April 28, 2017

『タレンタイム~優しい歌』 多民族国家の青春

Talentime
Talentime(viewing film)

『タレンタイム~優しい歌(原題:Talentime)』(2009)は51歳で亡くなったマレーシアのヤスミン・アフマド監督の遺作。ほれぼれする青春映画だった。

高校の学内音楽コンクール(タレンタイム)に出場する4人の学生を中心にした群像劇で、なにはともあれ彼らの民族的宗教的背景の多様さにびっくりする。

ピアノの弾き語りをするヒロインのムルー(パメラ・チョン)は裕福なイスラム家庭の娘。父はマレー系と英国系の混血、母はマレー系。家族同然の中国系のメイドがいる。そのムルーをタレンタイムの練習にバイクで送り迎えすることになったマヘシュ(マヘシュ・ジュガル・キショール)はインド系で聾唖。宗教はヒンドゥー教で、マヘシュの母は同じインド系ながらイスラムの隣人を毛嫌いしている。

ギターの弾き語りが上手な転校生のハフィズはマレー系のムスリム。ひとり親の母は脳腫瘍で入院している。二胡を弾くカーホウは中国系。秀才だが転校してきたハフィズに一番の座を奪われ、成績優秀であれと命じる父のプレッシャーを感じている。

映画のなかで話されるのはマレー語(公用語)、英語(準公用語)、タミル語、中国語、それに手話を加えれば5つの言語が飛び交う。それがマレーシアの現実を反映しているんだろう。実際には、それぞれの民族も地域ごとに枝分かれし、それぞれの混血もいて、マレーシアは極めて複雑な多民族国家だ。

ヒロインのムルーは最初、マヘシュが聾唖であることに気づかず不愛想な態度に怒るが、やがて誤解が解けて互いに惹かれるようになる。イスラムであるムルーの家庭はマヘシュに寛大だが、ヒンドゥー教徒であるマヘシュの母は息子の恋人がイスラムと聞いて激怒し、交際を禁ずる。中国系のカーホウも口には出さないがムルーに惹かれている。敬虔なイスラムのハフィズは、入院している母を毎日のように見舞い、ムルーとマヘシュの橋渡しをしてやる優しい男。

それぞれの生徒の家庭の事情や先生たちの恋愛模様なども点描されて、タレンタイムの本番が近づいてくる。マヘシュがムルーを乗せてバイクで街を走ったり、公園のベンチに腰掛けたりのショットが素敵だ。冒頭と最後、会場となる無人の体育館の照明がつき、最後に消えてゆくショットもいい。タレンタイムで歌われるのは、マレーシアの人気アーチスト、ピート・テオ作曲の「I Go」や「Angel」。印象深いラブソング。

こういうコンクールもの映画は世界中のいろんな国でつくられていて、その意味では定型だけど、画面からあふれるみずみずしさが定型を感じさせない。民族も宗教も超えて人と人はつながれるというメッセージが、声高でなくじんわり滲んでくる。

マレーシアを舞台にした映画を見るのは、ツァイ・ミンリャン『黒い眼のオペラ』以来。マレーシア生まれのツァイは中国系で、この映画をつくったころは台湾を拠点にしていたから、純粋のマレーシア映画を見るのは初めて。タイ、フィリピン、そしてマレーシアと、このところ東南アジアの映画が面白いなあ。

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April 19, 2017

『午後8時の訪問者』 ミニマルな映画

La_fille_inconnue
The Unknown Girl(viewing film)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の『午後8時の訪問者(原題:La Fille Inconnue)』には、いっさいの無駄がない。無駄な映像がなく、無駄なセリフがなく、無駄な音楽がない。カメラは登場人物の傍らにはりついて、そこから離れようとせず、風景などのショットは挿入されない。殺された少女がどんなふうにこの国にやってきたのかや、主役の医師の家庭環境なども説明されない。音楽はいっさい入らず、終始、高速道路を走る車の音だけが流れている。必要最小限の要素でつくられた、ミニマリズムの映画。

もっとも一般論で言えば、それが即いい映画という訳でもない。心を揺さぶる映像の迫力。ジョークや洒落たセリフ。適度な説明。ぴたりとはまった音楽。そういう遊びがあってこそ、映画の快楽はいよいよ大きくなる。でもダルデンヌ兄弟は、そうした遊びを引き算して映画をつくることを自分たちのスタイルとして選んだ。

