December 09, 2017

『ノクターナル・アニマルズ』 リンチとイーストウッドの結合

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Nocturnal Animals(viewing film)

真紅のカーテンの前で、異常に太った女が裸で音楽に合わせ踊っている。肉はたるみ、皺だらけの醜い肉体が、アメリカ国旗を手にしながら。異形の姿と真紅のカーテンの組み合わせは、どうしたってデヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』を思い出させる。

のっけからおどろおどろしい映像が何かと思ったら、スーザン(エイミー・アダムス)がオーナーである美術ギャラリーの展示物。ロスでギャラリストとして成功したスーザンのもとへ、20年前に別れた夫のエドワード(ジェイク・ギレンホール)から「ノクターナル・アニマルズ(夜の獣たち)」という小説の草稿が送られてくる。エドワードはかつてスーザンを「ノクターナル・アニマル」と綽名で呼び、そこから発想された小説だという。ロスへ行くので会いたいとの伝言も添えられている。

スーザンは小説を読みはじめる。エドワードとスーザンを思わせる夫婦、トニー(ジェイク・ギレンホール)と妻のローラ(アイラ・フィッシャー)、娘のインディアが車でテキサスへ向かう旅に出る。夜の路上でレイ(アーロン・テイラー=ジョンソン)ら3人のならず者にからまれ、ローラとインディアはレイプされ殺される。砂漠に置き去りにされたトニーは、警部補のボビー(マイケル・シャノン)とレイを追う……。

現実と小説の世界が同時進行する。現実世界も現在と、小説家志望のエドワードと美術史を学ぶスーザンが知り合った過去が交錯する。小説世界では、妻と娘がレイプされ裸で殺される。そのショットと、現実世界でスーザンの娘が裸でベッドで寝ているショットとが同じ構図で重なる。現実とフィクション世界がシンクロしはじめる。

現実世界で、ギャラリーをもつスーザンと夫のハットンは成功者。ハットンは自分のビジネスで各地を飛びまわりながら、不倫もしている。スーザンは、裸の女が踊るカルト的なアートを、陰で「ジャンク」と吐き捨てる。成功者の偽善の世界。エイミー・アダムス演ずるスーザンは、昼は知的で大人の女だけれど、かつてエドワードが「ノクターナル・アニマル」と呼んだわけは明らかにされない。セックスのことなのか、あるいは強いスーザンに対してエドワードが「自分は弱虫」と自覚せざるをえない二人の関係を比喩的にそう言ったのか。

一方、小説は負け犬の世界。3人のならず者に妻と娘をなす術もなく拉致され、レイプされ、殺された「弱虫」のエドワードは、病気で自暴自棄になった警部補のボビーにそそのかされて、2人で復讐にのりだす。舞台はテキサス、テンガロンハットをかぶるボビー、馬にかわって車で沙漠を走るシチュエーションは、いやでも西部劇を思い起こさせる。弱虫が、ガンマン(ボビー)の助けをえて復讐に乗りだす。ならず者を含め登場人物はみなルーザーで、負け犬同士が戦って自滅していく。

タイトルの「ノクターナル・アニマルズ」は、現実と小説の両方の世界に掛けられている。小説の部分は、それが十分に描かれる。一方、現実の部分では暗示にとどまる。ジェイク・ギレンホールが現実世界に現れるのは過去の回想だけで、現在には遂に登場しない。スーザンに送りつけた小説は、教師をしながら小説を書いている(この設定はアメリカ映画の負け犬の定番)エドワードの彼女に対する復讐なのか。スーザンの不安だけが増殖してゆく。ラストの宮殿ふうな日本レストランも、いかにも成功者の偽善を暗示する。

現実と小説とを対照させながら描く、華やかなセレブの偽善の世界と、西部開拓以来の地にうごめく男たちの世界。デヴィッド・リンチとクリント・イーストウッドがつながる。見事な心理スリラー。トム・フォードの脚本・演出は、これが2作目とは思えない。


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November 30, 2017

『リュミエール!』 映画の原初の魅力

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Lumiére!(viewing film)

1895年、フランスのルイとオーギュストのリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明し、最初の映画を撮影して公開した。これは評判を呼び、以後、20世紀に向かって映画は世界中で製作され人々に楽しまれるようになっていく。

『リュミエール!(原題:Lumiére!)』はリュミエール兄弟が撮影した1422本の映画のなかから108本を選んでデジタル修復したものだ。122年前、映画が発明されたその場の空気に立ち会うことができるのが素晴らしい。

