« September 2016 | Main | November 2016 »

October 30, 2016

春風亭一之輔を聞く

1610291w_2

ヨガ仲間に誘われて春風亭一之輔の「落語一之輔三夜」第3夜へ(10月29日、よみうり大手町ホール)。

21人抜きで真打に昇進した38歳。崩した着こなしや体の揺れ、しゃべり方にちょっと不良っぽい感じがあって、それが若さになってる。枕はハロウィンねた、「新聞記事」「お見立て」で笑わせ、人情噺の「神田格之進」で締める。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 28, 2016

アカリ・ベーカリー

1610281w
my friend's bakery

ヨガ仲間が結婚して、去年12月に旦那さんと開業したベーカリーを訪れる。国立市のアカリ・ベーカリー。国立駅南口から線路沿いに西へ数分歩いたところにある。小さいけれど明るい光がたっぷり入る店。勤め帰りの女性が次々にやってくる。

店内には数十種類のパンと、ラスクなどの菓子が並べられている。ガラス窓を通してパンを焼いているところを見ることもできる。

旦那さんはホテルやレストランでパンを焼いてきたそうだ。クリームパンや本格的なバゲットもあるが、いちばん自信があり人気なのはアカリブレッド(食パン)。店名をデザインしたシールには「日々のパン」とあった。毎日食べるパンにこそ力を入れているということだろう。トーストにしてバターをつけると、しっとりした食感。パン本来の味がする。

コーヒー味のラスクも美味でした。わが家から遠いのが残念だなあ。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 25, 2016

「大久保喜一・須田剋太 師弟展」へ

1610251w

司馬遼太郎『街道をゆく』の挿画を描いた画家・須田剋太と、須田さんが画家になるきっかけをつくった大久保喜一の「師弟展」が故郷の鴻巣で開かれている(~10月29日、埼玉・鴻巣市吹上生涯学習センター)。

大久保喜一は須田さんが通った熊谷中学の美術の先生。東京美術学校(東京芸術大学)で黒田清輝らの指導を受けた。帝展に入選した「机上フラスコ」など10点が展示されている。外光が入る室内での静物や人物が多い。理科の実験室らしい教室で、机におかれたフラスコが窓からの光を受けて輝いている。大久保は学校外でも坂東洋画会を結成し、須田さんも参加した。

須田剋太の作品は46点。1970~80年代の油絵、グワッシュが多い。僕はこの時代の須田さんを知っているので、当時の絵はけっこう見ている。それ以外に戦前の若いころの作品が3点あって、これは初めて見た。

中学時代に描いた「道」。その後の須田さんを知っているせいか、すでに写実をはみだすものがあるような気がする。画家になる決心をし、吹上から浦和に移った時代の「ざくろ」。ごろんと放り出された果実に、写実にこだわらず須田さんの目にはこう見えているんだと納得させるものがある。浦和から奈良に移った時代の「鷲」(1940頃)になると強い生命力を感じさせる、まぎれもなく須田剋太の絵。

鴻巣には「須田剋太研究会」があり、須田さんの作品数百点が保存され、毎年のように展覧会が開かれている。須田さんも喜んでいるだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 22, 2016

『陽光礼讃』展へ

1610221w
Tanikawa Koichi & Miyasako Chizuru exhibition

谷川晃一・宮迫千鶴「陽光礼讃」展へ(~2017年1月15日、神奈川県立近代美術館葉山)。

谷川さんの新作「雑木林」シリーズ(写真上)を見て驚いた。まるで亡くなった宮迫さんに感応したみたいな光に満ちた絵ではないか。

1988年に伊豆半島に移って以来、ふたりの絵はがらりと変わった。伊豆半島の植物や花や小動物が画面に表れてきた。宮迫さんの絵は明るい陽光のなかで花やサボテンが踊っていたけれど、谷川さんの絵は土色の、雑木林の闇のなかで小動物の気配を感じさせるものが多かったように思う。

順に見ていくと、谷川さんの絵に明るい原色が多くなるのは宮迫さんが亡くなって4、5年後からみたいだ。もともと宮迫さんの絵のなかには、谷川さんのエッセンンスがたくさん流れ込んでいたけれど、今度は逆に宮迫さんのエッセンスが徐々に谷川さんの絵のなかに浸透してきているように感ずる。だから谷川さんの新作を見ると、宮迫さんも感ずる。いい夫婦だったんだなあ、と思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 19, 2016

加藤陽子『戦争まで』を読む

Sensou_katoh

加藤陽子『戦争まで』(朝日出版社)の感想をブック・ナビにアップしました。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 17, 2016