ベルギーのリエージュ。医師のジェニー(アデル・エネル)は引退する老医師の診療所で、研修医とともに代診をしていた。帰り支度をしていた午後8時、誰かがベルを鳴らす。研修医がドアを開けようとするが、ジェニーは診療時間外だからと止める(彼女には、勤務することが決まった病院の歓迎パーティーの予定があった)。翌日、近くの川で身元不明の若い女性の死体が発見される。防犯カメラには、女性が診療所のベルを鳴らす姿が映っていた。医師として罪悪感にさいなまれたジェニーは、女性が誰なのかを調べはじめる……。

リエージュはダルデンヌ兄弟が生まれ育った土地であり、彼らの過去の映画の舞台でもある。殺風景な工業都市。診療所は、労働者階級や移民が暮らす貧困地区にある。ジェニーが手掛かりを求めて家々を訪ねはじめると、労働者家庭の現状や、移民が集まるカフェ、若者がたむろする廃工場、移民の売春組織などが浮かびあがってくる。

とてもぶっきらぼうな映画なのに最後まで引き込まれるのは、女性が誰なのか、なぜ殺されたのかの謎を追う、サスペンスの要素だけは引き算の果てに残しているからだろう。『ある子供』や『ロルナの祈り』もそうだったように。小生、サスペンスやミステリーなどのジャンル映画が好きなので、そこに惹きつけられる。

ドキュメンタリー出身らしく、ひたすら主人公を追うカメラと、カメラの動きによって徐々に謎が見えてくるジャンル映画の要素が溶けあってる。それが、似たようなテイストをもつケン・ローチやミヒャエル・ハネケと違うダルデンヌ兄弟のスタイルなんだろう(もっとも隣で見ていた中年夫婦は文字通りジャンル映画を期待していたらしく、見終って「なに、この映画」と文句を言っていた。邦題はそういう誤解を意図的に誘導してる)。

最後にジェニーは、決まっていた病院勤務を辞退し診療所を引き継ぐことを決意する。前作『サンドラの週末』でもマリオン・コティヤールが全編すっぴんだったけど、この映画でもアデル・エネルは化粧っ気なしで、にもかかわらず魅力的な女性医師を演じている。


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April 14, 2017

『哭声/コクソン』 國村隼の悪霊ぶり

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The Wailing(viewing film)

韓国・全羅南道の山間に谷城(コクソン)という村がある。映画の舞台はここ。タイトルの『哭声(原題:곡성)』と同じ発音になる。地名と哭声という言葉が掛けられているわけだ。哭声とは辞書によれば「人が死んだときに大きな声で泣く声」。そのとおりに、谷城に哭声が響きわたる。

のどかな山あいの村に、ひとりの日本人(國村隼)が住みついたことからなにかが変わりはじめる。住民が家族を惨殺する事件が連続して起こる。家族を殺した男は肌が赤くただれ、家の柱には見たこともない茸が生えている。住民たちは、日本人の仕業ではないか、日本人が裸で鹿の死体を食っているのを見たなどと噂する。村の警官・ジョング(クァク・ドウォン)が捜査に当たるが、ある日、自分の娘の肌が赤くただれているのを発見する……。

ジョングの母は、孫が悪霊に憑かれたと祈祷師(ファン・ジョンミン)を呼んで祈祷の儀式を行う。共同体によそ者が侵入したことから生まれる疑惑という社会派的な物語と、悪霊憑きと除霊といった『エクソシスト』ふうな物語が絡まりあって進行する。怪しげな若い女(チョン・ウヒ)が出てきたり、真っ赤な目をした國村隼がジョングの夢に現れたり、なにが起こっているのかわからないが、不安と恐怖が村に充満していく。もっともジョングは娘にまで馬鹿にされる頼りない警官で、太めのクァク・ドウォンが笑いとユーモアもかもしだす。いろんな要素がつめこまれすぎ、やや未消化で、ナ・ホンジン監督の『チェイサー』や『哀しき獣』にくらべると完成度はいまひとつだったが。

