在監者合葬の墓
さいたま市役所から西へ、市役所通りを数分歩いた住宅地の一角にフェンスで囲まれた墓地がある。中へは入れないが、3基の墓が建っていて、いちばん新しい墓に「在監者合葬之墓」と彫られているのが読める。裏には「明治四十四年 浦和監獄」とある。明治初期、埼玉県の県庁が浦和に置かれ、県庁や裁判所とともに監獄ができた。その獄中で亡くなった人たちを合葬したのがここだった。県庁に近い監獄から歩いて10分ほど。大宮台地の端、鯛ケ窪と呼ばれる谷の崖上にあり、今はびっしり住宅が建っているが、当時は畑か草原のなかだったろう。
古い2基の墓の横面と裏面にはびっしり人名が彫られている。調べると、そのなかに「村上泰治」「南関蔵」という名前があるかもしれない。2人は明治17年、「浦和事件」と呼ばれる事件の被告で浦和監獄で獄死した。
「浦和事件」といっても浦和で裁判が行われたからこう呼ばれたので、事件は群馬と秩父にまたがる。当時、自由民権運動が激しくなり、関東でも群馬、茨城、埼玉(秩父)の自由党員が急進化して政府転覆を訴え、武装蜂起を計画するグループも出た。そんななか、群馬の上毛自由党では党の機密がしばしば漏れる事態が起き、密偵が潜り込んでいるのではないかとの疑いが生じた。その疑いは、上毛地方にひんぱんに姿を現す自由党員・照山俊三に向けられ、ひそかに彼の殺害計画が練られた。上毛自由党の幹部は秩父の自由党員・村上泰治に、照山を秩父に誘い出して計画を実行することを依頼。村上はこれを引き受け、同志の南関蔵らと村上の自宅で照山を殺害した。逮捕された村上と南は浦和監獄に収監されたが、二人とも裁判中に獄死している(二人がこの墓に合葬されたかは分からない)。
この事件の後、群馬事件、秩父困民党事件、加波山事件など自由党員の蜂起が相次ぎ、いずれも弾圧された。秩父困民党事件で捕われた者も浦和監獄に収監されたという。
表示や説明が一切ないので、どんな場所かまったく分からない一角。散歩の途中で足をとめ、フェンスの外から手を合わせる。
« 線路脇 | Main | ピエール瀧の3本 »
Comments