睦神社へ
散歩で国道17号を東京方向に歩き、別所坂下の交差点を左に折れてしばらく行ったところに睦神社がある。石段を30段ほど上った高台に浅間神社、八幡神社、諏訪神社の社殿が建っている。もともとここには浅間神社があり、明治期に他の神社が合祀されて睦神社と呼ぶようになった。睦神社の森は、縄文時代の植生をそのまま伝えている。
7000年前の縄文海進の時代には、海抜10メートル前後のこのあたりまで海が広がっていた。以前、海抜10メートルを境に色分けした浦和の地形図を見たことがあるが、古東京湾に面するこのあたりはリアス式のような複雑な海岸線が広がっていた。浦和という地名は、かつて浦曲とも記されたという。「浦」も「曲」も遠い過去の記憶を伝えているのかもしれない。
解説板によると、「この神社は大宮台地の南縁の舌状台地上」にあり、シロダモ、ヤブツバキ、ビナンカズラ、キチジョウソウなど暖地性常緑広葉樹が繁茂している。これは「この台地の縁辺にかつて太平洋の暖流が打ち寄せて」いたことの名残りだそうだ。
当時は岬の先端だったろう神社の高台から南を眺めると、荒川に沿って深く入り込んだ湾の対岸に赤羽台、飛鳥山(王子)、道灌山(日暮里)の連なりが見えただろう(今はその崖下を京浜東北線が走っている)。浅間神社は富士信仰だから、その背後には富士山が聳えているはずだ。
東京の縄文地図をつくった中沢新一『アースダイバー』によれば、「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた」。今はビル群にさえぎられて何も見えないが、神社の森の彼方に縄文人が見た風景を想像してみる。
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