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September 30, 2018

『きみの鳥はうたえる』 正統派の青春映画

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佐藤泰志原作の「函館もの」は3本とも見ている。それぞれタッチの違う映画で、記憶だけでいうと『海灰市叙景』はモノクロームの絵画的ショットが記憶に残るノスタルジックな小品、『そこのみにて光輝く』は手持ちカメラを多用した、1970年代の神代辰巳ふうの文芸もの、『オーバー・フェンス』は山下敦弘監督らしくけだるいけれど、そこはかとなく明るい今ふうの映画に仕上がっていた。

『きみの鳥はうたえる』はそれらに比べると、丹念につくられた正統派の青春映画といった印象だ。男二人に女ひとりのカップルも、青春ものの定番ともいえる組み合わせ。冒頭とラスト近くで函館山を望む夜景のショットが入るほかは、誰もが函館と分かるショットはない。でも行ったことのある人なら、いかにも函館の街だなあと感じられる空気が写しこまれている。

書店で働く「僕」(柄本佑)は、行きがかりで同僚のアルバイト佐知子(石橋静河)とデートし、僕のアパートでベッドを共にする。僕はアパートで、仕事もせずぶらぶらしている静雄(染谷将太)とルームシェアしている。やがて顔を合わせた三人は仲良くなり、一緒にバーやビリヤードやクラブで夏の夜をすごす。「僕」は、佐知子が静雄と親しくなるのを見て、むしろその背中を押すような態度を取る……。

なにがいいといって、「僕」を演ずる柄本佑が素晴しい。いつも自分の気分だけで動き、書店員としての仕事も佐知子との恋の行方も成行きまかせ。世の中どうでもいいといった風情の青年のぶっきらぼうとあてどなさが身体から滲み出ている。相手役の石橋静河も『夜空はいつでも最高密度の青色だ』よりずっとのびやかで、生き生きしてる。染谷将太もマザコンふうな男の子を好演。三人が徹夜明けで街にさまよい出て、朝日が反射する路面電車の線路をふらふら歩くショットがいいな。

最後に「恋か友情か」ふうな古典的問いかけで終わるのも、この正統派の青春映画にふさわしい。監督は三宅唱。意固地な同僚の書店員や佐知子と不倫している店長、静雄を心配する母親など、誰にも温かい目を向けている。

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September 27, 2018

上野で展覧会二つ

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雨模様の一日。上野で展覧会を二つ、はしごした。

まずは東京芸術大学美術館陳列館で「台湾写真表現の今」(~9月29日)。1960年代以降に生まれた写真家8人の作品が展示されている。スナップショットはなく、なんらかのコンセプトに基づいて撮られたもの。そこから、変貌する台湾の風景や、移民として入ってきたアジア人との混血や、傷ついたジェンダーの問題などが見えてくる。布に印刷された写真に刺繍をほどこすような、伝統とのマッチングもある。

僕が写真雑誌の編集者をしていた1990年代、台湾の写真といえば古典的な風景写真しか紹介されなかった。大陸でもぼつぼつ新しい写真が出てきていて、台湾にもあるはずだと思っていたけど、当時は分からなかったこういう若い世代の試みが今や主流になっているんだろう。

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お茶を飲んで一休みし、東京都美術館で「藤田嗣治展」(~10月8日)。

10年ほど前、竹橋の近代美術館で没後はじめての大がかりな藤田展を見て彼の戦争絵画に興味をもった。近代美術館は自分のところや貸し出しで小出しに見せるけど、戦争絵画全体を見せることはしない。今回は、戦争画は代表作「アッツ島玉砕」「サイパン島」の二点のみ。その前後、戦前のパリ時代と南米旅行、戦後のアメリカ滞在とパリ時代の絵がたくさん集められている。

