January 13, 2019

『迫り来る嵐』 チャイナ・ノワールの魅力

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The Looming Storm(viewing film)

『迫り来る嵐(原題:暴雪将至)』は初めから終わりまで、一度も太陽が姿を見せない。冬の、いまにも雪になりそうな冷たい曇り空。あるいは激しい雨。ずっと遠雷が鳴りひびいている。だから画面はいつも暗い灰色。それがこの映画の基調になっている。

1997年、湖南省の架空の町。国営の製鋼所が舞台になる。改革開放経済がはじまり、赤字の国営企業は次々に閉鎖される運命にある。ここも、そんなひとつ。工場の外に広がる原野で凌辱された女性の惨殺死体が発見される。同じ手口で、三人目。工場の保安部の警備員ユイ(ドアン・イーホン)は事件に興味を持ち、上司のジャン警部(トゥ・ユアン)から情報を聞いて、犯人探しにのめりこんでいく。

ユイには娼館のイェンズ(ジャン・イーチェン)という恋人がいる。ある日、ユイはイェンズが被害者たちと似ていることに気づく。ユイはイェンズを娼館から請け出し、美容院を借りて犯人をおびき出そうとする……。

間もなく取り壊される運命にある製鋼所の古い工場や施設が、いろんな角度から切り取られる。暗い工場のなかで燃え盛る溶鉱炉の炎。はっと息を呑むような美しさの操車場。ドン・ユエ監督は現代写真をよく見ているなと思ったら、北京電影学院では写真を専攻し、もともとスチール・カメラマンとして映画にかかわったそうだ。そんな暗く緊迫した画面のなかで、ユイは犯人らしき男を追って格闘する。ここも激しい雨と泥濘。

ユイとイェンズは恋人同士だけれど、身体の関係はないらしい。イェンズは、なぜ私に触らないのかとユイを責める。ユイは仕事でいつも電気ショック棒を手にしているが、それがユイにとって男根に代わって力を象徴するものだろう。仕事で暴力をいとわないユイと、イェンズとの純愛の落差もまたユイの精神風景。そんな二人が、鉄道の陸橋の上でデートする二度のシーンが美しい。

数年前、『薄氷の殺人』という中国映画を見たことがある。中国東北部の地方都市を舞台にした、チャイナ・ノワールとでも呼べそうなクライム・ストーリーだった。この映画の監督は『マルタの鷹』や『第三の男』といったノワールの古典を参照したと語っていたが、『迫り来る嵐』のドン・ユエ監督(脚本も)は韓国映画『殺人の追憶』をヒントにしたように思う。ちょうど黒沢明がハメットのハードボイルド『血の収穫』をヒントに『用心棒』をつくり、それが『荒野の用心棒』を生んだダイナミックな相互関係のように。

ドン・ユエ監督はたぶん『殺人の追憶』の設定や骨格を改革開放時代の中国に置き換え、時代の大きなうねりから取り残された人々をノワール感覚あふれる映像で捉えた。ノワールは政治を直に扱わず、でも時代の風景を犯罪というかたちで切り取るから、検閲も通りやすい。志ある監督にとって挑戦しがいのあるジャンルだと思う。

最後に、閉鎖された工場や煙突が爆破される。ユイがかつての工場前からバスに乗ろうとすると、バスはエンストを起こして動かなくなり、空から雪が落ちてくる。ユイたち、時代から取り残された人たちの未来を暗示して映画は終わる。

こんなチャイナ・ノワールが出てきて、中国映画を見る楽しみがまたひとつ増えた。今年最初に見た映画。新年にふさわしい内容ではなかったけど、堪能しました。


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December 30, 2018

2018 映画Best10

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今年もベスト10を選べるほどたくさんの映画を見ていない。特に秋以降はさまざまな事情があって、ほんの数本しか新作を見られなかった。それでも、毎年自分なりのベスト10を何十年もつづけて選んでいること、あれこれ迷ってランキングを決めるお遊びの愉しさを味わいたくて選んでみました。洋画も邦画も一緒の10本です。

1 ジュピターズ・ムーン
ハンガリー国境にたどり着いたシリア難民青年が、銃撃された瞬間に空中浮遊の能力を得る。超能力青年を匿いつつ金儲けを企む、人生に敗れた中年医師。青年を追う老刑事。三者の絡みあいから東欧の現実が浮かびあがる。ファンタジー、寓意劇、社会派、ノワール、いろんなテイストが混然となり陶然とさせられた今年のベスト。

