『ラブレス』 タルコフスキーのDNA
その瞬間、空気が一変したように感じた。行方不明になった息子のアレクセイを探す捜索隊が、立入り禁止地区の廃ビルに入った場面だ。人けのないコンクリートの廃墟、水たまりの床、天井から水がしたたり落ちる。あれっ、これはタルコフスキーの『ストーカー』じゃないか。
それまで、離婚寸前にある別居夫婦の夫と妻それぞれが恋人と過ごす時間が描写されて、男と女が織りなす身の下の世界の話だったのが、いきなり観念的というか、精神的な世界がそこに重なってくるようなショックを受けた。二組の男と女の話でありながら、同時にこれは彼らが暮らすロシアの精神状況についての映画であり、さらに言えばこの時代に生きる僕たちすべてについての映画であるような気がしてくる。廃墟のビル、モスクワ郊外の冷え冷えした風景、グレーを基調に色彩に乏しい映像が見る者に迫る。
ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は裕福な夫婦で、別居生活をしている。一流企業に勤めるボリスには妊娠中の恋人がいるが、会社のオーナーが厳格なキリスト教徒で離婚を認めないのを苦慮している。美容サロンを経営するジェーニャには成人した娘をもつ年上の恋人がいる。ボリスとジェーニャは住んでいたマンションを売ろうとしているが、顔を合わせれば喧嘩になる。ある日、12歳になる息子のアレクセイの姿が見えなくなる……。
ストーリーはしごく単純で、前半は二組のカップルの行方を追い、後半は息子の捜索を追う。警察は手一杯で頼りにならず、ボランティアの捜索隊が組織される。これはロシアの現実を反映しているんだろう。捜索隊がゆく冬枯れの林や野原、河原、長回しされるショットが素晴らしい。
冒頭と終わり近く、同じショットが繰り返される。彼方に中心街の高層ビル群が見える雪の丘陵、カメラがゆっくり引くと公園で遊ぶ人々が小さく見え、さらに引くとマンションのアレクセイの部屋。愛のなくなった一家の空気と、寒々した風景が二重映しになっている。冒頭と終わり近くで、変わったのはアレクセイがいなくなったことだけ。そのことを本当には誰も気にしていないように思える。寒いのは風景ではなく人間のほう。
ラストは二組のカップルの数年後。ボリスは若い妻から早くも愛想をつかされたような雰囲気、小さな子供を邪険に扱う。ジェーニャと年上の男の愛も少しさめたようで、ベッドから出たジーニャは一人、ベランダに出てランニングマシンで走る。
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画はデビュー作の『父、帰る』でもタルコフスキーへの親近を感じさせた。現代ロシア人の精神風景を描きつづけることはタルコフスキーと同じ。デビュー作以来ズビャギンツェフ監督と組むミハイル・クリチマンの撮影する映像も、情感を排した静かなカメラでロシアの風景を撮りながら背後の精神性を感じさせる。共同脚本のオレグ・ネギンも含めて、ロシアの最強チームだなあ。
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