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October 31, 2017

『あゝ、荒野(後篇)』 現実から幻想へ離陸せず

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『あゝ、荒野』後篇を期待して見にいったのだが、ちょっとがっかり。ふたつの孤独な魂がボクシングを介して結びついてゆくさまを緊迫した映像で見せた前篇に比べ、熱量が足りなかった。物語としては新次(菅田将暉)と建二(ヤン・イクチュン)が対決する後篇のほうが盛り上がるはずなのに。

なぜだろう。僕の考えでは、原作の小説から映画のために何を掬いあげるかについて、どこか齟齬があったんじゃないかと思う。寺山修司の『あゝ、荒野』は普通の小説というより、いろんな要素が積めこまれた実験小説といってもいいような作品だ。1960年代新宿の風俗を取り込み、哲学書から歌謡曲、ジャズまでの断片や歌詞を引用し、長谷川伸ふうな親子の因果が古風に絡み合い、新次と建二はそれぞれ寺山流人生論を肉体化したような観念的存在でもある。寺山の言葉を借りれば、「手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出す」ことを目指した。

新次は「街に出て」、すべてを憎み突っかかり、人を傷つけ、傷つけられることでこの世界とかかわりあおうとする。建二は街から孤立して閉じこもり、ひたすら年下の新次に憧れ、新次と殴り合うことによってのみ新次だけと繋がろうとする。そこには同性愛的な空気も漂い、だから建二は知り合った恵子(今野杏南)に誘われベッドで裸になっても、「僕はつながれません」と言うしかない。

小説では最後のボクシングの場面はリアリズムでなく、建二の妄想あるいは陶酔を叙述する幻想小説のような味わいになっている。そして映画は、リアリズムから幻想や観念へと映像が離陸しそこねたんじゃないだろうか。二人の対決のある時点から観客がいなくなるという描写で現実から幻想への飛躍を描いているのかもしれないけど、もっと寺山ふうの幻想世界を現出させてほしかった。中途半端なリアリズムだから、試合が終わった後にまた殴り合いを始めるあたりはいかにも不自然。最後に建二の死体を映すなど、最後までリアリズムの尻尾がつきまとう。

とはいえ前後篇合わせて5時間以上の長尺を、まったく飽きさせずに見せた岸善幸監督の腕力はすごい。


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October 28, 2017

玄関の内

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駅前商店街にある銭湯の、裏側の自宅部分。玄関を開けるといきなり煙突があるんだろうか。通るたびにのぞきこむけど、玄関が開いていたためしがない。謎がとけるのはいつのことか。


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October 22, 2017

『黒い瞳のブロンド』を読む

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The Black-eyed Blonde(reading book)

ベンジャミン・ブラック『黒い瞳のブロンド』(早川ポケット・ミステリ)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/

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October 21, 2017

1週間の入院

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1週間の入院から帰ってきた。命にかかわる病気じゃないから気楽なものだったけど、病院に閉じ込められベッドに寝ているのは、それだけで気が滅入る。ガキのころ、急性腎炎で2カ月入院したときのことを思い出していた。あのころに比べ入院生活は格段に快適になったけど、安静にして他人に看護されるというのは自分がどんどん幼児化していくような気がする。やはり、好きなときに好きなところに自分の足で行って、好きなことをやる自由と気ままさは何ものにも代えがたい。

ベッドでは必要あって司馬遼太郎『「明治」という国家』を再読していた。明治維新によって成立した、とにもかくにも近代国家を、司馬流の上空遙かな高所からの視線で、しかし愛情をもって論じたもの。そのなかに、「理想に近い社会」として、こんな記述があった。「兵隊が威張らない社会、兵隊がひっそりしている社会、そして福祉がゆき届いた社会、誰でもその社会に参加したいと外国人が思う社会」。

兵隊について二度繰り返されているところに司馬のこだわりを感ずる。戦前の「重い国家」のもとで軍隊に招集され、旧満洲で戦車隊小隊長として戦争を体験した司馬は、戦後の「軽い国家」と、そのもとでの安穏な暮らしを一市民として愛していた。戦後ある時期までの(たぶん田中角栄登場以前の)保守党政治を良しとしていたように思われるのは、そうした体験や思想と無縁でないだろう。

司馬遼太郎が亡くなって21年。国民の格差を広げる経済政策が取られ、北朝鮮への武力攻撃をほのめかす米国大統領を全面的に支持する首相がいて、北の脅威から日本を防衛すると声高に語られ、特定の外国人や性的少数者、生活保護受給者へのヘイト・スピーチが路上でウェブで公然と語られる社会になったことを、彼が生きていたらどんなふうにながめるだろう。

