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May 31, 2017

『メッセージ』 冷え冷えした空

Arrival
Arrival(viewing film)

『メッセージ(原題:Arrival)』で、そうか、そうだったのかと唸ったのは、球体の宇宙船や知的生命体(どちらも、まあ過去の諸作品の延長上)ではなく、言語学者ルイーズ(エイミー・アダムズ)の過去の記憶と思われていたものが、実は未来の記憶だとわかるところ。

冒頭で、ルイーズが湖畔で少女と遊び、やがて少女が病に冒され亡くなる映像が出てくる。見る者は当然、ルイーズは辛い過去を持っているのだと思いこむ。そのショットが、何度かフラッシュバックされる。

ところが後半、宇宙船の内部に入ったルイーズは知的生命体と対話し、知的生命体にとって時間は円環するものであり、ルイーズが見ていたものが彼女の未来の記憶であることを知る。次のフラッシュフォワード(バックではなく)では、少女の父親の映像が出てきて、それがいま仲間として知的生命体とコミュニケーションを取ろうとしている物理学者イアン(ジェレミー・レナー)であることがわかる。

ルイーズには、やがてイアンと結婚し、どうやら離婚し、娘を病気で失うという未来が待っている。それでもなおルイーズは未来に賭けるのか。そういうルイーズの決断の物語として、この映画はある。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のサスペンスや緊張の演出は相変らず冴えている。いつも感心するのは映像と音の見事さ。

冒頭、屋内のカメラがゆっくり天井から下にパンすると、窓の外には湖と、どんよりと曇った空。静寂を感じさせるクールな映像がヴィルヌーヴ印。自然や都市の上に広がる冷え冷えした曇り空と、光と影のコントラストを持たない陰鬱な光は過去の作品にもひんぱんに出てきた。これは監督が北国のカナダ育ちということも関係しているかもしれない(本作のロケもカナダ)。

到来(arrival)した宇宙船の背後では、山並みに霧がゆっくりと流れている。知的生命体が持つ文字は、水中で墨が円を描いて広がり凝固するような動作をもつ。霧や墨(のようなもの)がゆっくり流れる、スローモーションのような時間の持続に緊張が高まる。

音もまた緊張を高める。宇宙船内部がきしむような音。高速で空をかすめる戦闘機の音(アカデミー音響編集賞受賞)。そこに、低音が持続するような音楽がかぶさる。不安を増幅させる。これは前作『ボーダーライン』も同じで、音楽はヨハン・ヨハンソン。ヨハンソンとは『プリズナーズ』以来のコンビで、次回作『ブレードランナー 2049』でも組んでいる(撮影は『プリズナーズ』から組む名手ロジャー・ディーキンスから若いブラッドフォード・ヤングに変ったが、ヴィルヌーヴ監督好みの映像は変らず)。

知的生命体が地球の12地点へもたらしたメッセージ云々よりも、そういうところに惹きつけられた。『ブレードランナー 2049』が楽しみだ。


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May 28, 2017

「異郷のモダニズム 満洲写真全史」展

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ボランティアで大阪へ行った帰り、名古屋で途中下車し「異郷のモダニズム 満洲写真全史」展(名古屋市美術館、~6月25日)へ。

満洲の写真は断片的には見ていたけど、「全史」と銘打つだけのことはある。満鉄が内地へのパブリシティとして撮影した昭和初期の記録的な写真、淵上白陽らが撮影した芸術写真、国(満洲国)が主導したプロパガンダの写真など、植民者の日本人が満洲をどう捉え、内地にどう伝えたかを時代を追って跡付ける。最後に、敗戦によってソ連軍や中国共産党軍によってインフラ施設を奪われ廃墟となった、米軍撮影の写真もある。

充実した写真展。立派な図録が出ているけど、名古屋だけの開催はもったいない。


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May 25, 2017

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 片隅の光景

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『映画 夜空はいつでも再高密度の青色だ』の原作は最果タヒの同名の詩集。詩集から映画をつくる珍しい試みだ。それがどこに表れているかといえば、主人公の男女が詩の言葉をつぶやく。例えばこんな具合に。

「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ」
「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない」
「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

