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February 28, 2017

金丸重嶺写真展

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Kanamaru Shigene photo exhibition

「写真家 金丸重嶺 新興写真の時代 1926-1945」展に行く(~3月3日、江古田・日大芸術学部芸術資料館)。

昭和初期、新興写真と呼ばれる都市的な表現に刺激され撮影した初期の作品から、花王石鹸などの広告写真、ベルリン・オリンピック、従軍した武漢作戦、国策宣伝用の写真まで。新聞・雑誌の紙誌面やパンフレット、当時のアルバム、オリジナル・プリントやニュー・プリントで構成されている。

興味があったのは、当時、新装して売り出された花王石鹸の広告写真。発売までの予告は金丸重嶺、発売後は木村伊兵衛が撮影している。雑誌や新聞の広告5点が展示されていた。モンタージュを多用したダイナミックな表現。生活感あふれる木村の広告とはタッチが違う。

ベルリン・オリンピックやヨーロッパのスナップははじめて見た。金丸重嶺は写真家としてより書き手として知っていたけど、この写真群は時代の空気を伝えてくれる。

充実したカタログを無料でいただけるのはありがたい。


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February 26, 2017

『小名木川物語』上映会

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東京・深川に住む人たちが協力し4年がかりでつくりあげた映画『小名木川物語』(大西みつぐ監督)の上映会が開かれた(2月25日、深川江戸資料館)。

製作、脚本、監督、主演、音楽などほとんどを地元の住民が担当している。監督の大西みつぐは写真家、主演の徳久ウィリアムと伊宝田隆子はパフォーマーと美術家。

深川を流れる小名木川と地元のお祭りや行事を背景に、故郷に帰ってきた男と深川で生活する女の出会いを、フィクションとノンフィクションを交錯させて描く。小名木川の流れゆく水に、この土地が経験した東京大空襲や関東大震災の記憶が重なる。

上映後、スタッフとキャストが舞台に上がった。右から2人目が大西みつぐ監督。

次の上映は4月9日(日)午後7時、江東区古石場文化センター。

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February 23, 2017

『マリアンヌ』 美男美女の映画

Allied
Allied(viewing film)

美男美女を主役に第二次大戦中のカサブランカを舞台にしたスパイものと言えば、どうしても名作『カサブランカ』を思い出してしまう。アメリカが参戦した1942年に公開された『カサブランカ』は、ラブロマンスの衣の下でさりげなく反ナチのメッセージを伝える広義のプロパガンダ映画だったけど、『マリアンヌ(原題:Allied)』はそういうイデオロギーは抜きにして楽しめるサスペンス+メロドラマになっている。

カナダ空軍の情報将校マックス(ブラッド・ピット)は、ドイツに占領されたフランス植民地のカサブランカで、レジスタンス「自由フランス」のマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と組んでドイツ大使を暗殺する。恋に落ちた二人はロンドンで結婚するが、マリアンヌにドイツのスパイではないかと疑いがかけられ……。

映画の前半と後半で、多少色合いが違う。前半は、二人が夫婦を装ってドイツ大使館のパーティにもぐりこみ、大使を暗殺するサスペンスとアクション。加えて、夫婦を偽装する二人が互いに演技なのか本心なのかさぐりあっている気配が面白い。マリアンヌは、正体がばれないためには「感情を偽らない」のが大事だと言う。この言葉が、映画の最後まで効いている。

マックスはパリから来たというふれこみなのに、カナダのフランス語圏であるケベック訛りのフランス語を話す。それもまたサスペンスの一要素。マリアンヌがマックスを「ケベック人」とからかう。二人が男と女の駆け引きをしつつ夫婦を装って周囲をだますあたりのリズムは心地いい。

原題のAlliedは、同盟したとか連合したといった言葉で、連合国側のという意味合いと、二人の連合という意味合いをかけてるんだろうけど、いずれにしても男と女の間には使われない硬い言葉を選んでいるところに味がある。

マリアンヌにスパイの疑いがかけられる後半は、メロドラマ+心理サスペンスのタッチ。マリアンヌがスパイかどうかは、観客にもラスト近くで明かされるまで分からない。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」がサスペンスの鍵になり、決定的なシーンが航空機のそばなのは『カサブランカ』を意識してるからだろう。

マリオン・コティヤールもカサブランカを舞台にした前半は、絹のドレス姿が清純派のイングリッド・バーグマンより色っぽい。ロンドンの後半は、戦時下のつましい主婦といったたたずまい。アカデミー主演女優賞を受賞した『エディット・ピアフ』、ミュージカルの『NINE』、ほとんどスッピンだった『サンドラの週末』、最近の『たかが世界の終わり』と、映画によってずいぶん印象が違う。あの大きな目が魅力なのは共通してるけど。ブラッド・ピッドは、ハンフリー・ボガートのような渋みはないけど八の字眉は健在。

