『ファントム・スレッド』 ねじれた恋愛映画
『ファントム・スレッド(原題:Phantom Thread)』は「幻の糸」とでも訳したらいいだろうか。「糸」の単語には、主人公が服飾デザイナーであることが掛けられているんだろう。ポール・トーマス・アンダーソン監督は、ヒッチコックの『レベッカ』のようなゴシック・ロマンスをつくりたかったと語っている(『エンタテインメント』のインタビュー)
『レベッカ』は英国貴族と、彼と結婚した成り上がりの娘が主人公。館には、謎の死を遂げた先妻レベッカに仕えた老メイドがいて、家を差配している。貴族と新妻と老メイドの心理的な駆け引きがサスペンスを生んでいた。その人間関係が『ファントム・スレッド』に引き継がれている。
1950年代ロンドン。ヨーロッパの王族や上流階級を得意先にもつデザイナーのレイノルズ(ダニエル・デイ=ルイス)は、別荘近くで働くウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)を見初め食事に誘う。レイノルズが「完璧な体形だ」とアルマに言って、別荘で初めて採寸する場面はなんともエロチック。そこにレイノルズの姉シリル(レスリー・マンヴィル)が現れて採寸のノートを取る。
アルマはレイノルズと一緒に住むようになるが、職住一致の工房を差配しているのは姉のシリル。レイノルズは寝ても起きてもデザインのことを考え、自分の思うように生きている男。朝食を食べながらスケッチし、アルマが立てるフォークの音やカップを置く音(音響が誇張されている)に苛立つ。一緒にテーブルを囲むシリルは、アルマに「食事は別にしたほうがよさそうね」と冷たい顔で告げる。姉のシリルは仕事でも私生活でもレイノルズのことをすべて分かっていて、アルマの入りこむ余地はない。
3人の心理劇と並行して、1950年代上流階級のファッションと、オートクチュールの内側が描かれる。僕はこういう世界に興味も憧れもないけど、関心があればP.T.アンダーソンのめくるめく映像(デジタルでなくフィルム)に陶然となるだろう。なるほど注文服はこうしてできるのかと初めて知った。身体のちょっとした凹凸の細かな採寸。お針子はお婆さんばかり(若い娘が服を縫うと結婚できないとの言い伝えがあるそうだ)。デザイナーの密かなメッセージが芯に縫い込まれる。レイノルズは自分用の服には母親の髪を縫い込む(これがタイトルの由来か)。鋭い針と縫い糸が布から顔を出すクローズアップにはっとする。
アルマは黙って夫と義姉に従いながら思い切った行動に出る。別荘で採った毒キノコを粉にしてレイノルズのお茶に入れるのだ。仕事中に倒れたレイノルズをアルマは寝室に連れてゆく。シリルが医者を呼んでもアルマは夫を診せようとせず、シリルに仕事に戻るよう言われてもレイノルズのそばを離れない。レイノルズははじめてアルマに身も心も委ねる。そこから3人の関係が変わりはじめる……。
レスリー・マンヴィルは、田舎娘が上流階級の世界に入りこみレイノルズのミューズとなってやがて男を操るまでを演じて見事。この映画で引退すると伝えられるダニエル・デイ=ルイスは1年間、オートクチュールで服づくりを学んだそうで、相変らず完璧になりきっている。老練なレスリー・マンヴィルと3人で繰り広げられるねじれた恋愛映画を楽しんだ。
Recent Comments