ところでこの映画、ネトウヨから反日映画などと騒がれるものかと一抹の不安があったけれど、そんなテイストはまったく感じなかった。

ひとつには、國村隼の役が「日本人」ではなく、共同体の外部から来た「よそ者」と設定されているからだろう。実際、ナ・ホンジン監督は最初、この役に中国人か日本人を考えたという。歴史的にいろいろあった日本人という設定ではなかった。國村の掌に釘を打たれた跡のある(イエスのように)ショットも挿入されていた。もうひとつは、國村隼が素晴らしいから。村人の妄想のなかで膨らんでゆく悪霊を身体を張って演じ、彼がいなければこの映画は成り立たなかったろう。青龍賞で男優助演賞と人気スター賞を得ている。

このところ『お嬢さん』や『暗殺』など日本の植民地時代を舞台にしたり、『哭声』のように日本人が登場する映画が公開されている。いま政治的に日韓は緊張しているけれど、これらの映画にそうした緊張はまったく反映していない。逆に、植民地に生きる悲しみを描いたり(『暗殺』)、日本が倒錯した憧憬の対象になったり(『お嬢さん』)、日本人としてでなくもっと普遍化して描かれたり(『哭声』)、韓国映画の成熟を感ずる。國村が韓国の映画賞を受賞したことも、そこに数えてもいいだろう。日本映画での韓国と韓国人(在日も含めて)の描かれ方(あるいは不在)を考えると、むしろ韓国映画のほうが成熟の度合いが高いのかもしれないな。

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March 20, 2017

『お嬢さん』 植民地の官能

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Handmaiden(viewing film)

『お嬢さん(原題:아가씨、アガシ。娘の意)』の原作はサラ・ウォーターズのミステリー『荊の城』(未読)。19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台にした犯罪小説だそうだが、パク・チャヌク監督は映画化にあたって大日本帝国の植民地下にある朝鮮に設定を変えた。そのことで、映画はより複雑な色彩をおびることになったと思う。

韓国映画だから、この地を植民地として支配していた日本が悪として描かれるのは当然だろう(実際そうだったわけだし)。とはいえ、最近の韓国映画は変わってきている。去年面白かった『暗殺』も、日本が悪という大枠はあっても、日本に協力せざるをえない男の哀しみに比重がおかれていた。『お嬢さん』も、支配者である日本人から財産を奪うという大枠はあるにしても、支配・被支配の関係が政治的なメッセージでなく、ねじれたエロティシズムの源泉になっている。そこが面白いし、大胆でもある。

舞台になるのは、上月という日本人華族の植民地の邸宅。といっても上月(チョ・ジヌン)は日本人でなく、上月家の婿となったため上月姓を名乗る朝鮮人。莫大な財産を相続した義理の姪、秀子(キム・ミニ)と結婚して財産を乗っ取ろうと目論んでいる。邸宅の正面は西洋館、裏は和風邸宅という奇妙な空間。

上月は稀覯本のコレクターで、とりわけ江戸時代の春本を蒐集している。北斎の、巨大タコが女体にからみつく春画も所有し、地下室の水槽に巨大タコを飼っている。上月はコレクター仲間を集めて、秘密の朗読会と競売を催している。そこで春本の朗読と実演をするのは、邸宅を一歩も出ずに「お嬢さん」として育てられた秀子。

映画は、この邸宅にスッキ(キム・テリ)が珠子と名乗りメイドとしてやってくるところから始まる。スッキは、藤原伯爵と名乗る朝鮮人詐欺師(ハ・ジョンウ)の手先で、家に出入りする藤原伯爵を秀子が好きになるよう仕向け、結婚して秀子の莫大な財産を奪おうという計画なのだ。被支配者である朝鮮人がよってたかって豊かな支配民族の娘から財産を奪いとろうとする構図。はじめスッキは計画通り動いていたが、やがて秀子に好意を抱くようになり、秀子もスッキに心を開いて……。

物語の大部分は、上月の和洋折衷の邸宅で進行する(キッチュで耽美的なセットが素晴らしい)。地下室や座敷牢ふうな仕掛けもある密室的空間で繰り広げられるエロティシズム。バスタブにつかり飴をなめる秀子の唇のアップ。スッキが秀子の口の中に指を入れる、二人の関係を予感させるショット。孤児で貧しい被植民者の娘が、豊かで深窓育ちの植民者の娘を誘惑し、とろけさせてゆく。パク・チャヌクらしい映像が次々に仕掛けられる。