古めかしい美男美女のメロドラマと、CGを駆使して戦時下のカサブランカやロンドンを再現したロバート・ゼメキス監督の職人技。むずかしいことは考えず気持よく楽しめました。


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February 20, 2017

鶴橋商店街

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大阪へ行ったとき、たいてい寄るのが鶴橋駅前のガード下の商店街。色鮮やかなチマ・チョゴリが並んでいる。30年以上前、この町で朝鮮語を習っていたとき、授業のあとたいていここを通って飲みに行っていたから、なんとも懐かしい。町はどんどん変わるのに、この商店街は観光客相手の店がちらほらできたほかは、ほとんど変わっていない。

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30年前から通っているなじみの店で、必ず買うのは岩のり。これを白いご飯に載せたり、酒の肴にすると至福。

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February 19, 2017

『彼女のひたむきな12カ月』を読む

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Anne Wiazemsky"Une année studieuse"(reading book)

アンヌ・ヴィアゼムスキー『彼女のひたむきな12カ月』(DU BOOKS)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/

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February 16, 2017

『たかが世界の終わり』 中身とスタイル

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Juste la Fin du Monde(viewing film)

中身とスタイルがこんなにドンピシャ一致している映画もめずらしい。

『たかが世界の終わり(原題:Juste la fin du monde)』は家庭劇。家を出て12年、劇作家として名の出たルイ(ギャスパー・ウリエル)が故郷に帰ってくる。「余命は長くない」と家族に伝えるために。ルイと、彼を迎える家族それぞれが内心に愛と葛藤を秘めながら、ぎこちない会話が交わされる。

ひとつの家族──ルイと、彼を待ちわびる母(ナタリー・バイ)、冷笑的な態度の兄(ヴァンサン・カッセル)、ルイとは初対面の嫂(マリオン・コティヤール)、ルイの記憶をほとんど持たない妹(レア・セドゥ)。その5人以外、ほとんど出てこない。この映画には「世界の終わり」と反語的なタイトル(家族こそが世界だという)がついているが、ふつうの意味で「世界」がマクロだとすれば家族というミクロの世界に焦点が絞られている。

ミクロの世界にふさわしく、クローズアップの映像が多用される。顔を正面から、あるいは横からのクローズアップ。顔の微妙な筋肉の動きや、目の動き(マリオン・コティヤールの大きな目がモノを言う)。うなじに滲み出る汗。かすかなため息(の小さな音)。しかも被写界深度(ピントの合う範囲)のきわめて浅いレンズを使っているので前景と後景はボケて、ものの形がはっきりしない。見る者はいやおうなく、ピントの合っているごく狭い空間に注意を向けることになる。

ほとんどが家の中(原作は舞台劇)。外界は、音として入ってくる。ルイと兄が言い争いをしているとき、雷鳴がとどろく。家の外の社会は、兄を通して描かれる。この家庭には父がいない。なぜかは説明されないが、兄が父の代理として外で肉体労働者として働き家計をささえているらしい。彼の社会常識に沿った価値観と、作家でありゲイであるらしいルイの価値観とは相いれない。ルイが家を出たのも、それと関係あるのかもしれない。

兄の立場もルイの立場もわかりながら、間に立つ母。初対面のルイと、互いに惹かれあうように見える嫂。普段はしない化粧をして、帰って来た兄の存在にはしゃぐ妹。怒りを爆発させてしまう兄。ほとんどしゃべらず、しゃべりかけても口をつぐんでしまうことの多いルイ。フランスを代表する5人の役者が息詰まるような演技を見せる。

ルイは家族と半日を過ごすだけで、兄といさかいを抱えたまま帰ってゆく。過去のいきさつも語られず、ただぶっきらぼうに、でも拡大鏡で覗いているような細密さで濃密な半日を描き出す。背後で英語やフランス語のいろんなポップスが鳴っている。「Home is where it hurts」という曲の題名は、映画のテーマそのもの。

カナダ(フランス語圏)のグザヴィエ・ドラン監督の映画。カンヌ映画祭グランプリ。好き嫌いでいえば、あまり好みの映画ではないが。

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February 07, 2017

『変魚路』の不思議

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Hengyoro(viewing film)

