February 23, 2018
February 22, 2018
浦和ご近所探索 ブックス&カフェ常盤
walking around Urawa, books & cafe Tokiwa
北浦和駅西口にはかつて2軒の書店があった。2軒ともなくなったのは10年くらい前だろうか。新刊書を買うには浦和の須原屋(江戸時代の有名な版元の系統)まで行かなければならない。
最近、カフェを併設した書店「ブックス&カフェ常盤」がオープンした。国道17号、駅前の信号の角。書店としては狭く、冊数は多くないけれど、本好きが選んだらしいセンスのいい品揃えの単行本、文庫、雑誌が置いてある。本を1冊選んで、お茶を飲みながら読むこともできる。いつもジャズが低く流れていて、この日はビル・エバンス。
ここは以前、本屋があった場所だった。聞くと、オーナーは書店をやっていた方の息子さん。このところ北浦和駅前は店を閉める喫茶店もあって、新しい居場所になりそうだ。
February 20, 2018
February 16, 2018
February 15, 2018
『スリー・ビルボード』 怒りは怒りを来す
Three Billboards Outside Ebbing, Missouri(viewing film)
『スリー・ビルボード(原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)』の脚本を書き演出したマーティン・マクドナー監督はイギリス出身で、演劇の脚本家として名をなした人。彼がアメリカ南部のジョージア、アラバマ、フロリダを旅行したとき未解決事件についての野外広告(ビルボード)を見たことから、この映画のアイディアを得たという(wikipedia)。映画では物語の舞台はミズーリ州の架空の町、エビングになっている。なぜ、マーティンが実際に見た南部の州でなく、中西部のミズーリに設定を変えたんだろう。
ここから先は推測だけど、ジョージアやアラバマなどディープサウスはアメリカのなかでも特殊な地域という印象が強い。南方の緑濃い森や沼地といった自然環境も独特だし、アフリカ系などマイノリティーへの差別がきついのもこの地域。「怒り」がキーワードになるこの映画の舞台を南部にすると、「ディープサウスの闇」といったかたちで地域の問題と受け取られかねない。そうした誤解を避け、特殊ではなく人間誰しもが抱える普遍的な問題であることを強調するために、あえて中西部の架空の町を設定したのかもしれない(ビルボードが中西部の平原にあるほうが映像として効果的ということもあるだろう。実際、霧のなかにビルボードが浮かぶ冒頭の映像に惹きこまれる)。
娘がレイプされ焼き殺され、犯人も見つからないのに怒りをつのらせたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、町の外に放置されていた3つのビルボードに広告を出す。「レイプされ殺された」「そしてまだ逮捕されない」「どうしてくれる? ウィロビー署長」。癌に侵され余命いくばくもない署長のウィロビー(ウディ・ハレルソン)は、ミルドレッドに「やりすぎだ」と説得するが、ミルドレッドは受け入れない。町の人びとは病気の署長に同情し、ミルドレッドに冷たい目を向ける。なかでも、黒人への差別意識むきだしのディクソン巡査(サム・ロックウェル)はミルドレッドに敵意をあらわにする。町に怒りと憎悪が充満し、事件が起こる……。
「怒りは怒りを来す(Anger begets more anger.)」というセリフが出てくる。ミルドレッドの元夫のガールフレンドであるペネロペ(ギリシャ神話に出てくる女性の名)という若い娘が口にする。映画はその怒りの連鎖を追ってゆく。この映画が普通のハリウッド映画とちがうのは、ミルドレッドもまた怒りの連鎖から自由でないこと。頑固で、タフで、周りがすべて反対しても自らの信念を貫くミルドレッドは、西部劇をはじめとするアメリカ映画の典型的な主人公。でも正義の人でなく、彼女もまた怒りにかられて警察署に火炎瓶を投げつけ、人違いと判明した容疑者にまで復讐しようとする。