驚きはそれだけではない。最初、スッキの視点から描かれた物語が、次に秀子の視点から、更に第三者の視点から語られて、最初の筋書きがひっくり返される。詐欺師の手先として秀子を騙す手伝いをするはずのスッキは、秀子の身代わりとして犠牲にされる運命にあった。

二転三転するストーリー。被植民者のねじれた欲望。密室の暴力と笑い。濃厚なエロティシズム。パク・チャヌク監督は、植民者の邸宅で繰り広げられるそれらの物語を、批判的な視線ではなく美的に、官能的に描いた。その視点が新鮮だし、大胆だ。やるなあ、パク・チャヌク。

役者も、国際的に評価の高いキム・ミニと新人のキム・テリ、ふたりとも熱演。二人の存在がなければこのエロティックな映画は成立しないわけで、『アデル、ブルーは熱い色』のレア・セドゥもそうだけど、どの映画に出てどんな役を演ずるか、役者が自分で考え自分で判断するのが当り前なんだと思う。日本に挑戦的な映画が少ないのは、それが当り前じゃないところにも理由の一端があるんじゃないかな。

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March 08, 2017

『バンコクナイツ』 「沈没組」の視線

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Bangkok Nites(viewing film)

テレビや映画や出版で、「日本はこんなにすごい」「日本人は素晴らしい」的なものが目立つようになったのは、安倍政権がメディア批判をするようになって以来。政権のメディア対策とメディアの自主規制と、そこそこ商売になることが相まってのことだろう。「嫌○○」のようなイデオロギー色はなく、一見脱色しているように見えても、その底には「自分たちは優れている」というナショナリズムの匂いがする。

それ以上に気になるのは、こういうテレビや映画や本を喜んでいる人たち、特に若い人たちの間で、この国の外側への関心、逆に外側からこの国がどう見えているかといった視点、つまりはこの国を相対化して見る視線が弱いのではないかということ。外国旅行をする人が減ったとか、外国のポップスでなくJポップとか、外国映画でなく日本映画とか、そんな現象からも関心が内向きになっているのがわかる。

そんなところに現われたのが『バンコクナイツ』。一貫してインディペンデントで映画をつくってきた集団「空族」の冨田克也監督が『サウダーヂ』につづいて撮った新作だ。タイのバンコクという窓からは、日本と日本人がこんなふうに見えている。

日本語の看板が並ぶ歓楽街タニヤ通りのクラブ「人魚」。イサーン(東北部)から来たラオ族のラック(スベンジャ・ポンコン)はNO.1の売れっ子。ヒモで店のポン引きビン(伊藤仁)と同居しながら、稼いだ金を故郷の家族に送っている。そんなとき、かつての恋人オザワ(冨田克也)と再会する。元自衛官のオザワは、バンコクにいる元上官が怪しげなプロジェクトを引き受けた関係から、イサーンを経てラオスへ調査にいくことになる。ラックはオザワに同行して故郷に帰る……。

この映画に登場する日本人は「沈没組」と呼ばれている。目的や野心をもってやってきたにせよ、流れついたにせよ、バンコクで風俗の仕事やなんでも屋やヒモや怪しげな仕事でその日暮らしをしている。彼ら沈没組とラックたち「人魚」のホステスの日々が映画の中心。バンコクに長期滞在して脚本を書き(冨田と相澤虎之助の共同脚本)、現地のキャストで撮影しているから、『サウダーヂ』もそうだったけど、半ばドキュメンタリーのようなテイストになっている。僕はこういうクラブに行ったことがないので、ひな壇にドレス姿のホステス十数人が並んで客に選んでもらおうとするショットの華やかさに度肝を抜かれる。日本人客を一発で仕留める舞台装置。

沈没組ではない日本人も出てくる。「人魚」でラックたちと遊ぶ「社長」や企業の駐在員。女たちを店から連れ出し、あるいは現地妻にして、ラックたちにとっては貴重な金づるになる。この日本人とラックたちとの関係は、お金を介した遊びでありビジネスだから、金を持つ側と持たない側の経済関係になる。

それに比べると、その日暮らしの沈没組はラックたちと同じ地平、同じ目線で動いている。当然ながら互いに打算と利己心があり、それらと絡み合いながらも同じ地平に立つ者として男と女の感情が働いて、惚れたハレたの世界が生まれる。再会したオザワとラックは、三輪タクシーで夜のバンコクを走る。タイのポップミュージックがかぶさる、そのショットが切ない。