当時、フィルム(35ミリ)の長さの制約から、1本の映画は50秒だった。108本が、ナレーション(僕が見たのは立川志らくの日本語版)とともに映しだされる。

最初の1本は、リュミエール工場の門から働きおえた人々が出てくる「工場の出口」。まるでキートンの喜劇みたいな「水をかけられた散水夫」。散水夫がホースで水を撒いていると、別の男がホースを踏んで水を止め、散水夫がホースの先を覗いたとたん水が噴出する。観客席に向かって走る機関車に轢かれるのではないかと観客が逃げたことで神話になった「ラ・シオタ駅への列車の到着」。機関車のアクションと質感、機関車とホームが対角線になった構図、機関車の黒と人々の白い服が対照的な光と影。映画の原初的な魅力が50秒に詰まっている。

これらはクラシックとして僕も見た記憶があるけれど、見たこともない映像が次から次に出てくる。舟の進水式を真横から撮った1本は、手前と向こう岸で見守る人々の間を、ものすごい質量を感じさせる船が左から右へ移動する。僕は『スター・ウォーズ』第1作の冒頭を思い出した。ニューヨークの街路を撮影した、石造ビル群と路面電車。マルセイユの市街。ベトナムで貧しい子どもたちにお菓子をばらまくフランス女性や、アヘンを吸ってごろんとする中国人など植民地時代の風景もある。

写っているものだけでなく、手法もいろいろ。ヴェネツィアの運河の移動撮影。カッターにカメラを乗せての撮影は、船が波に揺れるので手持ちで撮っているように見える。後退するカメラをベトナムの少女が追ってくるショット(車に乗せて撮影?)も手持ちのような効果を出してリアル。それだけでなく、すべて演出の作品もある。ノンフィクションふうなフィクション。

映画を初めて見た人間の驚きを追体験できる。いやー、面白かった。


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November 19, 2017

『密偵』 植民地に生きる<分裂>

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The Age of Shadows(viewing film)

『密偵(原題:밀정)』は韓国で昨年公開され、1270万人の観客を動員したヒット作。ワーナー・ブラザース韓国プロダクションが製作し、ヒットメーカーでハリウッドで監督経験もあるキム・ジウンが監督した、韓国映画の主流をゆく作品。僕が好むパク・チャヌクとかキム・ギドクとか少数派のアート系映画とは違う。1920年代、日本植民地下の朝鮮半島で、日本の総督府警務局と独立運動組織・義烈団のサスペンスに満ちた追跡劇だ。

去年、やはり植民地下の朝鮮半島を舞台にした2本の韓国映画を見た。上海にある韓国亡命政府の警官が日本軍将校を暗殺しようとする『暗殺』、日本人華族の家を継いだ朝鮮人と姪の倒錯した欲望と復讐を描いた『お嬢さん』。

どちらも植民地時代の話だから日本と日本人が悪役として登場する。とはいえこれは韓国人から見た歴史的事実として自明のこと。「水戸黄門」の悪徳代官や悪徳商人のような、善悪がはっきりした大衆エンタテインメントの約束ごとの要素が大きい。ことさら反日的な感情が映画のなかで表に出ることもなく、映画の出来もよく、どちらも楽しめた。『密偵』にもまた同じような感想を持ち、たっぷり楽しんだ。

ジョンチョル(ソン・ガンホ)は、朝鮮人ながら総督府警務局の警官。上官のヒガシ(鶴見辰吾)から、朝鮮独立を呼号し爆弾テロを繰り広げる義烈団のリーダー、ウジン(コン・ユ)に近づいて内偵するよう命じられる。ウジンはウジンで、ジョンチョルを義烈団に引き込もうと、義烈団の団長チュサン(イ・ビョンホン)にジョンチョルを引き合わせる。折から、上海から爆弾をソウルに運び、ヒガシら日本人を暗殺しよとする計画が動き出す。

この映画の日本人役は総督府幹部のヒガシと、ジョンチョルとともに義烈団を追う若い警官ハシモト(オム・テグ)。ヒガシ役に鶴見辰吾を配し、鶴見もことさら悪役面することなくまっとうに演じているので、安心して見ていられる。ハシモトを演ずるオム・テグは、日本語をしゃべり直情的な日本警官を演ずる。

映画の前半は、朝鮮民族なのに日本の警察官として働くジョンチョルの苦悩に焦点が当てられる。義烈団のメンバーから裏切り者とののしられるが、自分を引き立ててくれたヒガシにも恩義を感じている。義烈団に協力するよう求めらるが、態度を明らかにしない。このあたりの引き裂かれた苦悩はソン・ガンホの見せどころだ。

これを見ていて、先日ソウル高裁で有罪判決が出た朴裕河『帝国の慰安婦』(著作によって起訴され有罪判決が出るなど、近代国家とは思えないが)の一節を思い出した。彼女は、年齢も境遇も経緯も多様で韓国人も陰に陽に関与した朝鮮人慰安婦が、なぜ「純白のチョゴリを着た少女」として、まったき被害者の像が「公的記憶」としてつくられることになったのかと問い、こう答えている。

