September 18, 2017

『ダンケルク』 逃げまどう戦争映画

Dunkirk
Dunkirk(viewing film)

クリストファー・ノーラン監督の映画は時間と空間の描き方が直線的でなく、独得にねじれている作品が多い。

『メメント』は、脳に傷を負って記憶が10分しか保てない男が、自分の行動をメモ書きしたり身体に刺青として刻みこんだりしながら追いつ追われつするサスペンスだった。同じ時間が何度も繰り返され、円環する感覚が新鮮だった(このインディペンデント系の長編2作目が評価され、ミステリアスな『インソムニア』を経て『バットマン ビギンズ』に抜擢される)。『インターステラー』は太陽系のワームホールを通って別の銀河系に行き、時間と空間がニュートン力学とは別の仕方でつながっている世界を描いた。

『ダンケルク』の面白さは、陸海空の戦いがそれぞれ別の時間軸で描かれていることだろう。陸の戦いは、ドイツ軍にダンケルクの海岸に追い詰められた英仏軍が、大きな犠牲を出しながらも撤退する1カ月を描く。海の戦いは、撤退する兵を乗せた輸送船が独空軍によって撃沈されるなか、徴用されたイギリスの民間船がダンケルクに救助に向かう最後の1週間を描く。空の戦いは、英仏の輸送船を狙う独空軍に対して攻撃を仕掛ける英空軍戦闘機3機の最後の1時間の戦闘を描く。1カ月と1週間と1時間の戦いが入れ子状になって1本の映画になり、最後に3つの時間が合体して終わる。

それぞれの戦いに主人公がいる。陸の戦いは英軍兵士のトミー(フィオン・ホワイトヘッド)。戦いといっても、独軍に攻撃されて銃を捨てて逃げ、ダンケルクの海岸でも独軍戦闘機に掃射され、別の隊にまぎれこんで乗った輸送船も独戦闘機に攻撃されて沈没し命からがら海岸に舞い戻りといった具合で、ただ逃げまどうだけ。桟橋の下に隠れて救助の輸送船に潜り込んだり、兵士としての規律を失ってしまったようにも見える。

海の戦いの主人公は観光船ムーンライトの船長・ドーソン(マーク・ライランス)。息子と息子の友達を乗せて、徴用された多くの民間船とともにダンケルクに向かう。海上で救助したショック状態の英兵(キリアン・マーフィー)は、ムーンライトがダンケルクに向かうと聞いて、英本土に戻れと暴れる。船長はダンケルクに行く訳をこう説明する。「自分たちの世代が戦争を始めた。でも息子たちの世代を戦場にやってしまった」。

空の戦いは戦闘機スピットファイアのパイロット・ファリア(トム・ハーディ)。ダンケルクへ出撃したのは3機。1機だけ残り、本国へ帰投する燃料がなくなってもなお独戦闘機と戦い、独機を海に沈めた後、燃料切れでダンケルク海岸に不時着して独軍の捕虜となる。空中戦や駆逐艦の脇をスピットファイアが飛ぶシーンなど、すべてCGでなく実写。飛行できるスピットファイアを飛ばしたというからすごい(65ミリのIMAXで撮影されているが、日本公開は35ミリ版。大スクリーンで見たらどんな感じだろう)。ファリアはずっと防風眼鏡をかけているので、最後に機体から離れるまでトム・ハーディとわからなかった(笑)。

この陸海空の1カ月と1週間と1時間のドラマが時間を行ったり来たりして描かれる。もっとも、それぞれのパートのなかで時間は順を追って進むので、そうと分かれば混乱はない。3つのパートが重なる最後の1時間、兵士のトミーは既に英国に帰り、列車に乗っている。逃げ回ってばかりいたトミーだが、駅のホームにかけつけた住民から、「生きて帰ってきただけでよい」と声をかけられる。一方、最後にトム・ハーディが格好良く愛機に火をつけ捕虜になるあたりは、いくら負け戦の撤退戦とはいえ、ヒーローがいないと映画が終らないんだろう。

でも、いちばん感情移入できたのは不甲斐ない兵士のトミーだった。身を隠す場所もない海岸で戦闘機の機銃掃射や爆撃を受け、別の隊にまぎれこんで乗った駆逐艦は爆撃され船室が浸水して溺れそうになり、再びダンケルク海岸に戻って干潮で座礁した船倉に隠れたところを銃撃される。兵士というより普通の人間に戻り、殺される恐怖にさらされるのがなんともリアル。『プライベート・ライアン』から『ハクソー・リッジ』まで、すさまじい戦闘シーンを売りものにした映画は多いけど、殺される恐怖をこんなふうに描いた戦争映画は負け戦だからこそかも。

セリフは最小限に抑えられ、そのかわりハンス・ジマーの音楽が負け戦にふさわしい(?)恐怖感をあおる。

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September 14, 2017

『散歩する侵略者』 観念的台詞とB級テイストの映像

Photo
Before We Vanish(viewing film)