2 万引き家族
日本映画の主流だった家庭劇、とりわけ小津安二郎の世界を裏表ひっくり返し現代劇として蘇生させた。血のつながりのない人間がつくる疑似家族。ビルに囲まれた古い日本家屋で、隅田川花火の音だけ見上げる暗い空。疑似家族のささやかな幸せと、血のつながった家族の空虚。是枝裕和監督の代表作として記憶されるだろう。

3 ラブレス
モスクワ郊外に住む、別居状態の裕福な夫婦。ある日、息子が姿を消す。そのことが、夫と愛人、妻と愛人、それぞれのカップルに波紋を引き起こす。でも、いなくなった息子のことを誰も本当には気にしていない。冷え冷えとした風景のなかで露わになる、ロシアの、ひいては現代人の精神風景。タルコフスキーのDNAが魅力。

4 スリー・ビルボード
アメリカ中西部の広野に建てられた3本の広告。「レイプされ殺された」「そしてまだ逮捕されない」「どうしてくれる? ウィロビー署長」。田舎町で、娘を殺された母の怒りがさらなる怒りを引き起こす。悪人にも善人にもなりきれない、普通の人間たちの悲喜劇。黒白の決着がつかず、複雑な陰影を残して終わるのがいい。

5 フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
フロリダ南部。ディズニー・ワールド周辺のパステルカラーの街に住む貧困層の母娘。母は売春や窃盗で暮らし、ダイナーの廃棄料理で腹を満たしながら、悪ガキどもはいたずらして遊び回る。背後には亜熱帯の空と虹。最後、いきなりiPhone画面の子供の眼となって、悪ガキたちの「フロリダ・プロジェクト」に涙する。

6 苦い銭
中国最大の子供服の生産地として知られる浙江省湖州市で、小さな縫製工場や労働者のアパート、路上でカメラを回したワン・ビン監督のドキュメンタリー。例によって長回しで、少女が長時間働くシーンや、こんな場面よく撮影できたと思うほどリアルな夫婦喧嘩。グローバル化が進んだ世界の、片隅の光景に胸を衝かれる。

7 ハッピーエンド
北フランスで建築業を営む富裕な一家。引退し認知症になった祖父。会社を切りまわす娘(イザベル・ユペール)。出来の悪い息子たち。でもいちばん不気味なのは13歳の孫娘。母親に抗うつ剤を与えて死にいたらしめ、祖父の自殺を見守る。ブルジョア一族の腐臭を、ハネケ監督が冷徹なカメラで辛辣に映しだす。

8 ミッション・インポッシブル フォール・アウト
VFX全盛の時代に、トム・クルーズ56歳はあくまで身体を張りつづける。ヘリコプターにしがみつき、高度8000メートルからヘイロージャンプ、ビルからビルへ跳び(これで骨折)、絶壁の峡谷で実際にヘリ操縦と今回も全開。物語より自身のアクションにこだわる癖はあるけれど、アクション映画の原点を見るようで無条件に楽しめる。

9 ウィンド・リバー
ワイオミング州の先住民保留地を舞台にしたクライム・ストーリー。先住民の娘の殺人事件を捜査する過程で浮かびあがる先住民の悲しみ。これが長編第1作であるテイラー・シェリダン監督が選んだのがこの国の「インビジブル・ピープル」(『万引き家族』について言われた言葉)であることに、アメリカ映画の健全さを見る。

10 寝ても覚めても
双子のように似た二人の男に否応なく惹かれていく女。出会いも別れも電撃のようにやってくる。物語や心理をたどって、観客が納得できるようには描かれていない。いや、本人たち自身にもその理由は分からない。濱口竜介監督はそれを分からないままに提示する。新しい恋愛映画。

番外 幻土
東京フィルメックス上映作品。シンガポールの埋め立て地で行方不明になった中国移民の労働者。事件を追う中国系の刑事。ミステリーの枠を借りながら、「誰も見たことがないシンガポール」の風景と精神が重ね合わされる。浦田秀穂キャメラマンの撮影が素晴らしい。

ほかにリストアップしたのは『レディ・ガイ』『目撃者 闇の中の瞳』『シェイプ・オブ・ウォーター』『タクシー運転手』『ファントム・スレッド』『ゲッベルスと私』『運命は踊る』『僕の帰る場所』『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』『ここは退屈 迎えに来て』といったところ。一年間おつきあいいただいて、ありがとうございました。皆さん、よいお年を。