「韓国が植民地朝鮮や朝鮮人慰安婦の矛盾をあるがままに直視し、当時の彼らの悩みまで見ない限り、韓国は植民地化されてしまった朝鮮半島をいつまでも許すことができないだろう。それは、植民地化された時から始まった韓国人の日本への協力──自発的であれ強制的であれ──を他者化し、そのためにできた分裂をいつまでも治癒できないということでもある。換言すれば、いつまでも日本によってもたらされた<分裂>の状態を生きていかなければいけないことを意味する」

朴裕河の著作が裁判にかけられ有罪になったように、日韓の問題はすぐさま政治問題と化し、しばしば加害者対被害者、100%の黒対100%の白という単純な構図に落とし込まれる。この本は韓国人向けに書かれたもので、彼女は、植民地下の朝鮮人が味わった苦悩と<分裂>を正面から受け止めなければ、その<分裂>はいつまでも解決されないと書いている。

この映画では、日本の警官となったジョンチョルの分裂と苦悩が、「日本は悪」というお約束の物語のなかではあれ、映画の根幹をなす主題になっている。『暗殺』でも、日本軍に密通した裏切り者の苦悩が描かれていた。大衆エンタテインメントである映画のなかで、こうした主題がごく自然に描かれるようになっている。僕はそこに韓国社会(政治ではなく)の成熟を感ずる。こういう映画を、韓国の側からも日本の側からも「反日映画」と呼ぶのはふさわしくない。それは、映画の陰影に富んだ表現を政治のレベルに引き下げてしまうものだろう。

映画の後半は、中朝国境の安東からソウルへ向かう列車のなか。裏切り者は誰かをめぐる緊迫したサスペンスになる。ウジンたち義烈団の5人が密かに爆弾を持って一般客を装い列車に乗っている。それを追ってジョンチョルとハシモトが列車に乗り込む。ジョンチョルは既にウジンたちに肩入れすることを決めている。ところが情報がハシモトに筒抜けになっている。団員のなかに裏切り者がいるらしい。それが誰なのかを、ウジンはあぶりだそうとする。

列車内の追跡劇はいかにも映画的で、過去に名作もたくさんある。ここでも、義烈団に共感するジョンチョル、ひたすら義烈団を追うハシモト、団内部の裏切り者を明らかにしようとするウジン、ウジンに心を寄せる女性団員のゲスン(ハン・ジミン──彼女が主演したTVドラマ『京城スキャンダル』も植民地下のソウルを舞台にしたラブ・コメで、この時代を軽やかに描いていることにびっくりした)、それぞれの思惑をもちながらのサスペンスが素晴しい。

映画はさらにソウル駅でのアクション、拷問や裁判シーンに、最後に「お約束」のジョンチョルとヒガシの対面まであって、息つくひまもない。エンタテインメントの枠のなかであれ、日本に協力して生きる男の苦しみをじっくり描いて見せたこの映画の懐は深いと思った。

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November 13, 2017

『彼女がその名を知らない鳥たち』 犯罪純愛映画

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沼田まほかるの原作を読んでないのにこんなこと言うのもなんだけど、最近の若い作家や監督の小説や映画に接するとき、設定の面白さや、それをどんでん返しする驚きといった構成の技に頼ったものが多いような気がする。その手法にリアリティを持たせるのはディテールの描写だと思うけど、それが足りないと、構えだけでかくて大味な仕上がりになる。

映画の場合、設定の面白さにリアリティをもたせられるかどうかは監督と役者の腕にかかっている。今年見た映画で、うまいなあと思ったのは『エル』。『彼女がその名を知らない鳥たち』も、かなりの程度うまくいっていると思った。

冒頭、家具や衣類が散らかった団地の一室で、ソファーに寝そべりクレームの電話をかけているのは十和子(蒼井優)。その部屋の雑然とした感じや、十和子の投げやりな口調と仕草から、この映画の空気が見えてくる。15歳年上の同居人・陣治(阿部サダヲ)が建設現場の仕事を終えた格好で帰ってくる。陣治は十和子のために天ぷらうどんの夕食をつくり、入れ歯を外してシーハー言い、足指のゴミを丸めながら食べる。

2人の様子から、十和子は陣治を見下していること、陣治はそれを承知で十和子の言うなりになっていることが分かる。夜も、十和子が許さないと陣治はベッドを共にできないらしい。蒼井優と阿部サダヲがなにげないセリフのやりとりや、目線、表情で二人の関係をうまく表現してる。