黒沢清監督の映画に通底する特徴は、それが彼の映画のいちばんの魅力だと思うけど、「不穏な空気」とでも呼べるものじゃないかな。

ホラーでも、スリラーでも、黒沢清はおどろおどろしい仕掛けを好まない。ごく当たり前の日常がある瞬間、なにかをきっかけに「不穏な空気」が充満する場に変貌し、それが恐怖や不安を引き起こす。でも『散歩する侵略者』には、それがないように見える。

この映画はホラーでもスリラーでもなく、SF。SFといえば、街や人の服装が未来ふうなのが普通だろうけど、いま現在のこの国の風景のなかに宇宙人が人の形を借りて侵略してきたという設定。つまり普通じゃないSFをつくろうとしている。日常の風景と宇宙人の侵略という設定の齟齬を、映画としてどう処理するのか、それが観客にどう受けいれられるか。今まで見たこともない作品と評価されるのか、絵空事みたいに感じられるのか。

宇宙人に乗っ取られたのは真治(松田龍平)。夫のおかしな言動に妻の鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。宇宙人は乗っ取った人間から「家族」「仕事」といった概念を奪ってゆく。真治は鳴海と家族を構成していることを忘れ、仕事を忘れ、ただふらふら歩きまわるだけ。

一方、週刊誌記者の桜井(長谷川博己)は一家惨殺の殺人現場で少年の天野(高杉真宇)に声をかけられる。天野と、家族を殺した娘のあきら(恒松祐里)もまた宇宙人だった。桜井は天野とあきらが宇宙人であり、地球を侵略する偵察をしていると聞き、2人と行動を共にする。2人が、もう1人の宇宙人である真治と連絡を取り、故郷の星に通信すると侵略が始まる。

『散歩する侵略者』はもともと前川知大作の舞台劇。宇宙人が人間から概念を奪うという設定も、ここから来ている。舞台劇なら、観念的な設定や台詞も観客ははじめからそういうものと思っているから違和感を感じない。でも映画の場合、よほど周到なカメラと演技とともにでないと、観念的な台詞とリアルな映像とが齟齬を来しお尻がこそばゆくなって落ち着かない。去年見た『ふきげんな過去』もそうだった。

黒沢清監督は、その観念的な台詞に対して、アメリカの宇宙侵略ものB級映画みたいな映像をつけた。金をかけないチープ(に見える)テイストと、唐突というか、おざなり(に見える)展開。それを、あえてやっているように見える。

「家族」や「仕事」そして「愛」の概念を奪われた松田龍平と長澤まさみの夫婦が、もう一度ゼロから愛をつくりなおしていく物語。うまく映画的に処理すれば、黒沢監督得意のサスペンスや、『岸辺の旅』のようなテイストの映画にもなりえたと思う。でも監督はあえて観念的セリフとB級映画ふうな映像を組み合わせたように感ずる。

「不穏な空気」も、最後に宇宙人が襲来するところでちらっと見せるだけ。いつもの黒沢映画の面白さは感じられなかった。期待していただけに残念。


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September 08, 2017

『エル ELLE』 倒錯した精神性

Elle
Elle(viewing film)

ポール・ヴァーホーヴェン監督の悪女ものといえば、どうしたって『氷の微笑』を思い出してしまう。でも『エル(原題:Elle)』は、面白さでもサスペンスでも変態度でも『氷の微笑』より一回り上。『氷の微笑』がハリウッド製エンタテインメントだったとすれば、『エル』はエンタテインメントでありつつ作家性を感じさせる作品になっている。その理由は、ヒロインがただの悪女でなく、その生き方から倒錯した精神性が匂ってくるからだろう。

冒頭、暗闇のなかで鋭くガラスが割れる音がする。画面が明るくなると、いきなりショッキングなレイプ・シーン。パリの高級住宅地に住むミシェル(イザベル・ユペール)がダイニング・ルームで黒覆面の暴漢に襲われている。暴漢が去った後、ミシェルは事もなげに割れたグラスを集めて捨てる。その冷静さが普通ではない。

場面が変わるとミシェルの仕事場。彼女はゲーム会社の社長をやっている。若いスタッフが開発中のゲーム(モンスターが女性を襲う)に、ミシェルは冷たくダメを出す。スタッフには権力者であるミシェルへの反感が感じられる。ミシェルは元夫のリシャール(シャルル・ベルリング)、共同経営者のアンナ(アンヌ・コンシニ)、アンナの夫のロベール(ミシェルは彼と不倫の関係にある)と食事しながら、暴行されたこと、警察へは届けないことを告げて、「これ以上何も言わないで」と、すぐに話を切り上げる。

映画の前半は犯人捜しのサスペンス。レイプ犯はどうやらミシェルの知る人間らしい。自宅の近所には怪しげな人物が出没している。ミシェルは向かいに住むパトリック(ロラン・ラフィット)と、敬虔なカソリックであるレベッカ(ヴィルシニー・エフィラ)の夫婦と親しくなる。ミシェルはパトリックに惹かれたらしく、食事に招いた席のテーブルの下で彼に足を絡ませ誘惑する。

