May 25, 2017

『映画 夜空はいつでも再高密度の青色だ』 片隅の光景

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『映画 夜空はいつでも再高密度の青色だ』の原作は最果タヒの同名の詩集。詩集から映画をつくる珍しい試みだ。それがどこに表れているかといえば、主人公の男女が詩の言葉をつぶやく。例えばこんな具合に。

「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ」
「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない」
「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

最果タヒが20代で書いたこれらの言葉は、いわゆる現代詩の言葉遣いでなく若い世代が日常に感ずる違和を言語化したものだろうけど、会話のなかでしゃべれば、やはり普通じゃない。変な奴と思われる。男も女も自分を変だと思っている。そんな二人が遠回りして結ばれる「ボーイ・ミーツ・ガール」の青春映画。その遠回りのあいだに、二人をとりまくこの社会の姿が見えてくる。監督は『舟を編む』の石井裕也。

美香(石橋静河)は看護師として仕事しながら、夜は渋谷のガールズバーで働いている。慎二(池松壮亮)は建築現場で日雇い仕事をしている。慎二がつるむのは兄貴分の智之(松田龍平)、中年の岩下(田中哲司)、出稼ぎフィリピン人のアンドレス(ポール・マグサリン)。彼らは仕事帰りのガールズバーで美香と会う。智之が美香とSNSでつながってつきあいはじめるが、智之はあっけなく死んでしまう。仲間しかいない通夜の席で、美香と慎二は顔を合わせる……。

美香がガールズバーで働くのはお金がほしいこともあるが、それ以上に何か焦燥にとりつかれているらしい。慎二もいつも「イヤな予感」、言いかえれば死の予感につきまとわれている(タヒとは「死」の文字を分解した名前らしい)。詩の言葉をしゃべりまくるかと思えば、黙りこくってしまう。生きづらさをかかえた二人が、お互い手探りするように相手を少しずつわかってゆく。新人の石橋静河と、いろんな映画で顔なじみの池松壮亮の抑えた演技がいい。青春映画というと必ず主人公が叫ぶシーンがあるけど、そういう場面が出てこないのもいい。

智之の通夜で、彼らを派遣する会社の社員は「仕事中に死なないでくれよな」と迷惑そうに慎二につぶやく。慎二のアパートで隣に住む読書好きの老人は、孤独死しているのが見つかる。腰を痛めた岩下は現場を去ってゆく(どこへ行くのかは明かされない)。アパートに何人ものフィリピン人と同居して暮らすアンドレスも、家族のいるフィリピンに帰る決心をする。

最後、慎二の狭いアパートで朝を迎えた二人が、鉢植えの小さなサボテンに花が咲いているのをみつける。片隅の光景で終わるのが素敵だ。


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May 24, 2017

『台北ストーリー』 鋭い歴史感覚

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Taipei Story(viewing film)

『台北ストーリー』という邦題は英語題名を訳したものだけど、中国語の原題は「青梅竹馬」。幼馴染みのことだ。そのことが分かってないと、映画を見ながらこの2人の男女の関係はなんなんだ、としばし戸惑いを覚える。「竹馬の友」という言葉を思い出して、そうか幼友達なんだなと理解できた。

1980年代の台湾ニューウェーブを担った映画人が一堂に会した『台北ストーリー』(1985)が一般公開されるのははじめて。ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンもほとんど見てるけど、この映画だけは見ていなかった。アメリカの大学で映画を学び台湾に帰ってきたエドワード・ヤンが、いわば自分のスタイルをつくりあげるきっかけとなった作品。僕がこの映画を見て感じたのは、エドワード・ヤン(と、共同脚本のホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン)の台湾社会に対する歴史感覚の鋭さだった。

舞台は台北の古い問屋街である迪化街。そこで育った幼馴染みのアリョン(ホウ・シャオシェン)とアジン(ツァイ・チー)の恋人とも友達ともつかない関係に、近代化が進む台湾社会の変化が重ねられる。近代化の象徴として、台湾社会に浸透したアメリカと日本のイメージが頻繁に使われる。