一方で、この映画には悪人も出てこない。親子そろってレイシストで、そのくせ軟弱で、母親のいいなりになるマザコンのディクソン巡査は、ハリウッド映画によくある悪人タイプ。でも、「君はいい刑事になれる」というウィロビー署長の遺書に心動かされ、レイプ事件の犯人を捜そうとする。並みの映画なら、ここから犯人探しと、小さな町に潜む闇の人間関係があぶりだされそうだけど、そうもならない。ディクソンが出会った容疑者は、あっさりとシロであることが明らかになる。それでもなお、怒りに駆られたディクソンとミルドレッドは自分の行動への後悔を内に秘めながらも、州外に住むこの容疑者を痛めつけようと車を走らせる。
ラストもまた、分かりやすい結末にならない。男を痛めつける覚悟はできてるかと聞くディクソンに、ミルドレッドは「あんまり」と答える。同じ質問をされたディクソンもまた「あんまり」と答える。二人とも怒りに駆られて行動を起こしたものの、躊躇してもいる。さて、二人は車をUターンさせるのか。答えを出さずに映画は終わる。登場したときの印象と反対にまっとうな男であるウィロビー署長、ディクソンに痛めつけれれる広告会社の青年、小人症のヒスパニック、いろんな登場人物がふっと示す優しさが、画面が溶暗した後の二人の行動を暗示しているようではあるが……。複雑な余韻の残る作品だった。
February 14, 2018
追悼・末永史
漫画家の末永史が亡くなった。そう知り合いから連絡が来た。
実は昨年秋、末永さんとメールのやりとりが中断したままになっていた。10月、彼女も出品する「拝啓つげ義春様」展のオープニングに来ませんかと誘いがあった。その日は僕が1週間ほど入院する予定の期間中で、どうにもならない。別の日に行きますとメールしたら、「調整するからちょっと待って」と返事があり、そのまま音沙汰がなかった。
なんでも10月末に自転車で転び、脳に大ケガをして手術を受けたそうだ。自宅でリハビリをつづけていたが、年が明けてすぐ、急に亡くなった。そうか、それで連絡が途絶えたのか。亡くなってはじめてその理由を知った。
今では末永史の名を覚えている人は、そんなに多くないかもしれない。1970年代、マニアックな劇画誌『ヤングコミック』に「いつから捨てたの」「夜明けを抱いた」といった作品を発表し、一部で「ポルノ劇画を描く女性漫画家」みたいな騒がれ方をした。暗く重苦しい絵はお世辞にも上手とは言えないけれど、女性版つげ義春みたいな雰囲気が独特の魅力を湛えていた。彼女と会ったのはそのころ。僕は週刊誌記者で1ページのインタビューを書いた。
それを気に入ってくれたのかどうか、しばらくして、福生に米兵が集まるバーがあるから遊びに行かないか、と電話があった。バーに行くとこちらには見向きもせず、彼女は深夜まで米兵と飲んでいたのだが……。そんなことから、つきあいが始まった。といっても艶っぽい話では全くなく、奔放な妹と一緒にいる感じで時々会い、飲んではしゃべった。互いにどこか共鳴するところがあったのだと思う。
その後、彼女は幸せな結婚をし、作品を発表しなくなった。再び筆を執ったのは10年後の1980年代。伝説的な雑誌『COMICばく』に「家庭の主婦的恋愛」などを発表した。描く線は成熟し、作品の完成度は格段に高くなった。どこにでもいる家族とその家庭を素材にしているけれど、若いころ抱えていた魂の問題が形を変えて生きているのがわかった。
末永史のこれらの漫画は『二階屋の売春婦』(ワイズ出版)、『家庭の主婦的恋愛』(新潮社)、書下ろしの『銀恋』(ワイズ出版)にまとめられている。
最近の彼女は漫画家としてだけでなく、エッセイストとしても仕事していた。元文芸誌の編集長のもとで文章の勉強もしていたらしい。去年6月にもらったメールには、「2年かけてやっと褒めてもらえるようになりました」とある。まだまだやりたいことを抱えていた末永史。その生が突然に中断されたのが悔しい。
