« April 2017 | Main

May 24, 2017

『台北ストーリー』 鋭い歴史感覚

Photo
Taipei Story(viewing film)

『台北ストーリー』という邦題は英語題名を訳したものだけど、中国語の原題は「青梅竹馬」。幼馴染みのことだ。そのことが分かってないと、映画を見ながらこの2人の男女の関係はなんなんだ、としばし戸惑いを覚える。「竹馬の友」という言葉を思い出して、そうか幼友達なんだなと理解できた。

1980年代の台湾ニューウェーブを担った映画人が一堂に会した『台北ストーリー』(1985)が一般公開されるのははじめて。ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンもほとんど見てるけど、この映画だけは見ていなかった。アメリカの大学で映画を学び台湾に帰ってきたエドワード・ヤンが、いわば自分のスタイルをつくりあげるきっかけとなった作品。僕がこの映画を見て感じたのは、エドワード・ヤン(と、共同脚本のホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン)の台湾社会に対する歴史感覚の鋭さだった。

舞台は台北の古い問屋街である迪化街。そこで育った幼馴染みのアリョン(ホウ・シャオシェン)とアジン(ツァイ・チー)の恋人とも友達ともつかない関係に、近代化が進む台湾社会の変化が重ねられる。近代化の象徴として、台湾社会に浸透したアメリカと日本のイメージが頻繁に使われる。

アジンはキャリアウーマンとして不動産開発会社で仕事しているが、上司とは個人的な関係もあるらしい。家を出て、新しいマンションで独り暮らし。でも会社は大企業に買収されて職を失い、どうするか迷っている。アリョンはかつてリトルリーグのエースとしてアジンたちの憧れの的だったが、今は地味に家業の布地問屋をやっている。アジンは、アメリカにいるアリョンの義理の兄を頼ってアメリカへ行こうとアリョンに持ちかけるが、アリョンは煮え切らない。

しびれを切らしたアジンは妹の友達の若い男とつきあいはじめる。アリョンは、家を売って渡米資金をつくったものの、借金返済を迫られ困っているアジンの父親に融通してしまう。台湾は大家族社会で(東山彰良『流』の世界ですね)、アリョンの家とアジンの家は祖父の代からのつきあいらしい。アジンは、アリョンの父親と酒を飲み、迪化街の路上に座り込む。失われゆく街の古い建物を車のライトが照らす。

アジンの洒落たマンションには、マリリン・モンローのポスターが掛けられている。アジンは映画の後半で、アメリカ資本の会社に誘われる。アジンが若い男たちと遊ぶ部屋の外には、富士フイルムやNECの大きなネオンサインがある。強烈なネオンサインをバックにアジンと若い男のシルエットが印象的。アリョンの元カノは日本人と結婚して、里帰りしてくる。アメリカと日本のイメージは、アリョンとアジンの実現しない脱出願望の象徴とも取れる。

迪化街の崩れそうな建物と、日本企業のネオンサイン。アジンが囚われる古い台北と、アリョンが生きる新しい台北が軋んでいる。エドワード・ヤンはアメリカ育ちなので、帰国して接した台北がこのように見えたのだろう。ちなみにシャープを買収し東芝に興味をもつ鴻海精密工業は、この時代すでに日米メーカーの下請けとして創業している。

エドワード・ヤンが自らのスタイルをきわめた『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をすでに見てしまった目からは、『台北ストーリー』はエドワード・ヤンらしい鋭いショットと、旧来の手法や映像がまだ混在しているように見える。とはいえこの時代、台湾には定型でつくられた娯楽映画しか存在しなかったから、因果関係が薄く人間関係の説明もしないこの映画は、ずいぶん変な映画だと思われたろう(4日間で上映打ち切り)。

この映画が、共同で脚本を書き、主演したホウ・シャオシェン(煮え切らない男を素のままで好演)に大きな刺激を与えたことは確かだろう。大学で映画を学んだエドワード・ヤンに対し、台湾の撮影所で娯楽映画から出発したホウ・シャオシェンは、ヤンとのつきあいのなかで新しい映画の手法に目を開いていったように思える。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 23, 2017

共・謀・罪・反対!

1705231w

「共謀罪」が衆議院を通過したこの日、「未来のための公共」の国会前緊急集会へ。

いいね! を押せる社会を 壊すな
ものが言えない 社会をつくるな
告げ口すすめる 法案いらない
盗聴密告監視の法案 反対
平成の治安維持法 反対
テロ対策と ウソをつくな
言葉をこわすな
きょう・ぼう・ざい 反対

編集者やライターとして表現にたずさわってきた者として、「共謀罪」に無関心でいられない。「思想ではなく行為を罰する」は刑法の大原則だけど、犯罪の準備行為を罰することができることになれば→犯罪の合意(座り込みだって「犯罪」だ)の内偵→そのための相談の内偵と、思想を監視し、行為でなく思想を罰する事態に限りなく近づくことになる。それは戦前の治安維持法がたどった道と重なる。

1705232w


| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 19, 2017

前野曜子 最後のアルバム

1705191w

ウェブを見ていたら前野曜子のCDが目に留まり、思わず買ってしまった。「TWILIGHT」(1982)。1988年に40歳で亡くなった彼女がその6年前にリリースした、生前最後のアルバムの復刻盤。