アジンはキャリアウーマンとして不動産開発会社で仕事しているが、上司とは個人的な関係もあるらしい。家を出て、新しいマンションで独り暮らし。でも会社は大企業に買収されて職を失い、どうするか迷っている。アリョンはかつてリトルリーグのエースとしてアジンたちの憧れの的だったが、今は地味に家業の布地問屋をやっている。アジンは、アメリカにいるアリョンの義理の兄を頼ってアメリカへ行こうとアリョンに持ちかけるが、アリョンは煮え切らない。

しびれを切らしたアジンは妹の友達の若い男とつきあいはじめる。アリョンは、家を売って渡米資金をつくったものの、借金返済を迫られ困っているアジンの父親に融通してしまう。台湾は大家族社会で(東山彰良『流』の世界ですね)、アリョンの家とアジンの家は祖父の代からのつきあいらしい。アジンは、アリョンの父親と酒を飲み、迪化街の路上に座り込む。失われゆく街の古い建物を車のライトが照らす。

アジンの洒落たマンションには、マリリン・モンローのポスターが掛けられている。アジンは映画の後半で、アメリカ資本の会社に誘われる。アジンが若い男たちと遊ぶ部屋の外には、富士フイルムやNECの大きなネオンサインがある。強烈なネオンサインをバックにアジンと若い男のシルエットが印象的。アリョンの元カノは日本人と結婚して、里帰りしてくる。アメリカと日本のイメージは、アリョンとアジンの実現しない脱出願望の象徴とも取れる。

迪化街の崩れそうな建物と、日本企業のネオンサイン。アジンが囚われる古い台北と、アリョンが生きる新しい台北が軋んでいる。エドワード・ヤンはアメリカ育ちなので、帰国して接した台北がこのように見えたのだろう。ちなみにシャープを買収し東芝に興味をもつ鴻海精密工業は、この時代すでに日米メーカーの下請けとして創業している。

エドワード・ヤンが自らのスタイルをきわめた『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をすでに見てしまった目からは、『台北ストーリー』はエドワード・ヤンらしい鋭いショットと、旧来の手法や映像がまだ混在しているように見える。とはいえこの時代、台湾には定型でつくられた娯楽映画しか存在しなかったから、因果関係が薄く人間関係の説明もしないこの映画は、ずいぶん変な映画だと思われたろう(4日間で上映打ち切り)。

この映画が、共同で脚本を書き、主演したホウ・シャオシェン(煮え切らない男を素のままで好演)に大きな刺激を与えたことは確かだろう。大学で映画を学んだエドワード・ヤンに対し、台湾の撮影所で娯楽映画から出発したホウ・シャオシェンは、ヤンとのつきあいのなかで新しい映画の手法に目を開いていったように思える。

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May 13, 2017

『ノー・エスケープ 自由への国境』

Desierto
Desierto(viewing film)

『捜索者』や『死の谷』といった古典以来、西部劇の定番のひとつに砂漠(西部劇では「荒野」と呼ぶのがお約束)での追う者と追われる者との追跡劇、あるいは逃避行がある。その定番のパターンを踏襲しながらハリウッド製西部劇とはまったく異なる現代の追跡劇(逃避行)にしたのが『ノー・エスケープ 自由への国境(原題:Desierto、砂漠)』。88分と短い映画だけど、張りつめた緊張が見事なサスペンスだ。

追うのは、貧しい白人の一匹狼サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)。追われるのは、国境を越えてアメリカに密入国したモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)ら15人のメキシコ人。砂漠の国境には有刺鉄線が張られているだけ。モイセスたちは、いとも簡単に歩いて国境を越える。見渡す限りの荒野と岩山(ロケはカリフォルニア)。

サムはライフルをもちジャーマン・シェパードの猟犬とともにピックアップトラックで砂漠を走っている。警官に職質されると、ウサギ狩りに許可証はいらないだろう? と反問する。砂漠で食料にするウサギも撃つが、サムが狩っているのは密入国した人間たちだ。現実に南部や西部には密入国者を捕らえる私設警察集団があるけれど、サムには彼らのような反移民のイデオロギーはなさそう。ウサギを狩るのと同じ感覚で人間を狩っているらしい(そのほうが怖い)。