最果タヒが20代で書いたこれらの言葉は、いわゆる現代詩の言葉遣いでなく若い世代が日常に感ずる違和を言語化したものだろうけど、会話のなかでしゃべれば、やはり普通じゃない。変な奴と思われる。男も女も自分を変だと思っている。そんな二人が遠回りして結ばれる「ボーイ・ミーツ・ガール」の青春映画。その遠回りのあいだに、二人をとりまくこの社会の姿が見えてくる。監督は『舟を編む』の石井裕也。

美香(石橋静河)は看護師として仕事しながら、夜は渋谷のガールズバーで働いている。慎二(池松壮亮)は建築現場で日雇い仕事をしている。慎二がつるむのは兄貴分の智之(松田龍平)、中年の岩下(田中哲司)、出稼ぎフィリピン人のアンドレス(ポール・マグサリン)。彼らは仕事帰りのガールズバーで美香と会う。智之が美香とSNSでつながってつきあいはじめるが、智之はあっけなく死んでしまう。仲間しかいない通夜の席で、美香と慎二は顔を合わせる……。

美香がガールズバーで働くのはお金がほしいこともあるが、それ以上に何か焦燥にとりつかれているらしい。慎二もいつも「イヤな予感」、言いかえれば死の予感につきまとわれている(タヒとは「死」の文字を分解した名前らしい)。詩の言葉をしゃべりまくるかと思えば、黙りこくってしまう。生きづらさをかかえた二人が、お互い手探りするように相手を少しずつわかってゆく。新人の石橋静河と、いろんな映画で顔なじみの池松壮亮の抑えた演技がいい。青春映画というと必ず主人公が叫ぶシーンがあるけど、そういう場面が出てこないのもいい。

智之の通夜で、彼らを派遣する会社の社員は「仕事中に死なないでくれよな」と迷惑そうに慎二につぶやく。慎二のアパートで隣に住む読書好きの老人は、孤独死しているのが見つかる。腰を痛めた岩下は現場を去ってゆく(どこへ行くのかは明かされない)。アパートに何人ものフィリピン人と同居して暮らすアンドレスも、家族のいるフィリピンに帰る決心をする。

最後、慎二の狭いアパートで朝を迎えた二人が、鉢植えの小さなサボテンに花が咲いているのをみつける。片隅の光景で終わるのが素敵だ。


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May 24, 2017

『台北ストーリー』 鋭い歴史感覚

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Taipei Story(viewing film)

『台北ストーリー』という邦題は英語題名を訳したものだけど、中国語の原題は「青梅竹馬」。幼馴染みのことだ。そのことが分かってないと、映画を見ながらこの2人の男女の関係はなんなんだ、としばし戸惑いを覚える。「竹馬の友」という言葉を思い出して、そうか幼友達なんだなと理解できた。

1980年代の台湾ニューウェーブを担った映画人が一堂に会した『台北ストーリー』(1985)が一般公開されるのははじめて。ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンもほとんど見てるけど、この映画だけは見ていなかった。アメリカの大学で映画を学び台湾に帰ってきたエドワード・ヤンが、いわば自分のスタイルをつくりあげるきっかけとなった作品。僕がこの映画を見て感じたのは、エドワード・ヤン(と、共同脚本のホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン)の台湾社会に対する歴史感覚の鋭さだった。

舞台は台北の古い問屋街である迪化街。そこで育った幼馴染みのアリョン(ホウ・シャオシェン)とアジン(ツァイ・チー)の恋人とも友達ともつかない関係に、近代化が進む台湾社会の変化が重ねられる。近代化の象徴として、台湾社会に浸透したアメリカと日本のイメージが頻繁に使われる。

アジンはキャリアウーマンとして不動産開発会社で仕事しているが、上司とは個人的な関係もあるらしい。家を出て、新しいマンションで独り暮らし。でも会社は大企業に買収されて職を失い、どうするか迷っている。アリョンはかつてリトルリーグのエースとしてアジンたちの憧れの的だったが、今は地味に家業の布地問屋をやっている。アジンは、アメリカにいるアリョンの義理の兄を頼ってアメリカへ行こうとアリョンに持ちかけるが、アリョンは煮え切らない。

