『ベロニカとの記憶』 青春の苦い勘違い
The Sense of an Ending(viewing film)
イギリスの文芸映画を見たくなるときがある。原作となる小説は、映画化されるくらいだからそれなりの評価が定まった小説が多い。監督はたいてい手堅い英国風リアリズムの職人。役者も舞台出身だったりする名優が多い。正統派で、いかにも映画らしい映画。そういうのを見たくなることもある。『ベロニカとの記憶(原題:The Sense of an Ending)』もそうだろうと見当をつけた。
原作はジュリアン・バーンズのブッカー賞受賞作『終わりの感覚』。主演は『ムーラン・ルージュ』や『ブリジット・ジョーンズの日記』などの名脇役ジム・ブロードベントと、『地獄に堕ちた勇者ども』以来のご贔屓シャーロット・ランプリング。監督は意外にもむ若いインド系のリテーシュ・バトラ。デビュー作のムンバイ映画『めぐり逢わせのお弁当』(未見)が好評だった。製作のBBCフィルムは若手の起用育成を方針にしている。インド→イギリスというのは両国の歴史からしてありうることだ。
物語は老いた中古カメラ店主トニー(ジム・ブロードベント)の現在と回想という一人称の視点で進む。トニーは別れた妻マーガレット、シングルのまま出産を控える娘のマーガレットと行き来している。ある日、一通の手紙が来る。学生時代の恋人ベロニカの代理人からで、死んだベロニカの母セーラ(エミリー・モーティマー)がトニーに日記を遺したという。日記はトニーの高校時代の友人エイドリアンのものだった。
回想シーンでは、トニーの失恋が語られる。大学に入ったトニーが気ままな娘ベロニカと恋人になり、彼女の家を訪れるとベロニカの美しい母セーラもトニーを誘惑するような態度を示したこと。エイドリアンにベロニカを紹介したら、二人が恋に陥ってしまったこと。そんな思い出が描写される。その後、エイドリアンは自殺した。そのエイドリアンの日記を、なぜベロニカの母セーラが持っていて、それをトニーに遺品として残したのか。トニーは遠い昔に別れたベロニカ(シャーロット・ランプリング)に会おうとする。
トニーは、渋い外見に似合わず勘違い男であるらしい。元妻に昔の恋人の話を延々として、うざったく思われる。出産直前の娘にも、運転手として使われている。でもトニーは元妻とも娘ともうまくやっていると思い込んでいるらしい。数十年ぶりにベロニカと会ったトニーは、ベロニカの自宅まで後をつけていく。それストーカーでしょ、と言われてもトニーにはその自覚がない。
トニーは、ベロニカが息子のような男と腕を組んで歩いているのを車で追う。その男がエイドリアンという名前であることを知る。やがて、トニーはかつての自分の大きな勘違いと、愚かなふるまい、友の自殺の真相を苦々しさとともに知ることになる。
原題の「終わりの感覚」とは、死を自覚する年齢になってなお過ちばかり犯す(つまりわれわれみんなのことだ)トニーの、平凡ではあるけれどいろいろあった家族との関係、かつての恋人や死んだ友との関係を苦く思い出しながら、なお老年の日々を生きていこうとする姿勢から生まれる感覚を指しているだろうか。現在のシーンではロンドン郊外ハイゲートの中流階級の住宅地帯、回想シーンではイングランド西海岸ブリストルの風景がうまく使われている。
このところのイギリス映画は『私は、ダニエル・ブレイク』とか『思秋期』とか、労働者階級というか、更に下層のアンダークラス(by ブレイディみかこ)を素材にした作品に面白いものが多いけど、伝統的なインテリ・中産階級の人間しか出てこないこの映画のような正統派にも捨てがたい味がある。シャーロット・ランプリングは、70代になってなお毅然とした女性を演じて香気を感じさせる。いいなあ。
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