オザワとラックが旅に出るあたりから、ロードムービーふうな味も加わる。イサーンのノンカーイ県という田舎町。話される言葉もタイ語からラオ語に変わる。こんなところにも外国人向けのバーがあって、「沈没組」らしきフランス人がたむろしている。この地域独得のモーラムというダンサブルな音楽が流れる。森からは、現実か幻想か定かでないが今も隠れている左翼ゲリラの連絡員が現れる。

オザワはラックと別れてラオスに向かう。ベトナム戦争時にホーチミン・ルートを米軍に爆撃されたクレーターのような孔がいくつも残る丘のショットは、初めて見る光景。これはすごい。森のゲリラやクレーターの風景から、映画は東南アジアの現代史まで視野に収めはじめる。クレーターの脇では謎のヒップホップ・グループ(フィリピンのTondo Tribe)が森に消える。

オザワとラックの旅は終わり、それぞれバンコクに戻ってくる。オザワとラックの、焼けぼっくいに火がつきそうでつかない風情がうまい。日本人とタイ人の関係だけでなく、タイ族ホステスがラオ族ホステスを見下す、タイ国内の複雑な民族関係をうかがわせる描写もある。ラックの幼馴染みの妹がラックを頼って故郷からバンコクに出てくる。そして今日もタニヤ通りは賑わっている。

3時間の長尺だけど、最後まで目を惹きつけられる。艶っぽい夜のバンコクと対照的に美しいイサーン地方の風景(撮影はスタジオ石)。それにかぶさるタイ・ポップスの数々。映画が「沈没組」の視線に立ったことでバンコクの夜に働く女性たちへの共感が生まれる。といっても、ヒューマニズムや大国批判といったところに収斂するわけでもない。雑多なものが雑多に詰めこまれ、それが大きな川のようにゆったりと、でもテンポよく流れている。そんな大河のような映画だ。

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February 26, 2017

『小名木川物語』上映会

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東京・深川に住む人たちが協力し4年がかりでつくりあげた映画『小名木川物語』(大西みつぐ監督)の上映会が開かれた(2月25日、深川江戸資料館)。

製作、脚本、監督、主演、音楽などほとんどを地元の住民が担当している。監督の大西みつぐは写真家、主演の徳久ウィリアムと伊宝田隆子はパフォーマーと美術家。

深川を流れる小名木川と地元のお祭りや行事を背景に、故郷に帰ってきた男と深川で生活する女の出会いを、フィクションとノンフィクションを交錯させて描く。小名木川の流れゆく水に、この土地が経験した東京大空襲や関東大震災の記憶が重なる。

上映後、スタッフとキャストが舞台に上がった。右から2人目が大西みつぐ監督。

次の上映は4月9日(日)午後7時、江東区古石場文化センター。

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February 23, 2017

『マリアンヌ』 美男美女の映画

Allied
Allied(viewing film)

美男美女を主役に第二次大戦中のカサブランカを舞台にしたスパイものと言えば、どうしても名作『カサブランカ』を思い出してしまう。アメリカが参戦した1942年に公開された『カサブランカ』は、ラブロマンスの衣の下でさりげなく反ナチのメッセージを伝える広義のプロパガンダ映画だったけど、『マリアンヌ(原題:Allied)』はそういうイデオロギーは抜きにして楽しめるサスペンス+メロドラマになっている。

カナダ空軍の情報将校マックス(ブラッド・ピット)は、ドイツに占領されたフランス植民地のカサブランカで、レジスタンス「自由フランス」のマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と組んでドイツ大使を暗殺する。恋に落ちた二人はロンドンで結婚するが、マリアンヌにドイツのスパイではないかと疑いがかけられ……。

映画の前半と後半で、多少色合いが違う。前半は、二人が夫婦を装ってドイツ大使館のパーティにもぐりこみ、大使を暗殺するサスペンスとアクション。加えて、夫婦を偽装する二人が互いに演技なのか本心なのかさぐりあっている気配が面白い。マリアンヌは、正体がばれないためには「感情を偽らない」のが大事だと言う。この言葉が、映画の最後まで効いている。

マックスはパリから来たというふれこみなのに、カナダのフランス語圏であるケベック訛りのフランス語を話す。それもまたサスペンスの一要素。マリアンヌがマックスを「ケベック人」とからかう。二人が男と女の駆け引きをしつつ夫婦を装って周囲をだますあたりのリズムは心地いい。

