January 22, 2026

『BLACK BOX DIARIES』

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『BLACK BOX DIARIES』は、公開前から伊藤詩織さんの元弁護士が記者会見を開いて映像や音声の無断使用を指摘するなどニュースになっていた。その後、伊藤さんもコメントを出し、別の関係者からも意見が出て、いくらかの修正を経て公開されたようだが、まずは映画を見なければと劇場へ。映画として、よく出来たドキュメンタリーだと思った。

伊藤さんが元TBS記者を訴えた民事裁判の進行を軸に、そもそもの「事件」の経緯、そして裁判を抱えた伊藤さんの日常が「日記」として入れ子のように描かれている。裁判所の内外で、彼女は多くの支援者に囲まれている。メディアを避け友人の家に泊まる伊藤さんは、よく笑い、そして泣く。発端となった、泥酔した伊藤さんを記者がホテルへ連れ込む映像は、たぶん裁判でも最大の鍵になり、映画もこの映像なくしては成り立たなかったろう(その無断使用が問題とされ、日本版はCG加工して公開)。捜査途中で異動になり、内部情報を伊藤さんに漏らす同情的な捜査官。当日夜に二人を乗せたタクシー運転手とホテルのドアマンの証言。これだけの声をよく集めたと思う。そしてこれが性暴力事件以上の広がりを持ったのは、元記者が当時の安倍晋三首相と親しかったことから、一度出た逮捕状が握りつぶされたのではという政治の「ブラック・ボックス」を開けてしまったこと。

このドキュメンタリーを優れたものにしているのは、闘う被害者の私的な「日記」でもなく、といって政治の闇に切り込む社会派的なものでもなく、両方の要素を持ちながらそれが渾然一体になった作品として成立しているからだろう。

この映画への批判のいくつかが、伊藤さんを支えた弁護士はじめ、伊藤さんを支援してきた人たちからも出たことは、何を意味しているだろう。関連した発言を読んでいちばん納得したのはドキュメンタリー映画監督・森達也のものだった。彼は、自分だったら問題となった映像と音は「全て使う」とした上で、「自分のエゴを常に最優先して、社会規範や組織のルール、誰かの良識などに従属しないことだ」と言う。法の秩序を求める弁護士には弁護士の、MeToo運動を進める側には運動の論理があるのは当然だけど、この映画はそこからも独立している。一映画ファンとして、置かれた状況はまったく違うけれど、法を破り、国のタブーを破り、そのため投獄されたり、映画製作禁止を言い渡されたり、国外に亡命せざるをえなかった監督たちの、すぐれたトルコ(クルド)映画、中国映画、イラン映画、ソ連映画などを見てきた。それらの映画がこの国の映画ファンにまで届いたのは、やはり映画そのものに力があったからだろう。

一人の映画監督の誕生を喜びたい。

 

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January 10, 2026

『星と月は天の穴』

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こういうのを反時代的な映画と言うのか。『星と月は天の穴』は今の日本映画界に色んな意味で背を向け、にもかかわらずとても刺激的な映画だった。吉行淳之介の原作を荒井晴彦が監督している(脚本も)。

画面はモノクローム。ただし赤信号、夕焼け、サーモンの切り身、唇、ヒロインの身体の疵は赤いパートカラーになる。赤は主人公の欲望に対応している。セリフは今ふうの自然な言い回しでなく、小説の文章語によるセリフがそのまま口にされる。それがまた美しい。主人公のモノローグは語りでなく、画面にワープロで文字を打つように文字で表現される。主人公が書く小説の世界、男(綾野剛の二役)と女がそのまま画面に現われ、劇中の現実と仮構が切れ目なく接続されたりもする。