しびれを切らしたアジンは妹の友達の若い男とつきあいはじめる。アリョンは、家を売って渡米資金をつくったものの、借金返済を迫られ困っているアジンの父親に融通してしまう。台湾は大家族社会で(東山彰良『流』の世界ですね)、アリョンの家とアジンの家は祖父の代からのつきあいらしい。アジンは、アリョンの父親と酒を飲み、迪化街の路上に座り込む。失われゆく街の古い建物を車のライトが照らす。

アジンの洒落たマンションには、マリリン・モンローのポスターが掛けられている。アジンは映画の後半で、アメリカ資本の会社に誘われる。アジンが若い男たちと遊ぶ部屋の外には、富士フイルムやNECの大きなネオンサインがある。強烈なネオンサインをバックにアジンと若い男のシルエットが印象的。アリョンの元カノは日本人と結婚して、里帰りしてくる。アメリカと日本のイメージは、アリョンとアジンの実現しない脱出願望の象徴とも取れる。

迪化街の崩れそうな建物と、日本企業のネオンサイン。アジンが囚われる古い台北と、アリョンが生きる新しい台北が軋んでいる。エドワード・ヤンはアメリカ育ちなので、帰国して接した台北がこのように見えたのだろう。ちなみにシャープを買収し東芝に興味をもつ鴻海精密工業は、この時代すでに日米メーカーの下請けとして創業している。

エドワード・ヤンが自らのスタイルをきわめた『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をすでに見てしまった目からは、『台北ストーリー』はエドワード・ヤンらしい鋭いショットと、旧来の手法や映像がまだ混在しているように見える。とはいえこの時代、台湾には定型でつくられた娯楽映画しか存在しなかったから、因果関係が薄く人間関係の説明もしないこの映画は、ずいぶん変な映画だと思われたろう(4日間で上映打ち切り)。

この映画が、共同で脚本を書き、主演したホウ・シャオシェン(煮え切らない男を素のままで好演)に大きな刺激を与えたことは確かだろう。大学で映画を学んだエドワード・ヤンに対し、台湾の撮影所で娯楽映画から出発したホウ・シャオシェンは、ヤンとのつきあいのなかで新しい映画の手法に目を開いていったように思える。

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May 23, 2017

共・謀・罪・反対!

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「共謀罪」が衆議院を通過したこの日、「未来のための公共」の国会前緊急集会へ。

いいね! を押せる社会を 壊すな
ものが言えない 社会をつくるな
告げ口すすめる 法案いらない
盗聴密告監視の法案 反対
平成の治安維持法 反対
テロ対策と ウソをつくな
言葉をこわすな
きょう・ぼう・ざい 反対

編集者やライターとして表現にたずさわってきた者として、「共謀罪」に無関心でいられない。「思想ではなく行為を罰する」は刑法の大原則だけど、犯罪の準備行為を罰することができることになれば→犯罪の合意(座り込みだって「犯罪」だ)の内偵→そのための相談の内偵と、思想を監視し、行為でなく思想を罰する事態に限りなく近づくことになる。それは戦前の治安維持法がたどった道と重なる。

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May 19, 2017

前野曜子 最後のアルバム

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ウェブを見ていたら前野曜子のCDが目に留まり、思わず買ってしまった。「TWILIGHT」(1982)。1988年に40歳で亡くなった彼女がその6年前にリリースした、生前最後のアルバムの復刻盤。

当時のフュージョンやソウルのサウンドをバックにした都会のポップスだ。グローバー・ワシントンJr.でヒットした「ワインライト」に日本語の詞をつけて歌っているのが、あの時代を思い出させる。オリジナルでは、「立ち去りかけた夜のうしろ影 青ざめた静寂におびえている」とはじまり、「許して 愛して」とリフレインがつづく「愛の人質」(作詞・冬杜花代子、作編曲・上田力)が切ないラブソング。メローなリズムに乗せ、高音がよく伸び透明だけど官能的な歌声に、ああこれが前野曜子だと一瞬感傷的になる。ほかに、ボーナストラックとしてアニメ「スペースコブラ」の主題歌「コブラ」など。

