その問題とは、男と女の性的な問題であることが多い。日本社会にいると気がつかないけど、性的な問題に厳しい戒律のあるイスラム社会では挑戦的な映画づくりだと思う。

主人公は都会に住むインテリ夫婦。夫のエマッド(シャハブ・ホセイニ)は高校教師で劇団に所属する俳優。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)も女優で、2人でアーサー・ミラーの「セールスマンの死」に主演している。舞台初日の夜、ラナは自宅のアパートでシャワーを浴びているとき何者かに襲われる。

冒頭から、2人を襲う不安を予感させる出来事がつづく。2人が住んでいたアパートが隣の建設工事で傾き、住民は我先に外へと逃げる。壁とガラス窓に亀裂が入る。劇団仲間から新しいアパートを紹介されるが、鍵のかかった一室には前の住人の荷物や派手な女ものの靴が残されている。事件が起きて、前の住人は娼婦で、男たちが部屋を訪れていたことを2人は知ることになる。ラナを襲ったのは、前の住人の客だったのか。

エマッドは警察に届けようと言うが、ラナはそれを拒否する。このあたりから、夫婦の間に細かい亀裂が入りはじめる。エマッドは自力で犯人を突き止めようと動き出す。部屋には、犯人が置いていったらしい札が残されていた。そのとき何が起こったのかは、怪我をしたラナは気を失って覚えていないと言う。エマッドは疑心暗鬼におちいる。観客にも、もちろん分からない。女性の肌の露出を嫌うイスラム社会では、妻の裸を見られたというだけでも夫にとっては大きな侮辱だろう。

現実の出来事と並行して、「セールスマンの死」の舞台稽古から本番が進行している。時代から取り残された夫婦の物語。シャワーを浴びた女がバスタオルで登場する場面で、役者は真紅の分厚いコートを着ている。イランではバスタオルでの登場は許されないのだろう。そういえばイラン映画はセミヌードも性的な場面も見た記憶がない。「裸なのにコート着てる」と稽古している役者が笑う。

赤は「禁止」を意味する色。この場面での赤いコートは、演出家の抵抗の意思表示なのかもしれない。それに対応するのかどうか、日常生活でのラナも真紅のヘジャブを着用している。こちらの赤は、ラナが性的な視線の対象にされたとことの比喩か。どちらも印象的な赤。

意外な犯人がわかったときの2人の表情もまた複雑だ。夫のエマッドは、インテリらしく極めて抑制された怒りを示す。被害者であるラナは、悲し気に事態を見守るだけ。夫婦の間の亀裂は、犯人が分かってもなお修復されないように見える。わかりやすい起承転結でなく、これからこの2人はどうなるのかと観客も不安させて終わる。

ファルハディ監督は、かつてモフセン・マフマルバフ監督が亡命せざるをえなかったことに抗議して、イラン政府から映画製作を禁止された経歴を持つ。アカデミー外国映画賞を受賞した今回は、トランプ政権の反イスラムの姿勢に抗議してタラネ・アリドゥスティとともに受賞式をボイコットした。芯の通った映画監督だ。

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June 05, 2017

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 微妙な距離感

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Manchester by the Sea(viewing film)

『マンチェスター・バイ・ザ・シー(原題:Manchester by the Sea)』を見始めてすぐ、あ、この風景は見覚えがあると思った。ニューヨークからボストン行の鉄道アムトラックに乗ると、列車はロングアイランド湾に沿った海辺を走る。小高い丘と緑の平地、入り組んだ海岸線に沿って点々と小さな町が見えてくる。典型的なアメリカンスタイルの住宅。入江にはたくさんのボートやヨットが係留されている。映画の風景そのもの。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(これ、町の名前)はマサチューセッツ州ボストンの北40キロの海岸にあり、僕が見たロングアイランド湾沿いの町々とは少し離れている。でも町の構造は同じだろうと思う。一言で言えば中流白人の町。

ウィキペディアによれば、マンチェスター・バイ・ザ・シーはアン岬の突端にあり、風光明媚でボストン富裕層の別荘地として発展した。人口は5000人で、その98%が白人。貧困ライン以下の人間は5%。エドワード・ホッパーの絵のような白い灯台も出てくる。いわばホッパーの絵の登場人物が動き出したのがこの映画ということになるかも。

リー(ケイシー・アフレック)はボストン郊外でアパートの便利屋として働いている。自分の殻に閉じこもり、住民となじもうとしない。兄危篤の知らせを受け故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻るが、兄は亡くなっていた。遺言によってリーは兄の子供で16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になる。リーはパトリックと兄の家で暮らし始めるが、彼には忘れられない過去があり、ことあるごとにその記憶に苛まれる。