会社では、開発中のゲームでレイプされる女性にミシェルの顔を張りつけた動画がスタッフ全員に送信される。ミシェルは実直そうなスタッフに犯人捜しを命ずる。そんな事件と並行して、ミシェルの過去が明らかになってくる。ミシェルの父はかつて何人もの子どもを惨殺し無期懲役で服役中。少女だったミシェルも現場にいた。

ほかにも、ミシェル名義のアパートに暮らす厚化粧の母親と、若いアフリカ系の愛人。マザコンの息子・ヴァンサンと、妊娠した恋人(ミシェルとは互いに嫌いあっている)。ひと癖もふた癖もある人物が次々に出てくる。たくさんの登場人物を、短い描写のなかでキャラを立たせるのはさすが。

映画の中盤で、暴漢が再びミシェルを襲う。ミシェルはナイフで抵抗し、暴漢の覆面をはぎ取ってそれが誰であるかを知る。ここからは、その男とミシェルの倒錯したゲームが始まる。

襲われても、敵意に直面しても、嬉しいときも、ほとんどクールな表情を崩さないイザベル・ユペールがすごい。犯罪者の子どもから成り上がったパリのブルジョア。冷たい表情と裏腹に欲望とエゴイズムを隠さず、相手を傷つけることを何とも思わないミシェルに嫌悪を感ずる観客もいるだろうけど(隣に座っていたカップルは途中で出ていった)、ここまで徹底すると、すげえなあ、という気にもなってくる。ヨーロッパの個人主義の窮極の、しかし倒錯した形のようにも見えてくる。

ミシェルだけでなく、彼女をとりまく10人近い登場人物の誰もが、ミシェルほどでないにしても欲望とエゴイズムに支配されている。どの人物にもセリフや行動の端々に伏線が仕掛けられていて、なるほどと納得させられてしまう。ただ一人善人と見えた敬虔なカソリックのレベッカも、最後のセリフでそうでなかったことが明らかになり、うーん、やられましたと言うしかない。

ヒロインの存在だけでなく、スキャンダラスでモラルに反する描写を嫌う人も多いだろうけど、僕はこの映画、気に入った。


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August 27, 2017

『ベイビー・ドライバー』 車とダイナーと美少女

Baby_driver
Baby Driver(viewing film)

冒頭の5分間に目をみはった。大音量のパンク・ロックが流れている。真っ赤なスバルの運転席に座るベイビー(アンセル・エルゴート)が音楽に合わせて身体や唇や指先を動かす。ギアを入れたり、アクセルを踏む動作も音楽のリズムに乗っている。銀行強盗を働いた仲間が車に走りこんでベイビーが車を急発進させ、ドリフトし、スピンターンし、高速道路を縫うように逃走する。その動きもセリフのタイミングもすべてリズムに乗っている。それだけではない。カットとカットのつなぎも、音楽のリズムと同期している。まず音楽があり、すべてが音とリズムに合わせてつくられている。

これが全編つづいたらすごいと思ったら、さすがにそこまではいかない。物語を動かさなければいけないから説明的な会話も入るわけだし。とはいえ、カーチェイスの場面になると音楽と画面がシンクロすることは変らない。ほとんどの画面に音楽が鳴っている。

ベイビーは幼い頃の事故で耳鳴りがし、音楽を聞くと耳鳴りが消えるのだ。すると、天才的なドライブ・テクニックが発揮される。強盗団のボス、ドク(ケビン・スペイシー)に雇われ、逃走車のドライバーとして分け前をもらっている。仲間は強面のバッツ(ジェイミー・フォックス)、バディ(ジョン・ハム)とその愛人。

音楽はほとんど知らない曲ばかりだった。1960年代くらいからのソウル、ロック、パンク、ダンス・ミュージックなど。聞いたことがあるような音が数曲あり、調べてみるとビーチ・ボーイズ、デイブ・ブルーベック、T・レックス、サイモン&ガーファンクル(タイトルの「ベイビー・ドライバー」は彼らの曲)だった。時代もジャンルもさまざまで、どの世代が見ても、ああ、これ知ってるなと感ずる曲があるだろう。それも計算のうちか。

ベイビーの耳鳴りは、両親が運転中に事故死したとき、同乗して衝突の瞬間を目撃したトラウマによるらしい。母親への思慕が、バッツやバディからは「ベイビー」と呼ばれるキャラクターをつくっている。子どものように押し黙り、打ち解けようとしない。そんなベイビーが、母親が働いていたダイナーでウェイトレスのデボラ(リリー・ジェームズ)に出会う。デボラに若かった母の面影が重なる。

監督のエドガー・ライトはイギリス出身の若手。映画フリークらしく、過去のいろんな映画の記憶が感じ取れる。ギャングのお抱え逃走運転手という設定が『ザ・ドライバー』を受けていることは言うまでもない。ほかにも、ダイナーと車と美少女、1950年代ふうファッションは『アメリカン・グラフィティ』、バディとベイビーが仲間割れして車同士ぶつかりあうシーンは、銃を車におきかえた『レザボア・ドッグズ』といった気配だ。ベイビーとデボラが車で逃げるのは『俺たちに明日はない』だし(通行人が2人を見て「ボニーとクライドか」と叫ぶ)、最後は『バニシング・ポイント』のシチュエーションになる(スバル、トヨタ、三菱と日本車が出てくるけど、最後はやっぱりシボレーでした)。