原題のAlliedは、同盟したとか連合したといった言葉で、連合国側のという意味合いと、二人の連合という意味合いをかけてるんだろうけど、いずれにしても男と女の間には使われない硬い言葉を選んでいるところに味がある。

マリアンヌにスパイの疑いがかけられる後半は、メロドラマ+心理サスペンスのタッチ。マリアンヌがスパイかどうかは、観客にもラスト近くで明かされるまで分からない。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」がサスペンスの鍵になり、決定的なシーンが航空機のそばなのは『カサブランカ』を意識してるからだろう。

マリオン・コティヤールもカサブランカを舞台にした前半は、絹のドレス姿が清純派のイングリッド・バーグマンより色っぽい。ロンドンの後半は、戦時下のつましい主婦といったたたずまい。アカデミー主演女優賞を受賞した『エディット・ピアフ』、ミュージカルの『NINE』、ほとんどスッピンだった『サンドラの週末』、最近の『たかが世界の終わり』と、映画によってずいぶん印象が違う。あの大きな目が魅力なのは共通してるけど。ブラッド・ピッドは、ハンフリー・ボガートのような渋みはないけど八の字眉は健在。

古めかしい美男美女のメロドラマと、CGを駆使して戦時下のカサブランカやロンドンを再現したロバート・ゼメキス監督の職人技。むずかしいことは考えず気持よく楽しめました。


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February 16, 2017

『たかが世界の終わり』 中身とスタイル

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Juste la Fin du Monde(viewing film)

中身とスタイルがこんなにドンピシャ一致している映画もめずらしい。

『たかが世界の終わり(原題:Juste la fin du monde)』は家庭劇。家を出て12年、劇作家として名の出たルイ(ギャスパー・ウリエル)が故郷に帰ってくる。「余命は長くない」と家族に伝えるために。ルイと、彼を迎える家族それぞれが内心に愛と葛藤を秘めながら、ぎこちない会話が交わされる。

ひとつの家族──ルイと、彼を待ちわびる母(ナタリー・バイ)、冷笑的な態度の兄(ヴァンサン・カッセル)、ルイとは初対面の嫂(マリオン・コティヤール)、ルイの記憶をほとんど持たない妹(レア・セドゥ)。その5人以外、ほとんど出てこない。この映画には「世界の終わり」と反語的なタイトル(家族こそが世界だという)がついているが、ふつうの意味で「世界」がマクロだとすれば家族というミクロの世界に焦点が絞られている。

ミクロの世界にふさわしく、クローズアップの映像が多用される。顔を正面から、あるいは横からのクローズアップ。顔の微妙な筋肉の動きや、目の動き(マリオン・コティヤールの大きな目がモノを言う)。うなじに滲み出る汗。かすかなため息(の小さな音)。しかも被写界深度(ピントの合う範囲)のきわめて浅いレンズを使っているので前景と後景はボケて、ものの形がはっきりしない。見る者はいやおうなく、ピントの合っているごく狭い空間に注意を向けることになる。

ほとんどが家の中(原作は舞台劇)。外界は、音として入ってくる。ルイと兄が言い争いをしているとき、雷鳴がとどろく。家の外の社会は、兄を通して描かれる。この家庭には父がいない。なぜかは説明されないが、兄が父の代理として外で肉体労働者として働き家計をささえているらしい。彼の社会常識に沿った価値観と、作家でありゲイであるらしいルイの価値観とは相いれない。ルイが家を出たのも、それと関係あるのかもしれない。

兄の立場もルイの立場もわかりながら、間に立つ母。初対面のルイと、互いに惹かれあうように見える嫂。普段はしない化粧をして、帰って来た兄の存在にはしゃぐ妹。怒りを爆発させてしまう兄。ほとんどしゃべらず、しゃべりかけても口をつぐんでしまうことの多いルイ。フランスを代表する5人の役者が息詰まるような演技を見せる。

ルイは家族と半日を過ごすだけで、兄といさかいを抱えたまま帰ってゆく。過去のいきさつも語られず、ただぶっきらぼうに、でも拡大鏡で覗いているような細密さで濃密な半日を描き出す。背後で英語やフランス語のいろんなポップスが鳴っている。「Home is where it hurts」という曲の題名は、映画のテーマそのもの。