時代は1969年。妻に去られた小説家の矢添(綾野剛)は、なじみの娼婦・千枝子(田中麗奈)と時々会いながら、画廊で偶然に会った大学生の紀⼦(咲耶)とつきあいはじめる。紀子との出会いは、彼女が車のなかで粗相し、矢添は40代なのに総入歯という互いに隠したい失敗や負い目が二人を結びつける梃になったようだ。とはいえ矢添にとって二人とは身体のつきあい、彼女たちを自分の内面には決して立ち入らせない。千枝子とは金銭を介した関係だし、紀子が矢添の部屋に行きたいと繰り返し懇願してもそれを許さない(部屋とは矢添の内面の喩だろう)。もっともそれは矢添の意思というより、愛に失敗した男が自分を持て余し、それ以上に踏み込む勇気を持てないようにも思える。

この映画からは、荒井が脚本家として手がけた1970~80年代の『遠雷』『時代屋の女房』『ひとひらの雪』といった文芸映画の香りがする。とはいえこういう男と女の映画にとって、それを取り巻く環境はずいぶん変わった。フェミニズムの洗礼を受けている(上野千鶴子が吉行淳之介の女性の描き方について厳しく分析批判したことがあったと記憶する)。#MeToo以後、映画の性表現もずいぶん変わった。特に日本映画は若い監督を含め性表現について抑制的になった、あるいは性という主題にあまり興味を示さないようにも見える。そんな風潮に抗するように、この映画の性表現はかなり激しい(今こういう映画をつくる現場にはインティマシー・コーディネーターの存在は不可欠だ。本作では西山ももこ)。僕は見ていて荒井が脚本を書いた日活ロマンポルノの傑作『赫い髪の女』(原作・中上健次、監督・神代辰巳)を思い出していた。『星と月は天の穴』は、荒井が脚本家としてでなく監督としてつくった50年後の日活ロマンポルノのように思えた。もちろんこれ、誉め言葉です。

ラストシーン。橋の上で矢添と紀子が距離が取り、詰める、ロングショットが素晴らしい。

 

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January 09, 2026

『ワン・バトル・アフター・アナザー』

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『ワン・バトル・アフター・アナザー(原題:One Battle After Another)』は、去年見逃した映画のなかでいちばん気になっていた作品。渋谷にかかっていたので、今年最初の映画館通いに。いやあ、面白かったです。

アメリカ映画はこういうロード・ムービーの犯罪ものが大好きだなあ。『イージー・ライダー』や『俺たちに明日はない』以来、何本つくられたことか。無論、その根っこにはケルアックの『オン・ザ・ロード』がある。この映画の原作もトマス・ピンチョンの小説で、1960年代カウンター・カルチャーの時代を舞台にしていたのを、映画は現代アメリカに置きかえてある。

カリフォルニアの収容所に収容された不法移民を武力で解放しようとする革命派「フレンチ75」と、白人至上主義者による秘密結社の民兵組織との銃撃戦、追っかけ。ディカプリオがかつては爆弾の専門家だったが今は娘が心配なだけの元過激派を、ショーン・ペンが民兵組織の指揮官を、実に楽しそうに演じてる。定番の車での追っかけは平原の直線的な道でなく、起伏の激しい坂で見えたり見えなかったりするのが視覚的に面白い。その起伏が最後の対決の伏線になっている。

P.T.アンダーソン監督は作家性と興行成績を両立させる映画を何本もつくってるけど、これは今まででも一番の興行収入らしい。年末に「2025年の映画10本」をリストアップしたけど、去年見ていれば当然入れてたなあ。

 

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December 30, 2025

2025年の10本

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この数年、映画を見る本数が減り、今年は劇場で見た映画が30本に届きませんでした。そのなかから記憶に残る10本を挙げてみます。日本映画を比較的たくさん見ました。それは外国映画の興行成績が振るわないこと、公開本数が減っている(ような気がする)ことと関係あるかもしれません。僕の好きなマイナーな、あるいはB級テイストの洋画が少なくなっているのが残念です。