サムが砂漠を歩く密入国者を発見し、丘の上からガイドら11人を容赦なく狙い撃って殺す。一行に遅れていたモイセスとガイドの助手、男女のカップルの4人だけが生き残る。逃げるモイセス(この名前はモーゼとエクソダスに重ねられているのか)らに気づいたサムは彼らを追う。

人を拒む乾いた谷と乾いた岩山の風景が圧倒的だ。そのなかを武器を持たない4人が逃げ、サムと猟犬が追う。逃げ遅れたカップルの男が猟犬に喉を食い破られる。ガイドの助手は岩山から落ちて死ぬ。モイセスと残った女は、サムの裏をかいてトラックを盗むが、撃たれて車は横転し、女は重傷を負う。モイセスは自分をおとりに猟犬とサムを引きつけようとする。鋭い棘のあるサボテンの群落や、そそり立つ岩山での猟犬対モイセス、サム対モイセスの対決。

主役やスタッフはメキシコ勢だけど、サムがただの悪漢でなく、社会からはじきだされた男の哀しみをにじませている。だから結末にカタルシスはなく、むしろ重苦しい。

脚本・監督のホナス・キュアロンは、アルフォンソ・キュアロン(『ゼロ・グラビティ』)の息子。『ゼロ・グラビティ』のアイディアもホナスで、父と一緒に脚本も書いていた。『ノー・エスケープ』も『ゼロ・グラビティ』も、ごくシンプルな設定からハラハラドキドキの物語をつくりあげることでは共通している。また目を離せない監督がひとり増えた。


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April 28, 2017

『タレンタイム~優しい歌』 多民族国家の青春

Talentime
Talentime(viewing film)

『タレンタイム~優しい歌(原題:Talentime)』(2009)は51歳で亡くなったマレーシアのヤスミン・アフマド監督の遺作。ほれぼれする青春映画だった。

高校の学内音楽コンクール(タレンタイム)に出場する4人の学生を中心にした群像劇で、なにはともあれ彼らの民族的宗教的背景の多様さにびっくりする。

ピアノの弾き語りをするヒロインのムルー(パメラ・チョン)は裕福なイスラム家庭の娘。父はマレー系と英国系の混血、母はマレー系。家族同然の中国系のメイドがいる。そのムルーをタレンタイムの練習にバイクで送り迎えすることになったマヘシュ(マヘシュ・ジュガル・キショール)はインド系で聾唖。宗教はヒンドゥー教で、マヘシュの母は同じインド系ながらイスラムの隣人を毛嫌いしている。

ギターの弾き語りが上手な転校生のハフィズはマレー系のムスリム。ひとり親の母は脳腫瘍で入院している。二胡を弾くカーホウは中国系。秀才だが転校してきたハフィズに一番の座を奪われ、成績優秀であれと命じる父のプレッシャーを感じている。

映画のなかで話されるのはマレー語(公用語)、英語(準公用語)、タミル語、中国語、それに手話を加えれば5つの言語が飛び交う。それがマレーシアの現実を反映しているんだろう。実際には、それぞれの民族も地域ごとに枝分かれし、それぞれの混血もいて、マレーシアは極めて複雑な多民族国家だ。

ヒロインのムルーは最初、マヘシュが聾唖であることに気づかず不愛想な態度に怒るが、やがて誤解が解けて互いに惹かれるようになる。イスラムであるムルーの家庭はマヘシュに寛大だが、ヒンドゥー教徒であるマヘシュの母は息子の恋人がイスラムと聞いて激怒し、交際を禁ずる。中国系のカーホウも口には出さないがムルーに惹かれている。敬虔なイスラムのハフィズは、入院している母を毎日のように見舞い、ムルーとマヘシュの橋渡しをしてやる優しい男。

それぞれの生徒の家庭の事情や先生たちの恋愛模様なども点描されて、タレンタイムの本番が近づいてくる。マヘシュがムルーを乗せてバイクで街を走ったり、公園のベンチに腰掛けたりのショットが素敵だ。冒頭と最後、会場となる無人の体育館の照明がつき、最後に消えてゆくショットもいい。タレンタイムで歌われるのは、マレーシアの人気アーチスト、ピート・テオ作曲の「I Go」や「Angel」。印象深いラブソング。