やがて十和子の男関係が明らかになる。クレームをつけたデパートの店員・水島(松坂桃李)が部屋にやってきて、十和子が誘いをかけたようなかけないような微妙な雰囲気から関係が生まれる。つきあってみると、水島は3000円の時計を高級品めかして十和子に贈るような男。一方、十和子はかつて別れた黒崎(竹野内豊)が忘れられない。黒崎は借金をした叔父に十和子をあてがって帳消しにしてもらうような、恰好はいいがゲスな男。刑事が十和子の部屋にやってきて、黒崎が行方不明になっていることを告げる。陣治は十和子の男関係を怪しんで後をつけていた……。

観客が、黒崎は陣治に殺された? と疑いはじめる地下鉄のシーンでは、ちょっとした照明の当て方で下品だが善良らしい陣治の顔に悪意が浮かぶ。やがて、過去と現在の事件が明らかになる。

僕は『花とアリス』以来の蒼井優ファン。といって全部見ているわけではないけど。彼女が演ずる役柄は『百万円と苦虫女』『オーバー・フェンス』『アズミ・ハルコは行方不明』といった、エキセントリックで普通じゃない女の子の系列と、山田洋次の『東京家族』など原節子の現代版みたいな女性の系列がある。

前者のほうが当然好みで、この映画も普通じゃない女の子の系列に属する。辛い記憶は意識下に抑圧し、現在の快のみを求め、自堕落に生きる女。悪魔的なものと天使的なものを瞬間的に行き来する表情が魅力的だ。男女の絡みのシーンも、プロダクションの管理が厳しいこの国では、これはぎりぎりなんだろうな。

白石和彌監督は犯罪映画である『凶悪』が面白かった。犯罪映画であり一風変わった純愛映画(キム・ギドク『悪い男』みたいな)でもある本作も、そうした監督の資質をうかがわせる。南海電鉄とか夕陽丘とか大阪の南側を舞台にしているのも利いている。ただラスト・シーンだけは(原作にあるんだろうけど)、設定倒れのような気がした。


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November 09, 2017

『ブレードランナー 2049』 LAに降る雪

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Blade Runner 2049(viewing film)

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ロジャー・ディーキンス撮影監督という組み合わせは、いまハリウッドだけでなく世界中を見まわしても、ノワールやサスペンス系の映画を撮らせて最高のメンバーじゃないかな。

この2人が組んだ映画はヴィルヌーヴがハリウッドへ進出して以来の『プリズナーズ』『ボーダーライン』、そして『ブレードランナー 2049』と3本ある(『メッセージ』だけは撮影ブラッドフォード・ヤング)。それぞれにジャンルは違うけど、調和的な世界をかき乱す不穏な映像は共通している。

ディーキンス撮影の映画を初めて見たのはコーエン兄弟の『バートン・フィンク』。以来、兄弟の映画をずっと撮っていて、特に『ノー・カントリー』でアメリカ南部の砂漠と田舎町の映像は素晴らしかった。コーエン兄弟ではないけれど、『007 スカイフォール』の荒涼としたスコットランドの風景も忘れがたい。今回はその2人に加えてハンス・ジマーの音楽が、弦楽器の低音のパターンを繰り返して不穏な気配をさらに増殖させる。

『ブレードランナー 2049(原題:Blade Runner 2049)』は、言わずとしれたリドリー・スコット監督『ブレードランナー』の続編。前作から30年後。大停電があって、かつての記録が失われた世界。ロサンゼルス警察のK(ライアン・ゴスリング)は大停電以前の旧型レプリカントを見つけ出し殺害する、ブレードランナーと呼ばれる警官。ある旧型レプリカントを殺害におもむき、庭に埋められた箱から、出産した形跡のある旧型女性レプリカントの遺骨を発見する。Kは上司から、生まれた子供を発見し殺害されるよう命じられる。

新型レプリカントを製造するウォレス社の断片的な記録から、遺骨はかつてブレードランナーだったデッカード(ハリソン・フォード)の恋人のものだったことがわかる。残された木馬のおもちゃと自身の記憶から、Kは自分がその子どもではないかと疑いはじめる……。

脚本は第1作と同じハンプトン・ファンチャー(マイケル・グリーンと共同)が書いていて、だから第1作とのつながりに不自然はない。常に雨が降るロサンゼルスの高層未来建築群と日本語やハングルの看板が林立する下町、巨大なホログラフィーの宣伝といった前作の映像とノワールな空気を踏襲。未来風景とアジアの下町の喧騒が雑居して、「懐かしい未来」といった感じのテイストも、より大規模に再現されている。加えて今回は廃墟のラスベガスでプレスリーやシナトラやマリリン・モンローのホログラフィーまで出てくる。