●『ブラックドッグ』
中国辺境の砂漠地帯の町。荒涼とした風景を数百匹の野犬が駆け抜ける。刑期を終えた男が帰ってくる。再開発のための野犬狩りに駆りだされた男と、黒いボス犬の間に生まれた、はぐれ者同士の絆。ハリウッドの西部劇を現代中国に置きかえた空気感がたまらない。政治批判は一切しないが、言葉にしなくとも伝わってくるものはある。

●『私たちが光と想うすべて』
歌と踊りのボリウッド映画とは違う場所から生まれたインド映画。ムンバイに生きる三人の女性が、悩みを抱えながら生きていく。外国へ出た夫から連絡のない看護師。イスラム教徒の恋人を持つ若い看護師。病院に勤めているが立退きを迫られ故郷へ帰ろうとする女性。巨大都市の光と音が彼女らを包む。ラストの眩いショットは忘れがたい。

●『新世紀ロマンティクス』
新型コロナは中国社会に大きな影を投げかけた。ジャ・ジャンクー監督は過去の2作品に主演した男女二人を起用し、過去作の映像とコロナ禍の現在をつなぎ合わせ、30年にわたる男と女の出会いと別れの新しい作品に仕上げた。コロナを素材としてだけでなく、新しいスタイルの創造に用いた実験精神に脱帽。時の流れと、にもかかわらず持続する思いの深さに圧倒される。

●『ルノワール RENOIR』
なんともみずみずしい映画。小学5年生の少女フキの目を通して描く、ひと夏の経験と成長。1980年代の地方都市。「みなしごになりたい」と作文して母を嘆かせるフキは、癌になった父親が入院したり、母が別の男と怪しげな関係になりそうだったり、周囲の大人の世界を何も言わず黙って見ている。黙って首を振る意思的な瞳が印象に残る。

●『教皇選挙』
世界中の枢機卿がバチカンに集まり密室の教皇選挙となれば、いろんな思惑が交錯しないはずがない。執行役となった枢機卿の視点から、保守派とリベラル派の対立に人種やジェンダーも絡んで、最終決着まで投票ごとにトップが変わるその内幕が興味津々。上映が現実の教皇選挙と重なったことで、一段と面白みが増した。

●『遠い山なみの光』
日本映画ではあるが、原作はカズオ・イシグロの小説だから英国が舞台になる場面のセリフは英語、撮影もポーランドのキャメラマンで、日本映画とは違うテイストの作品になったのが新鮮。イシグロの淡い光の世界が再現されている。原作が多義的な解釈を許す部分を、監督はひとつの解釈で映画にした。製作に加わったイシグロもそれを楽しんでるみたい。吉田羊、広瀬すず、二階堂ふみ、3人ともいいな。

●『美しい夏』
ムッソリーニ政権下の北イタリアを舞台にした女性二人のシスターフッド映画。田舎から出てきたお針子と、年上で奔放なモデル(演ずるディーヴァ・カッセルが魅力的)の二人が話したり、歩いたり、自転車に乗ったりする背後の北イタリアの街角や、紅葉と雪の風景を見ているだけで気持ちよい。観客はやがて戦争が始まるのを知ってるだけに、二人の時間が儚く美しい。

●『旅と日々』
つげ義春の二つの短編が原作。主人公は映画の脚本家で、原作の一本は脚本家が書く劇中劇として、もう一本は主人公が原作に入り込んでしまうという、前後半で別の構造を持つ。それを旅というテーマでつなげてみせた。旅といっても名所旧跡でなく、夏の海岸と雪深い村を淡々と旅しながら、ふっと異世界が紛れこむのが「つげワールド」。

●『殺し屋のプロット』
哲学を教えていた元大学教師の殺し屋が、記憶を失う病にかかる。そこへ息子が人を殺してしまったと助けを求めてくる。ぷつぷつ途切れる記憶と戦いながら、殺し屋は息子を救うため 、ある計画を立てる。マイケル・キートンが製作・監督・主演。西海岸ロスを舞台にしたクールな犯罪映画。こういうの、好きだなあ。アル・パチーノも老いていい味。

