ようやく見た『鉄西区』
アップリンク・クラウドにはアップリンク(最近、社長のパワハラが問題になってる。一人で立ち上げ急拡大したミニシアターにありがちなこと)だけでなく、他の会社の映画も配信されている。配給会社ムヴィオラの見放題パックに中国のワン・ビン監督のデビュー作『鉄西区』があった。9時間16分の長大なドキュメンタリー。これ以後の監督の作品はだいたい見てるけど、世界各国の映画祭で受賞したこの伝説的な映画だけは未見だった。
『鉄西区』(2003)は中国東北部の都市・瀋陽を舞台に1999~2003年にかけて撮影された3部作。「工場」(240分)、「街」(175分)、「鉄路」(130分)に分かれている。第1部「工場」は、貨物列車の上から撮影された線路と沿線風景が延々とつづく長い長いショットから始まる。雪のなかに延びる単線線路。両側にはレンガづくりの古びた工場。直前で踏切を横切る人や車。それが10分近くつづくんだけど、時折り機関車の汽笛が響くだけの単調な工場街の風景に惹きつけられる。列車に乗って車窓を流れてゆく風景に見入ってしまうのと同じ感覚。
やがてカメラは工場に入っていく。現場で働き、休憩所でだべったり将棋で遊んでいる労働者たち。ここは国営の瀋陽精錬所で、経営不振から労働者の解雇がつづく。工場の民営化や倒産も噂されている。カメラは彼らの後を追う。ナレーションが入らないので必ずしも理解できるわけではない会話の切れ端から、誰それは辞めるときいくらもらったとか、診断書を書いてもらって仕事をさぼるとか、上司の悪口とか、来年はもうだめだなとか、労働者の声が聞こえてくる。誰もカメラを意識しないのは、ワン監督との信頼関係が既にできあがっているからだろう。やがて銅や鉛の精錬工場が次々に操業を止め無人になってゆく。
おそらく戦前に建設されたままの古びた工場で働く労働者の姿を捉え、会話に聞き入る。その長いショットが一見無造作に積み重ねられ、印象としては断片の寄せ集め(実は周到に編集されているに違いないが)のなかから、彼らが置かれている状況がじわっと見えてくる。効率よくいいとこだけ編集して分かりやすく解説してくれるドキュメンタリーとは正反対の240分の画面から、目が離せなくなる。
「街」でもそれは変わらない。舞台は艶色街という、古びた労働者の住宅街。再開発のため取り壊しが決まっている。カメラが追うのは、街に住むティーンエイジャーたちと、その家族。若者はほとんど職がなく、日がなぶらぶらし雑貨屋に集まってはタバコをふかしてだべっている。その無為を、ただ黙って見ている。大人たちは、立ち退いても今より狭い住居しかもらえないと文句をたれている。それでも1軒、また1軒と引っ越し、取り壊されて、街は瓦礫になってゆく。
「鉄路」は1、2部とは肌合いが異なる。最初は工場群を結ぶ貨物鉄道網で働く労働者たちを1、2部と同じように追っているけれど、やがてカメラは一組の親子に焦点を絞ってゆく。老杜と17歳で無職の息子。老杜は文革世代で農村に下放され、瀋陽に戻っていっとき鉄道で働いていた。やがて職を失い、鉄道敷地内の壊れかけた家に(どうやら不法に)住み、かつての仲間がかすめてくる屑鉄を買う屑拾いで生計を立てているらしい。やがて老杜は鉄道警察によって拘留される。それまでカメラに向かって無表情で一言も言葉を発しなかった息子が、はじめて感情を露わに泣き始める。釈放された老杜と息子が食堂で酒を飲み、泥酔した息子は抑えていた感情を爆発させる。9時間16分のなかでただ一箇所、物語的なクライマックスが訪れる場面だ。立ちあがることもできない息子をおぶって老杜が家へ戻る姿に泣く。やがてこの長大な映画は、新年に老杜が新しい家で鉄道の仲間たちと酒を酌み交わすショットで終わる。
『鉄西区』以来、ワン・ビン監督は10本以上のドキュメンタリーと1本の劇映画をつくっているが、中国国内では1本も公開されていない。その映画にあからさまな政治的主張はないけれど、この20年間、経済発展する中国の影の部分を見据えてきたからだろう。1980年代の改革開放以後の中国をいろんな素材、いろんなスタイルで描いてきたジャ・ジャンクー監督の映画群と、このワン・ビン監督の映画群を併せ見ると、中国現代史をそのいちばん底から理解できるような気がする。
もうひとつこの映画が画期的だったのは、小型デジタルカメラを使うことで、低予算、ごく少ない人数で映画をつくっていることだろう。画面には時折りカメラマンの影が映りこむが、いつも影はひとつ。ワン監督がたったひとりでカメラを回している。夜や老杜の家のなかは暗いけど、自然光で撮影でき、それがまたリアリティになってもいる。新しい機材が新しいスタイルを生み出したいい例だろう。
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