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November 28, 2018

『幻土』(東京フィルメックス) 夢幻的ノワール

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A Land Imagined(viewing film)

シンガポール映画を見るのははじめて。映画のなかで登場人物が、「シンガポールの海岸は直線だ」というセリフを呟く。『幻土(英題:A Land Imagined)』の監督、中国系シンガポール人のヨー・シュウホアはインタビューで、「この50年間でシンガポールの国土は埋め立てによって25%拡大した」と言っている。

グーグル・マップで見ると、確かに島の南西部で大規模な埋め立てが進行中なのがよくわかる。埋め立てだから海岸線は直線。マレーシアやインドネシアから輸入された大量の砂が使われているという。クリックしてストリート・ヴューにすると、映画に出てくるのと似た風景が広がっている。ここがこの映画の舞台だ。

埋め立て現場で働いていた中国からの出稼ぎ労働者ワン(リウ・シャオイ)が行方不明になり、中国系のロク刑事(ピーター・ユー)が現場にやってくる。働いているのは中国人とバングラデシュ人の出稼ぎ労働者。現場監督は彼らのパスポートを取り上げ、飯場では蚕棚のようなベッドで一室に何人もが寝泊まりしている。

ワンはバングラデシュ人労働者のアジットと親しかった。不眠症のワンが通っていたネットカフェには、ワンの知り合いだった中国系の女性ミンディ(ルナ・クォク)がいる。ネット・カフェでワンはハンドルネーム「トロール862」を名乗る男とチャットしていた。ロク刑事が動くことでそういうことが分かってくる。

現在と並行して、過去が描かれる。ワンは腕を負傷し、バングラデシュ人を送迎するトラックの運転を任される。同僚の中国人労働者と交わらないワンはアジットと親しくなり、バングラデシュ人が歌い踊る輪に入って陶然として踊る。海岸で、ワンは何者かに追われて逃げる。

埋め立て地の荒涼としながら美を感じさせる、現代写真のような映像。ネットカフェは原色に彩られた未来的で夢幻的な映像。そして踊るバングラデシュ人たちの汗が飛び散るような肉薄した映像。浦田秀穂キャメラマンの撮影が素晴らしい。浦田キャメラマンは監督から、「誰も見たことのないシンガポールを撮ってほしい」と言われたそうだ。

ロク刑事は「トロール862」を追って銃撃戦となるが、逃げられてしまう。ワンは殺されたのか、自ら埋め立て現場から逃げたのか。真相は遂にわからない。でもロク刑事はワンを追ううちに、ワンの心とシンクロしはじめたように見える。他国の砂で領土を広げる「幻土」に生きる不確かさ、あるいは不安。そんな気配が映画を覆っている。最後、ロク刑事はバングラデシュ人が集まるクラブのベランダにワンらしき男の後ろ姿を見る。それが本当なのか幻なのか、見る者には判断がつかない。探偵(刑事)を主役にしたノワールの骨格で犯罪を追いつつ、映画はいつしか夢幻的な世界に入りこんでいる。

東アジアの国々から才能ある監督が次々に生まれ、急速に変わりつつある現実を作品化している。ヨー・シュウホア監督もその一人。『幻土』は今年のロカルノ映画祭で金豹賞を受賞した。映画祭上映だけでなく、公開されるといいな。


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November 20, 2018

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』 赤いノワール

Mandy
Mandy(viewing film)

若いころは叔父であるフランシス・F・コッポラの映画に出たり、『リービング・ラスベガス』でアカデミー主演男優賞を取ったニコラス・ケイジが今では怪優といったイメージの役者になったのは、2006年の『ウィッカーマン』や『ゴーストライダー』といったカルト映画(どちらも残念ながら未見)でゴールデンラズベリー賞最低主演男優賞に2年つづきでノミネートされたあたりからだろうか。

僕は彼の映画をたくさんは見てないけど、怪優としての雰囲気は『バッド・ルーテナント』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)や『ドッグ・イート・ドッグ』(ポール・シュレイダー監督)で察することができる。『マンディ 地獄のロード・ウォリアー(原題:Mandy)』もそんな系列の一本。B級映画のテイスト満載で作品としての完成度もけっこう高い。おどろおどろしいアクション映画として楽しめる。