こういうコンクールもの映画は世界中のいろんな国でつくられていて、その意味では定型だけど、画面からあふれるみずみずしさが定型を感じさせない。民族も宗教も超えて人と人はつながれるというメッセージが、声高でなくじんわり滲んでくる。

マレーシアを舞台にした映画を見るのは、ツァイ・ミンリャン『黒い眼のオペラ』以来。マレーシア生まれのツァイは中国系で、この映画をつくったころは台湾を拠点にしていたから、純粋のマレーシア映画を見るのは初めて。タイ、フィリピン、そしてマレーシアと、このところ東南アジアの映画が面白いなあ。

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April 19, 2017

『午後8時の訪問者』 ミニマルな映画

La_fille_inconnue
The Unknown Girl(viewing film)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の『午後8時の訪問者(原題:La Fille Inconnue)』には、いっさいの無駄がない。無駄な映像がなく、無駄なセリフがなく、無駄な音楽がない。カメラは登場人物の傍らにはりついて、そこから離れようとせず、風景などのショットは挿入されない。殺された少女がどんなふうにこの国にやってきたのかや、主役の医師の家庭環境なども説明されない。音楽はいっさい入らず、終始、高速道路を走る車の音だけが流れている。必要最小限の要素でつくられた、ミニマリズムの映画。

もっとも一般論で言えば、それが即いい映画という訳でもない。心を揺さぶる映像の迫力。ジョークや洒落たセリフ。適度な説明。ぴたりとはまった音楽。そういう遊びがあってこそ、映画の快楽はいよいよ大きくなる。でもダルデンヌ兄弟は、そうした遊びを引き算して映画をつくることを自分たちのスタイルとして選んだ。

ベルギーのリエージュ。医師のジェニー(アデル・エネル)は引退する老医師の診療所で、研修医とともに代診をしていた。帰り支度をしていた午後8時、誰かがベルを鳴らす。研修医がドアを開けようとするが、ジェニーは診療時間外だからと止める(彼女には、勤務することが決まった病院の歓迎パーティーの予定があった)。翌日、近くの川で身元不明の若い女性の死体が発見される。防犯カメラには、女性が診療所のベルを鳴らす姿が映っていた。医師として罪悪感にさいなまれたジェニーは、女性が誰なのかを調べはじめる……。

リエージュはダルデンヌ兄弟が生まれ育った土地であり、彼らの過去の映画の舞台でもある。殺風景な工業都市。診療所は、労働者階級や移民が暮らす貧困地区にある。ジェニーが手掛かりを求めて家々を訪ねはじめると、労働者家庭の現状や、移民が集まるカフェ、若者がたむろする廃工場、移民の売春組織などが浮かびあがってくる。

とてもぶっきらぼうな映画なのに最後まで引き込まれるのは、女性が誰なのか、なぜ殺されたのかの謎を追う、サスペンスの要素だけは引き算の果てに残しているからだろう。『ある子供』や『ロルナの祈り』もそうだったように。小生、サスペンスやミステリーなどのジャンル映画が好きなので、そこに惹きつけられる。

ドキュメンタリー出身らしく、ひたすら主人公を追うカメラと、カメラの動きによって徐々に謎が見えてくるジャンル映画の要素が溶けあってる。それが、似たようなテイストをもつケン・ローチやミヒャエル・ハネケと違うダルデンヌ兄弟のスタイルなんだろう(もっとも隣で見ていた中年夫婦は文字通りジャンル映画を期待していたらしく、見終って「なに、この映画」と文句を言っていた。邦題はそういう誤解を意図的に誘導してる)。

最後にジェニーは、決まっていた病院勤務を辞退し診療所を引き継ぐことを決意する。前作『サンドラの週末』でもマリオン・コティヤールが全編すっぴんだったけど、この映画でもアデル・エネルは化粧っ気なしで、にもかかわらず魅力的な女性医師を演じている。


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April 14, 2017

『哭声/コクソン』 國村隼の悪霊ぶり

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The Wailing(viewing film)

