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November 30, 2016

『彷徨える河』 アマゾンをさかのぼる旅

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El Abrazo de la Serpiente(viewing film)

水面がゆらゆら揺れ、水に映る影も揺れている。カメラが上へパンすると、褐色の肉体を持ち、動物の歯の首輪をかけた先住民が水に映る影を見ている。上空からの俯瞰。熱帯雨林のなかをアマゾン河がアナコンダのように右に左に蛇行している。クローズアップ。熱帯の蛇がくねっている。鎌首をもたげ、獲物の小さな爬虫類を捕らえる。──なんとも印象的な3つのモノクローム映像が重なったところに、この映画の核がある。

『彷徨える河(原題:El Abrazo de la Serpiente)』のスペイン語原題は「蛇の抱擁」とでもいった意味だろうか。「蛇」はアマゾンに棲む熱帯の蛇そのものであるとともに、アマゾン河のことでもあろう。アンデス山脈の水を集めたアマゾンの最上流、コロンビアの熱帯雨林でひとりの先住民と二人の白人が蛇である河をさかのぼる。

先住民はカラマカテ(ニルビオ・トーレス=若者、アントニオ・ボリバル・サルバドール=老人)という名のシャーマン。彼の部族はどうやら白人の手で滅ぼされ、ひとりで流浪しているらしい。そのカラマカテのところへ、時代を経て二人の白人がやってくる。一人目はテオ(ヤン・ベイヴート)という病にかかった老司祭。彼は、文明化した先住民の助手に導かれてカラマカテに助けを求めに来た。カラマカテはヤクルナという植物を手に入れれば助かるといい、三人でアマゾンをさかのぼる。

数十年後。幻覚植物であるらしいヤクルナを求めて人類学者のエヴァン(ブリオン・デイビス)がカラマカテのところへやってくる。年老いたカラマカテはシャーマンとしての記憶を失い、「からっぽ」の人間になっている。二度目の旅は、カラマカテにとって案内者であるとともに自らを回復する旅にもなっている。二度の旅で、カラマカテとテオ、エヴァンはさまざまな部族や、自らを救世主として先住民に君臨する白人に出会う。

こう書いてきて思いだすのはコンラッドの小説『闇の奥(Heart of Darkness)』だ。この小説はアフリカのコンゴを舞台に、コンゴ河をさかのぼる主人公が、先住民に君臨して象牙を集める悪魔的な白人に出会う話だった。コッポラの『地獄の黙示録』はこの小説を原案にしていた。

『彷徨える河』も同じ構造をもっている。でもコンラッドの小説や『地獄の黙示録』、アマゾンに侵入する白人騎士を描いたヘルツォークの『アギーレ・神の怒り』なんかがあくまで欧米人の視点から描かれていたのに対して、この映画が新しいのは先住民の視点から描かれていることだろう。

アマゾン流域にはゴム農園が広がり、先住民は農園労働者として搾取されている。先住民のひとりは「全部ゴムのせいだ」と叫んでゴム原液をぶちまける。先住民は、土俗宗教と混淆した奇妙なキリスト教を信仰している。ゴム農園とキリスト教、欧米の植民地主義がコロンビア(南アメリカ大陸)にもたらしたふたつの要素が部族社会を壊したことが示される。主人公が白人、自分を失った先住民、文明化した先住民というあたりも含めて、南アメリカ大陸の現在を典型として示そうという意図が感じられる。

シャーマンの能力を失った老カラマカテが現在を象徴しているとすれば、アマゾンをさかのぼる旅は空間だけでなく時間をさかのぼることによって、過去にあった自分を取り戻す旅になる。ヤクルナを見つけたカラマカテは、ここだけカラーになる幻覚とともに宇宙と一体化し、その存在は消えて目に見えなくなる。

モノクロームの映像が見事だ。言葉にも配慮が行き届いている。スペイン語、英語、ドイツ語、さらに複数の先住民の言語が使われているようだ。はじめて見たコロンビア映画、実に面白かった。


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November 24, 2016

雪の北浦和駅

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11月の雪は54年ぶりだそうだ。小生、高校生だったはずだけど記憶にない。午前10時半、重い牡丹雪が舞っているが、道路には積もっていない。電車も動いているようだ。


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November 23, 2016

ロバート・フランク展へ

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Robert Frank'Books and Films,1947-2016'