今回のヒロインは、Kの恋人になるAIホログラフィーのジョイ(アナ・デ・アルマス)。Kが必要とするときだけ姿を現し、セックスするときは他のレプリカントに同期させて身体を借りる。第1作の旧型レプリカントが不完全とはいえ人間を目標に開発され、人間に反乱を起こしたのに対し、今回の新型レプリカントはより人間に従順に、完全な機械としてつくられているらしい。

第1作でデッカードは人間として描かれていたが、実はデッカードもレプリカントではないかとファンの間で議論があった(後のディレクターズ・カットではそれを匂わせるカットも挿入されていた)。今回の2049版でKは、記憶を移植された新型レプリカントになっている。第1作のテーマは「レプリカントの反乱」と「人間とレプリカントの恋」だった。2049版では、果たして自分は人間なのか記憶を移植されたレプリカントなのか、そして自分は人間とレプリカントの間に生まれた子どもではないのかという、レプリカントが自己存在を疑う哲学的(?)な懐疑がテーマになっている。

旧型レプリカントの生殖機能を盗もうとするウォレス社のウォレス(ジャレッド・レト)と部下のラヴ(シルヴィア・フークス)が「敵」として設定されているけれども、第1作のルトガー・ハウアーのレプリカントのような強力なキャラクターではない。だからアクション映画としては、その分やや弱くなる。そのかわり、第1作であいまいにしか示されなかった主題がくっきりして、ラスト、傷を負ったKが沙漠のLAに降る雪(カナダ生まれのヴィルヌーヴ監督は雪が好きだね)を見上げながら死んでゆくシーンが生きてくる。

あれやこれや前作と引き比べながら、たっぷりと楽しめる映画でした。


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October 31, 2017

『あゝ、荒野(後篇)』 現実から幻想へ離陸せず

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『あゝ、荒野』後篇を期待して見にいったのだが、ちょっとがっかり。ふたつの孤独な魂がボクシングを介して結びついてゆくさまを緊迫した映像で見せた前篇に比べ、熱量が足りなかった。物語としては新次(菅田将暉)と建二(ヤン・イクチュン)が対決する後篇のほうが盛り上がるはずなのに。

なぜだろう。僕の考えでは、原作の小説から映画のために何を掬いあげるかについて、どこか齟齬があったんじゃないかと思う。寺山修司の『あゝ、荒野』は普通の小説というより、いろんな要素が積めこまれた実験小説といってもいいような作品だ。1960年代新宿の風俗を取り込み、哲学書から歌謡曲、ジャズまでの断片や歌詞を引用し、長谷川伸ふうな親子の因果が古風に絡み合い、新次と建二はそれぞれ寺山流人生論を肉体化したような観念的存在でもある。寺山の言葉を借りれば、「手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出す」ことを目指した。

新次は「街に出て」、すべてを憎み突っかかり、人を傷つけ、傷つけられることでこの世界とかかわりあおうとする。建二は街から孤立して閉じこもり、ひたすら年下の新次に憧れ、新次と殴り合うことによってのみ新次だけと繋がろうとする。そこには同性愛的な空気も漂い、だから建二は知り合った恵子(今野杏南)に誘われベッドで裸になっても、「僕はつながれません」と言うしかない。

小説では最後のボクシングの場面はリアリズムでなく、建二の妄想あるいは陶酔を叙述する幻想小説のような味わいになっている。そして映画は、リアリズムから幻想や観念へと映像が離陸しそこねたんじゃないだろうか。二人の対決のある時点から観客がいなくなるという描写で現実から幻想への飛躍を描いているのかもしれないけど、もっと寺山ふうの幻想世界を現出させてほしかった。中途半端なリアリズムだから、試合が終わった後にまた殴り合いを始めるあたりはいかにも不自然。最後に建二の死体を映すなど、最後までリアリズムの尻尾がつきまとう。

とはいえ前後篇合わせて5時間以上の長尺を、まったく飽きさせずに見せた岸善幸監督の腕力はすごい。


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October 15, 2017

『立ち去った女』 聖性と獣性と

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The Woman Who Left(viewing film)

今年3本目のフィリピン映画。『ローサは密告された』も『ダイ・ビューティフル』も面白かったけど、世界中の映画祭で注目されているフィリピン映画の、今年の「本命」。ベネチア映画祭の金獅子賞を得た。

『立ち去った女(原題:Ang Babaeng Humayo)』で驚くのは冒頭からワンシーン・ワンショットの徹底ぶり。刑務所の庭で、元教師のホラシア(チャロ・サントス・コンシオ)が女囚たちに本を朗読させ、自ら詩を語る。やがて仲間の女囚が、ホラシアが罪を問われた殺人の真犯人だったことを告白し、30年服役していたホラシアの冤罪がわかる。出所。そんな展開を、カット割りしない長回しで語る。

