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July 23, 2017

『彼女の人生は間違いじゃない』 福島と渋谷の間

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『不貞の季節』(2000)から一昨年の『さよなら歌舞伎町』『娚の一生』まで、廣木隆一監督のミニシアター系の映画はだいたい見てきた。今この国で好きな映画監督は? と聞かれれば、真っ先に名前を挙げる監督のひとりでもある。でも今度の新作は、見るのにちょっとためらいがあった。

というのは『彼女の人生は間違いじゃない』というタイトルが、なんだか廣木監督らしくないなあと感じていたから。もっとも、これが廣木監督自身の小説を原作としていること、福島県郡山出身の廣木が東日本大震災と原発事故を素材にした小説であることは情報として知っていた。

にしても、主人公の存在に対する価値判断をあらかじめ読者や観客に明らかにしてしまう、それも断定口調で同意を強いてくるようなニュアンスが、この監督にふさわしくないと思ったから。廣木監督の映画(ミニシアター系)は、いつも善悪正邪の単純な価値判断をしにくい人物ばかりを描いてきたのではなかったか。今回は自らの故郷を舞台にしたことで、ちょっとつんのめっているんじゃないかな。

そんなふうに身構えていたせいか、始まってしばらく映画に入りきれなかった。ちょっとした説明的なセリフに引っかかったり、東京スカイツリーや渋谷駅といった分かりやすい東京の象徴が繰り返し出てくるのが気になったり。でも主人公のみゆき(瀧内公美)がデリヘルとして派遣されたホテルでトラブルになり、三浦(高良健吾)が助けに入るあたりから、いつもの廣木映画のリズムに入りこめるようになった。

みゆきは福島の海岸沿いの町で仮設住宅に住み、市役所に勤務している。母は津波で流され行方不明、父(光石研)は農地が放射能汚染されて耕作できず、補償金を毎日パチンコにつぎこんでいる。週末には、父に英会話教室に通うと嘘をついて東京へ行き、デリヘルのバイトをしている。

映画は福島でのみゆきの生活と東京でのデリヘル嬢の日々、そして高速バスでの往復を淡々と描写してゆく。みゆきはなぜデリヘル嬢になったのか。映画のなかでは、まったく説明されない。彼女は市役所勤務だし、補償金もあるし、少なくとも経済的理由からではない。

ただ終盤の回想で、デリヘル嬢を志願してきたみゆきと三浦とが会話をかわすシーンがある。切羽詰まった目をしたみゆきが、「デリヘルやりたいんです」と言うと、三浦が「お前にはやれないよ」と告げる。押し問答したあげく、みゆきは三浦の前で裸になってみせ自分の決意を伝える。このシーンが伝えるのは、みゆきは自分でもよく分からない衝動に突きあげられている、ということだろうか。両親に愛され、市役所職員として堅実に働いてきたそれまでの自分を破壊するものか、解放するものか。それはみゆきだけでなく、監督にも、見ている観客にもよく分からない。ただその切実さだけが伝わってくる。

最後に近くなって、みゆきの周囲ではいくつかの変化が起きている。三浦はデリヘルのマネジャーをやめ、本業の役者に戻って舞台に出る。父は出荷の見通しが立たないままではあるが、畑の雑草を狩りはじめる。東京駅のトイレでいつも会うデリヘル嬢は、みゆきに「交通費かかるから一緒に東京で住まない?」と誘いかけるが、みゆきは答えない。みゆきは、これからどうするのか。答えの出ないまま映画は終わる。

そういうみゆきのすべてをひっくるめて、監督は「彼女の人生は間違いじゃない」と言う。とはいえ、やっぱりこのタイトルはそぐわない、観客の想像力に任せても同じ答えが出るにちがいない、それだけの力を持った映画だと思った。

いつもながら廣木監督は女優を美しく撮る。バスの座席からぼんやり窓の外を眺めるみゆき。ホテルのバスでお湯に顔を浸し目を開けるみゆき。デリヘルを志願して三浦に訴えるみゆき。瀧内公美の、いくつものはっとさせるショットがある。だからこそ、いろんな女優を使ったメジャーな映画のオファーが次々にあるんだろう。


