『ジョーカー』 不穏でもあり優雅でもあり
僕は原作のコミックをぱらぱらと見たことがある程度だけど、映画化されたティム・バートンの2部作とクリストファー・ノーランの3部作では、主人公のバットマンより敵役であるジョーカーやキャットウーマンのほうが魅力的だった。それは主役のマイケル・キートンやクリスチャン・ベールといった二枚目より、ジャック・ニコルソン、ミシェル・ファイファー、ヒース・レジャーといった敵役のほうが圧倒的に個性派だったことにもよる。でもそれだけでなく、監督のバートンやノーランが人間に潜む悪や混沌といったものに惹かれたことにもよるんじゃないだろうか。『ジョーカー(原題:Joker)』はそうした映画版の悪の魅力を受け継ぎ、ジョーカーの誕生を描く大人のエンタテインメント。その不穏なテイストがたまらない。
貧困層が住むアパートで年老いた母と暮らすアーサー(ホアキン・フェニックス)はコメディアンを目指し、ピエロとして生計を立てる心優しい男。子供のころ脳に傷を負い、自分の意思と無関係に笑いだす病気をもっている。地下鉄で彼の笑いが誤解されたことがきっかけでビジネスマン3人を殺してしまったことから、自分のなかの悪に目覚めていく。社会は富裕層と貧困層に分断され、貧困層の不満が高まって、ピエロの化粧を施したアーサーは混乱のなかでヒーローとなってゆく。
舞台となるゴッサム(ニューヨーク)の街並みや地下鉄の落書きから、1980年代のニューヨークが想定されているのがわかる。ベトナム戦争が終って社会がすさみ、製造業が衰退し、中間層が分解しはじめた時期。人々の不安と怒りが高まってゆく。アーサーは周囲の冷たい仕打ちにうちひしがれている。その失意のなかからジョーカーが誕生するわけだけど、1980年代が現代の1%対99%と言われるアメリカに重ねられている。そんな社会派映画っぽい要素を持っている。
でもこの映画が面白いのは社会派であるだけでなく、音楽映画あるいはミュージカルの要素が詰まっていること。アーサーが住む部屋のテレビ画面ではジーン・ケリーの映画がかかっている。アーサーはまたフランク・シナトラの歌を口ずさむ。アーサーが殺人を犯したことでなにかが吹っ切れたとき、トイレのなかでひとりゆったりと踊る。さらに人を殺して自らがジョーカーとして生きることを確信したとき、アーサーは石の階段を下りながら自らを解放した喜びに再びジーン・ケリーのように踊る。クライマックスでジョーカーが群衆の真中に立つとき、クリームの「ホワイト・ルーム」がいきなり流れだしたのには驚いた。懐かしい曲が懐しいだけでなく、攻撃的で人々をアジテートする音楽のように聞こえてくる。
音楽だけでなく、過去の映画の記憶も詰まっている。アーサーがテレビの生のトークショーに出演してキャスター(ロバート・デ・ニーロ)を殺すあたりは、そのデ・ニーロがトークショーのキャスターを誘拐する犯罪者を演じたマーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』に似ているし、社会から孤立した男が犯罪者になっていくストーリーは『タクシー・ドライバー』を思い起こさせる。設定は1980年代らしいけど、劇中の映画や音楽は50~70年代のものが混在して、全体としてノスタルジックでありながら不穏でもある。
アーサーを演ずるホアキン・フェニックスは、ニコルソンやレジャーのジョーカーを踏まえて引きつる笑いと優雅なダンスが印象的。監督はトッド・フィリップス。この監督の映画はコメディの『ハングオーバー!』しか見たことがなかったので、あまりの変わりように驚いた。
Comments
先日NYに行っていた時に映画をみたら、もぎりの
ところにこの映画の警告文が貼られてました(汗)
Posted by: onscreen | November 03, 2019 06:46 AM
「『ダークナイト ライジング』の上映中、ジョーカーに刺激を受けたと見られる男によって12人が死亡、70人以上が負傷」という事件があったらしいですね。そのせいでしょうか。
Posted by: 雄 | November 13, 2019 07:24 PM