もっとも、バニシング・ポイントと思った観客は肩透かしをくらって、ベイビーは投降してしまう。1970年代ニュー・シネマとは違い、ベイビーは良い子なんだ。ラストは50年代ふうの車とデボラに迎えられてハッピーエンド。その、しれっとしたあたりが今どきなのかも。楽しめました。

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August 26, 2017

『夜明けの祈り』 信仰と命と

Innocentes
Les Innocentes(viewing film)

ポーランド映画、あるいはポーランドを舞台にした映画というと、つい見たくなってしまう(本作は仏・ポーランド・ベルギー合作)。若い頃、ポーランド映画に入れ込んだ記憶が今もうずくからだろうか。『灰とダイヤモンド』『夜の終りに』『尼僧ヨアンナ』『パサジェルカ』『水の中のナイフ』といった映画は青春時代の鮮烈な映画体験として残っていて、仮に生涯の10本を選ぶとすればどれを落とすか迷いに迷うだろう。

『夜明けの祈り(原題:Les Innocentes)』は修道院の物語と知って、すぐに『尼僧ヨアンナ』を思い出した。悪魔に憑かれ悦楽に身を委ねる尼僧と彼女を救おうとする青年僧を主人公にしたこの作品は、善悪正邪がはっきりしない、カトリック国で社会主義国だった当時のポーランドでは異色の映画だった。荒野に建つ石造の修道院を舞台にし、光と影のシンプルな構図のモノクローム画面が記憶に残っている。

『夜明けの祈り』の冒頭を見て、ああ、まぎれもなくポーランドの風景だなと思った(って映画の記憶で、行ったことはないんですが)。夜明けの祈りのあと、若い尼僧が修道院を抜け出して雪の舞う森を歩く。シンプルな構図も、色彩に乏しくモノクロームに近い画面も、音楽が入らない静謐さも、かつてのポーランド映画の空気に似ている。バルト海に近い北ポーランドの平原地帯で撮影されている。

1945年、第二次大戦末期。若い尼僧は町に来て、駐留するフランス赤十字に助けを求める。女医のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)が一緒に赴くと、修道院にはソ連兵に暴行され妊娠した7人の修道女がいた。事実に基づいた物語だそうだ。

厳格な修道院長は何が起こったかを隠そうとする。身ごもった修道女たちは、その事実と信仰を両立させることができず苦悩する。当初、修道女たちは他人に肌を見せるのは罪と考え診察を拒むが、マチルドはシスターのマリア(アガタ・ブゼク)の協力を得て夜、赤十字を抜け出しては診察をつづける(途中でソ連兵に乱暴されそうになったりしながら)。やがて、出産が始まる。

出産したばかりの我が子と添い寝する修道女の顔はすでに「母」になっている。修道院長は養子に出すと言って赤ん坊を抱いて修道院を出るが、後でマリアが訪ねると子どもはいない……。

マチルドが同僚の医師と酒を飲んだり、ダンスを踊ったり「世俗」のシーンではカメラが手持ちになったり、よく動き、修道院のシーンになると端正な構図の静止画になる。音楽も修道院の教会音楽と酒場のダンス音楽が対照的。

僕にはキリスト教がよく分からない。だからこういう映画の深刻な意味を受け取れていないかもしれない。近代になってからのラテン系カトリックはかなりゆるい宗教というイメージがあるが、北ヨーロッパの修道院にはまだ中世の厳格なカトリックの戒律が残っているのだろう。修道女の妊娠も出産も、あってはならないこと。突然襲った暴力に、修道女たちは祈る以外の対処法をもたない。そこにマチルドが、まず無垢な命(Les Innocentes)を救うという医師の倫理で対処することで、事態が動きだす。

最後、マチルドが修道院から赤十字へトラックで戻る途中、世俗に戻ることを決心して院を出た元修道女が歩いているのを乗せる。彼女はマチルドに「タバコくれない?」とねだって印象的な笑顔を見せる。

良い映画だった。ただヒューマニズムにのっとったこの作品、悪魔が青年僧を破滅させる『尼僧ヨアンナ』のように何十年も記憶に残るかというと、うーん、どうだろう。監督はフランスのアンヌ・フォンテーヌ。


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August 21, 2017

『ハイドリヒを撃て 「ナチの野獣」暗殺作戦』 政治の非情

Anthropoid
Anthropoid(viewing film)

ナチス親衛隊のハイドリヒ暗殺がテーマと聞けば、どうしても古典である『死刑執行人もまた死す』を思い出してしまう。

このハリウッド映画は、ナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ系のフリッツ・ラング監督によってつくられた。ハイドリヒ暗殺直後から物語が始まり、暗殺犯と彼をかくまう大学教授一家、暗殺犯と教授の娘の偽装恋愛などが絡み、犠牲を払いながらも主人公の暗殺犯は無事生きのびる。プラハ市民が団結してナチス協力者を暗殺犯に仕立て上げるこの映画は、劣勢になりつつあったとはいえナチス・ドイツがヨーロッパを席巻していた1943年につくられた。史実とは別の、光と影の映像が美しい良質なプロパガンダ映画(『カサブランカ』のような)といった趣だった。

