『散歩する侵略者』 観念的台詞とB級テイストの映像
Before We Vanish(viewing film)
黒沢清監督の映画に通底する特徴は、それが彼の映画のいちばんの魅力だと思うけど、「不穏な空気」とでも呼べるものじゃないかな。
ホラーでも、スリラーでも、黒沢清はおどろおどろしい仕掛けを好まない。ごく当たり前の日常がある瞬間、なにかをきっかけに「不穏な空気」が充満する場に変貌し、それが恐怖や不安を引き起こす。でも『散歩する侵略者』には、それがないように見える。
この映画はホラーでもスリラーでもなく、SF。SFといえば、街や人の服装が未来ふうなのが普通だろうけど、いま現在のこの国の風景のなかに宇宙人が人の形を借りて侵略してきたという設定。つまり普通じゃないSFをつくろうとしている。日常の風景と宇宙人の侵略という設定の齟齬を、映画としてどう処理するのか、それが観客にどう受けいれられるか。今まで見たこともない作品と評価されるのか、絵空事みたいに感じられるのか。
宇宙人に乗っ取られたのは真治(松田龍平)。夫のおかしな言動に妻の鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。宇宙人は乗っ取った人間から「家族」「仕事」といった概念を奪ってゆく。真治は鳴海と家族を構成していることを忘れ、仕事を忘れ、ただふらふら歩きまわるだけ。
一方、週刊誌記者の桜井(長谷川博己)は一家惨殺の殺人現場で少年の天野(高杉真宇)に声をかけられる。天野と、家族を殺した娘のあきら(恒松祐里)もまた宇宙人だった。桜井は天野とあきらが宇宙人であり、地球を侵略する偵察をしていると聞き、2人と行動を共にする。2人が、もう1人の宇宙人である真治と連絡を取り、故郷の星に通信すると侵略が始まる。
『散歩する侵略者』はもともと前川知大作の舞台劇。宇宙人が人間から概念を奪うという設定も、ここから来ている。舞台劇なら、観念的な設定や台詞も観客ははじめからそういうものと思っているから違和感を感じない。でも映画の場合、よほど周到なカメラと演技とともにでないと、観念的な台詞とリアルな映像とが齟齬を来しお尻がこそばゆくなって落ち着かない。去年見た『ふきげんな過去』もそうだった。
黒沢清監督は、その観念的な台詞に対して、アメリカの宇宙侵略ものB級映画みたいな映像をつけた。金をかけないチープ(に見える)テイストと、唐突というか、おざなり(に見える)展開。それを、あえてやっているように見える。
「家族」や「仕事」そして「愛」の概念を奪われた松田龍平と長澤まさみの夫婦が、もう一度ゼロから愛をつくりなおしていく物語。うまく映画的に処理すれば、黒沢監督得意のサスペンスや、『岸辺の旅』のようなテイストの映画にもなりえたと思う。でも監督はあえて観念的セリフとB級映画ふうな映像を組み合わせたように感ずる。
「不穏な空気」も、最後に宇宙人が襲来するところでちらっと見せるだけ。いつもの黒沢映画の面白さは感じられなかった。期待していただけに残念。
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