『苦い銭』 メイド・イン・チャイナ
少女が無表情でミシンに向かい、子供服を縫っている。20センチほど縫うと布を90度回転させ、別の布を重ねてまた縫う。彼女の担当分が縫いあがると、放るようにして脇に置き、次の服を取ってまったく同じ作業を繰り返す。隣の少女と一言二言しゃべる以外無言。中国語の歌謡曲が流れている。団地の一室だろうか、狭くて乱雑な縫製工場。それを固定カメラが延々と撮りつづける。何も起こらない。でも見ている者は、そこから目を離せない。
それは、彼女たちが数千キロ離れた田舎からどんな理由でどのようにしてこの町にやってきたのか、映画の冒頭で見ているからだろう。彼女たちが時給数百円で1日12時間働いていることを知らされているからだろう。彼女たちが縫った子供服が輸出され、メイド・イン・チャイナとして自分の子供や孫たちが着ているかもしれないことを想像するからだろう。
『苦い銭(原題:苦銭)』は、子供服の中国最大の産地として知られる浙江省湖州市で、小さな縫製工場や労働者のアパート、路上でカメラを回したワン・ビン監督のドキュメンタリー。劇映画ではないのにヴェネツィア映画祭で脚本賞を受賞した。
カメラが最初に写し撮るのは雲南から出稼ぎにきた15歳のシャオミン。そこから、シャオミンの工場にやってきた女(彼女は夫婦喧嘩して家を叩き出された)。女の暴力的な夫(この夫婦喧嘩のシーンはリアルですごい。よくこんな場面を撮らせたもんだ)。夫の仲間である中年男。中年男と同じアパートに住む飲んだくれ(仕事を辞める)、といった具合に縫製工場で働く人間を次々にたどるように映しだしていく。その流れの見事さが「脚本賞」の理由だろう。
印象的なシーン、印象的な人物がたくさん出てくる。シャオミンと一緒に工場に来た少年は、仕事になじめず1週間で故郷に帰る。誰もがスマホを手放さないが、それが自分と故郷をつなぐ唯一の道具であるからだ。仕事を辞めた男が路上を歩きながら、「1日150元(2550円)も稼ぐやつがいる。俺みたいに70元(1190)円じゃだめなんだ」と呟く。巨大なズックの袋にぱんぱんに詰めこまれた子供服が、布を一枚かぶされただけで雨のなかに放っておかれる夜のシーン。酔っぱらった男が、隣のミシンで作業している人妻を口説くシーン。アパートの2階、薄汚れたベランダから見る、いくつもの灰色のアパート群と乱雑な路上。複数で同居する狭いアパートの部屋。カメラが切り取るのはこの町の、ほんの狭い一角だと思われるけれど、そこに生きる彼ら彼女らから見えてくるのはグローバル化したこの世界の構造に組み込まれた片隅の光景だ。
『収容病棟』や『三姉妹~雲南の子』もそうだけど、ワン・ビン監督の映画は登場する人物の誰もがカメラなど存在しないかのように自然に、あるいは赤裸々にふるまい、しゃべっている。なぜそんなふうに撮れるのか、その秘密の一端を、カメラを担当した一人である前田佳孝がHP(ワン・ビン監督の現場)で語っている。
現場は監督とカメラマン、アシスタント(レンズ交換を担当する)の3人。前田は監督とは別の班を任されたそうだ。ドキュメンタリーの場合、撮影対象の人物と信頼関係を築くのは基本だけど、その上で、ワン・ビンは長時間カメラを回すことを求めた。1日5時間、最低3時間はフィックス(固定)カメラで撮る。いったんカメラを回しはじめたらワンカット最低10分、できれば30分は撮る。信頼関係があってカメラが回りつづけていれば、撮られている人は自然にそれを意識しなくなるのではないか。だからこそ、あの夫婦喧嘩が撮れたんだろう。
ワン・ビンは28ミリのレンズをいちばん好むそうだ。それに加えて25ミリ、35ミリ、50ミリを使う。写真の世界でも、28ミリを好む写真家は多い。自分の目が見ている世界にいちばん近いと感じられるからだろう。余談だけど僕は一眼レフでは35ミリを常用してきた。素人には28ミリは使いこなせない。いずれにせよ、固定カメラでその場の状況と人間をともに捉えるには、28ミリがいちばんなのだろう。それは現代の映画や写真が広角系のレンズを使うことが多いのと軌を一にしている。
ドキュメンタリー映画を見る面白さのひとつは、自分が行ったことのない時代や場所へつれていかれ、自分がまったく知らない人間のことを知る、あるいはその人間になったような疑似体験を味わえることだろう。優れたドキュメンタリーは世界を知る窓になる。これからは、買った洋服にメイド・イン・チャイナのタグを見たら、雲南から来たシャオミンや飲んだくれの中年男や夫にひっぱたかれていた女の顔を思い浮かべることになるだろう。
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