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July 22, 2017

桐野夏生『デンジャラス』を読む

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桐野夏生『デンジャラス』(中央公論新社)の感想をブック・ナビにアップしました。谷崎潤一郎を主役に、その「四角関係」を主題にしたモデル小説。

http://www.book-navi.com/


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July 21, 2017

2つの写真空間

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Shinya Fujiwara & Daido Morriyama photo exhibitions

写真展というより、その場を体感できる写真空間展ふたつ。

藤原新也「沖ノ島」(~8月1日、日本橋高島屋)。神官以外は入れない「禁足の森」が12メートルのパノラマになっているなど、神聖な島の空気にひたれる。来年からは一般人の入島が禁止されるので、貴重な写真展かも。

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森山大道「Prettly Woman」(~9月17日、銀座・AIKO NAGAWAWA GALLERY)。まるで新宿の風俗街に足を踏み入れたよう。


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July 19, 2017

『ハクソー・リッジ』 沖縄戦のリアル

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Hacksaw Ridge(viewing film)

『ハクソー・リッジ(原題:Hacksaw Ridge)』は第二次大戦の沖縄戦、首里郊外の前田高地(米軍の呼び名はハクソー・リッジ─のこぎり断崖)での激戦を描いている。でも日本の予告編や宣伝では日米戦の映画であることが徹底的に隠されている。

どうやらアンジェリーナ・ジョリー監督の『アンブロークン』が反日映画とネトウヨに騒がれ、きちんと公開されなかったことに過剰反応したらしい。でも、この映画を見て「反日」だと感ずる人はいないだろう。もちろんアメリカ側の視点からだけど、武器を持つことを拒否した実在の一衛生兵の目を通して(ハリウッド映画的な誇張はあるにせよ反日でもなんでもなく)沖縄戦が描かれている。

ハクソー・リッジ(前田高地)は沖縄守備軍司令部のあった首里の東北5キロほどにある高地。日本軍は首里を取りまく丘陵地帯に司令部を守るための防衛陣地を敷いていた。前田高地もそのひとつ。十分な兵力を持たない守備軍は米軍の沖縄本島上陸を黙って見守り、洞窟陣地を築いて艦砲射撃に耐え、敵が近づいたところで反撃に出る持久戦の態勢にあった。大本営は沖縄戦について、「米軍に出血を強要し、本土攻撃を遅延せしむる」ための「捨て石作戦」と考えている(大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』)。

衛生兵ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の属する大隊が、消耗した部隊に代わってハクソー・リッジに投入される。激しい艦砲射撃の後、のこぎりの刃のような断崖をロープ網をつたって登ってゆく(前掲書にロープ網で断崖を登る米兵の写真が収録されている)。高地には、それまでの戦闘で死んだ米兵や日本兵の死体が散乱している。霧のなかを部隊が進んでゆくと、地下陣地から日本兵が湧き出るように現れて白兵戦になる。腕や脚がもがれ、火だるまになった身体がとび、下半身がぐじゃぐじゃになり、早回しを使っての戦闘シーンはすさまじいの一言。

これまで戦争映画のリアルな戦闘シーンといえば『プライベート・ライアン』や『父親たちの星条旗』だったけど、それを上回るかも。『プライベート・ライアン』も『父親たちの星条旗』も当時のVFX技術の進化によるところが大きいけれど、この映画ではそれが更に進んでいる。殊に、もがれ、つぶされ、挽き肉のようになった身体表現は超リアル。この映画は別に反戦映画ではないけれど(主人公は良心的兵役拒否だから、存在そのものが反戦と言えば言えるが)、接近戦の戦闘のむごたらしさには目を背けたくなるはずだ。