冬の港町。延々と流れる「アルビノーニのアダージョ」。ずいぶん古風な映画だなあと思う。リーが弁護士事務所で思いまどって外を見る。視線に沿って、雪に閉ざされた庭のショットが挿入される。今どきそんなクラシックなモンタージュをする映画は少ない。でもそんなふうに丁寧な映像を積み重ねつつ、リーの過去が少しずつ明らかになってゆく。

リーは甥のパトリックが子供のころから面倒を見てきて、パトリックも叔父を慕っている。でも、一緒に暮らし始めると2人の間に小さな齟齬が起こる。パトリックは、父の遺体を埋葬できる雪解けまで冷凍しておくことに反対し、それがトラウマ化したのか、冷凍庫の冷凍肉を見て嘔吐しそうになる。父のボートを売ることにも反対する一方、バンドを組み、2人のガールフレンドを二股にかける。思春期の甥と、心の傷を乗り越えられない叔父。

元妻でリーの知り合いと再婚したランディ(ミシェル・ウィリアムズ)とも再会し、きまずい会話をかわす。でも元夫婦の男と女の関係はあくまでサイドストーリー。本筋はリーとパトリック、男ふたりの関係だ。男と男の映画は過去にもたくさんあった。親子、兄弟、友達、あるいは敵同士。でもこの映画は叔父と甥という微妙な関係の微妙な距離感が主題になっている。ラストショットがその微妙さを見事に掬いあげた。


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May 31, 2017

『メッセージ』 冷え冷えした空

Arrival
Arrival(viewing film)

『メッセージ(原題:Arrival)』で、そうか、そうだったのかと唸ったのは、球体の宇宙船や知的生命体(どちらも、まあ過去の諸作品の延長上)ではなく、言語学者ルイーズ(エイミー・アダムズ)の過去の記憶と思われていたものが、実は未来の記憶だとわかるところ。

冒頭で、ルイーズが湖畔で少女と遊び、やがて少女が病に冒され亡くなる映像が出てくる。見る者は当然、ルイーズは辛い過去を持っているのだと思いこむ。そのショットが、何度かフラッシュバックされる。

ところが後半、宇宙船の内部に入ったルイーズは知的生命体と対話し、知的生命体にとって時間は円環するものであり、ルイーズが見ていたものが彼女の未来の記憶であることを知る。次のフラッシュフォワード(バックではなく)では、少女の父親の映像が出てきて、それがいま仲間として知的生命体とコミュニケーションを取ろうとしている物理学者イアン(ジェレミー・レナー)であることがわかる。

ルイーズには、やがてイアンと結婚し、どうやら離婚し、娘を病気で失うという未来が待っている。それでもなおルイーズは未来に賭けるのか。そういうルイーズの決断の物語として、この映画はある。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のサスペンスや緊張の演出は相変らず冴えている。いつも感心するのは映像と音の見事さ。

冒頭、屋内のカメラがゆっくり天井から下にパンすると、窓の外には湖と、どんよりと曇った空。静寂を感じさせるクールな映像がヴィルヌーヴ印。自然や都市の上に広がる冷え冷えした曇り空と、光と影のコントラストを持たない陰鬱な光は過去の作品にもひんぱんに出てきた。これは監督が北国のカナダ育ちということも関係しているかもしれない(本作のロケもカナダ)。

到来(arrival)した宇宙船の背後では、山並みに霧がゆっくりと流れている。知的生命体が持つ文字は、水中で墨が円を描いて広がり凝固するような動作をもつ。霧や墨(のようなもの)がゆっくり流れる、スローモーションのような時間の持続に緊張が高まる。

音もまた緊張を高める。宇宙船内部がきしむような音。高速で空をかすめる戦闘機の音(アカデミー音響編集賞受賞)。そこに、低音が持続するような音楽がかぶさる。不安を増幅させる。これは前作『ボーダーライン』も同じで、音楽はヨハン・ヨハンソン。ヨハンソンとは『プリズナーズ』以来のコンビで、次回作『ブレードランナー 2049』でも組んでいる(撮影は『プリズナーズ』から組む名手ロジャー・ディーキンスから若いブラッドフォード・ヤングに変ったが、ヴィルヌーヴ監督好みの映像は変らず)。

知的生命体が地球の12地点へもたらしたメッセージ云々よりも、そういうところに惹きつけられた。『ブレードランナー 2049』が楽しみだ。


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May 25, 2017

『映画 夜空はいつでも再高密度の青色だ』 片隅の光景

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『映画 夜空はいつでも再高密度の青色だ』の原作は最果タヒの同名の詩集。詩集から映画をつくる珍しい試みだ。それがどこに表れているかといえば、主人公の男女が詩の言葉をつぶやく。例えばこんな具合に。