『ハイドリヒを撃て 「ナチの野獣」暗殺作戦(原題:Anthropoid)』は史実に沿って、イギリスで訓練を受けた7人のグループがプラハに送り込まれ、暗殺を決行し、密告されグループが壊滅するまでを描く。前半はサスペンス、最後の30分はすさまじい銃撃シーンで、初めから終わりまで息もつかせない。ナチスに抵抗した地下組織を描く「レジスタンス映画」は第二次大戦後、フランスはじめ各国でつくられたが、第二次世界大戦から半世紀以上たって今なおこのジャンルの映画がつくられるのは、ハイドリヒの暗殺とナチスへの抵抗がチェコ人にとっては戦後のチェコスロバキア建国につながる歴史的事件だったからだろう(チェコ・英・仏合作)。

主人公は暗殺を実行するヨゼフ(キリアン・マーフィー)とヤン(ジェイミー・ドーナン)。イギリス政府とチェコ亡命政権がハイドリヒ暗殺(エンスラポイド作戦─原題)を決め、2人はパラシュートでプラハ近郊の森に降下する。怪我したところを農夫に助けられた2人だが、密告しようとしたこの農夫をヨゼフが殺す。経験の浅いヤンは手が震えて引き金を引けない。ナチスは密告者に報酬を約束していた。国内にレジスタンスがいる一方、密告者もいる実状を冒頭で描き出す。

2人はプラハでレジスタンス側の一家に匿われる。何も知らない夫とレジスタンス側の妻、娘のマリー(シャルロット・ルボン)、バイオリニストを志す息子、伯母が一緒に住む。このあたりの家族構成や、ヤンとマリーが愛し合うようになることは、『死刑執行人もまた死す』の設定を借りているのかもしれない。国内のレジスタンスと送り込まれたヨゼフらの会合では、「もし暗殺を実行すれば、すさまじい報復を受けることになる」と亡命政権の指令に疑問をはさむ幹部もいる(実際そのようになり、ナチスは報復として1万3000人のチェコ人を殺害した)。

暗殺シーンは史実通りなのかどうか。メルセデスのオープンカーに乗るハイドリヒに向けたヨゼフの機関銃が故障し、ヤンが投じた爆弾でハイドリヒが負傷。暗殺に失敗するが、ハイドリヒは1週間後に死亡して、結果として作戦は成功する。非常事態のなかで犯人の捜索。市民から人質が取られ(一家の夫も)、犯人が発見されるまで毎日数人が処刑される。抵抗組織の会合では、市民が殺されるのに苦悩するヨゼフが自ら名乗り出ると提案するが、否決される。2人を匿った一家の息子は拷問を受ける。レジスタンスの協力者のなかから密告者が出る。このあたりのリアリズムは史実なのかどうか知らないけど、レジスタンス映画の傑作『影の軍隊』を思い出させる。

グループは正教会の地下に潜む。密告からドイツ軍が包囲し、銃撃戦になる。7人全員が射殺、あるいは用意した青酸カリで自殺。作戦には成功したものの大きな犠牲を出し、映画は救いのないかたちで終わる。

でもロンドンのチェコ亡命政権はこの犠牲を必要としていた。事件の3年前、英仏独伊が合意したミュンヘン協定でチェコはドイツ領に編入されて保護領となり、チェコは消滅した。チェコは英仏など連合国になかば見捨てられたかたちだった。だから亡命政権としては、どんな犠牲を払ってでもナチス幹部であり「ユダヤ人絶滅」を指揮したハイドリヒを暗殺してみせる必要があった。事実、この暗殺の成功をチャーチルは喜び、それが戦後のチェコスロバキア復活につながった。映画の主人公たちと殺されたチェコ市民は、歴史的に見ればそのための捨て石だった。

戦争と政治の非情、そのなかで運命に殉じる男たち女たちを、緊迫したサスペンスとアクションで描き出した力作。手持ちの16ミリカメラ、デジタルではなくフィルムで撮影され、荒い粒子と沈んだ色彩が戦中のプラハの街と空気を再現している。監督はショーン・エリス。

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August 14, 2017

『ダイ・ビューティフル』 生の肯定と色の氾濫

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Die Beautiful(viewing film)

夏から秋にかけて、フィリピン映画が3本たてつづけに公開される。こんなこと初めてじゃないかな。いま公開中の『ローサは密告された』(8月7日ブログ参照)、10月に公開される『立ち去った女』、そしてこの『ダイ・ビューティフル(原題:Die Beautiful)』。『ローサ』はドキュメント・タッチのリアリズム、『立ち去った女』は評判によるとアート系、『ダイ・ビューティフル』はエンタテインメント色のある正統派とバラエティーも豊か。各国の映画祭で注目されているのも納得できる。

この映画のヒーロー(ヒロイン)は性同一障害のパトリック(パオロ・バレステロス)。障害を自覚した高校時代から、トリシャと名を変え女性として生き、早すぎる死を迎えるまでを、時を自在に行き来しながら描く。ジュン・ロブレス・ラナ監督の円熟した物語の才に驚く。

