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March 27, 2018

議員会館前で

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国会図書館で調べものがあったので、その前に議員会館前の昼の集会に参加。

佐川元財務省理財局長の証人喚問の日。参院での喚問の様子を野党議員が報告した。決裁文書改ざんについて、肝心の「なぜ」は捜査中を理由に語らず。


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March 26, 2018

大阪で姜在彦さんを偲ぶ会

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去年11月に亡くなった姜在彦さんを偲ぶ会に出席するため、日帰りで大阪へ行ってきた。

呼びかけ人は大学の教え子が中心らしいので「姜在彦先生」だけど、僕は30年前に知りあった雑誌『三千里』編集委員時代からカンジェオンさんとしか呼んだことがないので「先生」は落ち着かない。学問的な話をしたこともないし。今里新地や歌舞伎町でお酒を飲んだ記憶ばかり。

印象に残っているのは十数年前、済州島の旅に誘っていただいたこと。済州島はカンジェオンさんの故郷。親類の方の車で町の市場、旧日本軍の特攻艇「回天」が基地にした洞窟、民俗村、海女の村、琉球の御嶽のような本郷堂(ポンヒャンダン)などを案内していただいた。いつも穏やかなカンさんだけど、故郷の空気を吸ってカンさんはひときわくつろいで見えた。

同じテーブルに座った教え子の方々の話では、若い研究者の仕事をほめ、発表する媒体を紹介し、優れた先生だったとのこと。東アジア近代史のなかでの朝鮮半島の位置と独自性を明らかにしたカンジェオンさんの仕事を、もう一度ちゃんと読んでみたい。


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March 21, 2018

『ハッピーエンド』 ブルジョア一族の腐臭

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Happy End(viewing film)

ミヒャエル・ハネケ監督の映画には映画音楽がいっさい使われない。音楽が流れるのは、物語のなかで出てくるときだけ。それだけに、数少ないその音楽が印象に残る。『ハッピーエンド(原題:Happy End)』では2カ所。一度目は北フランスのカレーで建設業を営むブルジョア一家、ロラン家の三代目ピエール(フランツ・ロゴフスキ)が密室のクラブでストリート・パフォーマーみたいな歌とダンスを披露する場面。遊び仲間らしき何人かが彼の歌を聴いている。会社の重役になっていながら仕事を放棄したピエールの反抗とやけっぱちが露出する。

もう一度は引退したジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の誕生日を祝う自邸でのパーティで、女性チェリストが披露するチェロ。ざわざわと感情を乱す一節が弾かれる短いショット。このチェリストとジョルジュの息子トマ(マチュー・カソヴィッツ)は愛人関係にあり、チャットでわいせつな会話を交わしているのを、前妻との間の子供で13歳になるエヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)に覗き見されてしまう。その後の波乱を予感させる音。

ハネケ監督の映画がいつもクールで、対象を冷たく見つめている印象を与えるのは、見る者の感情をかきたてる映画音楽を使わないこと、カメラも移動やズームの動きが少なく据えっぱなしの長回しが多いことに依っているだろう。一方、物語を語る口調は説明なしに断片を放り出すことが多く、見る者はしばらく人間関係や全体の構図がわからない。そこからミステリアスな緊張が生まれる。

大家族が住む邸宅で一家の夕食シーンがある。引退して認知症気味のジョルジュは背広にネクタイを締めている。会社を切りまわしているのはジョルジュの娘アンヌ(イザベル・ユペール)。ハネケ監督の前作『愛 アムール』といい『エル』といい、クールでやり手のブルジョア階級というイザベル・ユペールにうってつけの役どころ。アンヌとアンヌと出来の悪い息子ピエールが口喧嘩をしている。ジョルジュの息子で家業を継がず医者として働くトマと新妻は黙ってナイフとフォークを動かしている。格式ばってはいるが、家族としての一体感や愛はまったく感じられない。トマは前妻の入院で一人になった娘のエヴを引き取り、孫娘がジョルジュを長とする一家の食事の席に加わることになる。

ジョルジュは自殺未遂と疑われる交通事故を起こす。車椅子になったジョルジュは、出入りの床屋に銃を手に入れてくれと頼む。アンヌは会社の顧問弁護士と愛人関係にある。ピエールは家を出て、放蕩の生活を送っている。トマは新妻との間に子供が生まれたばかりなのに、女性チェリストとサドマゾ的な愛人関係にある。

