June 30, 2020
June 25, 2020
「写真と映像の物質性」展へ
美術館・博物館がようやく開きはじめた。数カ月ぶりの美術館として、まずはご近所の埼玉県立近代美術館へ。わが家から歩いて10分。平日の午後、「写真と映像の物質性」というテーマからして混んでいるとは思えないし。まず入口を入ったところで手指の消毒、名前と連絡先を書き、検温という手続きを経てチケット売り場へと行く。会場は人がちらほら。
写真にも映像にも興味があるけど、出品者4人+1グループのうち、知ってる名前は横田大輔しかいなかった。「物質性」という現代美術寄りの企画。写真も映像も、何が写っているかというより、写ったものを加工し抽象化することで素材や手法を際立たせる。なかで、風景や人を数百枚連続撮影して貼り重ね、地形図の等高線のように刻んで立体的な画像を見せるNerhol(グラフィックデザイナーと彫刻家のデュオ)の展示が面白かった。好みとはちがうけど、久しぶりの美術館を楽しんだのでした。
June 23, 2020
June 22, 2020
ようやく見た『鉄西区』
アップリンク・クラウドにはアップリンク(最近、社長のパワハラが問題になってる。一人で立ち上げ急拡大したミニシアターにありがちなこと)だけでなく、他の会社の映画も配信されている。配給会社ムヴィオラの見放題パックに中国のワン・ビン監督のデビュー作『鉄西区』があった。9時間16分の長大なドキュメンタリー。これ以後の監督の作品はだいたい見てるけど、世界各国の映画祭で受賞したこの伝説的な映画だけは未見だった。
『鉄西区』(2003)は中国東北部の都市・瀋陽を舞台に1999~2003年にかけて撮影された3部作。「工場」(240分)、「街」(175分)、「鉄路」(130分)に分かれている。第1部「工場」は、貨物列車の上から撮影された線路と沿線風景が延々とつづく長い長いショットから始まる。雪のなかに延びる単線線路。両側にはレンガづくりの古びた工場。直前で踏切を横切る人や車。それが10分近くつづくんだけど、時折り機関車の汽笛が響くだけの単調な工場街の風景に惹きつけられる。列車に乗って車窓を流れてゆく風景に見入ってしまうのと同じ感覚。
やがてカメラは工場に入っていく。現場で働き、休憩所でだべったり将棋で遊んでいる労働者たち。ここは国営の瀋陽精錬所で、経営不振から労働者の解雇がつづく。工場の民営化や倒産も噂されている。カメラは彼らの後を追う。ナレーションが入らないので必ずしも理解できるわけではない会話の切れ端から、誰それは辞めるときいくらもらったとか、診断書を書いてもらって仕事をさぼるとか、上司の悪口とか、来年はもうだめだなとか、労働者の声が聞こえてくる。誰もカメラを意識しないのは、ワン監督との信頼関係が既にできあがっているからだろう。やがて銅や鉛の精錬工場が次々に操業を止め無人になってゆく。
おそらく戦前に建設されたままの古びた工場で働く労働者の姿を捉え、会話に聞き入る。その長いショットが一見無造作に積み重ねられ、印象としては断片の寄せ集め(実は周到に編集されているに違いないが)のなかから、彼らが置かれている状況がじわっと見えてくる。効率よくいいとこだけ編集して分かりやすく解説してくれるドキュメンタリーとは正反対の240分の画面から、目が離せなくなる。
「街」でもそれは変わらない。舞台は艶色街という、古びた労働者の住宅街。再開発のため取り壊しが決まっている。カメラが追うのは、街に住むティーンエイジャーたちと、その家族。若者はほとんど職がなく、日がなぶらぶらし雑貨屋に集まってはタバコをふかしてだべっている。その無為を、ただ黙って見ている。大人たちは、立ち退いても今より狭い住居しかもらえないと文句をたれている。それでも1軒、また1軒と引っ越し、取り壊されて、街は瓦礫になってゆく。
「鉄路」は1、2部とは肌合いが異なる。最初は工場群を結ぶ貨物鉄道網で働く労働者たちを1、2部と同じように追っているけれど、やがてカメラは一組の親子に焦点を絞ってゆく。老杜と17歳で無職の息子。老杜は文革世代で農村に下放され、瀋陽に戻っていっとき鉄道で働いていた。やがて職を失い、鉄道敷地内の壊れかけた家に(どうやら不法に)住み、かつての仲間がかすめてくる屑鉄を買う屑拾いで生計を立てているらしい。やがて老杜は鉄道警察によって拘留される。それまでカメラに向かって無表情で一言も言葉を発しなかった息子が、はじめて感情を露わに泣き始める。釈放された老杜と息子が食堂で酒を飲み、泥酔した息子は抑えていた感情を爆発させる。9時間16分のなかでただ一箇所、物語的なクライマックスが訪れる場面だ。立ちあがることもできない息子をおぶって老杜が家へ戻る姿に泣く。やがてこの長大な映画は、新年に老杜が新しい家で鉄道の仲間たちと酒を酌み交わすショットで終わる。
