『ダンケルク』 逃げまどう戦争映画
クリストファー・ノーラン監督の映画は時間と空間の描き方が直線的でなく、独得にねじれている作品が多い。
『メメント』は、脳に傷を負って記憶が10分しか保てない男が、自分の行動をメモ書きしたり身体に刺青として刻みこんだりしながら追いつ追われつするサスペンスだった。同じ時間が何度も繰り返され、円環する感覚が新鮮だった(このインディペンデント系の長編2作目が評価され、ミステリアスな『インソムニア』を経て『バットマン ビギンズ』に抜擢される)。『インターステラー』は太陽系のワームホールを通って別の銀河系に行き、時間と空間がニュートン力学とは別の仕方でつながっている世界を描いた。
『ダンケルク』の面白さは、陸海空の戦いがそれぞれ別の時間軸で描かれていることだろう。陸の戦いは、ドイツ軍にダンケルクの海岸に追い詰められた英仏軍が、大きな犠牲を出しながらも撤退する1カ月を描く。海の戦いは、撤退する兵を乗せた輸送船が独空軍によって撃沈されるなか、徴用されたイギリスの民間船がダンケルクに救助に向かう最後の1週間を描く。空の戦いは、英仏の輸送船を狙う独空軍に対して攻撃を仕掛ける英空軍戦闘機3機の最後の1時間の戦闘を描く。1カ月と1週間と1時間の戦いが入れ子状になって1本の映画になり、最後に3つの時間が合体して終わる。
それぞれの戦いに主人公がいる。陸の戦いは英軍兵士のトミー(フィオン・ホワイトヘッド)。戦いといっても、独軍に攻撃されて銃を捨てて逃げ、ダンケルクの海岸でも独軍戦闘機に掃射され、別の隊にまぎれこんで乗った輸送船も独戦闘機に攻撃されて沈没し命からがら海岸に舞い戻りといった具合で、ただ逃げまどうだけ。桟橋の下に隠れて救助の輸送船に潜り込んだり、兵士としての規律を失ってしまったようにも見える。
海の戦いの主人公は観光船ムーンライトの船長・ドーソン(マーク・ライランス)。息子と息子の友達を乗せて、徴用された多くの民間船とともにダンケルクに向かう。海上で救助したショック状態の英兵(キリアン・マーフィー)は、ムーンライトがダンケルクに向かうと聞いて、英本土に戻れと暴れる。船長はダンケルクに行く訳をこう説明する。「自分たちの世代が戦争を始めた。でも息子たちの世代を戦場にやってしまった」。
空の戦いは戦闘機スピットファイアのパイロット・ファリア(トム・ハーディ)。ダンケルクへ出撃したのは3機。1機だけ残り、本国へ帰投する燃料がなくなってもなお独戦闘機と戦い、独機を海に沈めた後、燃料切れでダンケルク海岸に不時着して独軍の捕虜となる。空中戦や駆逐艦の脇をスピットファイアが飛ぶシーンなど、すべてCGでなく実写。飛行できるスピットファイアを飛ばしたというからすごい(65ミリのIMAXで撮影されているが、日本公開は35ミリ版。大スクリーンで見たらどんな感じだろう)。ファリアはずっと防風眼鏡をかけているので、最後に機体から離れるまでトム・ハーディとわからなかった(笑)。
この陸海空の1カ月と1週間と1時間のドラマが時間を行ったり来たりして描かれる。もっとも、それぞれのパートのなかで時間は順を追って進むので、そうと分かれば混乱はない。3つのパートが重なる最後の1時間、兵士のトミーは既に英国に帰り、列車に乗っている。逃げ回ってばかりいたトミーだが、駅のホームにかけつけた住民から、「生きて帰ってきただけでよい」と声をかけられる。一方、最後にトム・ハーディが格好良く愛機に火をつけ捕虜になるあたりは、いくら負け戦の撤退戦とはいえ、ヒーローがいないと映画が終らないんだろう。
でも、いちばん感情移入できたのは不甲斐ない兵士のトミーだった。身を隠す場所もない海岸で戦闘機の機銃掃射や爆撃を受け、別の隊にまぎれこんで乗った駆逐艦は爆撃され船室が浸水して溺れそうになり、再びダンケルク海岸に戻って干潮で座礁した船倉に隠れたところを銃撃される。兵士というより普通の人間に戻り、殺される恐怖にさらされるのがなんともリアル。『プライベート・ライアン』から『ハクソー・リッジ』まで、すさまじい戦闘シーンを売りものにした映画は多いけど、殺される恐怖をこんなふうに描いた戦争映画は負け戦だからこそかも。
セリフは最小限に抑えられ、そのかわりハンス・ジマーの音楽が負け戦にふさわしい(?)恐怖感をあおる。
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