韓国・全羅南道の山間に谷城(コクソン)という村がある。映画の舞台はここ。タイトルの『哭声(原題:곡성)』と同じ発音になる。地名と哭声という言葉が掛けられているわけだ。哭声とは辞書によれば「人が死んだときに大きな声で泣く声」。そのとおりに、谷城に哭声が響きわたる。

のどかな山あいの村に、ひとりの日本人(國村隼)が住みついたことからなにかが変わりはじめる。住民が家族を惨殺する事件が連続して起こる。家族を殺した男は肌が赤くただれ、家の柱には見たこともない茸が生えている。住民たちは、日本人の仕業ではないか、日本人が裸で鹿の死体を食っているのを見たなどと噂する。村の警官・ジョング(クァク・ドウォン)が捜査に当たるが、ある日、自分の娘の肌が赤くただれているのを発見する……。

ジョングの母は、孫が悪霊に憑かれたと祈祷師(ファン・ジョンミン)を呼んで祈祷の儀式を行う。共同体によそ者が侵入したことから生まれる疑惑という社会派的な物語と、悪霊憑きと除霊といった『エクソシスト』ふうな物語が絡まりあって進行する。怪しげな若い女(チョン・ウヒ)が出てきたり、真っ赤な目をした國村隼がジョングの夢に現れたり、なにが起こっているのかわからないが、不安と恐怖が村に充満していく。もっともジョングは娘にまで馬鹿にされる頼りない警官で、太めのクァク・ドウォンが笑いとユーモアもかもしだす。いろんな要素がつめこまれすぎ、やや未消化で、ナ・ホンジン監督の『チェイサー』や『哀しき獣』にくらべると完成度はいまひとつだったが。

ところでこの映画、ネトウヨから反日映画などと騒がれるものかと一抹の不安があったけれど、そんなテイストはまったく感じなかった。

ひとつには、國村隼の役が「日本人」ではなく、共同体の外部から来た「よそ者」と設定されているからだろう。実際、ナ・ホンジン監督は最初、この役に中国人か日本人を考えたという。歴史的にいろいろあった日本人という設定ではなかった。國村の掌に釘を打たれた跡のある(イエスのように)ショットも挿入されていた。もうひとつは、國村隼が素晴らしいから。村人の妄想のなかで膨らんでゆく悪霊を身体を張って演じ、彼がいなければこの映画は成り立たなかったろう。青龍賞で男優助演賞と人気スター賞を得ている。

このところ『お嬢さん』や『暗殺』など日本の植民地時代を舞台にしたり、『哭声』のように日本人が登場する映画が公開されている。いま政治的に日韓は緊張しているけれど、これらの映画にそうした緊張はまったく反映していない。逆に、植民地に生きる悲しみを描いたり(『暗殺』)、日本が倒錯した憧憬の対象になったり(『お嬢さん』)、日本人としてでなくもっと普遍化して描かれたり(『哭声』)、韓国映画の成熟を感ずる。國村が韓国の映画賞を受賞したことも、そこに数えてもいいだろう。日本映画での韓国と韓国人(在日も含めて)の描かれ方(あるいは不在)を考えると、むしろ韓国映画のほうが成熟の度合いが高いのかもしれないな。

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March 20, 2017

『お嬢さん』 植民地の官能

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Handmaiden(viewing film)

『お嬢さん(原題:아가씨、アガシ。娘の意)』の原作はサラ・ウォーターズのミステリー『荊の城』(未読)。19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台にした犯罪小説だそうだが、パク・チャヌク監督は映画化にあたって大日本帝国の植民地下にある朝鮮に設定を変えた。そのことで、映画はより複雑な色彩をおびることになったと思う。

韓国映画だから、この地を植民地として支配していた日本が悪として描かれるのは当然だろう(実際そうだったわけだし)。とはいえ、最近の韓国映画は変わってきている。去年面白かった『暗殺』も、日本が悪という大枠はあっても、日本に協力せざるをえない男の哀しみに比重がおかれていた。『お嬢さん』も、支配者である日本人から財産を奪うという大枠はあるにしても、支配・被支配の関係が政治的なメッセージでなく、ねじれたエロティシズムの源泉になっている。そこが面白いし、大胆でもある。