図録は買わなかったけど、展示を見る限り、戦後、藤田が画壇で戦争責任を問われてパリに脱出し、日本国籍を捨てレオナール・フジタとなったことと彼の晩年の作品との関係といったものには関心が払われていなかった。あくまで日本人・藤田嗣治の偉大な業績。

写真に写っているパリのカフェの絵は、藤田が日本を捨て、でもフランスに入国できずに滞在したニューヨークで描いたもの。華やかなりし時代の記憶に基づいて描いた作品で、追憶と寂寥がひしひしと伝わる名品でした。


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September 24, 2018

『陰謀の日本中世史』を読む

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呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)の感想をブック・ナビにアップしました。

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September 21, 2018

『寝ても覚めても』 人間の分からなさ

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ヒロイン朝子(唐田えりか)がはじめて麦(東出昌大)と会うときも、亮平(東出の二役)と会うときも、写真が二人をつないでいる。それも同じ写真。同じ服を着た双子の少女が、手をつないで並んでいる。若くして亡くなった写真家・牛腸(ごちょう)茂雄の代表作として、知る人ぞ知る作品だ。

この写真が、麦と亮平という双子のように同じ顔をした二人の男に朝子が否応なく惹かれていくことの予兆の役割を果たしている。主に子供たちを撮った牛腸茂雄の作品群には、子供時代の無垢と、裏腹にどこか無気味な残酷さが感じとれる。この背中合わせの背理の感情は、『寝ても覚めても』の底を流れる通奏低音でもある。

麦と朝子の恋は稲妻のような一撃で始まり、稲妻のような一撃で消える。亮平と朝子の愛は時間をかけて、ゆっくり熟成されてゆく。でもどちらも、それが成就するのか、次の瞬間に何が起こるのかは本人たちにも分からない。その分からなさが、この映画の魅力だ。

大阪。朝子は麦と出会い、恋に落ちる。熱烈な恋だが、ある日、麦はいきなり姿を消す。5年後の東京。喫茶店で働く朝子は、コーヒーの出前先で、麦そっくりなサラリーマンの亮平と出会う。亮平は朝子に積極的で、やがて朝子も亮平の優しさに惹かれてゆく。一方、大阪時代の女友だちから、麦がモデルとして活躍していることを知らされる。

亮平と朝子は同居するようになり、亮平に大阪本社へ異動の内示があったのを機に結婚を考える。しかし新居探しに大阪へ出向いた先の空き家で、朝子は麦が自分の前に姿を現すことを予感する。予感は的中し、亮平と朝子の歓送会の席上、いきなり麦が朝子の前に現れる……。

三人の関係はさらに二転三転するけれど、それはストーリーが複雑に絡んでクライマックスに向かうということではない。朝子の決断は、観客が納得するようには描かれていない。いや、朝子本人にすら分からないのだと言うふうに描かれている。ラストシーン。ベランダで亮平が朝子に静かに言う。「僕は朝子を一生信じられないかもしれないな」。

濱口竜介監督の前作『ハッピーアワー』では、監督と演技未経験の出演者自身が行った映像ワークショップの一部がそのまま映画に取り込まれていた。『寝ても覚めても』でも唐田えりかはこれがデビュー作で、同じようなワークショップを重ねて撮影に臨んだらしい。ただ、出演者が自分の経験を延長すればよかった『ハッピーアワー』に比べて、『寝ても覚めても』の朝子役はきわめて複雑な感情の動きを表現しなければならない。演技初体験の唐田えりかには荷が重く、彼女のその時々の表情に、観客としては「ああ、これはこういうことなんだろうな」と助け船を出す気持ちで見ていた。

でも未経験者を使うことは、濱口監督の映画のスタイルと密接に結びついている。本来は男女三人の絡み合いでストーリー的にも「アヤ」(by笠原和夫)満載で盛り上がるべきものなのだろうが、そうは撮らない。そこにある役者や風景を淡々と撮る。説明もしない。そこからこの映画の今日性が生まれてくる。例えばこの映画、演技派の二人(オダギリジョーと蒼井優とか)が演ずればまったく別の映画になってしまうだろう。日本映画にも新しい世代が出てきたことをひしひしと感ずる。