レッド(ニコラス・ケイジ)とマンディ(アンドレア・ライズブロー)の夫婦は人里離れた山中の一軒家に暮らしている。そこへカルト集団がやってきて、教祖がマンディを見初め、彼女を拉致するよう信者に命ずる。マンディは関係を迫る教祖を笑いとばし、怒った教祖は彼女を布にくるんで火あぶりにする。レッドの復讐が始まる……。

話はごく単純。でも冒頭からレッドの名前通り赤い色彩の画面がゆったりしたテンポで重ねられる。そこに故ヨハン・ヨハンソン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品を多く担当していたが、今年2月に亡くなった。これが最後の映画音楽)作曲の不安をかきたてる音楽がかぶさる。『ドッグ・イート・ドッグ』はピンク色の画面が多い「ピンクのノワール」といった感じだったが、こちらは「赤いノワール」とでも言うか。

前半はカルト集団の教祖がマンディを拉致し、殺すまで。マンディを演ずるアンドレア・ライズブローの神秘がかった無表情が印象的だ。後半の復讐劇になるとニコラス・ケイジの独壇場。相手は精神を病んだ異形のバイク集団とカルト集団。返り血で顔を真っ赤に染めたレッドがひとり、またひとりと殺してゆく。武器はクロスボウ、自分で鋳こんだ剣とチェーンソー。双方がチェーンソーを振り上げる対決など、あまりにB級な徹底ぶりに笑ってしまいたくなるほど。

ニコラス・ケイジが血染めの復讐鬼の役どころを楽しんでるのがびんびん伝わってくる。監督は新人のパノス・コストマス。カルト系の面白い監督になるかも。


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November 02, 2018

『アンダー・ザ・シルバーレイク』 失速したカルト映画

Underthesilverlake
Under The Silver Lake(viewing film)

毎年、夏休みのお子様向け映画が終って秋になると、粒ぞろいの映画が公開される。でも今年は特に洋画がつまらなかったように感ずる。個人的に忙しくて本数が見られなかったのに加え、こちらの選択も悪かったのかもしれない。でも、好みの映画で見たいと思うものもあまりなかった。だから『アンダー・ザ・シルバーレイク(原題:Under The Silver Lake)』は楽しみにしていた作品なんだけど、これもまた期待外れだった。

「ヒッチコックとリンチを融合させた悪夢版『ラ・ラ・ランド』」というイタリア紙の評がキャッチとして使われていて、確かにその通りではある。1920年代の女優、ジャネット・ゲイナーの映画から、50年代の『ボディ・スナッチャー』『大アマゾンの半魚人』(『シェイプ・オブ・ウォーター』の元ネタ)といったカルト映画、マリリン・モンロー(『女房は生きていた』)やヒッチコック(『裏窓』)の引用、『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』といったロスを舞台にしたミステリーのプロットを踏襲といった具合に、映画好きならあれもこれもと指摘したくなるようなシーンにあふれている。

映画だけでなく、音楽やコミック、ゲーム、古い『プレイボーイ』誌、アングラ風俗もふんだんに言及され、全編がカルト的なアイテムに満ち満ちている(公式HPで町田智浩が詳細に解説してる)。でもそれらが無秩序にとっちらかっているだけで、肝心の本筋に結晶してこない。『チャイナタウン』や『マルホランド・ドライブ』に比べるべくもない。

中年にさしかかろうというサム(アンドリュー・ガーフィールド)は職もなく、アパートも家賃滞納で追い出されそうになっている。楽しみは双眼鏡で他の部屋やプールを覗くこと。水着姿を覗いていたサラ(ライリー・キーオ)に声をかけられ、彼女の部屋でいい感じになる。また明日ね、と別れたが翌日、サラの部屋は引き払われていた。

失踪したサラを探して、サムがロスのあちこちを彷徨う。怪しげな3人組の女と片目の男。出没する犬殺し。この世界は何者かに操られていると信じこむ男。フクロウのキスと呼ばれる、梟の仮面をかぶった女殺し屋。カルト的な音楽が演奏されるパーティー。墓場の地下のライブハウス。ホーボー(30年代の放浪者)の暗号。丘の上の大邸宅に独り住む音楽家。目に入る文字や風景が、サムにはなにかの暗号か陰謀に思えてくる。現実ともサムの幻想とも判然としない迷宮。