そんなことを、季節外れの寒さに見舞われた東京の雨空を見ながら考えていた。入院前に期日前投票をすませたので、明日は外へ出ずに結果を見守るだけ。ところで、術後の経過はまったく問題ないのだが、安静にして血流が滞ったせいか病院で通風を発症してしまった。回遊をやめると代謝がうまくゆかず死んでしまうマグロみたい。自分は回遊魚なんだな(笑)。


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October 15, 2017

『立ち去った女』 聖性と獣性と

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The Woman Who Left(viewing film)

今年3本目のフィリピン映画。『ローサは密告された』も『ダイ・ビューティフル』も面白かったけど、世界中の映画祭で注目されているフィリピン映画の、今年の「本命」。ベネチア映画祭の金獅子賞を得た。

『立ち去った女(原題:Ang Babaeng Humayo)』で驚くのは冒頭からワンシーン・ワンショットの徹底ぶり。刑務所の庭で、元教師のホラシア(チャロ・サントス・コンシオ)が女囚たちに本を朗読させ、自ら詩を語る。やがて仲間の女囚が、ホラシアが罪を問われた殺人の真犯人だったことを告白し、30年服役していたホラシアの冤罪がわかる。出所。そんな展開を、カット割りしない長回しで語る。

ワンシーン・ワンショットは、よほど力のある監督でないと緊張を持続させられない。かつてのテオ・アンゲロプロスやホウ・シャオシェン、タル・ベーラの映画のように。これを3時間48分もやるのかと思ったら、その通りだったのにびっくり。このスタイルは正直言って体力気力が弱った年寄りにはきつい。途中何度か落ちそうになったけど、白黒のコントラストがくっきりしたモノクロームの映像が素晴らしく、話が進むほどにしゃんとした。

物語はホラシアの復讐譚。ホラシアに罪を着せたのは彼女の元恋人であるロドリゴ。大地主だ。出所したホラシアはロドリゴの大邸宅のある島に家を借りて復讐の機会を狙う。と、筋だけ書くとサスペンスかアクションものみたいだけど、そうではない。ホラシアが島で出会う人間たちをじっくり描いてゆく。

ロドリゴの情報を得るために、教会の前で声をかけた物乞いの女。ロドリゴ屋敷の武装した守衛に夜食を売るバロット(アヒルの卵)売りの老人。路上で踊りながらてんかんの発作を起こす女装のゲイ、ホランダ(ジョン・ロイド・クルズ)。スラムや路上で生きる貧しい人間たち。

ホラシアは彼らと親しくなり心を通わせて手をさしのべる。一方、秘めた復讐の意思はゆるぎない。バロット売りの老人に頼んで拳銃を買う。ホラシアの秘密を知ったホランダの額に銃をつきつける。でもその後で、彼女は言う。「あなたが家に来た夜、ロゴリゴを殺すつもりだった。あなたのお蔭で殺人者にならずにすんだ」。

ホラシアは善人でも悪人でもない。あるいは善人でも悪人でもある。獣性と聖性をともに持つ宿命から逃れられないのがわれわれ。ホラシアが昼はクリスチャンとして白いベールをかぶり、夜は男のような服装をしているのがそれを象徴している。時折はさみこまれる善と悪、光と闇に関する哲学的つぶやきとともに(監督はトルストイの短編からこの映画の想を得たという)、そんなホラシアの肖像と、彼女が生きるフィリピンの社会を観客に差し出す。

固定カメラで長回しの映像がつづいた後、一カ所だけ、手持ちカメラがホラシアの目線になってぐらぐらと揺れて移動する。それまでまったくなかった音楽も聞こえてくる。ホラシアが海岸に出ると、人々が歌い踊っている。この海辺のシーンだけ、生きる歓びがあふれている。その解放感が快い。

ラヴ・ディアス監督は自ら脚本・撮影・編集も手がける。ディアス監督の作品は上映時間8時間とか11時間とかの超長編が多い。一般公開されるのは本作が初めて。機会があれば他の作品も見てみたい。

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「拝啓つげ義春様」展へ

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「拝啓つげ義春様」展(表参道・ビリケンギャラリー、前期~10月15日、後期10月21日~11月5日)へ行く。つげ義春の傘寿と日本漫画家協会賞受賞を記念して、前後期あわせて60人近いマンガ家、美術家、写真家がつげ義春にトリビュートを捧げている。

友人のマンガ家、末永史さんの作品(下段左端)を見る。「紅い花」の少女などをあしらったもの。数年前、このギャラリーに彼女の個展を見にきたとき偶然につげさんがいらして、しばらく話をしたのは生涯の思い出。