 ●『国宝』
僕は単館ロードショー系の映画をよく見るけど、面白い大作ももちろん見たい。久しぶりに見ごたえのある、日本映画のど真ん中をいく作品。歌舞伎の見せ場を折りこみながら、片や血筋、片や才能を背負った二人の成長と挫折の果てまでを楽しませてくれる。「日本大好き」の風潮も追い風になったか。

● 番外
他に記憶に残ったのは『宝島』(出来はいまひとつだったけど、スタッフ・キャストの熱を感じた)、『名もなき者』『ハルビン』『桐島です』『ザ・バイクライダーズ』など。

皆さま、よいお年をお迎えください。

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December 06, 2025

『旅と日々』

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脱力系とでも言うんだろうか。『旅と日々』は力の抜けた、淡々とした、それでいてふっと異世界を感じさせながら見る者を旅にいざなう映画だった。原作はつげ義春の「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」。原作も「ねじ式」みたいな夢幻世界でなく、日常の旅のなかで一瞬別世界が顔をのぞかせる体のマンガだったけど、その感じがとてもよく出ている。

脚本家の李(シム・ウンギョン)が「海辺の叙景」をシナリオ化しようとしている。カメラは彼女が書くハングル文字を追いながら、劇中劇のように「海辺の叙景」に転換する。都会から海辺にやってきた男(高田万作)と女(河合優美)が出会う。二人はぼそぼそ話し、翌日も雨の海のなかで泳ぐ。それだけの話なのだが、上空から俯瞰した鮮烈に青い海や激しい雨のなかを泳ぐショットに引き込まれる。最後、マンガの最終コマと同じ、雨のなかで泳ぐ男を女が傘をさして眺めるショット(女も泳いで濡れてるのに)に「あなた すてきよ」と台詞がかぶさる。そのちくはぐなおかしみが何ともいえない。

やがて李が冬の東北に旅に出る。そこから「ほんやら洞のべんさん」になるのだが、今度は脚本家の李自身がマンガの登場人物になり劇中に入り込んでしまう。李が雪深い村の崩れそうな一軒宿に泊まる。主のべん造(堤真一)は商売っ気なく、布団も敷かずに酒を飲んで寝てしまう。翌日、李はべん造が雪のなかを別れた妻の実家に鯉を盗みに行くのにつきあう。こちらもただそれだけの話なのだが、雪原をゆく二人の遠景や、雪にぼこっと沈んで揺れながら歩く李の後ろ姿を見ていると、そのなかに吸い込まれそうになる感覚を味わえる。

監督の三宅唱は『きみの鳥はうたえる』とか『ケイコ 目を澄ませて』とか国際的に評価される力作をつくってきたけど、こういう力の抜けた、でも映画の楽しさを持った作品もいいなあ。

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October 09, 2025

『ブラックドッグ』

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『ブラックドッグ(原題:狗陣)』は、なんとも刺激的で面白い中国映画だった。

まず、映画の舞台がいい。中国西北部、モンゴル国境も遠くない赤峡鎮。ゴビ砂漠の端にあり、かつて鉱山町として栄えたらしいが今は寂れ、廃墟になったビルやアパートが目立つ。かつて賑わったらしい動物園や、丘上にバンジージャンプ台がある。町の外は砂漠の荒野。低い潅木の間をタンブルウィード(回転草)が転がる。そこを野生化した数十、数百頭の野犬が駆け抜けるのが冒頭のショット。