ワンシーン・ワンショットは、よほど力のある監督でないと緊張を持続させられない。かつてのテオ・アンゲロプロスやホウ・シャオシェン、タル・ベーラの映画のように。これを3時間48分もやるのかと思ったら、その通りだったのにびっくり。このスタイルは正直言って体力気力が弱った年寄りにはきつい。途中何度か落ちそうになったけど、白黒のコントラストがくっきりしたモノクロームの映像が素晴らしく、話が進むほどにしゃんとした。

物語はホラシアの復讐譚。ホラシアに罪を着せたのは彼女の元恋人であるロドリゴ。大地主だ。出所したホラシアはロドリゴの大邸宅のある島に家を借りて復讐の機会を狙う。と、筋だけ書くとサスペンスかアクションものみたいだけど、そうではない。ホラシアが島で出会う人間たちをじっくり描いてゆく。

ロドリゴの情報を得るために、教会の前で声をかけた物乞いの女。ロドリゴ屋敷の武装した守衛に夜食を売るバロット(アヒルの卵)売りの老人。路上で踊りながらてんかんの発作を起こす女装のゲイ、ホランダ(ジョン・ロイド・クルズ)。スラムや路上で生きる貧しい人間たち。

ホラシアは彼らと親しくなり心を通わせて手をさしのべる。一方、秘めた復讐の意思はゆるぎない。バロット売りの老人に頼んで拳銃を買う。ホラシアの秘密を知ったホランダの額に銃をつきつける。でもその後で、彼女は言う。「あなたが家に来た夜、ロゴリゴを殺すつもりだった。あなたのお蔭で殺人者にならずにすんだ」。

ホラシアは善人でも悪人でもない。あるいは善人でも悪人でもある。獣性と聖性をともに持つ宿命から逃れられないのがわれわれ。ホラシアが昼はクリスチャンとして白いベールをかぶり、夜は男のような服装をしているのがそれを象徴している。時折はさみこまれる善と悪、光と闇に関する哲学的つぶやきとともに(監督はトルストイの短編からこの映画の想を得たという)、そんなホラシアの肖像と、彼女が生きるフィリピンの社会を観客に差し出す。

固定カメラで長回しの映像がつづいた後、一カ所だけ、手持ちカメラがホラシアの目線になってぐらぐらと揺れて移動する。それまでまったくなかった音楽も聞こえてくる。ホラシアが海岸に出ると、人々が歌い踊っている。この海辺のシーンだけ、生きる歓びがあふれている。その解放感が快い。

ラヴ・ディアス監督は自ら脚本・撮影・編集も手がける。ディアス監督の作品は上映時間8時間とか11時間とかの超長編が多い。一般公開されるのは本作が初めて。機会があれば他の作品も見てみたい。

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October 13, 2017

『あゝ、荒野(前篇)』 新宿の過去・未来

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熱い日本映画を久しぶりに見た。

寺山修司の『あゝ、荒野』が刊行されたのは1966年。小説の舞台になる新宿の街は若いエネルギーをためこんで発火寸前の状態にあった。翌67年にはアメリカ西海岸のヒッピー運動を受けたフーテンが新宿駅前広場に姿を現し、68年、新左翼のベトナム反戦「武装闘争」が新宿駅と一帯を占拠して騒乱罪が適用される。69年には西口広場に集まったフォークゲリラが機動隊と衝突した。花園神社では状況劇場(赤テント)がアンダーグラウンド演劇を上演し、ピット・インでは山下洋輔トリオが過激な前衛ジャズを演奏していた。渋谷を拠点にしていた寺山修司の劇団・天井桟敷は唐十郎の状況劇場と乱闘を繰り広げ、寺山も唐も逮捕された。そういう時代だったのだ。

映画『あゝ、荒野』は、東京オリンピックが終わった2021年の未来の新宿に設定を移している。オリンピックのから騒ぎも終わり、世の中は不景気らしい。歌舞伎町では、テロだかなんだか爆発騒ぎが起きている。少年院育ちの新次(菅田将暉)はオレオレ詐欺グループの一員で、刑務所から出所してきたばかり。グループに戻るか、離れるか、迷っている。建二(ヤン・イクチュン)は朝鮮人とのハーフで床屋で働くが、吃音に悩んでいる。居場所のない二人は新宿の裏町でボクシング・ジムを経営する堀口(ユースケ・サンタマリア)の誘いを受けて入門し、ジムに住み込むことになる。

新宿という「ネオンの荒野」をさまよう二人の青年が、孤独な魂を燃焼させるようにトレーニングにはげむ。年上の建二が若い新次を兄を慕うような目で見る。そんな二人に、新宿に流れてきたいろんな男と女がからむ。新次には、ラーメン屋で働きながら男をホテルへ誘っては金を盗むことを繰り返す芳子(木下あかり)という恋人ができる。芳子は東日本大震災で被災し、やはり身体を売っていた母と別れ上京してきた。幼い新次を捨てた母・京子(木村多江)は、ボクシング・ジムのパトロンである実業家の秘書(愛人)になっている。建二の父は元自衛官で、ホームレスになっている。自殺防止を名目に自殺法を研究する大学生グループ(原作では早稲田大学自殺研究会)も出てくる。