でもこの映画でいちばん得体が知れないのは、13歳の可愛いエヴだ。映画の冒頭、スマホの動画が映し出される。エヴが母親を撮ったもの。彼女は母親に大量の抗うつ剤を与えて昏倒、死亡させる。エヴがやったことは誰にも気づかれず、彼女はロラン家に引き取られる。邸宅のなかで孤独なエヴは、やはり孤独なジョルジュと会話する。ジョルジュは、かつて介護していた妻に手をかけたことをエヴに語る。映画の最後、海辺のレストランでのアンヌと顧問弁護士の婚約パーティの席で、ジョルジュはエヴに車椅子を押させて海辺に出る。ジョルジュは波打ち際まで車椅子を寄せさせる。ジョルジュが車椅子で海に入っていくのを、エヴは何も言わず離れてスマホで動画に撮っている。

冒頭と対になって13歳のエヴが撮る動画が海の光にあふれ美しく、それだけに入水するジョルジュと、それをスマホに収めるエヴの孤独と酷薄さを際立たせる。エヴにとって生の現実よりスマホ画面を通した画像のほうが、彼女の氷の心にリアルなのだろう。

舞台になるカレーは数年前、イギリスに渡ろうとする中東やアフリカからの難民が集まりカレー・ジャングルと呼ばれるキャンプができてニュースになった。この映画でも、邸宅にモロッコ人夫婦が下働きとして住込み、建設現場では移民が働いていたり、パーティ会場にピエールが難民を引きつれ乱入するといったかたちで姿を見せる。ハネケはそれを正面から取り上げることはしないけれど、こうしたヨーロッパの現実を踏まえてこのブルジョアジー一家の腐臭を描いている。それが「ハッピーエンド」と(なぜか英語の)タイトルをつけられているところにハネケの辛辣なメッセージを見る。


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March 19, 2018

グレゴリ青山『コンパス綺譚』を読む

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グレゴリ青山『コンパス綺譚』(亀鳴屋)の感想をブック・ナビにアップしました。


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March 18, 2018

『ラブレス』 タルコフスキーのDNA

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Loveless(viewing film)

その瞬間、空気が一変したように感じた。行方不明になった息子のアレクセイを探す捜索隊が、立入り禁止地区の廃ビルに入った場面だ。人けのないコンクリートの廃墟、水たまりの床、天井から水がしたたり落ちる。あれっ、これはタルコフスキーの『ストーカー』じゃないか。

それまで、離婚寸前にある別居夫婦の夫と妻それぞれが恋人と過ごす時間が描写されて、男と女が織りなす身の下の世界の話だったのが、いきなり観念的というか、精神的な世界がそこに重なってくるようなショックを受けた。二組の男と女の話でありながら、同時にこれは彼らが暮らすロシアの精神状況についての映画であり、さらに言えばこの時代に生きる僕たちすべてについての映画であるような気がしてくる。廃墟のビル、モスクワ郊外の冷え冷えした風景、グレーを基調に色彩に乏しい映像が見る者に迫る。

ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は裕福な夫婦で、別居生活をしている。一流企業に勤めるボリスには妊娠中の恋人がいるが、会社のオーナーが厳格なキリスト教徒で離婚を認めないのを苦慮している。美容サロンを経営するジェーニャには成人した娘をもつ年上の恋人がいる。ボリスとジェーニャは住んでいたマンションを売ろうとしているが、顔を合わせれば喧嘩になる。ある日、12歳になる息子のアレクセイの姿が見えなくなる……。

ストーリーはしごく単純で、前半は二組のカップルの行方を追い、後半は息子の捜索を追う。警察は手一杯で頼りにならず、ボランティアの捜索隊が組織される。これはロシアの現実を反映しているんだろう。捜索隊がゆく冬枯れの林や野原、河原、長回しされるショットが素晴らしい。

冒頭と終わり近く、同じショットが繰り返される。彼方に中心街の高層ビル群が見える雪の丘陵、カメラがゆっくり引くと公園で遊ぶ人々が小さく見え、さらに引くとマンションのアレクセイの部屋。愛のなくなった一家の空気と、寒々した風景が二重映しになっている。冒頭と終わり近くで、変わったのはアレクセイがいなくなったことだけ。そのことを本当には誰も気にしていないように思える。寒いのは風景ではなく人間のほう。

ラストは二組のカップルの数年後。ボリスは若い妻から早くも愛想をつかされたような雰囲気、小さな子供を邪険に扱う。ジェーニャと年上の男の愛も少しさめたようで、ベッドから出たジーニャは一人、ベランダに出てランニングマシンで走る。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画はデビュー作の『父、帰る』でもタルコフスキーへの親近を感じさせた。現代ロシア人の精神風景を描きつづけることはタルコフスキーと同じ。デビュー作以来ズビャギンツェフ監督と組むミハイル・クリチマンの撮影する映像も、情感を排した静かなカメラでロシアの風景を撮りながら背後の精神性を感じさせる。共同脚本のオレグ・ネギンも含めて、ロシアの最強チームだなあ。


