『裁き』 インド社会の断面
いっとき、インド映画といえば歌って踊ってのエンタテインメントばかり公開されたことがあった。もちろんそれがインド映画の大きなジャンルなのは確かだけど、それだけがインド映画じゃない。僕はインド映画といえばサタジット・ライを思い浮べる世代なので釈然としなかったが、このところいろんな映画が公開されるようになった。
マラーティー語映画『裁き(英題:Court)』も、そんな1本。もっとも、この映画にも歌や踊りはある。ただし物語に密接にからむ重要な要素として。
ムンバイのスラムの広場に仮設舞台が設けられ、歌と踊りが演じられている。背後に掲げられる肖像は不可触民解放運動に貢献したマラータ人リーダーの肖像らしいから、そういう団体が開いた催しなんだろう。そこに歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)が登場して、民族楽器とコーラスをバックに歌いはじめる。「♪立て! 反乱のときはきた。己の敵を知るときだ。カースト差別の森。人種差別の森。民族主義者の森」。ボブ・マーリーのインド版といった感じ。
そこに警官が来て、カンブレは逮捕される。スラムに住む下水掃除夫(不可触民の仕事)が自殺したのは、カンブレが自殺をそそのかす歌を歌ったからだという自殺ほう助の容疑。そこから裁判劇がはじまる。
もっとも、ここからがこの映画のユニークなところ。並みの裁判映画のように、法廷での丁々発止のやりとりにはならない。法廷の合間に被告のカンブレ、弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーグ・ゴールバン)、女性検事、判事、それぞれの日常生活が挿入されて、彼らがどんな階級に属し、どんな生活を送っているかが描かれる。
民衆詩人であり歌手である被告のカンブレは、スラムで少年少女を教える教育者でもある。マラーティー語を話すマラータ人。冤罪を主張する正義漢の弁護士は、登場人物のなかでいちばん豊かな階級に属しているらしい。高級スーパーでワインとチーズを買い、自家用車のなかではジャズを聞く。法廷では英語でカンブレを弁護する。日常生活はクジャラート語らしい。女性検事は中流階級の出身。冤罪であることを知ってか知らずか、政府の方針に忠実に論告するが、日常生活ではごく平凡な主婦。どちらにも組しない判事は大家族をもっていて、夏休みにはバスを仕立てて一族でバカンスに出かける。
そして自殺したとされる下水道清掃夫が住むスラム。崩れかけた建物にゴミが散乱する凄惨なショットにぎくりとする。裁判に関わる人物たちを通して、インド社会の断面図が見えてくる。カンブレの裁判の前後には別の微罪の裁判も進行していて、いろんな人間模様が点描される。人種、宗教、言語、カースト、貧富の差、さまざまな分断線が引かれた複雑な社会。
やがてカンブレの無罪が証明されて釈放されるが、すぐに今度はテロ防止法違反の容疑で逮捕される。もっとも、映画は冤罪を声高に叫ぶわけではない。淡々と事実を描くだけだ。
そのクールな視線を生みだしているのがキャメラ。据えっぱなしの長回しも使った撮影で、カットとカットのつなぎも今ふう。インド映画でこういうスタイルの作品を見るのは初めてかも。チャイタニヤ・タームハネー監督がこの映画を撮ったときは20代だった。
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