« September 2019 | Main | November 2019 »

October 26, 2019

『ジョーカー』 不穏でもあり優雅でもあり

Joker

僕は原作のコミックをぱらぱらと見たことがある程度だけど、映画化されたティム・バートンの2部作とクリストファー・ノーランの3部作では、主人公のバットマンより敵役であるジョーカーやキャットウーマンのほうが魅力的だった。それは主役のマイケル・キートンやクリスチャン・ベールといった二枚目より、ジャック・ニコルソン、ミシェル・ファイファー、ヒース・レジャーといった敵役のほうが圧倒的に個性派だったことにもよる。でもそれだけでなく、監督のバートンやノーランが人間に潜む悪や混沌といったものに惹かれたことにもよるんじゃないだろうか。『ジョーカー(原題:Joker)』はそうした映画版の悪の魅力を受け継ぎ、ジョーカーの誕生を描く大人のエンタテインメント。その不穏なテイストがたまらない。

貧困層が住むアパートで年老いた母と暮らすアーサー(ホアキン・フェニックス)はコメディアンを目指し、ピエロとして生計を立てる心優しい男。子供のころ脳に傷を負い、自分の意思と無関係に笑いだす病気をもっている。地下鉄で彼の笑いが誤解されたことがきっかけでビジネスマン3人を殺してしまったことから、自分のなかの悪に目覚めていく。社会は富裕層と貧困層に分断され、貧困層の不満が高まって、ピエロの化粧を施したアーサーは混乱のなかでヒーローとなってゆく。

舞台となるゴッサム(ニューヨーク)の街並みや地下鉄の落書きから、1980年代のニューヨークが想定されているのがわかる。ベトナム戦争が終って社会がすさみ、製造業が衰退し、中間層が分解しはじめた時期。人々の不安と怒りが高まってゆく。アーサーは周囲の冷たい仕打ちにうちひしがれている。その失意のなかからジョーカーが誕生するわけだけど、1980年代が現代の1%対99%と言われるアメリカに重ねられている。そんな社会派映画っぽい要素を持っている。 

 でもこの映画が面白いのは社会派であるだけでなく、音楽映画あるいはミュージカルの要素が詰まっていること。アーサーが住む部屋のテレビ画面ではジーン・ケリーの映画がかかっている。アーサーはまたフランク・シナトラの歌を口ずさむ。アーサーが殺人を犯したことでなにかが吹っ切れたとき、トイレのなかでひとりゆったりと踊る。さらに人を殺して自らがジョーカーとして生きることを確信したとき、アーサーは石の階段を下りながら自らを解放した喜びに再びジーン・ケリーのように踊る。クライマックスでジョーカーが群衆の真中に立つとき、クリームの「ホワイト・ルーム」がいきなり流れだしたのには驚いた。懐かしい曲が懐しいだけでなく、攻撃的で人々をアジテートする音楽のように聞こえてくる。

音楽だけでなく、過去の映画の記憶も詰まっている。アーサーがテレビの生のトークショーに出演してキャスター(ロバート・デ・ニーロ)を殺すあたりは、そのデ・ニーロがトークショーのキャスターを誘拐する犯罪者を演じたマーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』に似ているし、社会から孤立した男が犯罪者になっていくストーリーは『タクシー・ドライバー』を思い起こさせる。設定は1980年代らしいけど、劇中の映画や音楽は50~70年代のものが混在して、全体としてノスタルジックでありながら不穏でもある。

アーサーを演ずるホアキン・フェニックスは、ニコルソンやレジャーのジョーカーを踏まえて引きつる笑いと優雅なダンスが印象的。監督はトッド・フィリップス。この監督の映画はコメディの『ハングオーバー!』しか見たことがなかったので、あまりの変わりように驚いた。

| | Comments (2)

October 12, 2019

『マインドハンター』 ネトフリ廃人?