舞台になるのは、上月という日本人華族の植民地の邸宅。といっても上月(チョ・ジヌン)は日本人でなく、上月家の婿となったため上月姓を名乗る朝鮮人。莫大な財産を相続した義理の姪、秀子(キム・ミニ)と結婚して財産を乗っ取ろうと目論んでいる。邸宅の正面は西洋館、裏は和風邸宅という奇妙な空間。

上月は稀覯本のコレクターで、とりわけ江戸時代の春本を蒐集している。北斎の、巨大タコが女体にからみつく春画も所有し、地下室の水槽に巨大タコを飼っている。上月はコレクター仲間を集めて、秘密の朗読会と競売を催している。そこで春本の朗読と実演をするのは、邸宅を一歩も出ずに「お嬢さん」として育てられた秀子。

映画は、この邸宅にスッキ(キム・テリ)が珠子と名乗りメイドとしてやってくるところから始まる。スッキは、藤原伯爵と名乗る朝鮮人詐欺師(ハ・ジョンウ)の手先で、家に出入りする藤原伯爵を秀子が好きになるよう仕向け、結婚して秀子の莫大な財産を奪おうという計画なのだ。被支配者である朝鮮人がよってたかって豊かな支配民族の娘から財産を奪いとろうとする構図。はじめスッキは計画通り動いていたが、やがて秀子に好意を抱くようになり、秀子もスッキに心を開いて……。

物語の大部分は、上月の和洋折衷の邸宅で進行する(キッチュで耽美的なセットが素晴らしい)。地下室や座敷牢ふうな仕掛けもある密室的空間で繰り広げられるエロティシズム。バスタブにつかり飴をなめる秀子の唇のアップ。スッキが秀子の口の中に指を入れる、二人の関係を予感させるショット。孤児で貧しい被植民者の娘が、豊かで深窓育ちの植民者の娘を誘惑し、とろけさせてゆく。パク・チャヌクらしい映像が次々に仕掛けられる。

驚きはそれだけではない。最初、スッキの視点から描かれた物語が、次に秀子の視点から、更に第三者の視点から語られて、最初の筋書きがひっくり返される。詐欺師の手先として秀子を騙す手伝いをするはずのスッキは、秀子の身代わりとして犠牲にされる運命にあった。

二転三転するストーリー。被植民者のねじれた欲望。密室の暴力と笑い。濃厚なエロティシズム。パク・チャヌク監督は、植民者の邸宅で繰り広げられるそれらの物語を、批判的な視線ではなく美的に、官能的に描いた。その視点が新鮮だし、大胆だ。やるなあ、パク・チャヌク。

役者も、国際的に評価の高いキム・ミニと新人のキム・テリ、ふたりとも熱演。二人の存在がなければこのエロティックな映画は成立しないわけで、『アデル、ブルーは熱い色』のレア・セドゥもそうだけど、どの映画に出てどんな役を演ずるか、役者が自分で考え自分で判断するのが当り前なんだと思う。日本に挑戦的な映画が少ないのは、それが当り前じゃないところにも理由の一端があるんじゃないかな。

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March 08, 2017

『バンコクナイツ』 「沈没組」の視線

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Bangkok Nites(viewing film)

テレビや映画や出版で、「日本はこんなにすごい」「日本人は素晴らしい」的なものが目立つようになったのは、安倍政権がメディア批判をするようになって以来。政権のメディア対策とメディアの自主規制と、そこそこ商売になることが相まってのことだろう。「嫌○○」のようなイデオロギー色はなく、一見脱色しているように見えても、その底には「自分たちは優れている」というナショナリズムの匂いがする。

それ以上に気になるのは、こういうテレビや映画や本を喜んでいる人たち、特に若い人たちの間で、この国の外側への関心、逆に外側からこの国がどう見えているかといった視点、つまりはこの国を相対化して見る視線が弱いのではないかということ。外国旅行をする人が減ったとか、外国のポップスでなくJポップとか、外国映画でなく日本映画とか、そんな現象からも関心が内向きになっているのがわかる。