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March 13, 2018

首相官邸前へ

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午後は国会図書館で調べものをしていたので、そのまま首相官邸前の集会へ。午後7時、図書館を出るともうスピーチの声が響いている。国会裏の議員会館前で労組系の団体が集まっていた。その前を通って官邸前へ向かう。こちらは市民グループの集会で、コールがつづいている。

安倍はやめろ!
麻生もやめろ!
全員まとめてさっさとやめろ!
安倍はすぐにここに出てこい!
改ざんするな!
責任取れよ!
総辞職!
ア・ベ・は・や・め・ろ!

SEALDs流のリズムに乗ったコールだけど、SEALDsよりも単調なのはテーマが絞られているからか。コールというよりシャウト。1時間ほどシャウトに参加した。決済された公文書の改ざんはいわば歴史を偽造する行為。国の根幹にかかわる。8億円値引きの経緯、改ざんの経緯をとことんはっきりさせなければ。


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March 11, 2018

『シェイプ・オブ・ウォーター』 50年代映画への愛

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The Shape of Water(viewing film)

『大アマゾンの半魚人(原題:Creature from The Black Lagoon)』を見てはいないけれど、ポスターは覚えている。公開された1954年といえば、こちとら小学校低学年。この怪奇映画はけっこう話題になったから、その後、長いこと全国の三番館で上映されていたと思う。僕がポスターを見たのは川口市の映画館だったか、工場の住込み職人に連れられて遊びに行った浅草六区だったか。監督のギレルモ・デル・トロはメキシコで少年時代、この映画を見たそうだ。

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『シェイプ・オブ・ウォーター(原題:The Shape of Water)』はデル・トロ監督がこの映画の記憶をもとにつくった怪奇ファンタジー。ラブロマンスであり、ミュージカルふうな味もあり、かと思うと冷戦時代のスパイもののサスペンスも織り込まれている。さらに、デル・トロ監督の映画への愛がそこここに詰めこまれているのが楽しい。

1962年、冷戦下のアメリカ。宇宙開発を進める秘密研究所に南米で発見されたクリーチャー(半魚人)が送られてくる。研究所の掃除婦で唖者のイライザ(サリー・ホーキンス)はクリーチャーと手話で心を通わせるようになり、半魚人を生体解剖する計画を知って逃がそうとする。同僚の掃除婦でアフリカ系のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と、研究所員で実はソ連のスパイ、ホフステトラー博士がイライザに協力する(スパイといっても子供向け読物ふうだけど)。研究を指揮するストリックランド(マイケル・シャノン)が彼らを追う。

イライザが住むアパートは一階が映画館。映画の全盛時代を思わせる立派なつくりで、『砂漠の女王(The Story of Ruth)』がかかっている。イライザに匿われたクリーチャーが部屋を抜け出して映画館に迷い込む。映写されているスクリーンを背景に、イライザとクリーチャーが抱き合う。

映画へのこだわりは物語のなかだけでなく、そのスタイルにも見てとれる。1950年代、2本立ての添え物としてつくれれたB級映画は低予算で上映時間も90分程度だった(『大アマゾン……』は79分)。そのため無駄をできるだけ削ぎ、簡潔に物語を進めることが求められた。CGなどない時代、映像的な遊びも少なかった。またヘイズ・コードと呼ばれる検閲によってヌードや残酷シーン、殺人の描写が禁じられていたから、それらは間接的な映像で暗示された。そうした条件に制約され、いやむしろそれを逆手にとって、1940~50年代のアメリカ映画は映像も、カットとカットのつなぎも簡潔なスタイルができあがった。この時代のフィルム・ノワールはその最上の成果だろう。

『シェイプ・オブ・ウォーター』は、その時代のスタイルを意識的に採用しているようだ。セットや色彩は、いかにも50年代ふう。もちろんCGが使われているけれど必要最低限に抑えられ、いかにもVFXという見せ方はしない。カメラも移動したりズームしたりせず、端正なカットを短く積み重ねる。イライザは手話で意思を伝えるから、50年代というより、もっと以前のサイレント映画の匂いさえしてくる。ただ、冒頭とラストの水中シーンだけは、抑制的なスタイルでなく想像力を解き放って映像として見せる。それも含めて、メキシコで育ったデル・トロ監督の、子供時代のアメリカ映画の記憶がいっぱい詰めこまれているような気がする。