カナダ(フランス語圏)のグザヴィエ・ドラン監督の映画。カンヌ映画祭グランプリ。好き嫌いでいえば、あまり好みの映画ではないが。

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February 07, 2017

『変魚路』の不思議

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Hengyoro(viewing film)

『ウンタマギルー』(1989)を見たときの驚きは忘れられない。登場人物が話すのはすべて沖縄言葉で、日本語の字幕が入る。物語は現実と幻想が入り混じった琉球の神話というか、伝承の世界だった。主役の小林薫と戸川純を支えるのは沖縄芝居の役者。嘉手苅林昌の琉歌。南島の濃厚な色彩感覚。東南アジアに共通する気怠い空気が快い。底に流れるのは本土への違和の感情。監督の高嶺剛は石垣島の出身。これは日本映画ではない。琉球映画が生まれたと思った。

高嶺監督の18年ぶりの新作『変魚路(へんぎょろ)』は、その琉球映画度がさらにヒートアップしている。いつの時代、どこなのかも定かでなく、物語も、それらしきものがゆるくあるだけで、次第に現実と夢、現在と過去、すべてが入り混じってしまう。セリフはもちろん沖縄言葉で日本語字幕。

「島ぷしゅー」と呼ばれる大きな出来事(何か分からないが、たくさんの死者が出たらしい)があった後、死にぞこないばかりが生きているパタイ村でタルガニ(平良進)とパパジョー(北村三郎)が「水中爆発映画機械所」を営んでいる。ふたりは海辺で伝統的な沖縄芝居の一場面を演じ、それを撮影もしているらしい。挿入される、ふたりの子供の頃の写真や、戦争?の業火に焼かれる老人。「島ぷしゅー」の記憶を留めるらしい、ポップで色鮮やかな男の石膏像。さまざまな断片が、脈絡なく重なってゆく。

村の雑貨屋からタルガニが秘密の媚薬を知らずに盗んだことから、二人は村を出ることになる。ずぶ濡れの(死者の国の?)女三人が二人を追う(出迎える?)。大城美佐子が三線を弾く。坂田明のアルトサックスが吼える。裸の男が舞う(演ずるは木村伊兵衛賞の写真家、石川竜一)。デジタル合成で、摩訶不思議な風景が現出する。村のなかを山羊と牛がゆったり歩いてゆく。白蛇がうねる。全体を貫くのは『ウンタマギルー』と同じ、ゆるりとした空気と神話的な気配。

先日、50年ぶりにジャン=リュック・ゴダールの『中国女』を見た。一貫したストーリーに沿って映像が展開してゆくという映画の常識を、商業映画の枠内でぎりぎりまで解体してみせた、ヌーヴェル・ヴァーグの極北といった作品だった。その後、さまざまなスタイルの実験があったけど、『変魚路』もそうした延長上にある。そして実験というだけでなく、沖縄のゆるい、しかしいろんな歴史を秘めた空気をしこたま詰めこんでいるのが素晴らしい。不思議な、でも面白い映画だった。

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February 03, 2017

『沈黙-サイレンス』 外からの視線

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Silence(viewing film)

切支丹時代の歴史を読んでいると、今の僕たちが考える日本と日本人の常識に照らして、この国でこういう出来事があったとは信じられないことにぶつかる。

たとえば、キリスト教が急速に広がったこと。九州の有馬氏、大友氏など大名がカソリックに改宗したのは、スペイン、ポルトガルとの貿易の利を求めてという面もあるけれど、農民たちにまで広がったのは純粋に宗教として彼らを惹きつける力があったからだろう。例えば島原・天草で布教したイエズス会のトレス神父が20年間で授洗した信者は3万、建てた教会は50だった。

秀吉時代の最盛期には切支丹信者は20万人、教会は200を数えたという。もし切支丹禁令が発されなかったら、この勢いは全国に広がったかもしれない。もしカソリックがこの時代に日本に根づいたら、以後のこの国の歴史はどう変わっただろう?