高校以来の性同一障害同士の友人(恋人)としてトリシャとともに生きるのがバーブ(クリスチャン・ハブレス)。この男優2人の異性装がとにかく美しい。映画が始まってすぐ、ゲイのミスコンテストに念願かなって優勝したトリシャが突然死してしまう。2人はメイクアップで生計を立てていたが、美しく死にたいというトリシャの遺言でバーブは葬式までの7日間、日替わりでトリシャの遺体にメイクをほどこす。アンジェリーナ・ジョリーだったり、ビヨンセだったり、ジュリア・ロバーツだったり。なかでもアンジェリーナ・ジョリーは絶品。

葬儀の1週間が進行するのに並行して、過去が回想される。ゲイであることを隠さずバーブと組む高校時代。憧れのバスケット部員と仲間に犯される体験。家の体面を汚すと怒る父親との対立、家を出る決断。トリシャと名前を変え、バーブとともに各地のゲイ・コンテストで金を稼ぐドサ回りの日々。乳房をつくる手術を受け、養女をもらって「母」になる。

画面にはさまざまな色が氾濫している。クローズアップされるメイク道具のパレットやリップスティック。女になったトリシャのピンク壁の部屋。ミスコンテストに着る金銀ラメの光る衣装。トリシャの棺を囲む色とりどりの花(造花?)。ドサ回りで訪れる町の市場や店の色彩。はじめから終わりまで、きらびやかでチープな色で満たされ、それがこの映画の基調になっている。

『ローサは密告された』のブリランテ・メンドーサ監督の映画はマニラの歓楽街やスラムを舞台に、色彩も沈んだトーンで統一されているけれど、この映画の色彩はトリシャとバーブの迷いのない生き方を反映して全体に明るい。監督と美術、キャメラマンの緻密な設計によるものだろう。

ストーリーは定番である「コンテストもの」のヴァリエーションだけど、その枠組みを借りて、トランスジェンダーとして生きた一人の男の生と性を力強く肯定してみせたところに真骨頂がある。

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August 07, 2017

『ローサは密告された』 フィリピン映画に圧倒される

Ma_rosa
Ma'Rosa(viewing film)

いま、フィリピン映画が熱い。カンヌやヴェネツィア、ベルリンといった主要な映画祭で次々に賞を取っている。そのトップランナーが『ローサは密告された(原題:Ma'Rosa)』のブリランテ・メンドーサ監督。『キナタイ マニラ・アンダーグラウンド』(2009)と『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』(2012)の2本を見たが、ドキュメンタリー的な手法でフィリピンが抱える問題を描き出す。社会派っぽい素材だけれど、骨太な人間ドラマだと思う。

この映画の舞台はマニラのスラム。ばら売りの雑貨屋を営むローサ(ジャクリン・ホセ)は、乏しい収入を補うため「アイス」と呼ばれる覚醒剤も売っている。亭主のネストール(フリオ・ディアス)はその覚醒剤にはまり、店はローサが切りまわす。2人の息子と2人の娘がいる。ある晩、警察がやってきてローサ夫妻は逮捕される。正式な逮捕ではなく、警察署内の別の部屋に連れ込まれ、20万ペソ(約44万円)で見逃してやると言われるのだが……。

照明なし、手持ちカメラの撮影が圧倒的だ。大部分が夜の撮影だけど、デジタルカメラを駆使して現場の灯りだけで撮影されている。登場人物とともに激しく雨の降るスラムを歩き回り、室内は電灯だったり蛍光灯だったりで画面の色合いが変わり、十分な明るさがないので被写界深度が浅く、ピントが手前から奥に移動したり、車のなかでも人物の顔にクローズアップしたり、まるきりドキュメンタリーを見ているリアルさだ。

夫妻に20万ペソもの金はなく、覚醒剤の売人を警察に売る。売人も別室に連れ込まれて金を求められるが、別の警官に連絡しようとして暴行される。その脇では警官たちが酒盛りをしている。ローサの子供たちがやってきて、金策に走り回る。スラムの不良グループの一員らしい長男はテレビを売ろうとする。次男はゲイの知り合いに自分の身体を売って金をつくる。長女は、不仲の親戚に行って罵言を浴びながら、わずかな金を借りる。

ローサを密告したのは、長男の弟分のチンピラだった。弟分は、逮捕された家族を見逃してもらうためにローサを売った。ローサは売人を売る。一方、ローサを逮捕した警官は没収した現金の一部を警察署長に上納する。正規の手続きなしで逮捕し金を要求する警官の腐敗もまた常態化しているのだ。スラムと地域の警察を舞台に、麻薬を巡る非正規逮捕─金の要求─密告の連鎖。末端の警官もまたわずかな給料(日本円で月給2~3万らしい)で、スラムの住民から金を巻き上げている。そのやりきれなさを、手持ちカメラはぶっきらぼうに、思い入れなしで映しだしてゆく。