ロバート・フランク「Books and Films,1947-2016 in Tokyo」展(~11月24日、東京芸術大学美術館)へ。

ドイツの出版社シュタイデルが出版したフランクの写真集と映画。写真はプリントでなく、新聞用紙に印刷されている。フランクのオリジナル・プリントは高価で法外な保険料がかかるため、ふつうの展覧会はほとんど開かれない。そこで大学など教育機関を会場に、世界中でこんなかたちで開かれているそうだ。印刷した写真を会期終了後に廃棄することで、美術品として流通する写真へのある種のメッセージにもなっている。

なるほど、こういう見せ方もあるんだなあ。いろいろ触れるのも楽しい。こんなスタイルでなければフランクの全貌を知ることはできなかったろう。


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November 21, 2016

京都 八瀬から若冲展へ

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from Yase to Jakuchu Exhibition in Kyoto

大阪でボランティアの用事があり、翌日は京都へ。

この季節の京都は何度も来てるけどたいてい仕事で、紅葉見物をしたことがない。そこで初めての八瀬へ行ってみることにした。叡山電車に乗ろうと出町柳駅へ行って驚いた。改札の外にずらっと人が並んでいる。外国人も多い。そうか。秋の京都はこんなに混んでいるのか。

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八瀬比叡山口駅を降りて、もう一度びっくり。瑠璃光寺へ参拝するために、もっとたくさんの人が高野川沿いに並んでいる。行列は苦手。2時間待ちと聞いて、すぐ諦めた。近くの散策路を歩く。

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比叡山七合目まで行くケーブルカーに乗る。運転しているのは若い女性で、「このへんの紅葉が見ごろです」とマイクで案内しながら。終点の七合目で降りると紅葉は終わっていた。

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午後は京都市美術館の「若冲の京都 KYOTOの若冲」展へ。

若冲の作品は、大作や代表作が残された京都の寺ばかりでなく、町なかのいろんな家に多くの掛け軸が残されている。そうしたものを中心に、120点余を展示している。

男の子の出世を願う鯉の図や福の神である布袋の図など、似たような図柄もたくさんある。若冲は錦小路の青物問屋の旦那で、人から「男の子が生まれたので鯉の絵をよろしく」なんて頼まれると気軽に描いていたんだろう。大作のような凄みはないけど、さらっと描いて親しみやすく、でも筆遣いも構図も大胆な若冲を楽しめる。こういう展覧会が成り立つのも京都の懐の深さだろう。

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夕方は宮川筋の知人を訪問。元お茶屋の建物だけあって、玄関前はいつも粋にされている。数年前に来たとき、若い舞妓に三味線の稽古をつけている場面に出会った。彼女が成人して芸妓になり、旦那をもったなんて、まったく縁のない花街の話を聞く。


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鶴見俊輔『敗北力』を読む

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ブック・ナビに鶴見俊輔『敗北力-Later Works』(編集集団SURE)の感想をアップしました。

http://www.book-navi.com/


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November 18, 2016

工藤律子さんを祝う

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『マラス 暴力に支配される少年たち』で開高健ノンフィクション賞を受けた工藤律子さんを祝う会へ。選考委員の姜 尚中氏からお祝いの言葉をかけられる工藤さん。

彼女とは30年前に出会った。週刊誌の編集者をしていたとき、当時、学生だった工藤さんがメキシコのストリート・チルドレンを取材した原稿を持ち込んできた。新鮮だったので、3週にわたって掲載させてもらった。そのころからのつきあい。一貫した姿勢が素晴らしい。


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November 16, 2016

わが家の紅葉

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colored leaves in my garden

この数日、わが家でも紅葉が進んだ。今年は鮮やかさがいまひとつのような気がするけど、これからどうなるか。窓ガラスはこの家が建てられた昭和3年当時のもので、角度によって外の景色がゆがんで見える。

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アロニア・アルブティフォリア。枝を切って一輪挿しに。


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November 05, 2016

八ヶ岳山麓の旅

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a trip to Mt. Yatsugatake

友人に招かれて八ヶ岳山麓のお宅へ。茅野駅で出迎えてもらい、車で家へ向かうと八ヶ岳が見えてくる。山は数日前に初雪が降ったそうで、うっすらと白く染まっている。

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八ヶ岳の阿弥陀岳山麓に広がるカラマツ林のなかにお宅がある。エコハウスで、屋根には太陽光パネル。ここ諏訪郡原村は隣の茅野市などと合併せず、「日本で最も美しい村連合」に参加して自然環境を生かした村づくりをしている。