『鉄西区』以来、ワン・ビン監督は10本以上のドキュメンタリーと1本の劇映画をつくっているが、中国国内では1本も公開されていない。その映画にあからさまな政治的主張はないけれど、この20年間、経済発展する中国の影の部分を見据えてきたからだろう。1980年代の改革開放以後の中国をいろんな素材、いろんなスタイルで描いてきたジャ・ジャンクー監督の映画群と、このワン・ビン監督の映画群を併せ見ると、中国現代史をそのいちばん底から理解できるような気がする。
もうひとつこの映画が画期的だったのは、小型デジタルカメラを使うことで、低予算、ごく少ない人数で映画をつくっていることだろう。画面には時折りカメラマンの影が映りこむが、いつも影はひとつ。ワン監督がたったひとりでカメラを回している。夜や老杜の家のなかは暗いけど、自然光で撮影でき、それがまたリアリティになってもいる。新しい機材が新しいスタイルを生み出したいい例だろう。
June 20, 2020
力石
昨日一日の雨のあと、朝からこの時期にめずらしく空気の澄んだよい天気。与野・大宮方向へ散歩する。
国道17号沿いに中里稲荷神社がある。浦和宿と川越を結ぶ街道にあった中里の鎮守で、境内に「力石」が2つ置かれている。村人が力くらべした石で、「明和二乙酉(1765) 二十六貫目(97キロ)」と刻まれている。もうひとつの石には「二十七貫目(101キロ)」。米俵1俵が60キロだから、かなりの重さ。石の挙げ方にも片手さし、両手さし、肩上げなどのやり方があったという。
40年ほど前、司馬遼太郎さんとバスクを旅したとき山村で祭りに出会い、誰がいちばん早く斧で丸太を割れるか、男たちが力比べをしていたのを見物したことがある。ヨーロッパ古層の文化を残すバスクでは、たぶん今もこの競争がおこなわれているだろう。この神社の力石挙げは、いつごろまでやられていたのだろうか。
June 18, 2020
大戸貝塚へ
一昨日は縄文時代の植生を残す睦神社まで散歩したので、今日は縄文時代の貝塚である大戸貝塚あたりを歩く。
大宮台地の端にあるこのあたりは、小さなアップダウンが多い。貝塚近くの谷筋には小さな川が流れていて現在は暗渠になり、その上が緑道になっている。縄文海進の時代には、このあたりまで古東京湾が入り込んでいた。緑道から少し坂を上がった住宅地のなかに大戸貝塚跡があり、石碑が建っている。
貝塚は5~6000年前、縄文前期のものと推定される。使われなくなった5つの竪穴住居跡の窪みに貝が捨てられていた。東西35メートル、南北30メートルの大規模なもの。貝は淡水産のヤマトシジミを中心に、海水産のハマグリ、ハイガイ、マガキなど16種。想像するに、この谷筋は川から流れ込む淡水と入り込んだ海水が入りまじり汽水湖のような状態だったのではないか。
この坂を上りきると、向こうに低地が広がるのが見え上越・東北新幹線が走っている。この低地一帯、当時は荒川に沿って入り込んだ古東京湾の入江だった。貝塚のある高台は南北に走る尾根筋で、だから古東京湾と反対側の谷筋の汽水湖に挟まれた岬のような地形だったのかもしれない。そんなことを想像してみる。
June 16, 2020
睦神社へ
散歩で国道17号を東京方向に歩き、別所坂下の交差点を左に折れてしばらく行ったところに睦神社がある。石段を30段ほど上った高台に浅間神社、八幡神社、諏訪神社の社殿が建っている。もともとここには浅間神社があり、明治期に他の神社が合祀されて睦神社と呼ぶようになった。睦神社の森は、縄文時代の植生をそのまま伝えている。
7000年前の縄文海進の時代には、海抜10メートル前後のこのあたりまで海が広がっていた。以前、海抜10メートルを境に色分けした浦和の地形図を見たことがあるが、古東京湾に面するこのあたりはリアス式のような複雑な海岸線が広がっていた。浦和という地名は、かつて浦曲とも記されたという。「浦」も「曲」も遠い過去の記憶を伝えているのかもしれない。
解説板によると、「この神社は大宮台地の南縁の舌状台地上」にあり、シロダモ、ヤブツバキ、ビナンカズラ、キチジョウソウなど暖地性常緑広葉樹が繁茂している。これは「この台地の縁辺にかつて太平洋の暖流が打ち寄せて」いたことの名残りだそうだ。
当時は岬の先端だったろう神社の高台から南を眺めると、荒川に沿って深く入り込んだ湾の対岸に赤羽台、飛鳥山(王子)、道灌山(日暮里)の連なりが見えただろう(今はその崖下を京浜東北線が走っている)。浅間神社は富士信仰だから、その背後には富士山が聳えているはずだ。