探偵役のサムに工夫はある。たぶん俳優かミュージシャンを目指してロスにやってきたけれど、挫折。職も金もなく、心配する母親からしょっちゅう電話がかかってくる。そんなダメ男の目を通した享楽的な都市風俗。ハードボイルドを今ふうに蘇らせようという意図は分かるけど、P.T.アンダーソンの『インヒアレント・ヴァイス』がそうだったように、オフビートなリズムがハードボイルドという古風なジャンルとうまく適合しなかったのかもしれない。そんな意図がうまく生かされたのはロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』とハル・アシュビーの『800万の死にざま』(こちらはNYからロスへの舞台変換)くらいだろうか。ま、年寄りの感想ですけど。

しかしとりあえず、散りばめられたアイコンを楽しんでいれば退屈はしない。監督はデヴィッド・ロバート・ミッチェル。


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October 29, 2018

『ここは退屈迎えに来て』 誰も迎えに来ない

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廣木隆一監督の映画を初めて見たのは寺島しのぶが魅力的な『ヴィアイブレータ』だった。以後、廣木監督は『軽蔑』『さよなら歌舞伎町』『彼女の人生は間違いじゃない』といった作家色の濃いインディペンデント映画をつくる一方で、『余命1ヶ月の花嫁』『100回泣くこと』『ナミヤ雑貨店の奇蹟』といったメジャー系のエンタテインメント映画にも起用されてきた(こちらの系統はあまり見てないけど)。恋愛映画がうまいとか、女優をきれいに撮るといった評価が高かったからだろう。

KADOKAWA映画『ここは退屈迎えに来て』は後者のエンタテインメント系統だけど、いかにも廣木監督らしいテイストの作品に仕上がっていて楽しめる。まず「余命1ヶ月」のようなドラマチックな設定がない。最大の出来事が、高校時代の憧れだった男子に会いにいくというだけの話。そこでなにが起こるわけでもない。それに青春映画といっても高校生のキラキラした青春が中心になるわけでなく、30歳近くなった彼ら彼女らそれぞれの悔恨といった感情が映画の底を流れている。

地方都市(富山)を舞台に、2013年の現在、2004年の高校時代、そして2008年、2010年と、四つの時を自在に行き来しながら語られる群像劇。それぞれの時制でまず車に乗る男女(あるいは女性同士)が登場して話がどんどん広がり、しばらくは人間関係もよく分からない。ついに主人公とすれ違わない登場人物もいる。最後になってやっとつながる人間関係がある。そんなドラマの崩し方が、ドラマチックとは正反対なのに快いリズムになるから面白い。

「私」(橋本愛)は東京で仕事をしていたが故郷に戻り、タウン誌のライターをしている。ひょんなことから、高校時代はサッカー部のエースで女子の憧れの的だった椎名(成田凌)に会いにいくことになる。椎名は今、自動車教習所の教官をして地味に生きている。椎名に教官の職を紹介したのは新保(渡辺大知)で、新保は同性の椎名にほのかな思いを持っている。「私」は内気な新保に「椎名の元カノ」だと思われているのが嬉しい。

実は高校時代、椎名とつきあっていたのは「あたし」(門脇麦)だが、別れた後も椎名を忘れられず、椎名を知る元同級生とズルズルの関係をつづけている。美人のあかね(内田理央)は東京でモデルをしていたが仕事がなくなって戻り、フリーターの生活をしながら結婚願望がある。ほかにも何人かの登場人物が出てくる。

彼らが車に乗り、地方都市の特徴のない風景のなかを走りながら会話することで話ともいえない話が動いていく。一種のロードムービーと言えるかもしれない。ファミレスやゲーセンでも会話がつづく。東京が忘れられないタウン誌のカメラマン(村上淳)とか、女子高生と援助交際している皆川(マキタスポーツ)とか、脇役もいい味を出している。いかにも青春映画らしいのは、プール掃除をしていた「私」と新保がプールに飛び込み、周囲の高校生たちもみんな飛び込んで水をかけあうシーン。逆光に光る水しぶきが、ここだけは輝いている。

なんの変哲もない地方都市で、なんの変哲もない日常を、それぞれが悔恨を抱えながら生きていく。誰も迎えに来ないことは、登場人物のみんなが分かっている。その姿がじわっと沁みてくる。