映画の前半は、ドスがなぜ非暴力を決意するに至ったかを描く。

ドスはヴァージニア州の田舎町で育った。父は第一次大戦に兵士として参加し、親友二人が戦死したことから、戦後、アル中に陥った。家はプロテスタントの異端であるセブンスデイ・アドヴェンティスト教会の敬虔な信者。壁には十戒(「汝、殺すなかれ」)のポスターが貼ってある。ただ、セブンスデイ・アドヴェンティストはクエーカー(フレンド派)のように非暴力・平和主義を強調しているわけではないようだ(良心的兵役拒否の多くはクエーカー教徒)。だからドスの非暴力は、あくまで個人の信念による。

アル中の父は母に暴力を振るう。見かねたドスが、かっとなって拳銃を父に向ける。友を失い、家族に暴力を振るい、自分に絶望していた父はドスに「引き金を引け」と言う。が、ドスは引けない(後で「心のなかで引いた」のセリフがある)。それを契機に、ドスは武器に手を触れることをやめようと決意する。第二次大戦が始まり、兄や友が志願するのを見て、ドスも衛生兵なら武器に手を触れなくてもすむ、戦争で人を殺すのでなく、人を助けようと陸軍に志願する。

映画の中盤は、異端の兵士を抱えた軍隊のいじめと教練の物語。ハリウッド映画のお手のものといったストーリー展開だ。銃の訓練を拒否して軍法会議にかけられるが、父の上官だった将軍の一声で衛生兵として従軍することを許される。ハクソー・リッジで75名の負傷兵を救い(日本兵も救おうとする)、仲間の信頼を勝ち取る(現実のドスは沖縄以前にサイパン、レイテの戦闘に従事した)。

こう見てくると、良心的兵役拒否とはいえ、ドスがいかにもハリウッド映画好みのヒーローであることが見えてくる。どんな状況にあろうと個人の信念を貫きとおす強靭な意思。仲間を決して裏切らない友情。銃を持たなくとも役に立てると軍隊に志願する愛国心。アメリカ映画が繰り返し描いてきたヒーローと重なる。

日本人としてこの映画を見ると、もちろん足りないものはたくさんある。たとえば沖縄戦は日本軍が住民を人間の盾のように巻き込んで戦った戦闘だったが、戦闘のすぐ近くにいたはずの民間人の姿が一人も出てこないこと。たとえば洞窟から出てくる日本兵が、まるでウンカの群れのように無個性で無気味に見えること(いや、これはアメリカ側から見た正確な印象かもしれない。大本営から見て沖縄戦の兵士は「捨て石」で、死を運命づけられた集団のふるまいは相手から不気味に見えるだろうし、そもそも日本軍はドスのように良心的兵役拒否する個人が存在できる組織ではないから、米兵の目に昆虫の群れに見えても不思議はない)。

いずれにしてもこれはアメリカ映画で、ここに足りないものを描くのは日本映画の責任だろう。沖縄戦を描いた日本映画は『ひめゆりの塔』や『沖縄決戦』以来、40年以上つくられていないのではないか。


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July 18, 2017

今日の収穫

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ゴーヤは今年初。わが家は糠漬けにすることが多い。茗荷も今年はけっこう顔を出している。


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July 15, 2017

『裁き』 インド社会の断面

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Court(viewing film)

いっとき、インド映画といえば歌って踊ってのエンタテインメントばかり公開されたことがあった。もちろんそれがインド映画の大きなジャンルなのは確かだけど、それだけがインド映画じゃない。僕はインド映画といえばサタジット・ライを思い浮べる世代なので釈然としなかったが、このところいろんな映画が公開されるようになった。

マラーティー語映画『裁き(英題:Court)』も、そんな1本。もっとも、この映画にも歌や踊りはある。ただし物語に密接にからむ重要な要素として。

ムンバイのスラムの広場に仮設舞台が設けられ、歌と踊りが演じられている。背後に掲げられる肖像は不可触民解放運動に貢献したマラータ人リーダーの肖像らしいから、そういう団体が開いた催しなんだろう。そこに歌手のカンブレ(ヴィーラー・サーティダル)が登場して、民族楽器とコーラスをバックに歌いはじめる。「♪立て! 反乱のときはきた。己の敵を知るときだ。カースト差別の森。人種差別の森。民族主義者の森」。ボブ・マーリーのインド版といった感じ。