東京の縄文地図をつくった中沢新一『アースダイバー』によれば、「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた」。今はビル群にさえぎられて何も見えないが、神社の森の彼方に縄文人が見た風景を想像してみる。
June 11, 2020
二度栗山へ
散歩で国道17号を与野・大宮方向に歩くと二度栗山がある。山といっても大宮台地の縁にある高台で、弘法尊院という寺がある。境内には数十体の石仏と石碑が集まっていて、てっぺんに弘法大師の石像がある。この石仏群はもともと二度栗山の麓に点在していて、これらを一巡りすると四国八十八カ所を巡ったお遍路と同じ利益があったそうだ。
昭和20年代後半には、二度栗山に「温泉」があった。5、6歳のころ、一度だけ祖母に連れられて行ったことがある。どうやら大正期にここでラジウム温泉が出たらしい。温泉に入ったあとくつろいで飲み食いする、小型の船橋ヘルスセンターみたいな施設だった。舞台も記憶にあるから、歌謡ショーでもあったのか。娯楽の少ない時代だから、けっこう賑わっていたのかもしれない。寺の近くに2階建ての古い木造家屋があり、壁にかすれた文字で「旅館」と書いてある。これが「温泉」の名残りなのかも。今度、確かめてみよう。
June 05, 2020
『リアリティのダンス』
2980円60本見放題のアップリンク・クラウドで『リアリティのダンス(原題:La Danza de la Realidad)』を見る。
チリの映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキ監督の『エル・トポ』を見たのはもう40年近く前のことになる。西部劇スタイルでガンマンが荒野を放浪する話だけど、それがいつの間にか地下世界のフリークスが登場したり大虐殺が繰り広げられたり。南米の土俗的キリスト教の匂いのする、奇妙な、でも記憶に残る映画だった。以後、SF大作『DUNE』が挫折したり(デヴィッド・リンチが映画化した)、数本しか映画を撮ってない。『リアリティのダンス』(2013)は監督が23年ぶりにつくった作品。
1930年代、ホドロフスキ自身の少年時代が回想されている。といっても普通のリアリズムじゃない。奇妙奇天烈な登場人物やエピソードが脈絡なくつながってゆく。冒頭、監督自身が画面に登場して、子供時代の自分であるアレハンドロ少年(イェレミアス・ハーコヴィッツ)の心臓に手を当てながら独白する。「心の奥に住んでいる子供を感じる。その子の瞳は永遠の不在で満たされ、常によそ者と感じている」。このセリフが、映画の通奏低音となる。
続いて荒地に張られたサーカスのテント。ピエロが手品を演じ、観客はみな仮面をかぶっている。一転して、黒衣に黒傘の数百人の集団が荒野を行進する無気味なショット。後にこれがペストで隔離された病者の集団と分かるのだが、過酷な風景と極彩色の人工物。登場するフリークスたち。まぎれもなく『エル・トポ』につながる世界だ。
アレハンドロ少年は、ウクライナから亡命してきた両親とチリの港町で暮らしている。アレハンドロは、母サラ(パメラ・フローレンス)の手で長い金髪の鬘をつけさせられ、少女と見紛う美少年。サラは豊乳の大柄の女性で、敬虔なカソリック信者。洋品店(店にはスターリンの肖像画)を営む父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキ──監督の息子)はスターリンを崇拝する共産主義者。全体が少年の目から見た父と母の物語になっている。母はアレハンドロを過剰に愛し、父は軟弱なアレハンドロの鬘をはぎ、男として鍛えようとする。
母サラのセリフがすべてオペラのように歌になっている。最初は違和感があるけど、やがてそのゆったりしたテンポとメロディが快感になる。父ハイメの遍歴が語られる。独裁者を殺そうとして逆に独裁者に気に入られ、愛馬の世話をすることに。やがて記憶喪失。手が萎えたハイメは信心深い椅子職人と出会う(聖書にある話みたい)。ナチスを信奉する政権からの拷問。このあたり、1970~80年代のピノチェト政権が暗喩されてるのかもしれない。そんな遍歴の果てにハイメは家に戻る。サラの愛がハイメとアレハンドロを包み込む。サラを演ずるパメラ・フローレンスが圧倒的な存在感。
『フェリーニのアマルコルド』か寺山修司『田園に死す』か、というフィクショナルな自伝でした。フェリーニや寺山と同じく、いやそれ以上に個性的で面白いなあ。
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