全体が「むかしむかし」とでも言うように夢で始まり「めでたしめでたし」で終わるお伽噺のなかで、半魚人という異形や掃除婦として働く下層の人々に心を寄せ、アフリカ系やゲイ差別への批判も織り込まれているのは、アメリカではマイノリティーであるデル・トロ監督だからか。1962年はそういう時代だった。アカデミー賞を競った『スリー・ビルボード』のほうが僕には面白かったけど、楽しめる映画でした。


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March 02, 2018

『花咲くころ』 少女の息づかい

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In Bloom(viewing film)

映画が始まってしばらくして、これって『花とアリス』だよなあと思った。十代の鈴木杏と蒼井優が共演した『花とアリス』(岩井俊二監督)は、親友である女子高生2人を、彼女らが好意を寄せる男子学生を絡めて描いた青春映画だった。特に大きな出来事が起こるわけでもなく、2人の日常が斬新で抒情的な映像で捉えられている。

ジョージア(グルジア)映画『花咲くころ(英題:In Bloom)』も主人公は14歳の2人の女子学生。親友である2人の春から初夏にかけての数カ月が描かれる。最後にドラマチックな結末が待っているわけではない。だからジョージア版『花とアリス』だと思ったんだけど、当たり前の日常の背後で、そこかしこでこの国とジョージアの置かれた状況の違いに気づかされる映画だった。

ソ連が崩壊しジョージアが独立した翌年の1992年。エカ(リア・バブルアニ)とナティア(マリアム・ボケリア)は首都トビリシに住み、同じ学校に通っている。2人とも、日本の団地のような古びたアパートに暮らす。部屋のテレビが、国の西部にあるアブハジアで内乱が起きていることを伝える。

エカは母親、姉と暮らしているが、父は刑務所にいる。ナティアは両親、祖母と暮らすが、父親はアル中で妻とケンカが絶えない。『花とアリス』で2人の女子高生の家庭がどんなだったかは、まったく記憶にない。描かれていないか、描かれてもごく普通の家庭だったと思う。それに対し『花咲くころ』の2人の家庭は問題を抱えている。日本映画を見慣れた目からは、この設定は「やりすぎ」に見える。でもジョージア人が見ればこの設定は「やりすぎ」でなく、リアルさを感ずるのかもしれない。

ナティアはコテとラドという2人の少年から好意を持たれている。モスクワへ行くことになったラドは、これで身を守ってくれとナディアに拳銃を渡す。この設定も僕らの目からは「やりすぎ」、あるいは現実的ではないと感じられる。でもこれもジョージアの観客にとっては「ありうること」かもしれない。映画に拳銃が出てくれば、やがてそこから弾丸が発射され大きなドラマが生まれるだろうと、ハリウッドの犯罪映画を見慣れた僕らは予想する。でも、その予想は見事に裏切られる。銃がドラマチックな結末を生まないことが、この映画が描きたいことと関係しているにちがいない。

ある日、エカとパンの配給の行列に並んでいたナティアは、コテと不良グループに誘拐される。監禁されたナティアはコテと強制的に結婚させられる。写真家の林典子に『キルギスの誘拐結婚』という写真集がある。キルギスからジョージアにかけて、掠奪婚とも呼ばれるこの風習が今も残るという。結婚を披露する宴に出席するナティアにも、招かれたエカにも笑顔はない。エカは、笑顔を見せないまま踊り出す。怒りと悲しみと親友への愛を内に秘めたまま、固い意思的な表情でエカが長いこと踊るシーンが素晴らしい。

ほかにも見とれてしまうシーンが多い。変哲もない団地のベランダでエカとナティアがワインを飲む。突然の驟雨に街や植物が濡れ、エカもずぶ濡れになって家へ走る。コテと不良グループに追われて、ラドが旧市街のレンガ造りの街並みを縫って逃げる。そんな風景のなかでエカとナティアが互いに寄せる心情が、『花とアリス』のように華麗な映像でなく、どちらかといえばぶっきらぼうに語られてゆく。

この映画を「内戦の混乱や暴力的風土のなかで、けなげに成長してゆく少女」みたいに、社会派ふうな受取り方をすることもできる。でもそれより、エカとナティア、2人の少女が互いを思いながら日々を生きていく息遣いを描いた青春映画と受け取りたい。決して声を荒げることなく2人の少女の行動を見つめるこの映画は、そんな資質を持っている。内戦も誘拐婚も、その背景として生きてくる。

監督はジョージア出身でドイツで映画を学んだナナ・エクフティミシュヴィリと、ドイツ出身で夫のジモン・グロスが共同で。エカとナティアを演じた2人の少女はサラエボ映画祭で最優秀主演女優賞に輝いた。

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