寺山修司の原作は寺山言語とも言うべきフレーズの奔流と歌謡曲や詩の引用、大衆小説めいた親子の因果物語、章の冒頭には自作の短歌を掲げ、いかにも1960年代ふうな実験小説。あまりにも時代に寄り添いすぎ、寺山ファンには楽しめても決して出来のいいものではなかったと記憶する。この小説の面白さを実感できるのは、おそらく団塊以上の世代だろう。その原作を、いかに今の若者に届くものにできるか。孤独な魂はいつの時代にもいる。自分を変えたいと願う青年もいつの時代にもいる。二人の姿に原作を超えた今日性を持たせられるか。映画の出来はその一点にかかっている。

前編を見るかぎり、その試みは成功していると思う。菅田将暉は自分のまわりすべてを憎み、饒舌に突っかかる。ヤン・イクチュンは韓国映画『息もできない』とは正反対、内向的で自分に閉じこもる。ノートに書くスケッチと言葉だけが自分を表現する場。二人がそれぞれ自分を変えようともがく。ボクシング・シーンは得てして劇画調になりがちだけど、二人ともきちんとトレーニングして役づくりしたのがわかる。木下あかりがからむセックス・シーンも、かつての日活ロマンポルノの雰囲気。ユースケ・サンタマリアも、いい味を出してる。加えて、新宿にはゴールデン街やモルタルアパートなど1960年代からつづく風景が残っている。新宿でロケしているのが何よりの強み。

1960年代風の懐かしさと2010年代の社会意識を持ったエンタテインメント。前篇は二人がデビュー戦でリングに上がるまで。後篇は当然、二人が対決することになるだろう。楽しみだ。監督はテレビマン・ユニオン出身の岸善幸。細かくカット割りせずドキュメンタリーのような風合いがいい。


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October 02, 2017

『オン・ザ・ミルキー・ロード』 生きる歓び哀しみ

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On The Milky Road(viewing film)

エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』や『黒猫・白猫』を見たときは、ほんとうに驚いた。バルカン半島の映画になじみがなかったせいもあるけれど、バルカンの複雑な歴史と民俗を背景に、映像と音楽が一体になったお伽噺のような人間の悲喜劇。その祝祭的なリズムはクストリッツァ監督以外の誰にもつくれない。『オン・ザ・ミルキー・ロード』は、久しぶりにそのリズムにひたることのできる映画だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか。銃弾飛び交うセルビア人地域最前線の村。戦う兵士の傍らを、コスタ(エミール・クストリッツァ)が戦闘など知らぬ気にミルク缶を運んでゆく。内戦で家族を殺され精神に変調を来したコスタを、銃弾もよけて飛んでいるようだ。

ミルクを生産しているのは壁に大時計を持つ農家。祖母が仕切るこの家の孫娘ミレプ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)はコスタに惚れている。祖母が、軍の将校で戦争に出ている孫のジャガ(ブレドラグ・ミキ・マノイロヴィッチ)に嫁を取り、ジャガとミレプ、2人の孫の結婚式を同時にやろうと考える。町から花嫁(モニカ・ベルッチ)がやってくるが、花嫁は実は多国籍軍(英国軍)に追われている。コスタは花嫁に恋をしてしまう。村の楽団が陽気な民族音楽を奏で歌って踊ってどんちゃん騒ぎの後、敵の英国軍が村を襲ってジャガとミレプの兄妹は殺される。生き残ったコスタと花嫁も敵に追われるのだが……。

この映画は人間ばかりでなく、動物も重要な登場人物。コスタは戦闘現場のそばをロバに乗り、飼っているハヤブサを肩に載せて歩いてゆく。村ではガチョウが、食用にされたブタの血に羽を赤く染めガアガアと歩きまわる。コスタは崖に棲む大蛇にミルクをやっている。この蛇がやがてコスタと花嫁を救う。クマもいる。羊の群れもいる。コスタと動物は同じ世界に住んでいるみたいだ。

音楽が常に鳴っている。バルカンのロマ音楽をベースにしたブラス音楽。コスタも民族楽器を弾く。戦闘シーンでも音楽が鳴り響き、砲弾の音とドラムの音の区別がつかなかったりする。

