『星と月は天の穴』
こういうのを反時代的な映画と言うのか。『星と月は天の穴』は今の日本映画界に色んな意味で背を向け、にもかかわらずとても刺激的な映画だった。吉行淳之介の原作を荒井晴彦が監督している(脚本も)。
画面はモノクローム。ただし赤信号、夕焼け、サーモンの切り身、唇、ヒロインの身体の疵は赤いパートカラーになる。赤は主人公の欲望に対応している。セリフは今ふうの自然な言い回しでなく、小説の文章語によるセリフがそのまま口にされる。それがまた美しい。主人公のモノローグは語りでなく、画面にワープロで文字を打つように文字で表現される。主人公が書く小説の世界、男(綾野剛の二役)と女がそのまま画面に現われ、劇中の現実と仮構が切れ目なく接続されたりもする。
時代は1969年。妻に去られた小説家の矢添(綾野剛)は、なじみの娼婦・千枝子(田中麗奈)と時々会いながら、画廊で偶然に会った大学生の紀⼦(咲耶)とつきあいはじめる。紀子との出会いは、彼女が車のなかで粗相し、矢添は40代なのに総入歯という互いに隠したい失敗や負い目が二人を結びつける梃になったようだ。とはいえ矢添にとって二人とは身体のつきあい、彼女たちを自分の内面には決して立ち入らせない。千枝子とは金銭を介した関係だし、紀子が矢添の部屋に行きたいと繰り返し懇願してもそれを許さない(部屋とは矢添の内面の喩だろう)。もっともそれは矢添の意思というより、愛に失敗した男が自分を持て余し、それ以上に踏み込む勇気を持てないようにも思える。
この映画からは、荒井が脚本家として手がけた1970~80年代の『遠雷』『時代屋の女房』『ひとひらの雪』といった文芸映画の香りがする。とはいえこういう男と女の映画にとって、それを取り巻く環境はずいぶん変わった。フェミニズムの洗礼を受けている(上野千鶴子が吉行淳之介の女性の描き方について厳しく分析批判したことがあったと記憶する)。#MeToo以後、映画の性表現もずいぶん変わった。特に日本映画は若い監督を含め性表現について抑制的になった、あるいは性という主題にあまり興味を示さないようにも見える。そんな風潮に抗するように、この映画の性表現はかなり激しい(今こういう映画をつくる現場にはインティマシー・コーディネーターの存在は不可欠だ。本作では西山ももこ)。僕は見ていて荒井が脚本を書いた日活ロマンポルノの傑作『赫い髪の女』(原作・中上健次、監督・神代辰巳)を思い出していた。『星と月は天の穴』は、荒井が脚本家としてでなく監督としてつくった50年後の日活ロマンポルノのように思えた。もちろんこれ、誉め言葉です。
ラストシーン。橋の上で矢添と紀子が距離が取り、詰める、ロングショットが素晴らしい。


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