『帰れない二人』 現代史を凝縮したメロドラマ
病院で「寛解」との診断をもらって、さて、まず何をしようか、と院内のカフェでお茶を飲みながら考えた。そうだ。このまま映画を見に行こう。これまでは感染症の恐れがあるので人混みは避けるよう言われ、映画館へ行くのを自分に禁じていた。それを解こう。映画館で映画を見るのは10カ月ぶりだ。ちょうど見たい映画がかかっていた。ジャ・ジャンクーの『帰れない二人(原題:江湖儿女)』。彼の映画はほとんど見ているから、見逃したくない。というわけで渋谷のル・シネマへ。
原題の「江湖儿女」は、流れ者の男と女、といった意味らしい。中華人民共和国は建前として黒社会の存在など認めないだろうけど、どの時代どの国にも社会からはみ出して生きる人間は存在する。この映画は流れ者として生きる男と、その男を愛する、彼女自身もなかば社会からはみ出た女が主人公。時代は2001年、2008年、2017年。場所は山西省、三峡ダムとウィグル、再び山西省。時代と場所を越えて一組の男と女の物語が語られる。
2001年、炭鉱の町、山西省大同。炭坑夫の娘チャオ(チャオ・タオ)は雀荘を経営している。恋人はヤクザ者で、若いもんを束ねるビン(リャオ・ファン)。炭鉱は不況で、炭鉱局は新疆に移ることが決まっている。チャオはビンに一緒に暮らそうと迫るが、ビンはうんと言わない。ある夜、町でビンは若いチンピラに囲まれぼこぼこにされる。見かねたチャオはビンが持っていた拳銃を発射する。2008年、三峡ダムで沈む町、奉節。刑務所を出たチャオは、事業に成功した弟分の世話になっているビンを訪ねてゆく。が、ビンは弟分の妹の恋人になっていた。船着き場で無言で向き合う二人。チャオはゆきずりの男に誘われ新疆ウィグルへ向かう列車に乗る。2017年、再び大同。古巣の雀荘の女将に収まっていたチャオのもとへ、脳出血で半身不随になったビンがころがりこんでくる、、、。
離れそうで離れられない男と女を、ジャ・ジャンクー映画のミューズであるチャオ・タオと、武骨なリャオ・ファンが言葉少なに、そのかわりふとした身振りや表情で陰翳たっぷりに演じている。それがこの映画の最大の見どころ。雑草が生え人けのない炭住を背景にチャオとビンが並んで歩くショット、揚子江の船着き場で無言で向き合うショット、粗末なホテルの部屋でぽつぽつ語りあう二人のショット、チャオにあてがわれた雀荘の部屋で言い合う二人のショット。忘れがたい場面がいくつもある。2001年では可憐な娘の風情を残すチャオが、2008年では刑務所帰りの女詐欺師に変身し、2017年には貫禄ある雀荘の女将になっている。チャオ・タオは服装と髪型の変化でそれぞれに魅力的な女を造形している。
もうひとつの見どころは、風景と人。2001年と2008年のパートでは、一部に当時撮影したフィルムが使われているという。街のたたずまいも人々の服装や表情にも、つくりものでないリアルさがある。2008年くらいまで、まだ服装も顔も僕が知っている1980年代の貧しい中国とさほど変わっていない。2001年のパートに出てくる乗り合いバス、2008年の新疆へ向かう夜行列車、2017年の新幹線と、乗り物も変わりゆく時代を雄弁に物語る。エリック・ゴーティエの撮影も、2001年と2017年では質感が異なって古いフィルムと違和感なくつながる。
ジャ・ジャンクーの作品群はすべて改革開放以後の中国を舞台にしている。だから彼の映画を全体として見れば、叙事的な中国現代史になっている。この映画は、そのうち山西省を舞台にした『青い稲妻』と三峡ダムを舞台にした『長江哀歌』の設定を引き継いでいる。『青い稲妻』はずいぶん昔に見たので覚えてないが、山と川を背景に船上のチャオを捉えた『長江哀歌』と同じようなショットがあった。
映画のスタイルも、ずいぶん変わってきた。ドキュメンタリーふうな初期作品から、『罪の手ざわり』では武侠映画のスタイルを取り入れ、犯罪や暴力をテーマにした。前作『山河ノスタルジア』では過去・現在・未来という三つの時代をオムニバスにしている。『帰れない二人』はそうした要素をふんだんに取り入れて、ジャ・ジャンクーの全作品が語る長大な中国現代史を1本に凝縮したメロドラマといった味わいがある。
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