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September 20, 2018

夕食をつくる

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家族が入院してしまった。退院は11月になりそう。というわけで、週に3日ほど夕食を自炊している(朝食、昼食はもともと自分でつくっていた)。

凝ったものでなく、簡単な家庭料理。冷凍庫に挽肉が残っていたので、半分は挽肉のカレーに(もちろん市販のルウです)。半分は明日の三色丼の具に。今夜のつけあわせは、ほうれんそうのおひたしとトマトサラダ。これからヨガに行き、帰ってきてひとりで食べます。


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September 15, 2018

首相官邸前へ

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この1カ月、家族の入院その他があって映画を見る本数、本を読む時間がぐっと減ってしまった。ブログの更新もままならない。でも今日は、ボランティアのあと1時間ほど空いたので、首相官邸前で行われていた「安倍はやめろ」集会へ。

いくつもの団体が呼びかけたもので、いつもの官邸前集会より参加者がぐっと多い(警備の警官の数も半端じゃない)。遅れていったので、官邸前交差点にいるはずの主催者の姿はまったく見えず、それぞれのグループが勝手に「安倍はやめろ」のコール。

国会前・官邸前に行ったのは久しぶりで、気がついたのは「ファシスト」(もちろん首相のことです)という言葉がコールにたくさん使われていたこと。こういう言葉というのはつい激しくなりがちで、「ファシスト」はさすがに大げさじゃないのと思ったけど、まてよ、と考えた。

ファシズムといっても、その完成した姿でなく初期の兆候、第一歩があったはず。まずは権力者にモノが言いにくくなる。モリ・カケ問題での官僚たちの「忖度」。誰もが嘘だと分かっていることを押し通す「公正・正直」ならざる言葉の数々。いま進行中の自民党総裁選で、国会議員、地方議員のモノ言えば唇寒しの雰囲気。新聞やテレビの首相パブリシティみたいなニュース。その裏でネットにあふれる憎悪。こういう空気こそ、ファシズムの初期の兆候かもしれない。と考えて、コールしてきました。「安倍はやめろ!」

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September 09, 2018

山下洋輔と森山威男

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山下洋輔と森山威男。1960~70年代初頭に疾走した山下洋輔トリオの二人が一緒に演奏するのを聞くのは四十数年ぶり。「中央線文化としてのフリージャズ~僕らは1970年に何を考えていたのか」(9月9日、座・高円寺2)にブック・ナビの相棒〈正〉君と行ってきた。二人とも当時の山下トリオを聞いている。

これはただのコンサートでなく、社会経済学者・松原隆一郎のプロデュース・司会による映像とトークと演奏。まずは山下と森山が中央線沿線に住み、ジャズと出会ったことが映像で紹介される。トークで浮き彫りになる、現代音楽に影響されたりナベサダ仕込みのバークリー・メソッドで理論的にフリージャズに接近した山下と、クラシックやフォービートに飽き足らず直観的にパワー全開を求めてフリージャズに行きついた森山の対照的なアプローチが面白い。共通していたのは、スイングするフリージャズを目指したこと。

次いで二人がそれぞれの手の内を明かす。森山が童謡の「故郷」を口ずさみながら、どうドラムを叩くかを実演。右手と左手の拍子のズレによって、独特の持続感が生まれる。次いで山下が、手くせがどんなふうに自分のフレーズになっていくかを実演。そんなふうに「音楽の秘密」を言葉にした後で、山下作曲の「キアズマ」を二人で。演奏が始まれば一瞬にして50年前の二人に戻り、二人とも70代後半のはずなのにあの時代の激しさと熱気とパワーがそのまま再現されて客席は陶然。いや、興奮した夜でした。


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