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October 26, 2018

『僕の帰る場所』 二つの祖国

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Passage of Life(viewing film)

日本は移民を認めていないけれど、合法非合法の外国人労働者なしに国が回らなくなっていて、実質的には移民受け入れ国になりつつある。しかし建前の上では彼らは移民ではないので、その狭間でさまざまな問題が起こる。矛盾のしわ寄せは当然ながら法的に不安定な在日外国人にくる。また難民についても、例えば去年の難民申請者数は約2万人だが、難民として認められたのはわずかに20人、認定されなかったが在留を認められた者を含めても65人にすぎない。

日本=ミャンマー合作映画『僕の帰る場所(原題:Passage of Life)』に登場するのは在日ミャンマー人の家族。夫のアイセ(アイセ)は難民の認定を申請中で、審査の結果が出るまでは日本に滞在することができる。その間、本当は働いてはいけないらしいが、アイセはホテルのレストランで働いて拘束されたりもしている。妻のケイン(ケイン・ミャッ・トゥ)は不安定な暮らしに精神のバランスを崩し、国に帰りたいと訴える。夫婦には小学生のカウン(カウン・ミャッ・トゥ)と弟のテッ(テッ・ミャッ・トゥ)の子供がいる。二人は日本語しかしゃべれず、ケインにビルマ語を習っている。

一家の日々の生活がドキュメンタリーのようなタッチで描かれる。拘留が解かれ久しぶりに家へ帰ったアイセに子供たちが甘える。子供たちが寝た後、夫婦は深刻な表情で話し合う。会話シーンでは2台のキャメラで定番の切り返しショットなど使わず、手持ちのキャメラ1台でセリフごとに左右にキャメラが振られる。資金が乏しいせいもあるだろうけど、あえてこういうスタイルを取っているのかもしれない。

アイセが日本人支援者と入管に出かけるシーンもあるけれど、観客に難民申請についての細かな説明はせず、ともかく外国人に扉を閉ざしていること、職員がぶっきらぼうで不親切なことだけを伝える。アイセはそれに対して、辛抱強く穏やかに対応する。

映画はこのまま進むのかと思ったら、ケインが国に帰ることを決め子供たちとミャンマーに戻ったところから、がらりとタッチが変わる。このままいけばアイセの一家を通して在日ミャンマー人の生活と入管法・難民認定の壁といった社会問題を訴える映画になったろう。ところが、ミャンマーが舞台になる後半で、実はこの映画の主役はカウンとテッの兄弟、なかでも兄のカウンであることが分かってくる。

ヤンゴンの母の実家に着いたカウンは拗ねて、日本に帰りたいと繰り返す。日本の小学校でクラスメートと仲良く学校生活を送っていたのだ。ある晩、カウンはクラスメートからの餞別を持って、家を飛び出す。路上で拙いビルマ語で「空港はどっち?」と聞くと、路上の物売りからは「日本人かい?」とからかわれる。少年にとって見知らぬ街の夜のショットが素晴らしい。路上をさまよい歩く、不安と好奇心がないまぜになったカウンの表情も素晴らしい。昔、ヴェンダースのモノクロームの映画でこんな感情を掻きたてられたことがあったなと思い出す。カウンの少年らしい意思的な表情からは、『誰も知らない』の柳楽優弥を思い出す。

兄弟は母のケインに連れられ、農村にある父方のおばあちゃんの家を訪れ、温かく迎えられる。日本人学校にも行けることになる。最初、故国へ拒絶反応を起こしたカウンだが、少しずつミャンマーの生活になじんでくる。

映画は人間がきちんと描かれていなければつまらない。何かを訴えるにしても、その人間を通してでなければリアルなものにならない。この映画はカウンという少年を通して、移民の問題を考えさせられる。監督の藤元明緒はこれが長編デビュー作で、脚本も書いている。二つの祖国を背負って成長していくであろうカウンを、こんなふうに造形した力はすごい。


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October 06, 2018

『運命は踊る』 砂漠のステップ

Foxtrot
Foxtrot(viewing film)

イスラエルの映画を見るのは初めて。近頃、世界の映画祭でイスラエル映画の評判が高い。『運命は踊る(原題:Foxtrot)』もヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を得た。例えば韓国がそうであるように国家が映画製作を支援して、その成果が出始めたということだろうか。もっとも国の基金による支援を受けたこの映画、文化大臣ら右派政治家から「イスラエルにとって有害な映画。基金から資金が与えられるべきでなかった」とクレームがついた。