北京オリンピックを控えた2008年、刑期を終えたラン(エディ・ポン)が故郷の村に帰ってくる。無人の家に帰ると、かつてランが殺してしまった男の一家の者が、オートバイで「この殺人者め」と威嚇して走り去る。荒野の町。男の帰郷。待ち構える敵。オートバイ(馬)。あ、これは西部劇だな、と思う。ランは失語症で、ほとんど言葉を発しない。村は再開発のため野犬狩りをすることになり、他人と協調しないランは一人で1000元の懸賞金をかけられた黒犬を捕獲しようとする。捕獲はしたが、咬まれたランは狂犬病を疑われる黒犬とともに一週間、家に閉じ込められる(発症しなければ自由の身、発症したら放っておかれるのだろう)。そこでランと黒犬の間に友情が芽生える……。

甘粛省でオールロケされた映像が素晴らしい。荒野や廃墟の町を疾走する野犬の群れ。ランと黒犬が荒野の道を進むと、数百の野犬が黒犬に従うように座って彼らを見守る。町にやってきたサーカス団のダンサーとランの束の間の交流。客のいない動物園とバンジージャンプ台の寂寥。真っ白の漆喰を塗られた砂漠の家屋。動物園から放たれ、無人の町を徘徊する虎。殺された男の一家と対峙して、バイクでの枯れ河の跳躍。言葉を発せず、笑わないランの、最後の笑み。ぶっきらぼうなランと共振するように、映画のスタイルも説明を排しぶっきらぼうなのがいい。 

主演のエディ・ポンは台湾の人気俳優。グァン・フー監督はこのところ戦争アクション映画が多いが、ジャ・ジャンクー、ロウ・イエと並んで、いま中国でいちばん尖った作品をつくっている「第六世代」に属する。黒澤明や初期の小津安二郎がアメリカ映画の影響を受けたように、アメリカ映画を見て育った世代なんだろうな。 

 

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September 09, 2025

『遠い山なみの光』

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『遠い山なみの光(原題:A Pale View of Hills)』は不思議な感触の映画だった。カズオ・イシグロの原作を石川慶が監督した日・英・ポーランド合作映画。セリフも映像も見慣れた日本映画のそれではないし、イギリスの堅実なリアリズム映画とも違う。ポーランドで映画を学んだ石川監督とポーランド出身のカメラ、ピオトル・ニエミイスキ(いくつもの印象的なショットがある)のチームが醸し出す色でありリズムなんだろうか。加えて、長崎とイギリスが舞台のこの映画で主人公の悦子(吉田羊)が娘のニキと英語でしゃべりはじめたとき、そうだ、原作は英語の小説なんだよな、と気づいた。日本語の小説や日本映画には、日本人には当然のこととされ語られない前提がいっぱいある。日本人の琴線を揺さぶるセリフや映像やリズムも、つくる側、見る側、ともにたっぷり蓄積されている。この映画にはそれがない。それが新鮮だった。

1980年代、イギリスの田舎に住む悦子のもとを、ロンドンに住む娘のニキが訪ねてくる。大学を中退し物書きを志すニキは、イギリス人の父と結婚して渡英した母・悦子の長崎時代の思い出を聞いて作品にしようとしている。

1950年代、長崎で結婚し妊娠していた悦子(広瀬すず)は、川原のあばら家に住む佐知子(二階堂ふみ)とその娘と知り合う。悦子も佐知子も原爆を体験しているが、背景として語られるだけでそこへ深入りはしない。佐知子はアメリカ兵と恋愛し、すぐにもアメリカに旅立つと悦子に語る。佐知子の娘は行きたくないとぐずっている。結婚し社会の常識に沿って生きている悦子と、周囲の目を構わず自分の意思を押し通そうとする佐知子。

若い悦子が妊娠していたのは、ニキの姉にあたる長女で、イギリスで音楽家になるはずだったのに自死していた。老いた悦子は、それが自分のせいではなかったかと自問している。悦子と娘、佐知子と娘。老いた悦子が語る佐知子と娘の記憶が、若い悦子と娘に重なってくる。