上の絵は2012年、彼女が初めての個展に出品した「風のたより」(1973)の原画。わが家の壁にかかっている。合掌。
February 11, 2018
柳澤寿男監督特集へ
柳澤寿男監督がつくった記録映画を回顧上映する特集が開かれている(~2月16日、渋谷・シネマヴェーラ)。この日の上映は『風とゆききし』(1989)と短篇集、上映後のトークは映画評論家・山根貞男(右)と記録映画監督の小林茂。
柳澤は戦前、松竹京都撮影所に入所、映画監督としてデビューしたが、戦後、記録映画に転向した。岩波映画などで多くの記録映画、PR映画をつくった。後にフリーとなり、1960年代から障害者にカメラを向け「福祉映画5部作」を自主製作。『風とゆききし』はその5作目に当たる。
『風とゆききし』はリサイクルと在宅福祉をドッキングさせた障害者福祉活動を4年に渡って追ったもの。自立しようとする障害者の姿が感動的だが、障害者の意思が反映されない運営にもカメラを向けている。今はドキュメンタリーのスタイルがずいぶん変化しているけれど、据えっぱなしで長回しする現在に通ずるようなスタイルも見える。
『風とゆききし』の助監督を務めた小林監督の話が面白かった。柳澤監督は岩波映画で土本典昭や黒木和雄の先輩に当たる。土本、黒木といった記録映画の巨匠が柳澤監督の前では直立不動だったこと、一方、柳澤監督は二人の後輩を尊敬し、刺激を受けたことなど。いい話でした。
僕は生前の柳澤監督に二度会っている。仕事ではなく、冬、京都の自宅で炬燵に入ってぼそぼそと雑談した。生真面目な話しぶりが記憶に残っている。どれだけ観客がいるか心配しながら会場に行ったけど、ほぼ満席。こういう地味な映画に人が集まるのは嬉しい。
February 10, 2018
『苦い銭』 メイド・イン・チャイナ
少女が無表情でミシンに向かい、子供服を縫っている。20センチほど縫うと布を90度回転させ、別の布を重ねてまた縫う。彼女の担当分が縫いあがると、放るようにして脇に置き、次の服を取ってまったく同じ作業を繰り返す。隣の少女と一言二言しゃべる以外無言。中国語の歌謡曲が流れている。団地の一室だろうか、狭くて乱雑な縫製工場。それを固定カメラが延々と撮りつづける。何も起こらない。でも見ている者は、そこから目を離せない。
それは、彼女たちが数千キロ離れた田舎からどんな理由でどのようにしてこの町にやってきたのか、映画の冒頭で見ているからだろう。彼女たちが時給数百円で1日12時間働いていることを知らされているからだろう。彼女たちが縫った子供服が輸出され、メイド・イン・チャイナとして自分の子供や孫たちが着ているかもしれないことを想像するからだろう。
『苦い銭(原題:苦銭)』は、子供服の中国最大の産地として知られる浙江省湖州市で、小さな縫製工場や労働者のアパート、路上でカメラを回したワン・ビン監督のドキュメンタリー。劇映画ではないのにヴェネツィア映画祭で脚本賞を受賞した。
カメラが最初に写し撮るのは雲南から出稼ぎにきた15歳のシャオミン。そこから、シャオミンの工場にやってきた女(彼女は夫婦喧嘩して家を叩き出された)。女の暴力的な夫(この夫婦喧嘩のシーンはリアルですごい。よくこんな場面を撮らせたもんだ)。夫の仲間である中年男。中年男と同じアパートに住む飲んだくれ(仕事を辞める)、といった具合に縫製工場で働く人間を次々にたどるように映しだしていく。その流れの見事さが「脚本賞」の理由だろう。
印象的なシーン、印象的な人物がたくさん出てくる。シャオミンと一緒に工場に来た少年は、仕事になじめず1週間で故郷に帰る。誰もがスマホを手放さないが、それが自分と故郷をつなぐ唯一の道具であるからだ。仕事を辞めた男が路上を歩きながら、「1日150元(2550円)も稼ぐやつがいる。俺みたいに70元(1190)円じゃだめなんだ」と呟く。巨大なズックの袋にぱんぱんに詰めこまれた子供服が、布を一枚かぶされただけで雨のなかに放っておかれる夜のシーン。酔っぱらった男が、隣のミシンで作業している人妻を口説くシーン。アパートの2階、薄汚れたベランダから見る、いくつもの灰色のアパート群と乱雑な路上。複数で同居する狭いアパートの部屋。カメラが切り取るのはこの町の、ほんの狭い一角だと思われるけれど、そこに生きる彼ら彼女らから見えてくるのはグローバル化したこの世界の構造に組み込まれた片隅の光景だ。