後半は敵の兵士に追われたコスタと花嫁の逃避行。音楽に合わせて深刻な物語が陽気なリズムで進むうち、クストリッツァの映画がいつもそうであるように、現実からふわっと離陸してお伽噺の世界に近づく。敵に追われ大樹に登って隠れたコスタと花嫁が、抱き合ったまま昇天していくように空中に浮かび上る。クストリッツァだなあ、と思う。

一方、群れに隠れた2人を囲んだ羊たちが地雷に接触し、次々に飛び散って死体になってゆく俯瞰のショットは、内戦の記憶が今も癒えない悲しみを伝えてくる。ユーゴ内戦やボスニア紛争で、正教のセルビアはカトリックのクロアチアを支援した欧米から敵役のように見られたけれど、戦争の死者に国籍や宗教による違いがあっていいはずがない。日本人にはよく分からないけど、セルビア人であるクストリッツァの映画は、欧米ではいまだ微妙な問題を孕んでいるのかもしれない。

50代も半ばになったモニカ・ベルッチが、顔に深く皺をきざみながらも美しい。クストリッツァは、モニカをヒロインに迎えたいがためにこの物語を書き、モニカの相手役を務めたんじゃないかと思いたくなる。戦争に引き裂かれる愛を描きながら、にもかかわらず生きることは歓びというクストリッツァ流の寓話に昇華させた傑作だと思う。

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September 27, 2017

『三度目の殺人』 三度目に殺したのは誰?

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The Third Murder(viewing film)

「三度目の殺人」というタイトルは何を意味してるんだろう。

殺人犯の三隅(役所広司)は映画のなかで二度の殺人を犯す。一度目は北海道で、二度目は出所後に横浜で。三度目はない。出所後に住んだアパートで飼っていた小鳥を殺すけれど、これは殺人とはいえない。

三隅が二度目に殺したのは、勤務する小さな食品工場の社長。殺人罪で起訴された三隅を、重盛(福山雅治)が弁護することになる。方針は、死刑が予想される判決を無期懲役にすること。重盛は、「法廷は真実を明らかにする場ではない。いかに被告に有利な判決を引き出すか。だから被告の人間性を理解する必要はない」というクールで現実的な考えを持っている。

重盛は同期の摂津(吉田鋼太郎)、若手の川島(満島真之介)と三隅に接見するが、三隅は会うたびに言うことが違う「虚言癖」で、殺害の動機について何が本当なのか見当がつかない。三隅は何の動機もなく殺人を犯す「空の器」ではないのか。

殺害現場の多摩川河川敷に行った重盛は、殺された社長の娘・咲江(広瀬すず)を見かける。やがて咲江が三隅のアパートに出入りしていたことが判明する。重盛が咲江を問い詰めると、咲江は殺された実父に性的嫌がらせを受けていることを三隅に話していた。三隅はそれを知って社長を殺害した可能性が高い。咲江は公判でそのことを証言し、三隅を助けたいと願う。

公判で殺人を認めていた三隅は態度を180度翻し、殺していないと主張する。そのため咲江の証言は実現しなかった。摂津や川島は反対するが、重盛は三隅の豹変を認める。裁判長と裁判員の印象は悪く、死刑の判決が出る。判決後、三隅と接見した重盛は、「態度を翻したのは公判で咲江が実父とのことを証言し、好奇の目に晒されるのを防ぐためだったのか」と問う。重盛は、「仮にそうだとしたら、私も誰かの役に立ったわけだ」と語る。2人の対話シーンが見事。

判決後、裁判所を出た重盛は、頬をぬぐう仕草をする。それ以前に、三隅も咲江も同じ仕草をしている。河原での犯行後、三隅は頬についた血をぬぐう。その後、現実とも幻想ともつかないショットで、頬の血をぬぐう三隅のかたわらに咲江がいて、咲江もまた頬についた血をぬぐう。三隅、咲江、重森と、同じ仕草が三度繰り返される。

一度目の殺人は、咲江が心の中で父を殺した。二度目の殺人は、「空の器」である三隅が咲江の殺意を器に充填して、現実に咲江の父を殺した。三度目は重森が三隅の豹変を認めて無期懲役の方針を放棄し、三隅を死刑においやった。そして裁判で真実は明らかにならなかった。だから裁判所を出た重盛の頬にも見えない血しぶきがかかっていて、重森はそれをぬぐった。

「三度目の殺人」というタイトルを僕はそのように解釈した。是枝裕和は最後まで謎解きをしないで観客に任せているから、別の解釈もできる。でも是枝監督の映画をずっと見てきて、彼は根元のところで人間を信頼していると思っている。だから、三隅は実の娘と重なって見える咲江の殺意を引き受けて彼女の父を殺し(「空の器」が空でなくなり)、裁判は勝ち負けがすべてとクールな重盛も、負けを覚悟で三隅の「死刑志願」に乗った、と考えたい。本当のところはどうだろう。


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