『ウンタマギルー』(1989)を見たときの驚きは忘れられない。登場人物が話すのはすべて沖縄言葉で、日本語の字幕が入る。物語は現実と幻想が入り混じった琉球の神話というか、伝承の世界だった。主役の小林薫と戸川純を支えるのは沖縄芝居の役者。嘉手苅林昌の琉歌。南島の濃厚な色彩感覚。東南アジアに共通する気怠い空気が快い。底に流れるのは本土への違和の感情。監督の高嶺剛は石垣島の出身。これは日本映画ではない。琉球映画が生まれたと思った。

高嶺監督の18年ぶりの新作『変魚路(へんぎょろ)』は、その琉球映画度がさらにヒートアップしている。いつの時代、どこなのかも定かでなく、物語も、それらしきものがゆるくあるだけで、次第に現実と夢、現在と過去、すべてが入り混じってしまう。セリフはもちろん沖縄言葉で日本語字幕。

「島ぷしゅー」と呼ばれる大きな出来事(何か分からないが、たくさんの死者が出たらしい)があった後、死にぞこないばかりが生きているパタイ村でタルガニ(平良進)とパパジョー(北村三郎)が「水中爆発映画機械所」を営んでいる。ふたりは海辺で伝統的な沖縄芝居の一場面を演じ、それを撮影もしているらしい。挿入される、ふたりの子供の頃の写真や、戦争?の業火に焼かれる老人。「島ぷしゅー」の記憶を留めるらしい、ポップで色鮮やかな男の石膏像。さまざまな断片が、脈絡なく重なってゆく。

村の雑貨屋からタルガニが秘密の媚薬を知らずに盗んだことから、二人は村を出ることになる。ずぶ濡れの(死者の国の?)女三人が二人を追う(出迎える?)。大城美佐子が三線を弾く。坂田明のアルトサックスが吼える。裸の男が舞う(演ずるは木村伊兵衛賞の写真家、石川竜一)。デジタル合成で、摩訶不思議な風景が現出する。村のなかを山羊と牛がゆったり歩いてゆく。白蛇がうねる。全体を貫くのは『ウンタマギルー』と同じ、ゆるりとした空気と神話的な気配。

先日、50年ぶりにジャン=リュック・ゴダールの『中国女』を見た。一貫したストーリーに沿って映像が展開してゆくという映画の常識を、商業映画の枠内でぎりぎりまで解体してみせた、ヌーヴェル・ヴァーグの極北といった作品だった。その後、さまざまなスタイルの実験があったけど、『変魚路』もそうした延長上にある。そして実験というだけでなく、沖縄のゆるい、しかしいろんな歴史を秘めた空気をしこたま詰めこんでいるのが素晴らしい。不思議な、でも面白い映画だった。

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February 03, 2017

『沈黙-サイレンス』 外からの視線

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Silence(viewing film)

切支丹時代の歴史を読んでいると、今の僕たちが考える日本と日本人の常識に照らして、この国でこういう出来事があったとは信じられないことにぶつかる。

たとえば、キリスト教が急速に広がったこと。九州の有馬氏、大友氏など大名がカソリックに改宗したのは、スペイン、ポルトガルとの貿易の利を求めてという面もあるけれど、農民たちにまで広がったのは純粋に宗教として彼らを惹きつける力があったからだろう。例えば島原・天草で布教したイエズス会のトレス神父が20年間で授洗した信者は3万、建てた教会は50だった。

秀吉時代の最盛期には切支丹信者は20万人、教会は200を数えたという。もし切支丹禁令が発されなかったら、この勢いは全国に広がったかもしれない。もしカソリックがこの時代に日本に根づいたら、以後のこの国の歴史はどう変わっただろう?

あるいはまた、禁令が発された後、捕えられた神父や信者を拷問し、処刑するやりかたの想像を絶する惨さ。イスラム国も真っ青、いやそれ以上の方法が考案された。

簑を着せ柱に縛って火をつける「簑踊り」。弱い火であぶって苦痛を長引かせることもあった。映画にあったように、雲仙の熱湯をかける。籠に入れて流れの速い川につける。絶命まで1週間くらいかかった(妊娠した若い嫁がこの刑に処せられたことが島原・天草の乱の発端になった)。これも映画にも出てくる穴吊り。穴を掘って逆さに吊るし、頭に血が逆流してすぐに死なないようこめかみに穴をあける。この世のこととも思えない。この時代の日本人がとりわけ残酷だったわけではない。人間という生きもの、一定の条件におかれれば誰もがここまで残虐になれるのだと考えるしかない。