二組の相似た母娘について、映画は最後にある謎解きをしている。でも原作にそれはなく、謎は謎のまま宙吊りにされ多様な解釈を許す。謎解きは石川監督が映画化に当たっての原作の解釈。カズオ・イシグロはこの映画のプロデューサーとしてもクレジットされているから、原作の自由な解釈をむしろ楽しんでいるのだろう。

対象から距離を置いたショットが多く、色彩も抑えられ、そのクールな感じがカズオ・イシグロの淡い光の世界にぴったり。 

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September 02, 2025

『美しい夏』

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これだけ猛暑日がつづくと脳も身体もバテてうまく働かない。ともかく気持ちいい映画を見たいなあと思って選んだのがイタリア映画『美しい夏(原題:La Bella Estate)』。これが正解だった。北イタリアのトリノを舞台にした女性2人の青春映画。脆く、はかない、そして残酷でもある時間を感じさせて、いい映画でした。原作はチェーザレ・パヴェーセの同名の小説。

16歳のジーニア(イーレ・ヴァネッロ)は田舎からトリノに出て兄と一緒に暮らし、お針子として働いている。おとなしく、引っ込み思案だが、服つくりの才能は認められている。兄と出かけた郊外のピクニックで、年上のアメーリア(ディーヴァ・カッセル)に出会う。美人で奔放な彼女は画家のアトリエでモデルとして金をかせいでいる。ジーニアはアメーリアに惹かれ、彼女に従ってアトリエに出入りし、画家たちのボヘミアンな世界にも惹かれてゆく。時は1938年、ムッソリーニ政権下。

2人が出会うトリノ郊外の夏の湖はじめ、渋い色彩の風景のなかで2人の仲が、深まってゆく。アメーリアは画家たちと関係があり、ジーニアもひとりの画家に惹かれてゆくが、アメーリアはジーニアに「軽薄な男たちといるより、女同士のほうがいい」と言う。木立のなかを歩いたり、自転車に乗って町を走ったり、落ちて積もった紅葉のなかに身を横たえたり、トリノの町に雪が降ったり、2人の背景の風景を見ているだけで楽しい。

時代を感じさせるショットも短く挿入される。窓の外からムッソリーニの演説が聞こえてくる。壁には彼のポスターが見える。ジーニアが洗濯物を取り込むと、そばにファッショ党の制服、黒シャツが干してある。観客はやがて戦争が始まることを知っているから、2人の時間が一層いとおしく感じられる。

奔放なアメーリアを演ずるディーヴァ・カッセルはモニカ・ベルッチの娘。モニカ・ベルッチは、少年が憧れる年上の女になった『マレーナ』とか、セクシーな高級娼婦になった『シューテム・アップ』とか、何本か見ていて印象に残る女優のひとり。娘のディーヴァは高級ブランドのモデルとして有名らしいが、どんどん映画に出てほしいなあ。

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August 14, 2025

『「桐島です」』

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淡々とした映画なのが、とてもよい。1975年に企業連続爆破事件で指名手配された東アジア反日武装戦線のメンバー、桐島聡の50年に渡る逃亡生活。最初の20分くらいで企業爆破事件を当時の映像を交えて描く。多数の死者を出したことでメンバーは動揺し、以後は電話で予告したり、人のいない時間に爆発させたりする。寄せ場で働く桐島(毎熊克哉)と宇賀神(奥野瑛太)は他のメンバーが逮捕されたのを知り、湘南の神社で会う約束をして逃亡生活に入る。ここまでが序章。