Mindhunter2

「ネトフリ廃人」という言葉があるそうだ。ネットフリックスの、主に連続ドラマにはまってネットフリックスを延々と見つづけ、廃人のようになってしまった人間を言う。僕はネットフリックスで単発の映画やドキュメンタリーを見ているので無縁だと思っていたけれど、この1週間、「ネトフリ廃人」になりかけた。

その罪深いドラマは『マインドハンター(Mindhunter)』。『セブン』の映画監督デヴィッド・フィンチャーと女優のシャーリーズ・セロンが製作し、フィンチャーが19話中7話を演出している。かつて一世を風靡したデヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』のフィンチャー版といった感じ。

主人公は1970年代のFBI捜査官二人。猟奇的な犯罪を犯した連続殺人犯に聞き取り調査をし、後にプロファイリングと呼ばれる手法を確立する男たちの物語だ。と書くと、よくある猟奇犯罪ものか、と思われるかもしれないが、このドラマが面白いし凄いのは猟奇的な残酷描写やアクションがほとんどなく、徹頭徹尾会話劇であるところ。

なかでも実在の犯罪者エド・ケンパー(キャメロン・ブリットン)と主人公フォード捜査官(ジョナサン・グロウ)が獄中で何度も対話するシーンはシリーズ1の白眉だ。シリーズ2ではチャールズ・マンソンも登場する。ケンパーやマンソンの語る言葉によって、猟奇犯罪を犯した男の心のうちがじわりじわりあぶり出され、世間の掟に従って日常生活を送っている私たちの奥底にも同じものが潜んでいるのに気づいてぞくぞくっとする。シリーズ2ではフォード捜査官もケンパーの言葉に感応し、抱きしめられてパニックを起こしてしまう。

もうひとりの主人公は、FBIに行動科学科というセクションをつくったベテランのテンチ捜査官(ホルト・マッキャラニー)。テンチは古い体質の組織や上司とつきあいつつ、若いフォードが時に暴走するのを抑える。そして二人に勧誘され大学の研究者からFBIに転身したウェンディ(アナ・トーヴ)。黒いスーツに身を固めたウェンディがクールな目で男二人を見据えて皮肉をとばすシーンがどのエピソードにも出てきて、なんとも恰好いい。

この三人を中心に、何人もの連続殺人犯へのインタビューが繰り返される。各地の警察署から連続殺人事件捜査への協力を要請される。三人それぞれのプライベートな生活が挿入されるのもドラマに彩りを与えてる。シーズン2の終わりでは、フォードは大学院生の恋人と、テンチは妻と、ウェンディは同性の恋人と、それぞれ破局を迎えてしまったようだ。

このドラマのもうひとつの魅力は、1970年代のアメリカが見事に再現されていること。街並み、自動車、ファッション、髪型、音楽……。この時代、ヒッピーやカウンター・カルチャーが話題になっていたとはいえ、そういうものと無縁な中西部や南部が舞台で、合衆国の多数派の人びとが登場するドラマ。中産階級が多く豊かだった時代の地方都市の空気が実によく描かれている。

 

| | Comments (0)

October 11, 2019

『帰れない二人』 現代史を凝縮したメロドラマ

Photo_20191004152801

 

病院で「寛解」との診断をもらって、さて、まず何をしようか、と院内のカフェでお茶を飲みながら考えた。そうだ。このまま映画を見に行こう。これまでは感染症の恐れがあるので人混みは避けるよう言われ、映画館へ行くのを自分に禁じていた。それを解こう。映画館で映画を見るのは10カ月ぶりだ。ちょうど見たい映画がかかっていた。ジャ・ジャンクーの『帰れない二人(原題:江湖儿女)』。彼の映画はほとんど見ているから、見逃したくない。というわけで渋谷のル・シネマへ。

原題の「江湖儿女」は、流れ者の男と女、といった意味らしい。中華人民共和国は建前として黒社会の存在など認めないだろうけど、どの時代どの国にも社会からはみ出して生きる人間は存在する。この映画は流れ者として生きる男と、その男を愛する、彼女自身もなかば社会からはみ出た女が主人公。時代は2001年、2008年、2017年。場所は山西省、三峡ダムとウィグル、再び山西省。時代と場所を越えて一組の男と女の物語が語られる。