にしても、遠い過去の話とはいえ、この国の出来事とは思えない。『沈黙-サイレンス(原題:Silence)』からは、そんな距離感─自分と地続きとは感じられない、ある種、異国の出来事のような感覚─が感じられた。その距離感が、映画を面白くしたと思う。

その理由は、ひとつは言うまでもなく米国人のマーティン・スコセッシが監督していること。もうひとつは、日本ではなく台湾でロケされていること。長崎に似た地形を台湾で探したそうで、画面に違和感はないし、村のセットもよくできているけれど、ただ木々の緑の濃さはやはり南の国と感じられる(撮影はロドリゴ・プリエト)。日本人観客にとっては、かすかながらも異国感がある。

この映画は遠藤周作の原作を、スコセッシ監督が20年以上シナリオを何度も書きなおして温めた末に映画化したものだ(脚本はジェイ・コックスとスコセッシ)。スコセッシという、一方で外国人の視線と、他方でイタリア系米国人のカソリックである信者としての共感の視線が、この映画を善悪で切り分けられない深いものにしていると思う。

面白いなと思ったのは、奉行の井上筑後守(イッセー尾形)と通辞(浅野忠信)の人間像。井上は映画に出てくるいちばんの権力者だが、切支丹を必ずしも敵視せず、常識的で穏やかな男として描かれている。囚われたロゴリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)を丁重にもてなしながら、一方では信者に惨い拷問を繰り返してロドリゴに転び(棄教)を迫る。しかも踏み絵を踏むのも形だけでいいと、物わかりのいいところも見せる。ハリウッド的な分かりやすさからすれば、井上は権力を笠にきた居丈高な男と描かれるのが常道だけど、人柄のよさを感じさせながら、しかし幕府の命には忠実という複雑な男に描かれている。イッセー尾形が好演。

原作はずいぶん昔に読んだきりなので確信はもてないけど、奉行の人間像は原作もそれに近かったんじゃないか。でも通辞の造形は、仕事と割りきった官僚的な男と描かれていた記憶がある。映画では、通辞もまた複雑な描かれ方をしている。ロドリゴ神父に無邪気な笑顔を見せ、あれこれ世話を焼いて、とても親切そうだ。でもロドリゴに親切な顔を見せた一瞬後には、「パードレ(神父)は今日、転ぶ」とつぶやく。優しさの陰に隠れた冷酷さを見せる。爽やかな笑顔と秘められた冷酷さ、どちらが本心かしかと分からない微妙な役どころを、浅野忠信がうまく演じてる。

当初、通辞役は渡辺謙が予定されていたという。もし渡辺謙だったら、浅野忠信のような不気味さはないかわり、良くも悪くもストレートな人間像になっていたろう。

ほかの日本人の役者たちも皆いい。ロドリゴ神父と深い信頼関係を結ぶモキチの塚本晋也。信者のリーダーであるイチゾウの笈田ヨシ。とりわけ、何度も転び裏切り、「弱い者の居場所はどこにあるのか」とつぶやくキチジローの窪塚洋介が印象深い。

穴吊りされた5人の信者の命を救うことと引きかえに踏み絵を踏み、棄教したパードレ。宗教的な価値観でいえば許されない行為だろうが、近代的なヒューマニズムの価値観からすればその行為は理解できる。とはいえ神に背くのは宗教家として最大の罪。人間としての弱さは許されない。しかし神はなぜ沈黙しているのか。そんな問答劇をスコセッシは背景の音楽をいっさい使わず、虫や蝉の声、風音、森のざわめき、遠い雷鳴など自然音を強調し緊張感に満ちて描く。

製作費4000万ドルに対して興収1300万ドル(wikipedea)。テーマや素材からしてある程度予測された結果かもしれないが、スコセッシの執念を感じた。

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February 02, 2017

銀座で二つの展覧会

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2 exhibitions in Ginza

銀座で展覧会を二つ、はしご。

寺崎百合子「図書館」(~2月24日、ギャラリー小柳)。ヨーロッパの古い図書館の蔵書と地球儀と、数百年の時間が降り積もった空間。この人の絵はいつも鉛筆画。モノクロームの写真のようでいて、指先で細密な描写を重ねることが生む肌触りは(大きなものは一年がかりだそうだ)、一瞬を切り取る写真とは別の厚みを持っている。すぐれた写真もそうだけど、ある種の精神性を感じさせる。

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青木美歌「あなたに続く森」(~2月26日、ポーラ美術館ANNEX)。この人の作品は初めてだけど、ガラスを素材に菌類やウイルス、細胞など目に見えない生命を形にしてきたとのこと。ガラスの森に迷い込んだような錯覚を覚える。

どちらも入場無料です。


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