『収容病棟』や『三姉妹~雲南の子』もそうだけど、ワン・ビン監督の映画は登場する人物の誰もがカメラなど存在しないかのように自然に、あるいは赤裸々にふるまい、しゃべっている。なぜそんなふうに撮れるのか、その秘密の一端を、カメラを担当した一人である前田佳孝がHP(ワン・ビン監督の現場)で語っている。
現場は監督とカメラマン、アシスタント(レンズ交換を担当する)の3人。前田は監督とは別の班を任されたそうだ。ドキュメンタリーの場合、撮影対象の人物と信頼関係を築くのは基本だけど、その上で、ワン・ビンは長時間カメラを回すことを求めた。1日5時間、最低3時間はフィックス(固定)カメラで撮る。いったんカメラを回しはじめたらワンカット最低10分、できれば30分は撮る。信頼関係があってカメラが回りつづけていれば、撮られている人は自然にそれを意識しなくなるのではないか。だからこそ、あの夫婦喧嘩が撮れたんだろう。
ワン・ビンは28ミリのレンズをいちばん好むそうだ。それに加えて25ミリ、35ミリ、50ミリを使う。写真の世界でも、28ミリを好む写真家は多い。自分の目が見ている世界にいちばん近いと感じられるからだろう。余談だけど僕は一眼レフでは35ミリを常用してきた。素人には28ミリは使いこなせない。いずれにせよ、固定カメラでその場の状況と人間をともに捉えるには、28ミリがいちばんなのだろう。それは現代の映画や写真が広角系のレンズを使うことが多いのと軌を一にしている。
ドキュメンタリー映画を見る面白さのひとつは、自分が行ったことのない時代や場所へつれていかれ、自分がまったく知らない人間のことを知る、あるいはその人間になったような疑似体験を味わえることだろう。優れたドキュメンタリーは世界を知る窓になる。これからは、買った洋服にメイド・イン・チャイナのタグを見たら、雲南から来たシャオミンや飲んだくれの中年男や夫にひっぱたかれていた女の顔を思い浮かべることになるだろう。
February 09, 2018
アンデスと熊楠展
上野の国立科学博物館で面白い展覧会を二つ見た。
ひとつは「古代アンデス文明展」(~2月18日)。先住民がアジア大陸から北米を経て南米に渡った古代からインカ帝国滅亡までの遺物や遺跡の映像が展示されている。生者と死者、人間と動物が一体となった世界。独特の造形感覚がすごい。上の写真は建物に飾られていた石像で、人間の顔(左)がジャガー(右)に変容していく。コカの幻覚作用も影響していると考えられているそうだ。
アンデス文明は無文字社会だった。これは情報の記録・通信に使われたキープと呼ばれるもの。何本ものヒモに結び目をつけることで、何を記録していたんだろう。
特別展の「アンデス文明展」は有料で、企画展の「南方熊楠 100年早かった智の人」(~3月4日)も一緒に見られる。
熊楠学の基となった大英博物館での抜書きノートや紀州で集めた菌類・藻類の標本、柳田国男との往復書簡、日記、フィールドで使った収集用具などが、「知の方法」という視点で展示されている。熊楠データベースは彼の脳内で作動していたが、残された資料の解読はまだ途上らしい。
これはロンドンから日本へ送った自筆の絵葉書。戯画はうまいし、熊楠は字にも味がある。
February 02, 2018
『ジュピターズ・ムーン』 都市の空中浮遊
シリア難民の青年アリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)がハンガリーに不法入国しようとして警察に追われ、ラズロ刑事(ギエルギ・ツセルハルミ)に銃で撃たれる。背中に3発の銃弾を食らって死んだはずのアリアンが、空中にふわっと浮き上がる。森の上をゆっくり浮遊し、回転する。
