『ブレードランナー 2049』 LAに降る雪
Blade Runner 2049(viewing film)
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ロジャー・ディーキンス撮影監督という組み合わせは、いまハリウッドだけでなく世界中を見まわしても、ノワールやサスペンス系の映画を撮らせて最高のメンバーじゃないかな。
この2人が組んだ映画はヴィルヌーヴがハリウッドへ進出して以来の『プリズナーズ』『ボーダーライン』、そして『ブレードランナー 2049』と3本ある(『メッセージ』だけは撮影ブラッドフォード・ヤング)。それぞれにジャンルは違うけど、調和的な世界をかき乱す不穏な映像は共通している。
ディーキンス撮影の映画を初めて見たのはコーエン兄弟の『バートン・フィンク』。以来、兄弟の映画をずっと撮っていて、特に『ノー・カントリー』でアメリカ南部の砂漠と田舎町の映像は素晴らしかった。コーエン兄弟ではないけれど、『007 スカイフォール』の荒涼としたスコットランドの風景も忘れがたい。今回はその2人に加えてハンス・ジマーの音楽が、弦楽器の低音のパターンを繰り返して不穏な気配をさらに増殖させる。
『ブレードランナー 2049(原題:Blade Runner 2049)』は、言わずとしれたリドリー・スコット監督『ブレードランナー』の続編。前作から30年後。大停電があって、かつての記録が失われた世界。ロサンゼルス警察のK(ライアン・ゴスリング)は大停電以前の旧型レプリカントを見つけ出し殺害する、ブレードランナーと呼ばれる警官。ある旧型レプリカントを殺害におもむき、庭に埋められた箱から、出産した形跡のある旧型女性レプリカントの遺骨を発見する。Kは上司から、生まれた子供を発見し殺害されるよう命じられる。
新型レプリカントを製造するウォレス社の断片的な記録から、遺骨はかつてブレードランナーだったデッカード(ハリソン・フォード)の恋人のものだったことがわかる。残された木馬のおもちゃと自身の記憶から、Kは自分がその子どもではないかと疑いはじめる……。
脚本は第1作と同じハンプトン・ファンチャー(マイケル・グリーンと共同)が書いていて、だから第1作とのつながりに不自然はない。常に雨が降るロサンゼルスの高層未来建築群と日本語やハングルの看板が林立する下町、巨大なホログラフィーの宣伝といった前作の映像とノワールな空気を踏襲。未来風景とアジアの下町の喧騒が雑居して、「懐かしい未来」といった感じのテイストも、より大規模に再現されている。加えて今回は廃墟のラスベガスでプレスリーやシナトラやマリリン・モンローのホログラフィーまで出てくる。
今回のヒロインは、Kの恋人になるAIホログラフィーのジョイ(アナ・デ・アルマス)。Kが必要とするときだけ姿を現し、セックスするときは他のレプリカントに同期させて身体を借りる。第1作の旧型レプリカントが不完全とはいえ人間を目標に開発され、人間に反乱を起こしたのに対し、今回の新型レプリカントはより人間に従順に、完全な機械としてつくられているらしい。
第1作でデッカードは人間として描かれていたが、実はデッカードもレプリカントではないかとファンの間で議論があった(後のディレクターズ・カットではそれを匂わせるカットも挿入されていた)。今回の2049版でKは、記憶を移植された新型レプリカントになっている。第1作のテーマは「レプリカントの反乱」と「人間とレプリカントの恋」だった。2049版では、果たして自分は人間なのか記憶を移植されたレプリカントなのか、そして自分は人間とレプリカントの間に生まれた子どもではないのかという、レプリカントが自己存在を疑う哲学的(?)な懐疑がテーマになっている。
旧型レプリカントの生殖機能を盗もうとするウォレス社のウォレス(ジャレッド・レト)と部下のラヴ(シルヴィア・フークス)が「敵」として設定されているけれども、第1作のルトガー・ハウアーのレプリカントのような強力なキャラクターではない。だからアクション映画としては、その分やや弱くなる。そのかわり、第1作であいまいにしか示されなかった主題がくっきりして、ラスト、傷を負ったKが沙漠のLAに降る雪(カナダ生まれのヴィルヌーヴ監督は雪が好きだね)を見上げながら死んでゆくシーンが生きてくる。
あれやこれや前作と引き比べながら、たっぷりと楽しめる映画でした。
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