そこに警官が来て、カンブレは逮捕される。スラムに住む下水掃除夫(不可触民の仕事)が自殺したのは、カンブレが自殺をそそのかす歌を歌ったからだという自殺ほう助の容疑。そこから裁判劇がはじまる。

もっとも、ここからがこの映画のユニークなところ。並みの裁判映画のように、法廷での丁々発止のやりとりにはならない。法廷の合間に被告のカンブレ、弁護士のヴォーラー(ヴィヴェーグ・ゴールバン)、女性検事、判事、それぞれの日常生活が挿入されて、彼らがどんな階級に属し、どんな生活を送っているかが描かれる。

民衆詩人であり歌手である被告のカンブレは、スラムで少年少女を教える教育者でもある。マラーティー語を話すマラータ人。冤罪を主張する正義漢の弁護士は、登場人物のなかでいちばん豊かな階級に属しているらしい。高級スーパーでワインとチーズを買い、自家用車のなかではジャズを聞く。法廷では英語でカンブレを弁護する。日常生活はクジャラート語らしい。女性検事は中流階級の出身。冤罪であることを知ってか知らずか、政府の方針に忠実に論告するが、日常生活ではごく平凡な主婦。どちらにも組しない判事は大家族をもっていて、夏休みにはバスを仕立てて一族でバカンスに出かける。

そして自殺したとされる下水道清掃夫が住むスラム。崩れかけた建物にゴミが散乱する凄惨なショットにぎくりとする。裁判に関わる人物たちを通して、インド社会の断面図が見えてくる。カンブレの裁判の前後には別の微罪の裁判も進行していて、いろんな人間模様が点描される。人種、宗教、言語、カースト、貧富の差、さまざまな分断線が引かれた複雑な社会。

やがてカンブレの無罪が証明されて釈放されるが、すぐに今度はテロ防止法違反の容疑で逮捕される。もっとも、映画は冤罪を声高に叫ぶわけではない。淡々と事実を描くだけだ。

そのクールな視線を生みだしているのがキャメラ。据えっぱなしの長回しも使った撮影で、カットとカットのつなぎも今ふう。インド映画でこういうスタイルの作品を見るのは初めてかも。チャイタニヤ・タームハネー監督がこの映画を撮ったときは20代だった。

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収穫近し

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トマトとゴーヤの収穫が近い。いつもはミニ・トマトだが、今年は大玉トマトに挑戦。といって、特段手をかけたわけでもなく、放っておいただけ。

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July 09, 2017

バジル・ソースをつくる

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creating basil source

庭にバジルが3株あるので、バジル・ソースをつくることにした。

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まずオリーブ・オイル、パルメザン・チーズ、松の実、にんにく、黒コショウ、塩をミルにかけ、最後にバジルの葉を入れて更にミルする。

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2瓶のバジル・ソースができた。そのままパンにつけて食べてみると、塩がきついけど、いける。

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さっそくバジル・ソースのパスタに。塩は加減したのでちょうどよくなったけど、パルメザン・チーズが入っているので濃厚というか、わが家の好みからするとしつこい。これでもレシピより少な目にしたのだが。次はもっと減らしてみよう。


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July 05, 2017

アルチンボルドふう我が肖像(笑)

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my portrait by AI Arcimboldo

「アルチンボルド展」(~9月24日、国立西洋美術館)の会場で、額縁の黒い画面の前に立つとアルチンボルドふう寄せ絵の肖像を描いてくれる。画面の裏にカメラがあり、髪型や顔のかたち、メガネの有無などを解析して輪郭に合ったモノを配置するんだろう。カップルが笑いながら互いの肖像をスマホで撮りっこしてる。これは楽しい。美術館もずいぶん変わったもんだ。