当時のフュージョンやソウルのサウンドをバックにした都会のポップスだ。グローバー・ワシントンJr.でヒットした「ワインライト」に日本語の詞をつけて歌っているのが、あの時代を思い出させる。オリジナルでは、「立ち去りかけた夜のうしろ影 青ざめた静寂におびえている」とはじまり、「許して 愛して」とリフレインがつづく「愛の人質」(作詞・冬杜花代子、作編曲・上田力)が切ないラブソング。メローなリズムに乗せ、高音がよく伸び透明だけど官能的な歌声に、ああこれが前野曜子だと一瞬感傷的になる。ほかに、ボーナストラックとしてアニメ「スペースコブラ」の主題歌「コブラ」など。

前野曜子には一度だけ、取材で会ったことがある。「別れの朝」がヒットしたあとペドロ&カプリシャスを抜け(無断欠勤や遅刻が度重なりクビになったらしい)、ロスでしばらく遊んで帰国した後、ソロで「夜はひとりぼっち」を出したときだった。水割りをちびちび飲みながら笑顔でインタビューに答えてくれたが、話の中身はまったくパブリシティにならない本音トークで、ロスのアパートでは毎晩ウィスキーのボトルを一本近く空けてたとか、困り顔のマネジャー氏の前で新曲や仕事への不満も口にした。

「ヨーコ、ラッキーでね。今まで変な苦労がなかったわけ。だから、はっきりいって、キャバレーの仕事なんか大っきらい。第一、バンドが合わないでしょ。歌う10分前に音合わせだから、メタメタになるよね。すごくブルーになっちゃいますよ」

そんなことを平気でしゃべる前野曜子は可愛かった。

この後も休養と復帰を繰り返し、アルコール依存からくる肝臓の病で亡くなった。体調を整え、いいスタッフに巡り合えて成熟したら、どんな歌い手になっていたろう。久しぶりのセンシュアルな歌声を涙なしに聴けない。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 17, 2017

小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』を読む

Tyouikkyoku_kobayasi

小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 13, 2017

『ノー・エスケープ 自由への国境』

Desierto
Desierto(viewing film)

『捜索者』や『死の谷』といった古典以来、西部劇の定番のひとつに砂漠(西部劇では「荒野」と呼ぶのがお約束)での追う者と追われる者との追跡劇、あるいは逃避行がある。その定番のパターンを踏襲しながらハリウッド製西部劇とはまったく異なる現代の追跡劇(逃避行)にしたのが『ノー・エスケープ 自由への国境(原題:Desierto、砂漠)』。88分と短い映画だけど、張りつめた緊張が見事なサスペンスだ。

追うのは、貧しい白人の一匹狼サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)。追われるのは、国境を越えてアメリカに密入国したモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)ら15人のメキシコ人。砂漠の国境には有刺鉄線が張られているだけ。モイセスたちは、いとも簡単に歩いて国境を越える。見渡す限りの荒野と岩山(ロケはカリフォルニア)。

サムはライフルをもちジャーマン・シェパードの猟犬とともにピックアップトラックで砂漠を走っている。警官に職質されると、ウサギ狩りに許可証はいらないだろう? と反問する。砂漠で食料にするウサギも撃つが、サムが狩っているのは密入国した人間たちだ。現実に南部や西部には密入国者を捕らえる私設警察集団があるけれど、サムには彼らのような反移民のイデオロギーはなさそう。ウサギを狩るのと同じ感覚で人間を狩っているらしい(そのほうが怖い)。

サムが砂漠を歩く密入国者を発見し、丘の上からガイドら11人を容赦なく狙い撃って殺す。一行に遅れていたモイセスとガイドの助手、男女のカップルの4人だけが生き残る。逃げるモイセス(この名前はモーゼとエクソダスに重ねられているのか)らに気づいたサムは彼らを追う。

人を拒む乾いた谷と乾いた岩山の風景が圧倒的だ。そのなかを武器を持たない4人が逃げ、サムと猟犬が追う。逃げ遅れたカップルの男が猟犬に喉を食い破られる。ガイドの助手は岩山から落ちて死ぬ。モイセスと残った女は、サムの裏をかいてトラックを盗むが、撃たれて車は横転し、女は重傷を負う。モイセスは自分をおとりに猟犬とサムを引きつけようとする。鋭い棘のあるサボテンの群落や、そそり立つ岩山での猟犬対モイセス、サム対モイセスの対決。

主役やスタッフはメキシコ勢だけど、サムがただの悪漢でなく、社会からはじきだされた男の哀しみをにじませている。だから結末にカタルシスはなく、むしろ重苦しい。

脚本・監督のホナス・キュアロンは、アルフォンソ・キュアロン(『ゼロ・グラビティ』)の息子。『ゼロ・グラビティ』のアイディアもホナスで、父と一緒に脚本も書いていた。『ノー・エスケープ』も『ゼロ・グラビティ』も、ごくシンプルな設定からハラハラドキドキの物語をつくりあげることでは共通している。また目を離せない監督がひとり増えた。


| | Comments (0) | TrackBack (4)

« April 2017 | Main