出品しているのは他に前期は近藤ようこ、北井一夫、後期はしりあがり寿、つげ忠男、畑中純、南伸坊ら。


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October 13, 2017

『あゝ、荒野(前篇)』 新宿の過去・未来

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熱い日本映画を久しぶりに見た。

寺山修司の『あゝ、荒野』が刊行されたのは1966年。小説の舞台になる新宿の街は若いエネルギーをためこんで発火寸前の状態にあった。翌67年にはアメリカ西海岸のヒッピー運動を受けたフーテンが新宿駅前広場に姿を現し、68年、新左翼のベトナム反戦「武装闘争」が新宿駅と一帯を占拠して騒乱罪が適用される。69年には西口広場に集まったフォークゲリラが機動隊と衝突した。花園神社では状況劇場(赤テント)がアンダーグラウンド演劇を上演し、ピット・インでは山下洋輔トリオが過激な前衛ジャズを演奏していた。渋谷を拠点にしていた寺山修司の劇団・天井桟敷は唐十郎の状況劇場と乱闘を繰り広げ、寺山も唐も逮捕された。そういう時代だったのだ。

映画『あゝ、荒野』は、東京オリンピックが終わった2021年の未来の新宿に設定を移している。オリンピックのから騒ぎも終わり、世の中は不景気らしい。歌舞伎町では、テロだかなんだか爆発騒ぎが起きている。少年院育ちの新次(菅田将暉)はオレオレ詐欺グループの一員で、刑務所から出所してきたばかり。グループに戻るか、離れるか、迷っている。建二(ヤン・イクチュン)は朝鮮人とのハーフで床屋で働くが、吃音に悩んでいる。居場所のない二人は新宿の裏町でボクシング・ジムを経営する堀口(ユースケ・サンタマリア)の誘いを受けて入門し、ジムに住み込むことになる。

新宿という「ネオンの荒野」をさまよう二人の青年が、孤独な魂を燃焼させるようにトレーニングにはげむ。年上の建二が若い新次を兄を慕うような目で見る。そんな二人に、新宿に流れてきたいろんな男と女がからむ。新次には、ラーメン屋で働きながら男をホテルへ誘っては金を盗むことを繰り返す芳子(木下あかり)という恋人ができる。芳子は東日本大震災で被災し、やはり身体を売っていた母と別れ上京してきた。幼い新次を捨てた母・京子(木村多江)は、ボクシング・ジムのパトロンである実業家の秘書(愛人)になっている。建二の父は元自衛官で、ホームレスになっている。自殺防止を名目に自殺法を研究する大学生グループ(原作では早稲田大学自殺研究会)も出てくる。

寺山修司の原作は寺山言語とも言うべきフレーズの奔流と歌謡曲や詩の引用、大衆小説めいた親子の因果物語、章の冒頭には自作の短歌を掲げ、いかにも1960年代ふうな実験小説。あまりにも時代に寄り添いすぎ、寺山ファンには楽しめても決して出来のいいものではなかったと記憶する。この小説の面白さを実感できるのは、おそらく団塊以上の世代だろう。その原作を、いかに今の若者に届くものにできるか。孤独な魂はいつの時代にもいる。自分を変えたいと願う青年もいつの時代にもいる。二人の姿に原作を超えた今日性を持たせられるか。映画の出来はその一点にかかっている。

前編を見るかぎり、その試みは成功していると思う。菅田将暉は自分のまわりすべてを憎み、饒舌に突っかかる。ヤン・イクチュンは韓国映画『息もできない』とは正反対、内向的で自分に閉じこもる。ノートに書くスケッチと言葉だけが自分を表現する場。二人がそれぞれ自分を変えようともがく。ボクシング・シーンは得てして劇画調になりがちだけど、二人ともきちんとトレーニングして役づくりしたのがわかる。木下あかりがからむセックス・シーンも、かつての日活ロマンポルノの雰囲気。ユースケ・サンタマリアも、いい味を出してる。加えて、新宿にはゴールデン街やモルタルアパートなど1960年代からつづく風景が残っている。新宿でロケしているのが何よりの強み。

1960年代風の懐かしさと2010年代の社会意識を持ったエンタテインメント。前篇は二人がデビュー戦でリングに上がるまで。後篇は当然、二人が対決することになるだろう。楽しみだ。監督はテレビマン・ユニオン出身の岸善幸。細かくカット割りせずドキュメンタリーのような風合いがいい。


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October 12, 2017

浦和ご近所探索・見沼天然温泉

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walking around Urawa, Minuma spa

浦和に天然温泉があるというので行ってみることにした。北浦和駅東口から送迎バスで20分。見沼用水と芝川を越え、園芸農家が点在する林のなかにある日帰り温泉「見沼天然温泉・小春日和」。