奇想の寄せ絵画家くらいの知識しかなかったが、ルネサンスの科学精神、博物学と帝国主義、批判的知性と風刺といった時代の問題を孕んだ絵画で、それがよく分かるようダ・ヴィンチの素描など同時代の絵画も集められている。実に面白かった。

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July 01, 2017

『ドッグ・イート・ドッグ』 ピンクのノワール

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Dog Eat Dog(viewing film)

フィルム・ノワールと呼ばれるジャンル映画は間歇的に流行する。もともと1940~50年代にハリウッドで盛んにつくられた。とりあえず「暗い画面が特徴のスタイリッシュな犯罪映画」とでも言っておけばいいのか。その後1970年代に『チャイナタウン』など新しい感覚のノワールがつくられた。今どきのノワールの原型は『レザボア・ドッグス』あたりだろうか。

ハリウッドだけでなく「フレンチ・ノワール」「香港ノワール」と呼ばれる映画があるように、いろんな国でノワール調の映画が流行した。かつての「探偵」「ファム・ファタール」といった定型ばかりでなく、「犯罪」をキーワードにさまざまなパターンが生まれている。

もっとも、近頃のハリウッドでは暗い映画は好まれないのか、あるいはホラーや猟奇犯罪のような刺激の強い映画のほうがいいのか、ノワール(調)の映画はそう多くない。記憶に残るのは『ナイトクローラー』『ボーダーライン』くらい。『ドッグ・イート・ドッグ(原題:Dog Eat Do)』は、その貴重な1本だ。

もっとも冒頭から「ノワール」とは正反対、画面いっぱいのピンク色で始まる。ピンクのフィルターをかけているような、壁からなにからピンクに内装された家。コカイン中毒のマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)が愛人とその子供をさしたる理由もなく殺すファースト・シーンから、タガが一本はずれたような独特のリズムに巻き込まれる。

ムショ帰りのトロイ(ニコラス・ケイジ)は、ムショ仲間で大男のディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)とマッド・ドッグを誘い、地元ギャングのボスから裏金回収の仕事を請け負う。最初の仕事は成功するが、カジノと女でどんちゃん騒ぎし一晩で報酬を使い果たす。次の仕事はメキシコ系ギャングの息子を誘拐し身代金を奪う仕事。ところが、マッド・ドッグが暴発し身代金を払うはずのギャングを殺してしまったことから、すべてが狂ってゆく……。

ポール・シュレイダー監督は、『ザ・ヤクザ』『タクシー・ドライバー』など1970年代ノワールの脚本家として名をなした。自らも『アメリカン・ジゴロ』などを監督しているから、ノワールはお手のもの。だからこそ、いまノワールをつくるに当たって、かつての定型を壊したかったんだろう。冒頭のピンクの画面もそうだし、いろんな約束事をはずしにかかっている。

トロイとギャングのボス(シュレイダー監督自身が演ずる)の会話シーン。定型のカットバックで(セリフをしゃべる人物を交互にクローズアップで)撮っているけれど、向かい合っているはずの二人がまるで背中を向け合っているように撮影されている。定型をはずしたカットバックは、小津安二郎が視線の交錯しない撮り方をしているのが有名だけど、日本映画に詳しいシュレイダー監督のことだからそういうことも踏まえているのかもしれないな(トロイがハンフリー・ボガート好きなのも、シュレイダー監督らしく笑わせる)。

ほかにも、マッド・ドッグが殺した死体を運ぶ車のなかでディーゼルに「人生をやり直したい」「俺の欠点を5つ挙げてくれ」なんて、どこまで本気か狂っているのか分からないセリフを吐いたりする。その後、死体処理の現場でディーゼルはいきなりマッド・ドッグに銃をぶっ放して殺す。原題のDog Eat Dogは原作のノワール小説と同じで共食いとか食うか食われるかといった意味だけど、登場人物は誰ひとり互いを信用せず、自らの欲望のままに行動する。

ラストもまた冒頭のピンクに対応するように赤い霧のなか。ニコラス・ケイジは、こういうチンケな男をやらせると絶品だなあ。


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