「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ」
「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない」
「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

最果タヒが20代で書いたこれらの言葉は、いわゆる現代詩の言葉遣いでなく若い世代が日常に感ずる違和を言語化したものだろうけど、会話のなかでしゃべれば、やはり普通じゃない。変な奴と思われる。男も女も自分を変だと思っている。そんな二人が遠回りして結ばれる「ボーイ・ミーツ・ガール」の青春映画。その遠回りのあいだに、二人をとりまくこの社会の姿が見えてくる。監督は『舟を編む』の石井裕也。

美香(石橋静河)は看護師として仕事しながら、夜は渋谷のガールズバーで働いている。慎二(池松壮亮)は建築現場で日雇い仕事をしている。慎二がつるむのは兄貴分の智之(松田龍平)、中年の岩下(田中哲司)、出稼ぎフィリピン人のアンドレス(ポール・マグサリン)。彼らは仕事帰りのガールズバーで美香と会う。智之が美香とSNSでつながってつきあいはじめるが、智之はあっけなく死んでしまう。仲間しかいない通夜の席で、美香と慎二は顔を合わせる……。

美香がガールズバーで働くのはお金がほしいこともあるが、それ以上に何か焦燥にとりつかれているらしい。慎二もいつも「イヤな予感」、言いかえれば死の予感につきまとわれている(タヒとは「死」の文字を分解した名前らしい)。詩の言葉をしゃべりまくるかと思えば、黙りこくってしまう。生きづらさをかかえた二人が、お互い手探りするように相手を少しずつわかってゆく。新人の石橋静河と、いろんな映画で顔なじみの池松壮亮の抑えた演技がいい。青春映画というと必ず主人公が叫ぶシーンがあるけど、そういう場面が出てこないのもいい。

智之の通夜で、彼らを派遣する会社の社員は「仕事中に死なないでくれよな」と迷惑そうに慎二につぶやく。慎二のアパートで隣に住む読書好きの老人は、孤独死しているのが見つかる。腰を痛めた岩下は現場を去ってゆく(どこへ行くのかは明かされない)。アパートに何人ものフィリピン人と同居して暮らすアンドレスも、家族のいるフィリピンに帰る決心をする。

最後、慎二の狭いアパートで朝を迎えた二人が、鉢植えの小さなサボテンに花が咲いているのをみつける。片隅の光景で終わるのが素敵だ。


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May 24, 2017

『台北ストーリー』 鋭い歴史感覚

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Taipei Story(viewing film)

『台北ストーリー』という邦題は英語題名を訳したものだけど、中国語の原題は「青梅竹馬」。幼馴染みのことだ。そのことが分かってないと、映画を見ながらこの2人の男女の関係はなんなんだ、としばし戸惑いを覚える。「竹馬の友」という言葉を思い出して、そうか幼友達なんだなと理解できた。

1980年代の台湾ニューウェーブを担った映画人が一堂に会した『台北ストーリー』(1985)が一般公開されるのははじめて。ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンもほとんど見てるけど、この映画だけは見ていなかった。アメリカの大学で映画を学び台湾に帰ってきたエドワード・ヤンが、いわば自分のスタイルをつくりあげるきっかけとなった作品。僕がこの映画を見て感じたのは、エドワード・ヤン(と、共同脚本のホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン)の台湾社会に対する歴史感覚の鋭さだった。

舞台は台北の古い問屋街である迪化街。そこで育った幼馴染みのアリョン(ホウ・シャオシェン)とアジン(ツァイ・チー)の恋人とも友達ともつかない関係に、近代化が進む台湾社会の変化が重ねられる。近代化の象徴として、台湾社会に浸透したアメリカと日本のイメージが頻繁に使われる。

アジンはキャリアウーマンとして不動産開発会社で仕事しているが、上司とは個人的な関係もあるらしい。家を出て、新しいマンションで独り暮らし。でも会社は大企業に買収されて職を失い、どうするか迷っている。アリョンはかつてリトルリーグのエースとしてアジンたちの憧れの的だったが、今は地味に家業の布地問屋をやっている。アジンは、アメリカにいるアリョンの義理の兄を頼ってアメリカへ行こうとアリョンに持ちかけるが、アリョンは煮え切らない。

しびれを切らしたアジンは妹の友達の若い男とつきあいはじめる。アリョンは、家を売って渡米資金をつくったものの、借金返済を迫られ困っているアジンの父親に融通してしまう。台湾は大家族社会で(東山彰良『流』の世界ですね)、アリョンの家とアジンの家は祖父の代からのつきあいらしい。アジンは、アリョンの父親と酒を飲み、迪化街の路上に座り込む。失われゆく街の古い建物を車のライトが照らす。