といって、映画が政治的なテーマを扱っているわけではない。イスラエルは周囲を敵対するアラブ国家に囲まれ、さまざまな戦争を経験してきたし、パレスチナ人との内戦もある。でも、そんな敏感な問題に触れてはいるわけではない(サミュエル・マオズ監督の前作『レバノン』はレバノンとの戦争を扱ったものだそうだが)。では何が「有害」なのかといえば、実はよく分からない。

イスラエルには表現の自由がどの程度あるのか、これもよく分からない。ちなみに世界各国の「報道の自由度ランキング」でイスラエルは87位。アメリカは45位、日本67位、中国176位。日本よりも悪いが、中国よりずっとまし、ということか。少なくとも政治批判をすれば映画製作を禁止されたり、亡命を余儀なくされるようなことはなさそうだ。だから時々中国映画にあるように、隠喩的な政治批判をしなければならない状況ではないだろう。では何が「有害」なのかという先の問いに戻れば、人間の精神の「弱さ」を扱っているから、だろうか。戦後ずっと周囲のアラブ国家と戦争をしてきた国の国民として、弱くあってはならないということか。

ミハエル(リオール・アシュケナージー)とダフナ(サラ・アドラー)夫妻のもとに、息子のヨナタンが戦死したという知らせがもたらされる。ダフナは失神し、ミハエルは一見悲報に耐えているように見える。国境でヨナタンに何が起こったかの描写をはさんで、戦死したという知らせは間違いで、ヨナタンは生きていたことが分かる。その知らせにダフナは喜ぶが、ミハエルは一転して怒りだし、ヨナタンを今すぐここへ連れてこいと居丈高に軍の担当者に食ってかかる。そのことが逆にヨナタンの運命を狂わせる……。

リアリズムで物語を語るのでなく、象徴的な映像で見せるのが新鮮。ヨナタンら兵士が守る国境の検問所をラクダがのんびり横切ってゆくのを真横から捉えた皮肉なショット(このショットがラストで生きてくる)。ヨナタンが銃を抱え砂漠でフォックスタロットのステップを踏むショット。コンテナのような兵士の宿舎の水平が傾いていて、事あるごとに缶詰がころころと床を転がってゆくショット。どれも素晴らしい。

もっとも、この映画の主役は息子のヨナタンではなく父親のミハエルであり、主題は出来事ではなく精神の内であることが途中から分かってくる。ヨナタンが描くイラスト(動画)を通して、ミハエルが抱えるトラウマが見えてくる。もっとも僕はイスラエルという国もユダヤ人という民族も、キリスト教の母体となったユダヤ教もよく知らない。だからミハエルの内面が実のところよく分からない。マオズ監督がHPのインタビューで語る、思い上がりの罪とその罰というユダヤ=キリスト教の観念もよく理解できない。ただ、魅力的な映像が記憶に残る。

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September 30, 2018

『きみの鳥はうたえる』 正統派の青春映画

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佐藤泰志原作の「函館もの」は3本とも見ている。それぞれタッチの違う映画で、記憶だけでいうと『海灰市叙景』はモノクロームの絵画的ショットが記憶に残るノスタルジックな小品、『そこのみにて光輝く』は手持ちカメラを多用した、1970年代の神代辰巳ふうの文芸もの、『オーバー・フェンス』は山下敦弘監督らしくけだるいけれど、そこはかとなく明るい今ふうの映画に仕上がっていた。

『きみの鳥はうたえる』はそれらに比べると、丹念につくられた正統派の青春映画といった印象だ。男二人に女ひとりのカップルも、青春ものの定番ともいえる組み合わせ。冒頭とラスト近くで函館山を望む夜景のショットが入るほかは、誰もが函館と分かるショットはない。でも行ったことのある人なら、いかにも函館の街だなあと感じられる空気が写しこまれている。

書店で働く「僕」(柄本佑)は、行きがかりで同僚のアルバイト佐知子(石橋静河)とデートし、僕のアパートでベッドを共にする。僕はアパートで、仕事もせずぶらぶらしている静雄(染谷将太)とルームシェアしている。やがて顔を合わせた三人は仲良くなり、一緒にバーやビリヤードやクラブで夏の夜をすごす。「僕」は、佐知子が静雄と親しくなるのを見て、むしろその背中を押すような態度を取る……。