そんなところに現われたのが『バンコクナイツ』。一貫してインディペンデントで映画をつくってきた集団「空族」の冨田克也監督が『サウダーヂ』につづいて撮った新作だ。タイのバンコクという窓からは、日本と日本人がこんなふうに見えている。

日本語の看板が並ぶ歓楽街タニヤ通りのクラブ「人魚」。イサーン(東北部)から来たラオ族のラック(スベンジャ・ポンコン)はNO.1の売れっ子。ヒモで店のポン引きビン(伊藤仁)と同居しながら、稼いだ金を故郷の家族に送っている。そんなとき、かつての恋人オザワ(冨田克也)と再会する。元自衛官のオザワは、バンコクにいる元上官が怪しげなプロジェクトを引き受けた関係から、イサーンを経てラオスへ調査にいくことになる。ラックはオザワに同行して故郷に帰る……。

この映画に登場する日本人は「沈没組」と呼ばれている。目的や野心をもってやってきたにせよ、流れついたにせよ、バンコクで風俗の仕事やなんでも屋やヒモや怪しげな仕事でその日暮らしをしている。彼ら沈没組とラックたち「人魚」のホステスの日々が映画の中心。バンコクに長期滞在して脚本を書き(冨田と相澤虎之助の共同脚本)、現地のキャストで撮影しているから、『サウダーヂ』もそうだったけど、半ばドキュメンタリーのようなテイストになっている。僕はこういうクラブに行ったことがないので、ひな壇にドレス姿のホステス十数人が並んで客に選んでもらおうとするショットの華やかさに度肝を抜かれる。日本人客を一発で仕留める舞台装置。

沈没組ではない日本人も出てくる。「人魚」でラックたちと遊ぶ「社長」や企業の駐在員。女たちを店から連れ出し、あるいは現地妻にして、ラックたちにとっては貴重な金づるになる。この日本人とラックたちとの関係は、お金を介した遊びでありビジネスだから、金を持つ側と持たない側の経済関係になる。

それに比べると、その日暮らしの沈没組はラックたちと同じ地平、同じ目線で動いている。当然ながら互いに打算と利己心があり、それらと絡み合いながらも同じ地平に立つ者として男と女の感情が働いて、惚れたハレたの世界が生まれる。再会したオザワとラックは、三輪タクシーで夜のバンコクを走る。タイのポップミュージックがかぶさる、そのショットが切ない。

オザワとラックが旅に出るあたりから、ロードムービーふうな味も加わる。イサーンのノンカーイ県という田舎町。話される言葉もタイ語からラオ語に変わる。こんなところにも外国人向けのバーがあって、「沈没組」らしきフランス人がたむろしている。この地域独得のモーラムというダンサブルな音楽が流れる。森からは、現実か幻想か定かでないが今も隠れている左翼ゲリラの連絡員が現れる。

オザワはラックと別れてラオスに向かう。ベトナム戦争時にホーチミン・ルートを米軍に爆撃されたクレーターのような孔がいくつも残る丘のショットは、初めて見る光景。これはすごい。森のゲリラやクレーターの風景から、映画は東南アジアの現代史まで視野に収めはじめる。クレーターの脇では謎のヒップホップ・グループ(フィリピンのTondo Tribe)が森に消える。

オザワとラックの旅は終わり、それぞれバンコクに戻ってくる。オザワとラックの、焼けぼっくいに火がつきそうでつかない風情がうまい。日本人とタイ人の関係だけでなく、タイ族ホステスがラオ族ホステスを見下す、タイ国内の複雑な民族関係をうかがわせる描写もある。ラックの幼馴染みの妹がラックを頼って故郷からバンコクに出てくる。そして今日もタニヤ通りは賑わっている。

3時間の長尺だけど、最後まで目を惹きつけられる。艶っぽい夜のバンコクと対照的に美しいイサーン地方の風景(撮影はスタジオ石)。それにかぶさるタイ・ポップスの数々。映画が「沈没組」の視線に立ったことでバンコクの夜に働く女性たちへの共感が生まれる。といっても、ヒューマニズムや大国批判といったところに収斂するわけでもない。雑多なものが雑多に詰めこまれ、それが大きな川のようにゆったりと、でもテンポよく流れている。そんな大河のような映画だ。

