『二つの季節しかない村』
冒頭、まだ映画が始まらない黒いスクリーンに、かすかな音が聞こえる。映像が映し出されると一面雪の白い原野。聞こえていたのは雪の降るかすかな音。バスがやってきて1人の男が降り、雪原を歩きはじめる。男は小学校教師のサメット(デニズ・ジェリオウル)で休暇から帰ってきたところ。場所はトルコ東部アナトリアの、冬と夏の『二つの季節しかない村(原題:Kuru Otlar Ustune/英題:About Dry Grasses)』。映画のほとんどが雪の季節に繰り広げられる。白く閉ざされた村や雄大な冬山と渓谷。見る者を圧倒する風景のなかで、なんとも人間的なドラマが語られる。その対照というか、壮大と卑俗の取り合わせが面白い。
サメットは辺境の学校で働かされるのが不満。都会へ戻りたいと願っている。でも教室では王様で、女生徒のセヴィムを贔屓し、彼女に鏡のお土産をあげたりする。持ち物検査でセヴィムのカバンから、その鏡とラブレターが見つかる。手紙を返す返さないでひと悶着あったあと、セヴィムは校長に、サメットから「不適切な接触」があったと訴える(サメットのセヴィムへの身体的接触は描かれないが、心理的には「支配的」言動がある)。
一方、サメットは美しい英語教師ヌライ(メルヴェ・ディズダル)と知り合う。彼女は左派グループに属し、爆弾事件に巻き込まれて義足だが、教師としてこの地でやるべきことがある、と情熱的に語る。サメットは同僚教師ケナンにヌライを紹介するが、ヌライとケナンがつきあうようになると、今度は二人の仲を裂くようにヌライとベッドを共にしたりする。ヌライの家で、この地を嫌い自分のことしか考えないサメットと、まっとうに生きようとするヌライが交わす長い長い会話が印象的。この後、サメットが部屋を出ると、部屋は実は撮影現場につくられたセットで、サメットはセットの裏にいるスタッフの脇を通り手洗い所まで行って鏡を見るという長いワンショットが続くのに驚いた。かつて今村昌平の『人間蒸発』で、クライマックスで監督がセットを壊すよう指示して撮影現場そのものが映し出され、ドキュメンタリー的な映画が実はフィクションでもあるという構造を露呈させたことがあった。サメットとヌライがベッドを共にする直前のショットだから、これは二人を見ている観客の感情の高まりに水を差すことを意図したのか。これはそういう映画じゃないよ、と。服を脱いだヌライは、義足をはずし切断された脚をサメットに見せる。
サメットは最後、望み通りこの地を去ることになるのだが、サメットにとって辺境での4年間は何だったのだろう。東アナトリアはクルド民族が多く住む地域で貧しく、独立運動もあって中央政府から敵視されている。この地で生きるしかない少女セヴィムや村の人々、また英語教師ヌライとの交流も、サメットには何の影響も与えなかった。彼はただ通りすぎるだけだったのか。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、壮大な雪の風景のなかにサメットという男をぽんと放り出したように見える。
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