『たかが世界の終わり』 中身とスタイル
Juste la Fin du Monde(viewing film)
中身とスタイルがこんなにドンピシャ一致している映画もめずらしい。
『たかが世界の終わり(原題:Juste la fin du monde)』は家庭劇。家を出て12年、劇作家として名の出たルイ(ギャスパー・ウリエル)が故郷に帰ってくる。「余命は長くない」と家族に伝えるために。ルイと、彼を迎える家族それぞれが内心に愛と葛藤を秘めながら、ぎこちない会話が交わされる。
ひとつの家族──ルイと、彼を待ちわびる母(ナタリー・バイ)、冷笑的な態度の兄(ヴァンサン・カッセル)、ルイとは初対面の嫂(マリオン・コティヤール)、ルイの記憶をほとんど持たない妹(レア・セドゥ)。その5人以外、ほとんど出てこない。この映画には「世界の終わり」と反語的なタイトル(家族こそが世界だという)がついているが、ふつうの意味で「世界」がマクロだとすれば家族というミクロの世界に焦点が絞られている。
ミクロの世界にふさわしく、クローズアップの映像が多用される。顔を正面から、あるいは横からのクローズアップ。顔の微妙な筋肉の動きや、目の動き(マリオン・コティヤールの大きな目がモノを言う)。うなじに滲み出る汗。かすかなため息(の小さな音)。しかも被写界深度(ピントの合う範囲)のきわめて浅いレンズを使っているので前景と後景はボケて、ものの形がはっきりしない。見る者はいやおうなく、ピントの合っているごく狭い空間に注意を向けることになる。
ほとんどが家の中(原作は舞台劇)。外界は、音として入ってくる。ルイと兄が言い争いをしているとき、雷鳴がとどろく。家の外の社会は、兄を通して描かれる。この家庭には父がいない。なぜかは説明されないが、兄が父の代理として外で肉体労働者として働き家計をささえているらしい。彼の社会常識に沿った価値観と、作家でありゲイであるらしいルイの価値観とは相いれない。ルイが家を出たのも、それと関係あるのかもしれない。
兄の立場もルイの立場もわかりながら、間に立つ母。初対面のルイと、互いに惹かれあうように見える嫂。普段はしない化粧をして、帰って来た兄の存在にはしゃぐ妹。怒りを爆発させてしまう兄。ほとんどしゃべらず、しゃべりかけても口をつぐんでしまうことの多いルイ。フランスを代表する5人の役者が息詰まるような演技を見せる。
ルイは家族と半日を過ごすだけで、兄といさかいを抱えたまま帰ってゆく。過去のいきさつも語られず、ただぶっきらぼうに、でも拡大鏡で覗いているような細密さで濃密な半日を描き出す。背後で英語やフランス語のいろんなポップスが鳴っている。「Home is where it hurts」という曲の題名は、映画のテーマそのもの。
カナダ(フランス語圏)のグザヴィエ・ドラン監督の映画。カンヌ映画祭グランプリ。好き嫌いでいえば、あまり好みの映画ではないが。
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