前野曜子には一度だけ、取材で会ったことがある。「別れの朝」がヒットしたあとペドロ&カプリシャスを抜け(無断欠勤や遅刻が度重なりクビになったらしい)、ロスでしばらく遊んで帰国した後、ソロで「夜はひとりぼっち」を出したときだった。水割りをちびちび飲みながら笑顔でインタビューに答えてくれたが、話の中身はまったくパブリシティにならない本音トークで、ロスのアパートでは毎晩ウィスキーのボトルを一本近く空けてたとか、困り顔のマネジャー氏の前で新曲や仕事への不満も口にした。

「ヨーコ、ラッキーでね。今まで変な苦労がなかったわけ。だから、はっきりいって、キャバレーの仕事なんか大っきらい。第一、バンドが合わないでしょ。歌う10分前に音合わせだから、メタメタになるよね。すごくブルーになっちゃいますよ」

そんなことを平気でしゃべる前野曜子は可愛かった。

この後も休養と復帰を繰り返し、アルコール依存からくる肝臓の病で亡くなった。体調を整え、いいスタッフに巡り合えて成熟したら、どんな歌い手になっていたろう。久しぶりのセンシュアルな歌声を涙なしに聴けない。


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May 17, 2017

小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』を読む

Tyouikkyoku_kobayasi

小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/

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May 13, 2017

『ノー・エスケープ 自由への国境』

Desierto
Desierto(viewing film)

『捜索者』や『死の谷』といった古典以来、西部劇の定番のひとつに砂漠(西部劇では「荒野」と呼ぶのがお約束)での追う者と追われる者との追跡劇、あるいは逃避行がある。その定番のパターンを踏襲しながらハリウッド製西部劇とはまったく異なる現代の追跡劇(逃避行)にしたのが『ノー・エスケープ 自由への国境(原題:Desierto、砂漠)』。88分と短い映画だけど、張りつめた緊張が見事なサスペンスだ。

追うのは、貧しい白人の一匹狼サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)。追われるのは、国境を越えてアメリカに密入国したモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)ら15人のメキシコ人。砂漠の国境には有刺鉄線が張られているだけ。モイセスたちは、いとも簡単に歩いて国境を越える。見渡す限りの荒野と岩山(ロケはカリフォルニア)。

サムはライフルをもちジャーマン・シェパードの猟犬とともにピックアップトラックで砂漠を走っている。警官に職質されると、ウサギ狩りに許可証はいらないだろう? と反問する。砂漠で食料にするウサギも撃つが、サムが狩っているのは密入国した人間たちだ。現実に南部や西部には密入国者を捕らえる私設警察集団があるけれど、サムには彼らのような反移民のイデオロギーはなさそう。ウサギを狩るのと同じ感覚で人間を狩っているらしい(そのほうが怖い)。

サムが砂漠を歩く密入国者を発見し、丘の上からガイドら11人を容赦なく狙い撃って殺す。一行に遅れていたモイセスとガイドの助手、男女のカップルの4人だけが生き残る。逃げるモイセス(この名前はモーゼとエクソダスに重ねられているのか)らに気づいたサムは彼らを追う。

人を拒む乾いた谷と乾いた岩山の風景が圧倒的だ。そのなかを武器を持たない4人が逃げ、サムと猟犬が追う。逃げ遅れたカップルの男が猟犬に喉を食い破られる。ガイドの助手は岩山から落ちて死ぬ。モイセスと残った女は、サムの裏をかいてトラックを盗むが、撃たれて車は横転し、女は重傷を負う。モイセスは自分をおとりに猟犬とサムを引きつけようとする。鋭い棘のあるサボテンの群落や、そそり立つ岩山での猟犬対モイセス、サム対モイセスの対決。

主役やスタッフはメキシコ勢だけど、サムがただの悪漢でなく、社会からはじきだされた男の哀しみをにじませている。だから結末にカタルシスはなく、むしろ重苦しい。

脚本・監督のホナス・キュアロンは、アルフォンソ・キュアロン(『ゼロ・グラビティ』)の息子。『ゼロ・グラビティ』のアイディアもホナスで、父と一緒に脚本も書いていた。『ノー・エスケープ』も『ゼロ・グラビティ』も、ごくシンプルな設定からハラハラドキドキの物語をつくりあげることでは共通している。また目を離せない監督がひとり増えた。


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