あるいはまた、禁令が発された後、捕えられた神父や信者を拷問し、処刑するやりかたの想像を絶する惨さ。イスラム国も真っ青、いやそれ以上の方法が考案された。

簑を着せ柱に縛って火をつける「簑踊り」。弱い火であぶって苦痛を長引かせることもあった。映画にあったように、雲仙の熱湯をかける。籠に入れて流れの速い川につける。絶命まで1週間くらいかかった(妊娠した若い嫁がこの刑に処せられたことが島原・天草の乱の発端になった)。これも映画にも出てくる穴吊り。穴を掘って逆さに吊るし、頭に血が逆流してすぐに死なないようこめかみに穴をあける。この世のこととも思えない。この時代の日本人がとりわけ残酷だったわけではない。人間という生きもの、一定の条件におかれれば誰もがここまで残虐になれるのだと考えるしかない。

にしても、遠い過去の話とはいえ、この国の出来事とは思えない。『沈黙-サイレンス(原題:Silence)』からは、そんな距離感─自分と地続きとは感じられない、ある種、異国の出来事のような感覚─が感じられた。その距離感が、映画を面白くしたと思う。

その理由は、ひとつは言うまでもなく米国人のマーティン・スコセッシが監督していること。もうひとつは、日本ではなく台湾でロケされていること。長崎に似た地形を台湾で探したそうで、画面に違和感はないし、村のセットもよくできているけれど、ただ木々の緑の濃さはやはり南の国と感じられる(撮影はロドリゴ・プリエト)。日本人観客にとっては、かすかながらも異国感がある。

この映画は遠藤周作の原作を、スコセッシ監督が20年以上シナリオを何度も書きなおして温めた末に映画化したものだ(脚本はジェイ・コックスとスコセッシ)。スコセッシという、一方で外国人の視線と、他方でイタリア系米国人のカソリックである信者としての共感の視線が、この映画を善悪で切り分けられない深いものにしていると思う。

面白いなと思ったのは、奉行の井上筑後守(イッセー尾形)と通辞(浅野忠信)の人間像。井上は映画に出てくるいちばんの権力者だが、切支丹を必ずしも敵視せず、常識的で穏やかな男として描かれている。囚われたロゴリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)を丁重にもてなしながら、一方では信者に惨い拷問を繰り返してロドリゴに転び(棄教)を迫る。しかも踏み絵を踏むのも形だけでいいと、物わかりのいいところも見せる。ハリウッド的な分かりやすさからすれば、井上は権力を笠にきた居丈高な男と描かれるのが常道だけど、人柄のよさを感じさせながら、しかし幕府の命には忠実という複雑な男に描かれている。イッセー尾形が好演。

原作はずいぶん昔に読んだきりなので確信はもてないけど、奉行の人間像は原作もそれに近かったんじゃないか。でも通辞の造形は、仕事と割りきった官僚的な男と描かれていた記憶がある。映画では、通辞もまた複雑な描かれ方をしている。ロドリゴ神父に無邪気な笑顔を見せ、あれこれ世話を焼いて、とても親切そうだ。でもロドリゴに親切な顔を見せた一瞬後には、「パードレ(神父)は今日、転ぶ」とつぶやく。優しさの陰に隠れた冷酷さを見せる。爽やかな笑顔と秘められた冷酷さ、どちらが本心かしかと分からない微妙な役どころを、浅野忠信がうまく演じてる。

当初、通辞役は渡辺謙が予定されていたという。もし渡辺謙だったら、浅野忠信のような不気味さはないかわり、良くも悪くもストレートな人間像になっていたろう。

ほかの日本人の役者たちも皆いい。ロドリゴ神父と深い信頼関係を結ぶモキチの塚本晋也。信者のリーダーであるイチゾウの笈田ヨシ。とりわけ、何度も転び裏切り、「弱い者の居場所はどこにあるのか」とつぶやくキチジローの窪塚洋介が印象深い。

穴吊りされた5人の信者の命を救うことと引きかえに踏み絵を踏み、棄教したパードレ。宗教的な価値観でいえば許されない行為だろうが、近代的なヒューマニズムの価値観からすればその行為は理解できる。とはいえ神に背くのは宗教家として最大の罪。人間としての弱さは許されない。しかし神はなぜ沈黙しているのか。そんな問答劇をスコセッシは背景の音楽をいっさい使わず、虫や蝉の声、風音、森のざわめき、遠い雷鳴など自然音を強調し緊張感に満ちて描く。

製作費4000万ドルに対して興収1300万ドル(wikipedea)。テーマや素材からしてある程度予測された結果かもしれないが、スコセッシの執念を感じた。

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