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February 26, 2017

『小名木川物語』上映会

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東京・深川に住む人たちが協力し4年がかりでつくりあげた映画『小名木川物語』(大西みつぐ監督)の上映会が開かれた(2月25日、深川江戸資料館)。

製作、脚本、監督、主演、音楽などほとんどを地元の住民が担当している。監督の大西みつぐは写真家、主演の徳久ウィリアムと伊宝田隆子はパフォーマーと美術家。

深川を流れる小名木川と地元のお祭りや行事を背景に、故郷に帰ってきた男と深川で生活する女の出会いを、フィクションとノンフィクションを交錯させて描く。小名木川の流れゆく水に、この土地が経験した東京大空襲や関東大震災の記憶が重なる。

上映後、スタッフとキャストが舞台に上がった。右から2人目が大西みつぐ監督。

次の上映は4月9日(日)午後7時、江東区古石場文化センター。

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February 23, 2017

『マリアンヌ』 美男美女の映画

Allied
Allied(viewing film)

美男美女を主役に第二次大戦中のカサブランカを舞台にしたスパイものと言えば、どうしても名作『カサブランカ』を思い出してしまう。アメリカが参戦した1942年に公開された『カサブランカ』は、ラブロマンスの衣の下でさりげなく反ナチのメッセージを伝える広義のプロパガンダ映画だったけど、『マリアンヌ(原題:Allied)』はそういうイデオロギーは抜きにして楽しめるサスペンス+メロドラマになっている。

カナダ空軍の情報将校マックス(ブラッド・ピット)は、ドイツに占領されたフランス植民地のカサブランカで、レジスタンス「自由フランス」のマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と組んでドイツ大使を暗殺する。恋に落ちた二人はロンドンで結婚するが、マリアンヌにドイツのスパイではないかと疑いがかけられ……。

映画の前半と後半で、多少色合いが違う。前半は、二人が夫婦を装ってドイツ大使館のパーティにもぐりこみ、大使を暗殺するサスペンスとアクション。加えて、夫婦を偽装する二人が互いに演技なのか本心なのかさぐりあっている気配が面白い。マリアンヌは、正体がばれないためには「感情を偽らない」のが大事だと言う。この言葉が、映画の最後まで効いている。

マックスはパリから来たというふれこみなのに、カナダのフランス語圏であるケベック訛りのフランス語を話す。それもまたサスペンスの一要素。マリアンヌがマックスを「ケベック人」とからかう。二人が男と女の駆け引きをしつつ夫婦を装って周囲をだますあたりのリズムは心地いい。

原題のAlliedは、同盟したとか連合したといった言葉で、連合国側のという意味合いと、二人の連合という意味合いをかけてるんだろうけど、いずれにしても男と女の間には使われない硬い言葉を選んでいるところに味がある。

マリアンヌにスパイの疑いがかけられる後半は、メロドラマ+心理サスペンスのタッチ。マリアンヌがスパイかどうかは、観客にもラスト近くで明かされるまで分からない。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」がサスペンスの鍵になり、決定的なシーンが航空機のそばなのは『カサブランカ』を意識してるからだろう。

マリオン・コティヤールもカサブランカを舞台にした前半は、絹のドレス姿が清純派のイングリッド・バーグマンより色っぽい。ロンドンの後半は、戦時下のつましい主婦といったたたずまい。アカデミー主演女優賞を受賞した『エディット・ピアフ』、ミュージカルの『NINE』、ほとんどスッピンだった『サンドラの週末』、最近の『たかが世界の終わり』と、映画によってずいぶん印象が違う。あの大きな目が魅力なのは共通してるけど。ブラッド・ピッドは、ハンフリー・ボガートのような渋みはないけど八の字眉は健在。

古めかしい美男美女のメロドラマと、CGを駆使して戦時下のカサブランカやロンドンを再現したロバート・ゼメキス監督の職人技。むずかしいことは考えず気持よく楽しめました。


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