アジンの洒落たマンションには、マリリン・モンローのポスターが掛けられている。アジンは映画の後半で、アメリカ資本の会社に誘われる。アジンが若い男たちと遊ぶ部屋の外には、富士フイルムやNECの大きなネオンサインがある。強烈なネオンサインをバックにアジンと若い男のシルエットが印象的。アリョンの元カノは日本人と結婚して、里帰りしてくる。アメリカと日本のイメージは、アリョンとアジンの実現しない脱出願望の象徴とも取れる。

迪化街の崩れそうな建物と、日本企業のネオンサイン。アジンが囚われる古い台北と、アリョンが生きる新しい台北が軋んでいる。エドワード・ヤンはアメリカ育ちなので、帰国して接した台北がこのように見えたのだろう。ちなみにシャープを買収し東芝に興味をもつ鴻海精密工業は、この時代すでに日米メーカーの下請けとして創業している。

エドワード・ヤンが自らのスタイルをきわめた『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をすでに見てしまった目からは、『台北ストーリー』はエドワード・ヤンらしい鋭いショットと、旧来の手法や映像がまだ混在しているように見える。とはいえこの時代、台湾には定型でつくられた娯楽映画しか存在しなかったから、因果関係が薄く人間関係の説明もしないこの映画は、ずいぶん変な映画だと思われたろう(4日間で上映打ち切り)。

この映画が、共同で脚本を書き、主演したホウ・シャオシェン(煮え切らない男を素のままで好演)に大きな刺激を与えたことは確かだろう。大学で映画を学んだエドワード・ヤンに対し、台湾の撮影所で娯楽映画から出発したホウ・シャオシェンは、ヤンとのつきあいのなかで新しい映画の手法に目を開いていったように思える。

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May 13, 2017

『ノー・エスケープ 自由への国境』

Desierto
Desierto(viewing film)

『捜索者』や『死の谷』といった古典以来、西部劇の定番のひとつに砂漠(西部劇では「荒野」と呼ぶのがお約束)での追う者と追われる者との追跡劇、あるいは逃避行がある。その定番のパターンを踏襲しながらハリウッド製西部劇とはまったく異なる現代の追跡劇(逃避行)にしたのが『ノー・エスケープ 自由への国境(原題:Desierto、砂漠)』。88分と短い映画だけど、張りつめた緊張が見事なサスペンスだ。

追うのは、貧しい白人の一匹狼サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)。追われるのは、国境を越えてアメリカに密入国したモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)ら15人のメキシコ人。砂漠の国境には有刺鉄線が張られているだけ。モイセスたちは、いとも簡単に歩いて国境を越える。見渡す限りの荒野と岩山(ロケはカリフォルニア)。

サムはライフルをもちジャーマン・シェパードの猟犬とともにピックアップトラックで砂漠を走っている。警官に職質されると、ウサギ狩りに許可証はいらないだろう? と反問する。砂漠で食料にするウサギも撃つが、サムが狩っているのは密入国した人間たちだ。現実に南部や西部には密入国者を捕らえる私設警察集団があるけれど、サムには彼らのような反移民のイデオロギーはなさそう。ウサギを狩るのと同じ感覚で人間を狩っているらしい(そのほうが怖い)。

サムが砂漠を歩く密入国者を発見し、丘の上からガイドら11人を容赦なく狙い撃って殺す。一行に遅れていたモイセスとガイドの助手、男女のカップルの4人だけが生き残る。逃げるモイセス(この名前はモーゼとエクソダスに重ねられているのか)らに気づいたサムは彼らを追う。

人を拒む乾いた谷と乾いた岩山の風景が圧倒的だ。そのなかを武器を持たない4人が逃げ、サムと猟犬が追う。逃げ遅れたカップルの男が猟犬に喉を食い破られる。ガイドの助手は岩山から落ちて死ぬ。モイセスと残った女は、サムの裏をかいてトラックを盗むが、撃たれて車は横転し、女は重傷を負う。モイセスは自分をおとりに猟犬とサムを引きつけようとする。鋭い棘のあるサボテンの群落や、そそり立つ岩山での猟犬対モイセス、サム対モイセスの対決。

主役やスタッフはメキシコ勢だけど、サムがただの悪漢でなく、社会からはじきだされた男の哀しみをにじませている。だから結末にカタルシスはなく、むしろ重苦しい。

脚本・監督のホナス・キュアロンは、アルフォンソ・キュアロン(『ゼロ・グラビティ』)の息子。『ゼロ・グラビティ』のアイディアもホナスで、父と一緒に脚本も書いていた。『ノー・エスケープ』も『ゼロ・グラビティ』も、ごくシンプルな設定からハラハラドキドキの物語をつくりあげることでは共通している。また目を離せない監督がひとり増えた。


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