アリアンが浮き上がった瞬間、それまで緊迫したドキュメンタリーふうだった映画が、まったく別の次元に入りこむ。アリアンは重力から解放され、重力を自在に操れるようになる。登場人物の一人は、アリアンを「天使」と呼ぶ。
コーネル・ムンドルッツォ監督の前作『ホワイト・ゴッド』は、不思議な魅力を持った映画だった。野良犬の人間への反乱を少女と犬の目から、社会派であり寓意劇でありアクション映画でもありといった独特のスタイルで描いたエンタテインメント。その姿勢は『ジュピターズ・ムーン(原題:Jupiter'in Uydusu)』でも変わらない。
もっとも、このハンガリー映画を楽しむには予備知識があったほうがいいかも。シリア内戦で国にいられなくなった難民は、受け入れに寛容なドイツを目指した。彼らはシリア→トルコ→ギリシャ→マケドニア→セルビア→ハンガリー→オーストリアと遙かな距離の「バルカン・ルート」をたどってドイツに向かった。しかしハンガリー政府は難民の流入に反発し、セルビア国境にフェンスを築いて入国を厳しく制限した。それもあって、アフリカのリビアからイタリアを目指す「地中海ルート」が以後の難民移動の中心になる。映画は、難民取締りが強化された国境とブダペストを舞台にしている。
医師のシュテルン(メラーブ・ニニッゼ)は医療ミスでブダペストの病院を追われ、難民収容所で働いている。難民から金を受け取って収容所から逃がし、医療ミスの賠償金に充てようとしている。ある日、シュテルンは傷ついたアリアンに出会い、彼が空中浮遊することを知って匿うことになる。アリアンは難民を装ったテロリストにパスポートを奪われており、刑事のラズロは執拗にアリアンを追う。
何といっても目を瞠るのはアリアンが空中浮遊する場面だ。シュテルンは、救いを求める者にアリアンの「奇跡」を見せて金をせしめようとする。またアリアンの能力を使って罰を与えようとする。重力の場が90度、180度とひっくり返り、部屋中のあらゆるものががらがらと落下するのをスローモーションで捉えたシーンが素晴らしい。あるいは、ブダペストの街並みや高速道路を真上から俯瞰し、真下から見上げる。宇宙空間の無重力シーンは『ゼロ・グラビティ』が疑似体験したと感じられるほどすごかったけど、その感覚が都市のなかで繰り広げられるのが新鮮。デジタルでなくフィルムで撮影されていることでリアル感が増す。
一方、テロや難民取締りで騒然とするブダペストの風景が見えてくる。手持ちカメラを多用し、ぐらぐらと揺れる映像がリアル。ラズロはアリアンとシュテルンを追跡する。疲れた表情の、しかしタフな老刑事がノワールかハードボイルドのテイストで味がある。アリアンのパスポートを持ったテロリストが地下鉄で爆弾を爆発させ、捜査網が狭まる。シュテルンはアリアンを国外へ逃がそうとする。路面すれすれのカメラアイでのカー・チェイス。ラストはホテルでの銃撃戦。最後に、もちろんアリアンが街の上を空中浮遊する。ラズロは拳銃でアリアン=天使を狙うのだが、、、。
気弱な難民青年を演ずるゾンボル・ヤェーゲル、人生に敗れた中年インテリのメラーブ・ニニッゼ、疲れた老刑事のギエルギ・ツセルハルミ、3人の役者それぞれに存在感がある。
原題は「木星の月」。木星(ジュピター)には多くの衛星(月)があるが、そのひとつが「EUROPA」で、ヨーロッパの語源。エウロパの地下には塩分を含んだ水があり、生命体がいる可能性もあるとか。「木星の月」はエウロパ(ヨーロッパ)を指し、天使になったアリアンは、もうひとつの生命体の比喩と取れるかもしれない。
ここでもまたムンドルッツォ監督は、社会派、宗教劇、ハードボイルド、アクション、いろんな映画のテイストを取り込んで実に面白く刺激的な映画をつくりあげた。すごい。
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