『あゝ、荒野(後篇)』 現実から幻想へ離陸せず
『あゝ、荒野』後篇を期待して見にいったのだが、ちょっとがっかり。ふたつの孤独な魂がボクシングを介して結びついてゆくさまを緊迫した映像で見せた前篇に比べ、熱量が足りなかった。物語としては新次(菅田将暉)と建二(ヤン・イクチュン)が対決する後篇のほうが盛り上がるはずなのに。
なぜだろう。僕の考えでは、原作の小説から映画のために何を掬いあげるかについて、どこか齟齬があったんじゃないかと思う。寺山修司の『あゝ、荒野』は普通の小説というより、いろんな要素が積めこまれた実験小説といってもいいような作品だ。1960年代新宿の風俗を取り込み、哲学書から歌謡曲、ジャズまでの断片や歌詞を引用し、長谷川伸ふうな親子の因果が古風に絡み合い、新次と建二はそれぞれ寺山流人生論を肉体化したような観念的存在でもある。寺山の言葉を借りれば、「手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出す」ことを目指した。
新次は「街に出て」、すべてを憎み突っかかり、人を傷つけ、傷つけられることでこの世界とかかわりあおうとする。建二は街から孤立して閉じこもり、ひたすら年下の新次に憧れ、新次と殴り合うことによってのみ新次だけと繋がろうとする。そこには同性愛的な空気も漂い、だから建二は知り合った恵子(今野杏南)に誘われベッドで裸になっても、「僕はつながれません」と言うしかない。
小説では最後のボクシングの場面はリアリズムでなく、建二の妄想あるいは陶酔を叙述する幻想小説のような味わいになっている。そして映画は、リアリズムから幻想や観念へと映像が離陸しそこねたんじゃないだろうか。二人の対決のある時点から観客がいなくなるという描写で現実から幻想への飛躍を描いているのかもしれないけど、もっと寺山ふうの幻想世界を現出させてほしかった。中途半端なリアリズムだから、試合が終わった後にまた殴り合いを始めるあたりはいかにも不自然。最後に建二の死体を映すなど、最後までリアリズムの尻尾がつきまとう。
とはいえ前後篇合わせて5時間以上の長尺を、まったく飽きさせずに見せた岸善幸監督の腕力はすごい。
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