内湯と露天がある。露天には非加熱源泉掛け流し(38度)とぬる湯(40度くらい)、あつ湯(42度くらい)。地下1500メートルから湧出するナトリウム・塩化物強塩泉。湧き出るときは無色透明だけど空気に触れて茶褐色になる。飲めないが、湯から手のひらを出して舐めると塩辛い。塩分が多いせいか、湯の肌触りはちょっときしきしする。湯から上がると顔がつっぱる。でも、いつまでもほかほかと温かい。

非加熱の湯に長時間つかり、ぬる湯で仕上げ。湯上りはやっぱり生ビールでしょ。


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October 03, 2017

モリスの壁紙とテープ

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久しぶりに銀座の伊東屋へ行ったら、ホールでウィリアム・モリスの壁紙とテープの展示会をやっていた。19世紀の商品見本帳なども展示されている。モリスらしい植物文様からモダンなものまで。テープを何本か買う。


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October 02, 2017

『オン・ザ・ミルキー・ロード』 生きる歓び哀しみ

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On The Milky Road(viewing film)

エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』や『黒猫・白猫』を見たときは、ほんとうに驚いた。バルカン半島の映画になじみがなかったせいもあるけれど、バルカンの複雑な歴史と民俗を背景に、映像と音楽が一体になったお伽噺のような人間の悲喜劇。その祝祭的なリズムはクストリッツァ監督以外の誰にもつくれない。『オン・ザ・ミルキー・ロード』は、久しぶりにそのリズムにひたることのできる映画だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか。銃弾飛び交うセルビア人地域最前線の村。戦う兵士の傍らを、コスタ(エミール・クストリッツァ)が戦闘など知らぬ気にミルク缶を運んでゆく。内戦で家族を殺され精神に変調を来したコスタを、銃弾もよけて飛んでいるようだ。

ミルクを生産しているのは壁に大時計を持つ農家。祖母が仕切るこの家の孫娘ミレプ(スロボダ・ミチャロヴィッチ)はコスタに惚れている。祖母が、軍の将校で戦争に出ている孫のジャガ(ブレドラグ・ミキ・マノイロヴィッチ)に嫁を取り、ジャガとミレプ、2人の孫の結婚式を同時にやろうと考える。町から花嫁(モニカ・ベルッチ)がやってくるが、花嫁は実は多国籍軍(英国軍)に追われている。コスタは花嫁に恋をしてしまう。村の楽団が陽気な民族音楽を奏で歌って踊ってどんちゃん騒ぎの後、敵の英国軍が村を襲ってジャガとミレプの兄妹は殺される。生き残ったコスタと花嫁も敵に追われるのだが……。

この映画は人間ばかりでなく、動物も重要な登場人物。コスタは戦闘現場のそばをロバに乗り、飼っているハヤブサを肩に載せて歩いてゆく。村ではガチョウが、食用にされたブタの血に羽を赤く染めガアガアと歩きまわる。コスタは崖に棲む大蛇にミルクをやっている。この蛇がやがてコスタと花嫁を救う。クマもいる。羊の群れもいる。コスタと動物は同じ世界に住んでいるみたいだ。

音楽が常に鳴っている。バルカンのロマ音楽をベースにしたブラス音楽。コスタも民族楽器を弾く。戦闘シーンでも音楽が鳴り響き、砲弾の音とドラムの音の区別がつかなかったりする。

後半は敵の兵士に追われたコスタと花嫁の逃避行。音楽に合わせて深刻な物語が陽気なリズムで進むうち、クストリッツァの映画がいつもそうであるように、現実からふわっと離陸してお伽噺の世界に近づく。敵に追われ大樹に登って隠れたコスタと花嫁が、抱き合ったまま昇天していくように空中に浮かび上る。クストリッツァだなあ、と思う。

一方、群れに隠れた2人を囲んだ羊たちが地雷に接触し、次々に飛び散って死体になってゆく俯瞰のショットは、内戦の記憶が今も癒えない悲しみを伝えてくる。ユーゴ内戦やボスニア紛争で、正教のセルビアはカトリックのクロアチアを支援した欧米から敵役のように見られたけれど、戦争の死者に国籍や宗教による違いがあっていいはずがない。日本人にはよく分からないけど、セルビア人であるクストリッツァの映画は、欧米ではいまだ微妙な問題を孕んでいるのかもしれない。

50代も半ばになったモニカ・ベルッチが、顔に深く皺をきざみながらも美しい。クストリッツァは、モニカをヒロインに迎えたいがためにこの物語を書き、モニカの相手役を務めたんじゃないかと思いたくなる。戦争に引き裂かれる愛を描きながら、にもかかわらず生きることは歓びというクストリッツァ流の寓話に昇華させた傑作だと思う。

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