『彷徨える河』 アマゾンをさかのぼる旅
El Abrazo de la Serpiente(viewing film)
水面がゆらゆら揺れ、水に映る影も揺れている。カメラが上へパンすると、褐色の肉体を持ち、動物の歯の首輪をかけた先住民が水に映る影を見ている。上空からの俯瞰。熱帯雨林のなかをアマゾン河がアナコンダのように右に左に蛇行している。クローズアップ。熱帯の蛇がくねっている。鎌首をもたげ、獲物の小さな爬虫類を捕らえる。──なんとも印象的な3つのモノクローム映像が重なったところに、この映画の核がある。
『彷徨える河(原題:El Abrazo de la Serpiente)』のスペイン語原題は「蛇の抱擁」とでもいった意味だろうか。「蛇」はアマゾンに棲む熱帯の蛇そのものであるとともに、アマゾン河のことでもあろう。アンデス山脈の水を集めたアマゾンの最上流、コロンビアの熱帯雨林でひとりの先住民と二人の白人が蛇である河をさかのぼる。
先住民はカラマカテ(ニルビオ・トーレス=若者、アントニオ・ボリバル・サルバドール=老人)という名のシャーマン。彼の部族はどうやら白人の手で滅ぼされ、ひとりで流浪しているらしい。そのカラマカテのところへ、時代を経て二人の白人がやってくる。一人目はテオ(ヤン・ベイヴート)という病にかかった老司祭。彼は、文明化した先住民の助手に導かれてカラマカテに助けを求めに来た。カラマカテはヤクルナという植物を手に入れれば助かるといい、三人でアマゾンをさかのぼる。
数十年後。幻覚植物であるらしいヤクルナを求めて人類学者のエヴァン(ブリオン・デイビス)がカラマカテのところへやってくる。年老いたカラマカテはシャーマンとしての記憶を失い、「からっぽ」の人間になっている。二度目の旅は、カラマカテにとって案内者であるとともに自らを回復する旅にもなっている。二度の旅で、カラマカテとテオ、エヴァンはさまざまな部族や、自らを救世主として先住民に君臨する白人に出会う。
こう書いてきて思いだすのはコンラッドの小説『闇の奥(Heart of Darkness)』だ。この小説はアフリカのコンゴを舞台に、コンゴ河をさかのぼる主人公が、先住民に君臨して象牙を集める悪魔的な白人に出会う話だった。コッポラの『地獄の黙示録』はこの小説を原案にしていた。
『彷徨える河』も同じ構造をもっている。でもコンラッドの小説や『地獄の黙示録』、アマゾンに侵入する白人騎士を描いたヘルツォークの『アギーレ・神の怒り』なんかがあくまで欧米人の視点から描かれていたのに対して、この映画が新しいのは先住民の視点から描かれていることだろう。
アマゾン流域にはゴム農園が広がり、先住民は農園労働者として搾取されている。先住民のひとりは「全部ゴムのせいだ」と叫んでゴム原液をぶちまける。先住民は、土俗宗教と混淆した奇妙なキリスト教を信仰している。ゴム農園とキリスト教、欧米の植民地主義がコロンビア(南アメリカ大陸)にもたらしたふたつの要素が部族社会を壊したことが示される。主人公が白人、自分を失った先住民、文明化した先住民というあたりも含めて、南アメリカ大陸の現在を典型として示そうという意図が感じられる。
シャーマンの能力を失った老カラマカテが現在を象徴しているとすれば、アマゾンをさかのぼる旅は空間だけでなく時間をさかのぼることによって、過去にあった自分を取り戻す旅になる。ヤクルナを見つけたカラマカテは、ここだけカラーになる幻覚とともに宇宙と一体化し、その存在は消えて目に見えなくなる。
モノクロームの映像が見事だ。言葉にも配慮が行き届いている。スペイン語、英語、ドイツ語、さらに複数の先住民の言語が使われているようだ。はじめて見たコロンビア映画、実に面白かった。
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