なにがいいといって、「僕」を演ずる柄本佑が素晴しい。いつも自分の気分だけで動き、書店員としての仕事も佐知子との恋の行方も成行きまかせ。世の中どうでもいいといった風情の青年のぶっきらぼうとあてどなさが身体から滲み出ている。相手役の石橋静河も『夜空はいつでも最高密度の青色だ』よりずっとのびやかで、生き生きしてる。染谷将太もマザコンふうな男の子を好演。三人が徹夜明けで街にさまよい出て、朝日が反射する路面電車の線路をふらふら歩くショットがいいな。

最後に「恋か友情か」ふうな古典的問いかけで終わるのも、この正統派の青春映画にふさわしい。監督は三宅唱。意固地な同僚の書店員や佐知子と不倫している店長、静雄を心配する母親など、誰にも温かい目を向けている。

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September 21, 2018

『寝ても覚めても』 人間の分からなさ

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ヒロイン朝子(唐田えりか)がはじめて麦(東出昌大)と会うときも、亮平(東出の二役)と会うときも、写真が二人をつないでいる。それも同じ写真。同じ服を着た双子の少女が、手をつないで並んでいる。若くして亡くなった写真家・牛腸(ごちょう)茂雄の代表作として、知る人ぞ知る作品だ。

この写真が、麦と亮平という双子のように同じ顔をした二人の男に朝子が否応なく惹かれていくことの予兆の役割を果たしている。主に子供たちを撮った牛腸茂雄の作品群には、子供時代の無垢と、裏腹にどこか無気味な残酷さが感じとれる。この背中合わせの背理の感情は、『寝ても覚めても』の底を流れる通奏低音でもある。

麦と朝子の恋は稲妻のような一撃で始まり、稲妻のような一撃で消える。亮平と朝子の愛は時間をかけて、ゆっくり熟成されてゆく。でもどちらも、それが成就するのか、次の瞬間に何が起こるのかは本人たちにも分からない。その分からなさが、この映画の魅力だ。

大阪。朝子は麦と出会い、恋に落ちる。熱烈な恋だが、ある日、麦はいきなり姿を消す。5年後の東京。喫茶店で働く朝子は、コーヒーの出前先で、麦そっくりなサラリーマンの亮平と出会う。亮平は朝子に積極的で、やがて朝子も亮平の優しさに惹かれてゆく。一方、大阪時代の女友だちから、麦がモデルとして活躍していることを知らされる。

亮平と朝子は同居するようになり、亮平に大阪本社へ異動の内示があったのを機に結婚を考える。しかし新居探しに大阪へ出向いた先の空き家で、朝子は麦が自分の前に姿を現すことを予感する。予感は的中し、亮平と朝子の歓送会の席上、いきなり麦が朝子の前に現れる……。

三人の関係はさらに二転三転するけれど、それはストーリーが複雑に絡んでクライマックスに向かうということではない。朝子の決断は、観客が納得するようには描かれていない。いや、朝子本人にすら分からないのだと言うふうに描かれている。ラストシーン。ベランダで亮平が朝子に静かに言う。「僕は朝子を一生信じられないかもしれないな」。

濱口竜介監督の前作『ハッピーアワー』では、監督と演技未経験の出演者自身が行った映像ワークショップの一部がそのまま映画に取り込まれていた。『寝ても覚めても』でも唐田えりかはこれがデビュー作で、同じようなワークショップを重ねて撮影に臨んだらしい。ただ、出演者が自分の経験を延長すればよかった『ハッピーアワー』に比べて、『寝ても覚めても』の朝子役はきわめて複雑な感情の動きを表現しなければならない。演技初体験の唐田えりかには荷が重く、彼女のその時々の表情に、観客としては「ああ、これはこういうことなんだろうな」と助け船を出す気持ちで見ていた。

でも未経験者を使うことは、濱口監督の映画のスタイルと密接に結びついている。本来は男女三人の絡み合いでストーリー的にも「アヤ」(by笠原和夫)満載で盛り上がるべきものなのだろうが、そうは撮らない。そこにある役者や風景を淡々と撮る。説明もしない。そこからこの映画の今日性が生まれてくる。例えばこの映画、演技派の二人(オダギリジョーと蒼井優とか)が演ずればまったく別の映画になってしまうだろう。日本映画にも新しい世代が出てきたことをひしひしと感ずる。


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