最後、金策のために警察を出ることを許されたローサが、金のメドもつき、スラムの屋台で魚すり身の揚げ団子をほおばる。クローズアップされた無表情の陰に、生きる意志がみなぎる。

主演のジャクリン・ホセは今年のカンヌ映画祭で主演女優賞を得た。


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July 23, 2017

『彼女の人生は間違いじゃない』 福島と渋谷の間

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『不貞の季節』(2000)から一昨年の『さよなら歌舞伎町』『娚の一生』まで、廣木隆一監督のミニシアター系の映画はだいたい見てきた。今この国で好きな映画監督は? と聞かれれば、真っ先に名前を挙げる監督のひとりでもある。でも今度の新作は、見るのにちょっとためらいがあった。

というのは『彼女の人生は間違いじゃない』というタイトルが、なんだか廣木監督らしくないなあと感じていたから。もっとも、これが廣木監督自身の小説を原作としていること、福島県郡山出身の廣木が東日本大震災と原発事故を素材にした小説であることは情報として知っていた。

にしても、主人公の存在に対する価値判断をあらかじめ読者や観客に明らかにしてしまう、それも断定口調で同意を強いてくるようなニュアンスが、この監督にふさわしくないと思ったから。廣木監督の映画(ミニシアター系)は、いつも善悪正邪の単純な価値判断をしにくい人物ばかりを描いてきたのではなかったか。今回は自らの故郷を舞台にしたことで、ちょっとつんのめっているんじゃないかな。

そんなふうに身構えていたせいか、始まってしばらく映画に入りきれなかった。ちょっとした説明的なセリフに引っかかったり、東京スカイツリーや渋谷駅といった分かりやすい東京の象徴が繰り返し出てくるのが気になったり。でも主人公のみゆき(瀧内公美)がデリヘルとして派遣されたホテルでトラブルになり、三浦(高良健吾)が助けに入るあたりから、いつもの廣木映画のリズムに入りこめるようになった。

みゆきは福島の海岸沿いの町で仮設住宅に住み、市役所に勤務している。母は津波で流され行方不明、父(光石研)は農地が放射能汚染されて耕作できず、補償金を毎日パチンコにつぎこんでいる。週末には、父に英会話教室に通うと嘘をついて東京へ行き、デリヘルのバイトをしている。

映画は福島でのみゆきの生活と東京でのデリヘル嬢の日々、そして高速バスでの往復を淡々と描写してゆく。みゆきはなぜデリヘル嬢になったのか。映画のなかでは、まったく説明されない。彼女は市役所勤務だし、補償金もあるし、少なくとも経済的理由からではない。

ただ終盤の回想で、デリヘル嬢を志願してきたみゆきと三浦とが会話をかわすシーンがある。切羽詰まった目をしたみゆきが、「デリヘルやりたいんです」と言うと、三浦が「お前にはやれないよ」と告げる。押し問答したあげく、みゆきは三浦の前で裸になってみせ自分の決意を伝える。このシーンが伝えるのは、みゆきは自分でもよく分からない衝動に突きあげられている、ということだろうか。両親に愛され、市役所職員として堅実に働いてきたそれまでの自分を破壊するものか、解放するものか。それはみゆきだけでなく、監督にも、見ている観客にもよく分からない。ただその切実さだけが伝わってくる。

最後に近くなって、みゆきの周囲ではいくつかの変化が起きている。三浦はデリヘルのマネジャーをやめ、本業の役者に戻って舞台に出る。父は出荷の見通しが立たないままではあるが、畑の雑草を狩りはじめる。東京駅のトイレでいつも会うデリヘル嬢は、みゆきに「交通費かかるから一緒に東京で住まない?」と誘いかけるが、みゆきは答えない。みゆきは、これからどうするのか。答えの出ないまま映画は終わる。

そういうみゆきのすべてをひっくるめて、監督は「彼女の人生は間違いじゃない」と言う。とはいえ、やっぱりこのタイトルはそぐわない、観客の想像力に任せても同じ答えが出るにちがいない、それだけの力を持った映画だと思った。

いつもながら廣木監督は女優を美しく撮る。バスの座席からぼんやり窓の外を眺めるみゆき。ホテルのバスでお湯に顔を浸し目を開けるみゆき。デリヘルを志願して三浦に訴えるみゆき。瀧内公美の、いくつものはっとさせるショットがある。だからこそ、いろんな女優を使ったメジャーな映画のオファーが次々にあるんだろう。


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July 19, 2017

『ハクソー・リッジ』 沖縄戦のリアル

Hacksaw_ridge
Hacksaw Ridge(viewing film)

『ハクソー・リッジ(原題:Hacksaw Ridge)』は第二次大戦の沖縄戦、首里郊外の前田高地(米軍の呼び名はハクソー・リッジ─のこぎり断崖)での激戦を描いている。でも日本の予告編や宣伝では日米戦の映画であることが徹底的に隠されている。

どうやらアンジェリーナ・ジョリー監督の『アンブロークン』が反日映画とネトウヨに騒がれ、きちんと公開されなかったことに過剰反応したらしい。でも、この映画を見て「反日」だと感ずる人はいないだろう。もちろんアメリカ側の視点からだけど、武器を持つことを拒否した実在の一衛生兵の目を通して(ハリウッド映画的な誇張はあるにせよ反日でもなんでもなく)沖縄戦が描かれている。

