『沈黙-サイレンス』 外からの視線
切支丹時代の歴史を読んでいると、今の僕たちが考える日本と日本人の常識に照らして、この国でこういう出来事があったとは信じられないことにぶつかる。
たとえば、キリスト教が急速に広がったこと。九州の有馬氏、大友氏など大名がカソリックに改宗したのは、スペイン、ポルトガルとの貿易の利を求めてという面もあるけれど、農民たちにまで広がったのは純粋に宗教として彼らを惹きつける力があったからだろう。例えば島原・天草で布教したイエズス会のトレス神父が20年間で授洗した信者は3万、建てた教会は50だった。
秀吉時代の最盛期には切支丹信者は20万人、教会は200を数えたという。もし切支丹禁令が発されなかったら、この勢いは全国に広がったかもしれない。もしカソリックがこの時代に日本に根づいたら、以後のこの国の歴史はどう変わっただろう?
あるいはまた、禁令が発された後、捕えられた神父や信者を拷問し、処刑するやりかたの想像を絶する惨さ。イスラム国も真っ青、いやそれ以上の方法が考案された。
簑を着せ柱に縛って火をつける「簑踊り」。弱い火であぶって苦痛を長引かせることもあった。映画にあったように、雲仙の熱湯をかける。籠に入れて流れの速い川につける。絶命まで1週間くらいかかった(妊娠した若い嫁がこの刑に処せられたことが島原・天草の乱の発端になった)。これも映画にも出てくる穴吊り。穴を掘って逆さに吊るし、頭に血が逆流してすぐに死なないようこめかみに穴をあける。この世のこととも思えない。この時代の日本人がとりわけ残酷だったわけではない。人間という生きもの、一定の条件におかれれば誰もがここまで残虐になれるのだと考えるしかない。
にしても、遠い過去の話とはいえ、この国の出来事とは思えない。『沈黙-サイレンス(原題:Silence)』からは、そんな距離感─自分と地続きとは感じられない、ある種、異国の出来事のような感覚─が感じられた。その距離感が、映画を面白くしたと思う。
その理由は、ひとつは言うまでもなく米国人のマーティン・スコセッシが監督していること。もうひとつは、日本ではなく台湾でロケされていること。長崎に似た地形を台湾で探したそうで、画面に違和感はないし、村のセットもよくできているけれど、ただ木々の緑の濃さはやはり南の国と感じられる(撮影はロドリゴ・プリエト)。日本人観客にとっては、かすかながらも異国感がある。
この映画は遠藤周作の原作を、スコセッシ監督が20年以上シナリオを何度も書きなおして温めた末に映画化したものだ(脚本はジェイ・コックスとスコセッシ)。スコセッシという、一方で外国人の視線と、他方でイタリア系米国人のカソリックである信者としての共感の視線が、この映画を善悪で切り分けられない深いものにしていると思う。
面白いなと思ったのは、奉行の井上筑後守(イッセー尾形)と通辞(浅野忠信)の人間像。井上は映画に出てくるいちばんの権力者だが、切支丹を必ずしも敵視せず、常識的で穏やかな男として描かれている。囚われたロゴリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)を丁重にもてなしながら、一方では信者に惨い拷問を繰り返してロドリゴに転び(棄教)を迫る。しかも踏み絵を踏むのも形だけでいいと、物わかりのいいところも見せる。ハリウッド的な分かりやすさからすれば、井上は権力を笠にきた居丈高な男と描かれるのが常道だけど、人柄のよさを感じさせながら、しかし幕府の命には忠実という複雑な男に描かれている。イッセー尾形が好演。
原作はずいぶん昔に読んだきりなので確信はもてないけど、奉行の人間像は原作もそれに近かったんじゃないか。でも通辞の造形は、仕事と割りきった官僚的な男と描かれていた記憶がある。映画では、通辞もまた複雑な描かれ方をしている。ロドリゴ神父に無邪気な笑顔を見せ、あれこれ世話を焼いて、とても親切そうだ。でもロドリゴに親切な顔を見せた一瞬後には、「パードレ(神父)は今日、転ぶ」とつぶやく。優しさの陰に隠れた冷酷さを見せる。爽やかな笑顔と秘められた冷酷さ、どちらが本心かしかと分からない微妙な役どころを、浅野忠信がうまく演じてる。
当初、通辞役は渡辺謙が予定されていたという。もし渡辺謙だったら、浅野忠信のような不気味さはないかわり、良くも悪くもストレートな人間像になっていたろう。
ほかの日本人の役者たちも皆いい。ロドリゴ神父と深い信頼関係を結ぶモキチの塚本晋也。信者のリーダーであるイチゾウの笈田ヨシ。とりわけ、何度も転び裏切り、「弱い者の居場所はどこにあるのか」とつぶやくキチジローの窪塚洋介が印象深い。
穴吊りされた5人の信者の命を救うことと引きかえに踏み絵を踏み、棄教したパードレ。宗教的な価値観でいえば許されない行為だろうが、近代的なヒューマニズムの価値観からすればその行為は理解できる。とはいえ神に背くのは宗教家として最大の罪。人間としての弱さは許されない。しかし神はなぜ沈黙しているのか。そんな問答劇をスコセッシは背景の音楽をいっさい使わず、虫や蝉の声、風音、森のざわめき、遠い雷鳴など自然音を強調し緊張感に満ちて描く。
製作費4000万ドルに対して興収1300万ドル(wikipedea)。テーマや素材からしてある程度予測された結果かもしれないが、スコセッシの執念を感じた。
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