桐島は、偶然に見た募集看板から藤沢の工務店で働くことになる。古い借り上げアパートに住み、毎日、仕事に出かける。朝、歯を磨き顔を洗ってインスタント・コーヒーを飲む。トラックに乗って現場に行く。そんな桐島の日常になるあたりから内田勘太郎のギターが入ってくる。時にブルージーな、時に画面に寄り添う静かな音楽が、この映画のリズムをつくっている。そのあたりで思い出したのは『PERFECT DAYS』。人生を「捨てた」男、役所広司が公衆トイレの清掃員として木造アパートで判で押したような日常を送る、自ら選んだその生の喜びを描く映画だった。ファンタジーとしてよくできた作品だったが、こちらの桐島は自ら選んだわけではない。しかも指名手配されている。寝るときも靴をはき、枕元にバッグを置く。パトカーの音や人声が聞こえれば、起き上がって窓から外を覗く。それでも夜はライブハウスで酒を飲み、河島英五の「時代おくれ」を歌うキーナ(北香那)に好意を寄せられる。桐島は自ら彼女から離れていく。「時代おくれ」はキーナと桐島によって三度歌われる。「目立たぬように はしゃがぬように」という歌詞(阿久悠)は、歌のタイトル(映画の序章で、ガールフレンドが桐島に「時代おくれね」といって去ってゆく)とともに、映画のキーワードになっている。

桐島を演ずる毎熊克哉が素晴らしい。抑えた表情が、優しさと、内に秘めたものを語っている。20代から60代までの変化は髪型と眼鏡の変化で見せる。白髪髭面の60代の桐島は背も丸まり生気を失っている。でも現場の外国人労働者と親しくなり、自室では、安倍首相が安保法制について語るテレビ画面に物を投げつける。素材から予想されるような社会派の映画ではないけれど、現在にもつながっている。

桐島にとって、その日をどう送るかが生きることのすべてだったろう。1日1日をどう送るか。それは、惰性的な日常を送る人間にとっての問いともなる。広く考えれば桐島の同世代者であり、今は癌サバイバーの後期高齢者である小生にとっても他人事でない。髙橋伴明監督。梶原阿貴脚本。

 

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July 31, 2025

『私たちが光と想うすべて』

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『私たちが光と想うすべて(英題:All We Imagine as Light)』は素晴らしいタイトルで、映画の核を見事に表している。巨大都市ムンバイを舞台にしたインド映画。ムンバイといえば歌と踊りのボリウッド映画が有名だけど、それとまったく違う、ふつうに暮らす3人の女性が、それぞれに悩みを抱えながらも静かに生きていく。その3人を包むように灯る都市の光が、まるで3人の、いやムンバイに生きる無数の人々の生のきらめきのようだ。

 

病院に勤める3人。看護師のプラバ(カニ・クスルティ)は見合い結婚して夫はドイツへ働きに出ているが、あまり連絡がない。プラバのルームメイトで若い看護師アヌ(ディヴィア・プラバ)にはイスラム教徒の恋人がいて、隠しているが病院で噂になっている。食堂で働くパルヴァティ(チャヤ・カダム)は、高層ビル建築のため住まいから立ち退きを求められている。プラバは同僚の医師から好意を持たれ、高層ビルの灯りが見える夜の公園で静かに語り合うけれど、2人の関係がそれ以上に発展することはない。夜、プラバの自室の窓からは、通勤電車の光が移動していくのが見える。アヌは、仕事を終えて恋人とデートする。立ち退きを決めたパルヴァティは故郷へ帰ることになり、3人そろって電車で海岸の村まで行く。そこで小さな出来事が起こるが、それも事なきを得、夜の海岸のネオンが光るテント小屋で3人は語り合う。

 

ドキュメンタリーを撮ってきた女性監督パヤル・カパーリヤーの長編第1作。冒頭、ムンバイの夜の町を車から移動撮影しながら、町の音と、ムンバイについて語る人々の声が重なる。そこからして引き込まれる。ネットや本でムンバイの映像としてよく見る高層ビル群や寺院、また巨大スラムといった典型的なものでなく、世界のどの大都市にもありそうな、でも確かにここはムンバイだと感じられる映像が見事。その風景と、空気感に、今まで知らなかった新しいインド映画の息吹を知った。

 

 

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