ハクソー・リッジ(前田高地)は沖縄守備軍司令部のあった首里の東北5キロほどにある高地。日本軍は首里を取りまく丘陵地帯に司令部を守るための防衛陣地を敷いていた。前田高地もそのひとつ。十分な兵力を持たない守備軍は米軍の沖縄本島上陸を黙って見守り、洞窟陣地を築いて艦砲射撃に耐え、敵が近づいたところで反撃に出る持久戦の態勢にあった。大本営は沖縄戦について、「米軍に出血を強要し、本土攻撃を遅延せしむる」ための「捨て石作戦」と考えている(大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』)。

衛生兵ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の属する大隊が、消耗した部隊に代わってハクソー・リッジに投入される。激しい艦砲射撃の後、のこぎりの刃のような断崖をロープ網をつたって登ってゆく(前掲書にロープ網で断崖を登る米兵の写真が収録されている)。高地には、それまでの戦闘で死んだ米兵や日本兵の死体が散乱している。霧のなかを部隊が進んでゆくと、地下陣地から日本兵が湧き出るように現れて白兵戦になる。腕や脚がもがれ、火だるまになった身体がとび、下半身がぐじゃぐじゃになり、早回しを使っての戦闘シーンはすさまじいの一言。

これまで戦争映画のリアルな戦闘シーンといえば『プライベート・ライアン』や『父親たちの星条旗』だったけど、それを上回るかも。『プライベート・ライアン』も『父親たちの星条旗』も当時のVFX技術の進化によるところが大きいけれど、この映画ではそれが更に進んでいる。殊に、もがれ、つぶされ、挽き肉のようになった身体表現は超リアル。この映画は別に反戦映画ではないけれど(主人公は良心的兵役拒否だから、存在そのものが反戦と言えば言えるが)、接近戦の戦闘のむごたらしさには目を背けたくなるはずだ。

映画の前半は、ドスがなぜ非暴力を決意するに至ったかを描く。

ドスはヴァージニア州の田舎町で育った。父は第一次大戦に兵士として参加し、親友二人が戦死したことから、戦後、アル中に陥った。家はプロテスタントの異端であるセブンスデイ・アドヴェンティスト教会の敬虔な信者。壁には十戒(「汝、殺すなかれ」)のポスターが貼ってある。ただ、セブンスデイ・アドヴェンティストはクエーカー(フレンド派)のように非暴力・平和主義を強調しているわけではないようだ(良心的兵役拒否の多くはクエーカー教徒)。だからドスの非暴力は、あくまで個人の信念による。

アル中の父は母に暴力を振るう。見かねたドスが、かっとなって拳銃を父に向ける。友を失い、家族に暴力を振るい、自分に絶望していた父はドスに「引き金を引け」と言う。が、ドスは引けない(後で「心のなかで引いた」のセリフがある)。それを契機に、ドスは武器に手を触れることをやめようと決意する。第二次大戦が始まり、兄や友が志願するのを見て、ドスも衛生兵なら武器に手を触れなくてもすむ、戦争で人を殺すのでなく、人を助けようと陸軍に志願する。

映画の中盤は、異端の兵士を抱えた軍隊のいじめと教練の物語。ハリウッド映画のお手のものといったストーリー展開だ。銃の訓練を拒否して軍法会議にかけられるが、父の上官だった将軍の一声で衛生兵として従軍することを許される。ハクソー・リッジで75名の負傷兵を救い(日本兵も救おうとする)、仲間の信頼を勝ち取る(現実のドスは沖縄以前にサイパン、レイテの戦闘に従事した)。

こう見てくると、良心的兵役拒否とはいえ、ドスがいかにもハリウッド映画好みのヒーローであることが見えてくる。どんな状況にあろうと個人の信念を貫きとおす強靭な意思。仲間を決して裏切らない友情。銃を持たなくとも役に立てると軍隊に志願する愛国心。アメリカ映画が繰り返し描いてきたヒーローと重なる。

日本人としてこの映画を見ると、もちろん足りないものはたくさんある。たとえば沖縄戦は日本軍が住民を人間の盾のように巻き込んで戦った戦闘だったが、戦闘のすぐ近くにいたはずの民間人の姿が一人も出てこないこと。たとえば洞窟から出てくる日本兵が、まるでウンカの群れのように無個性で無気味に見えること(いや、これはアメリカ側から見た正確な印象かもしれない。大本営から見て沖縄戦の兵士は「捨て石」で、死を運命づけられた集団のふるまいは相手から不気味に見えるだろうし、そもそも日本軍はドスのように良心的兵役拒否する個人が存在できる組織ではないから、米兵の目に昆虫の群れに見えても不思議はない)。

いずれにしてもこれはアメリカ映画で、ここに足りないものを描くのは日本映画の責任だろう。沖縄戦を描いた日本映画は『ひめゆりの塔』や『沖縄決戦』以来、40年以上つくられていないのではないか。


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