『シャドウプレイ』の陰影
久しぶりに劇場で見た映画がロウ・イエ監督の『シャドウプレイ 完全版』。実に面白かった。
ロウ・イエといえば、天安門事件を題材にした『天安門、恋人たち』で中国政府から5年間の製作禁止、上映禁止の措置を食らっている。その後につくった『ブラインド・マッサージ』など3本は、どれもロウ・イエらしい実験的で完成度も高い映画だったけど、中国の政治や社会を正面から扱ったものではなかった。新作『シャドウプレイ』は、再び中国現代史ともいうべき時代を背景にしている。天安門事件の1989年から習近平が権力を掌握した2013年まで。改革開放から高度成長と不動産バブルの時代を生きた、男と女の野望と犯罪を巡る物語だ。
2013年、広州。林立するオフィスビル群をカメラが上空から俯瞰して移動していくと、高層ビルに囲まれて古びた住宅の一帯がある。カメラがさらに近づくと、瓦礫に囲まれた空間で少年たちがサッカーをしている。出だしのリズムとテンポが素晴らしく、一気に引き込まれる。この地区で再開発の賠償金を巡って住民暴動が起き、駆けつけた市の開発責任者タン(チャン・ソンウェン)が死体で発見される。刑事のヤン(ジン・ボーラン)が調べを進めると、再開発を請け負った不動産会社の社長ジャン(チン・ハオ)とタンはかつての仲間で、タンの妻リン(ソン・ジア)はかつてジャンの恋人であり、今は愛人となっていた。ジャンは台湾に渡って不動産業で成功したが、その共同経営者で一緒に広州に戻った愛人の台湾人アユン(ミシェル・チェン)が失踪していたことも分かる。
描かれてるのは不動産業者と役人の癒着、腐敗に絡む2件の殺人なのだが、この映画がよく中国で公開されたなあ、と思う。実際、完成してから公開まで2年、当局と検閲をめぐって長いやりとりがあったという。今回、「完全版」とうたっているのは、中国国内ではカットされた5分間が復元されているから。
今の中国ではリスキーなこの映画を製作するに当たって、ロウ・イエと、妻で今作の脚本家でもあるマー・インリーが考えぬいたんじゃないかな、と思うことがふたつある。ひとつは、映画の「現在」を習近平体制が生まれた2013年に設定したこと。権力を握った習近平は、この映画に描かれたような腐敗の摘発(という名目で政敵の排除)に乗り出した。だからこの物語は表面的には、習近平を批判することになっていないという理屈が成り立つ。もちろんロウ・イエの視線がそのような短いスパンの政治でなく、改革開放から現在までを貫く中国資本主義の暗部に向いているのは、映画を観た誰もが感ずることだが。
いまひとつは、ノワールというエンタテインメント仕立てにしたこと。犯罪、サスペンス、犯人捜しは映画の王道で、どの時代、どの国でも繰り返しつくられてきた。この映画は手持ちカメラを多用したり、現在と過去のいくつもの時制が複雑に入り組んだり、ロウ・イエらしい実験的なつくりは変わらないけど、ノワールという「ジャンル映画」のスタイルを取ることで、深刻な社会批判の映画でなく大衆的な娯楽映画という顔も持つことになった。無論、ロウ・イエが目指したのは社会批判のいわゆる「社会派」映画ではなく時代に翻弄される男と女の物語だから、ノワールになったのは戦術ではなく必然だったかもしれない。ここでは探偵役の刑事も第三者的な観察者でなく、リンの娘ヌオ(マー・スーチュン)と関係を持つことで欲望の渦に巻き込まれた当事者になってしまう。
6人の男と女が絡み合うドラマのなかで、広州市幹部の妻で、富豪の開発業者の元恋人、現在は愛人であり、ある秘密を抱えて生きるリンを演ずるソン・ジアのたたずまいが、哀しみを湛えて心に残る。台湾や香港も舞台になり北京語広東語台湾語が入り乱れるので、聞き分けることができるとこの映画の複雑な陰影がもっとよく分かるだろう。
原題「風中有朶雨做的雲(風のなかに雨でできた一片の雲)」は劇中で使われる曲のタイトルをそのまま。監督自身はエンディングで使われる別の曲「一場遊戯一場夢(一夜のゲーム、一夜の夢)」にしたかったようだが、検閲でダメと言われたという。The Shadow Play(影絵芝居)は英題。
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