『変魚路』の不思議
『ウンタマギルー』(1989)を見たときの驚きは忘れられない。登場人物が話すのはすべて沖縄言葉で、日本語の字幕が入る。物語は現実と幻想が入り混じった琉球の神話というか、伝承の世界だった。主役の小林薫と戸川純を支えるのは沖縄芝居の役者。嘉手苅林昌の琉歌。南島の濃厚な色彩感覚。東南アジアに共通する気怠い空気が快い。底に流れるのは本土への違和の感情。監督の高嶺剛は石垣島の出身。これは日本映画ではない。琉球映画が生まれたと思った。
高嶺監督の18年ぶりの新作『変魚路(へんぎょろ)』は、その琉球映画度がさらにヒートアップしている。いつの時代、どこなのかも定かでなく、物語も、それらしきものがゆるくあるだけで、次第に現実と夢、現在と過去、すべてが入り混じってしまう。セリフはもちろん沖縄言葉で日本語字幕。
「島ぷしゅー」と呼ばれる大きな出来事(何か分からないが、たくさんの死者が出たらしい)があった後、死にぞこないばかりが生きているパタイ村でタルガニ(平良進)とパパジョー(北村三郎)が「水中爆発映画機械所」を営んでいる。ふたりは海辺で伝統的な沖縄芝居の一場面を演じ、それを撮影もしているらしい。挿入される、ふたりの子供の頃の写真や、戦争?の業火に焼かれる老人。「島ぷしゅー」の記憶を留めるらしい、ポップで色鮮やかな男の石膏像。さまざまな断片が、脈絡なく重なってゆく。
村の雑貨屋からタルガニが秘密の媚薬を知らずに盗んだことから、二人は村を出ることになる。ずぶ濡れの(死者の国の?)女三人が二人を追う(出迎える?)。大城美佐子が三線を弾く。坂田明のアルトサックスが吼える。裸の男が舞う(演ずるは木村伊兵衛賞の写真家、石川竜一)。デジタル合成で、摩訶不思議な風景が現出する。村のなかを山羊と牛がゆったり歩いてゆく。白蛇がうねる。全体を貫くのは『ウンタマギルー』と同じ、ゆるりとした空気と神話的な気配。
先日、50年ぶりにジャン=リュック・ゴダールの『中国女』を見た。一貫したストーリーに沿って映像が展開してゆくという映画の常識を、商業映画の枠内でぎりぎりまで解体してみせた、ヌーヴェル・ヴァーグの極北といった作品だった。その後、さまざまなスタイルの実験があったけど、『変魚路』もそうした延長上にある。そして実験というだけでなく、沖縄のゆるい、しかしいろんな歴史を秘めた空気をしこたま詰めこんでいるのが素晴らしい。不思議な、でも面白い映画だった。
Comments