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太陽光発電でお湯を沸かし、室内暖房、風呂、キッチンのお湯をまかなう。室内のあちこちに設置された赤いパネルのなかをお湯が流れている。夜になれば外気温は0度近くまで下がるが、家全体が20度近くに暖房されほんわかと暖かい。太陽光発電で家の電気をまかない、余ったときは電気を売るそうだ。

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ここは標高1800メートルほどで、紅葉の真っ盛り。近くに温泉施設があり(竹下政権が地方創生で1億円配ったとき村で温泉を掘ったとのこと)、温泉で温まる。

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近くの池に夕暮れの山を見にいく。正面に阿弥陀岳と赤岳が重なり、赤く染まっている。村人は年に一度、近くの山に登る感覚で3000メートル級の阿弥陀岳に登り、酒盛りをするそうだ。

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翌日も快晴。北八ヶ岳の白駒池へ。八ヶ岳の北にある蓼科山も白い。

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白駒池の周囲はツガ、トウヒなどの原生林で、地面は「苔の森」になっている。

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白駒池は標高2100メートル。日本でいちばん標高の高い天然湖。岸辺は凍っていた。

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午後は諏訪市の諏訪大社上社へ。御柱祭で運ばれた4本の御柱が立つ。友人は上社の氏子で、大祭に参加した。うらやましい。

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上社前の新しいカフェでお茶する。正面に八ヶ岳を望む見事な展望。短い旅の終り。30代のころ、若くして死んだ友人Yをリーダーに小学生だった息子と南八ヶ岳を縦走したのを思い出し、ひととき感傷的になる。


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November 01, 2016

『永い言い訳』の幸福感

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西川美和監督の映画は『ゆれる』が見事にそうだったように、いつも相対する人と人の微妙な感情の揺れを丁寧に掬いあげる。

バス事故で互いに妻を失った幸夫(さちお、本木雅弘)と陽一(竹原ピストル)が、陽一の息子・娘とともに初めて食事をした夜、娘の灯(あかり)がアレルギーを起こして陽一は病院に駆け込み、幸夫は陽一の息子・真平を陽一のアパートに連れ帰る。陽一が帰ってきたとき、幸夫は真平が成績がよく中学受験を考えていることを真平から聞いた、と陽一にしゃべる。そのときの陽一の反応。

長距離トラックの運転手で、いかつい風貌の陽一が、「今日はじめて会ったのに」と言って一呼吸おく。そんなプライバシーまで踏み込んで、と陽一が怒るのかと観客は不安になる。ところが陽一は、「あいつはサチオ君にそんなことまでしゃべったんですか」と顔をくしゃくしゃにして笑う。幸夫と陽一が友人関係になる瞬間だ。

あるいは、その後の展開にいろんな種をまく、陽一と妻・夏子(深津絵里)の映画冒頭の会話。ことあるごとに妻を思いだして泣く父の陽一に距離をおく真平の、父に対する感情。真平は幸夫に対してもはじめ口が重いが、やがて信頼して父への批判めいた言葉も口にしはじめる。灯もはじめは幸夫に口もきかないが、やがてべたっとしてくる。そんな、それぞれのちょっとした心の動きの描写が積み重ねられて、幸夫と陽一の子供たちとの交流が深まってゆく。いささか強引な設定だけど、その幸福感がこの映画のすべてと言っていいくらいだ。

幸夫が灯を自転車に乗せて息をきらせて坂道を上がるシーン。寝過ごし降りそこねた真一の乗るバスを追って、幸夫と灯が自転車で追いかけるシーン。幸夫と真一が机をはさんで会話するシーン。どれも心に残る。

もっとも、売れっ子作家の幸夫は善意でそうしているわけではない。妻がバス事故にあったそのとき、編集者の智尋(黒木華)と不倫していた。その罪悪感から妻の死に向き合えない。仕事で家にいられない陽一の代わりに子供たちの世話をするのは、妻の死に向き合えないことから目をそらす自分への「言い訳」であり、小説のネタにしようという下心でもある。酒を飲めばエゴイストの本音が出るし、陽一一家との交流を追うTVドキュメンタリーに出演しても、カメラに向かってキレてしまう。夏子が幸夫宛てに書いたメールの下書きに残した「もう愛してない。ひとかけらも」の言葉は、どう受け取ったらいいのか。

そのあたりの幸夫の内心の亀裂が深まっていくのかと思っていたら、一家との交流を描いた小説が賞をもらい、そこで幸夫は夏子の死を受け入れる、予定調和のエンディングになってしまったのはいささか肩透かし。印象的なシーンはたくさんあるけど、『夢売るふたり』なんかに比べてドラマの骨格が弱いように思えた。


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