 2001年、炭鉱の町、山西省大同。炭坑夫の娘チャオ(チャオ・タオ)は雀荘を経営している。恋人はヤクザ者で、若いもんを束ねるビン(リャオ・ファン)。炭鉱は不況で、炭鉱局は新疆に移ることが決まっている。チャオはビンに一緒に暮らそうと迫るが、ビンはうんと言わない。ある夜、町でビンは若いチンピラに囲まれぼこぼこにされる。見かねたチャオはビンが持っていた拳銃を発射する。2008年、三峡ダムで沈む町、奉節。刑務所を出たチャオは、事業に成功した弟分の世話になっているビンを訪ねてゆく。が、ビンは弟分の妹の恋人になっていた。船着き場で無言で向き合う二人。チャオはゆきずりの男に誘われ新疆ウィグルへ向かう列車に乗る。2017年、再び大同。古巣の雀荘の女将に収まっていたチャオのもとへ、脳出血で半身不随になったビンがころがりこんでくる、、、。

離れそうで離れられない男と女を、ジャ・ジャンクー映画のミューズであるチャオ・タオと、武骨なリャオ・ファンが言葉少なに、そのかわりふとした身振りや表情で陰翳たっぷりに演じている。それがこの映画の最大の見どころ。雑草が生え人けのない炭住を背景にチャオとビンが並んで歩くショット、揚子江の船着き場で無言で向き合うショット、粗末なホテルの部屋でぽつぽつ語りあう二人のショット、チャオにあてがわれた雀荘の部屋で言い合う二人のショット。忘れがたい場面がいくつもある。2001年では可憐な娘の風情を残すチャオが、2008年では刑務所帰りの女詐欺師に変身し、2017年には貫禄ある雀荘の女将になっている。チャオ・タオは服装と髪型の変化でそれぞれに魅力的な女を造形している。

もうひとつの見どころは、風景と人。2001年と2008年のパートでは、一部に当時撮影したフィルムが使われているという。街のたたずまいも人々の服装や表情にも、つくりものでないリアルさがある。2008年くらいまで、まだ服装も顔も僕が知っている1980年代の貧しい中国とさほど変わっていない。2001年のパートに出てくる乗り合いバス、2008年の新疆へ向かう夜行列車、2017年の新幹線と、乗り物も変わりゆく時代を雄弁に物語る。エリック・ゴーティエの撮影も、2001年と2017年では質感が異なって古いフィルムと違和感なくつながる。

ジャ・ジャンクーの作品群はすべて改革開放以後の中国を舞台にしている。だから彼の映画を全体として見れば、叙事的な中国現代史になっている。この映画は、そのうち山西省を舞台にした『青い稲妻』と三峡ダムを舞台にした『長江哀歌』の設定を引き継いでいる。『青い稲妻』はずいぶん昔に見たので覚えてないが、山と川を背景に船上のチャオを捉えた『長江哀歌』と同じようなショットがあった。

映画のスタイルも、ずいぶん変わってきた。ドキュメンタリーふうな初期作品から、『罪の手ざわり』では武侠映画のスタイルを取り入れ、犯罪や暴力をテーマにした。前作『山河ノスタルジア』では過去・現在・未来という三つの時代をオムニバスにしている。『帰れない二人』はそうした要素をふんだんに取り入れて、ジャ・ジャンクーの全作品が語る長大な中国現代史を1本に凝縮したメロドラマといった味わいがある。

 

| | Comments (0)

October 04, 2019

タイサンボクの実

191004

一昨日、病院へ検査結果を聞きにいった。結果は、寛解していますとのこと。がんの場合、寛解とはがん細胞は見つからず症状もない、ただし本当にがんが消えたかどうかは時間がたってみないと分からない、ということらしい。診断結果を聞いて、ほっとひと息。もっとも、手足のしびれなど抗がん剤の副作用は残っているし、体重もだいぶ減ったので体力・筋力が低下している。これからは、定期的に検診を受けながら体力を回復するリハビリに当たることになる。

皆さんからたくさんの励ましをいただきました。それに支えられてここまで来られたのだと思っています。ありがとうございました。

写真は病院の入口にあるタイサンボクの葉と実。巨大な白い花、日差しを受けて光る肉厚の葉、堂々とした枝ぶりは、その下を通りぬけるたびに力強い生命の力をもらうように感じられた。

| | Comments (2)

« September 2019 | Main | November 2019 »