『淵に立つ』 赤と白のドラマ

Photo
Harmonium(film)

赤い色彩をこんなふうに観念的とでもいえそうな手つきで扱った映画を久しぶりに見た。

日本映画なら、すぐに鈴木清順が思い浮かぶ。赤いスーツや郵便ポストなど赤い小道具に満ちた『東京流れ者』、真っ白な室内の障子が外れると外が真っ赤な『関東無宿』、娼婦に赤や紫などの衣装をわりふった『肉体の門』。もっとも清順の場合、様式的な遊びの気配が濃厚だったが。そういえば巨匠、小津安二郎も赤いヤカンとかの小道具にこだわったのではなかったか。

『淵に立つ』の赤は欲望の赤である。白はその対極の清潔さを表わすが、その清潔さには偽善が仕込まれている。

金属プレス業を営む利雄(古舘寛治)と章江(筒井真理子)の家に、利雄の知り合いらしい八坂(浅野忠信)がふらりと現れて居つく。八坂はいつも白いワイシャツを着て、第一ボタンをしめている。寝るときも白いワイシャツ。最初に赤が現れるのは、娘の蛍(篠川桃音)の発表会用に章江が仕立てている衣装。敬虔なクリスチャンである章江が赤い衣装をもって、八坂の部屋に来て裁縫をする。後になってわかるのだが、赤の衣装を手に八坂の部屋に入ったのは章江が無意識に彼を誘っていることを示しているし、赤の衣装を着る蛍が欲望の対象になることをも示している。

章江が潔癖症であるのは、心のなかの赤い欲望を自ら否定してしきれないことを表わしているだろう。一家が河原へピクニックに出かけ、二人きりになった八坂が章江の身体に手をはじめて触れるとき、かたわらに赤い花が咲いている。別の日、歩きながら八坂が白いつなぎの作業服の上を脱ぐと、その下から真っ赤なTシャツが現れる。家へ戻った八坂は欲望をむきだしにして、キッチンにひとりでいる章江に迫る。そして事件が起きる。

8年後、住込みの工員・幸司(太賀)──実は八坂の息子──が娘の蛍の身体に触ろうとするとき、かたわらには赤いデイパックがある。

映画の最後に近く、章江は八坂の幻を二度見る。一度目は、干された白いシーツの背後から現れる白いワイシャツ姿の八坂。二度目は、真っ赤なシャツを着た八坂。白の八坂と赤の八坂に翻弄され、章江は淵に立つ。

八坂と利雄がもつ過去の秘密が物語の核になっている。妻の章江も娘の蛍も、その秘密を知らない。それが家族を破滅させる。冒頭からラストまで、誰も泣き叫ぶことなく静かに進行する「罪と罰」。その代わり、白と赤の色彩が抑えに抑えられた感情を代弁している。色彩の扱いは図式的すぎる気もするが、それを救って余りあるのが赤と白を身につける浅野忠信の存在。底知れぬ深さを感じさせてすごい。

深田晃司監督の映画ははじめて見た。カンヌの新人賞的な「ある視点」部門審査員賞を取ったのも、是枝裕和に代表される日本の家族映画とひと味もふた味も違った作品だからだろう。


| | Comments (0) | TrackBack (5)

October 14, 2016

カンナ・ヒロコを聞く

1610141w
Hiroko Kanna live

ニューヨーク在住のジャズ・シンガー、カンナ・ヒロコのライブを聞きに横浜へ(Bar Bar Bar、10月13日)。新しいCDの発売記念も兼ねたジャパン・ツアー。スタンダードの数々やブルース、ボサノバ。彼女の歌は若い頃から聞いてるけど、すっかり円熟して貫禄すら感ずる。はじめて聞いたアントニオ・カルロス・ジョビン「ウェーブ」がよかった。バックは嶋津健一トリオ。

8年前にニューヨークに滞在したとき、彼女にはすっかりお世話になった。ご主人のギタリスト、ラスともども、ブルックリンやハーレム、いろんなジャズ・クラブに連れて行ってもらった。今年の春、アメリカの市民権を取ったそうだ。

(追記)翌日も都内でのライブに行った(赤坂Tonalite)。この夜は若いノリ・オチアイ・トリオをバックに、5拍子の「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」やウェイン・ショーターの曲に彼女が詞をつけた「フットプリンツ」など新しい試みが面白かった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 12, 2016

『ハドソン川の奇跡』 淡々とした機長の姿

Sully

クリント・イーストウッド監督の映画の主人公は、いつもアメリカ人の原型ともいうべき男なのだと思う。それは彼のキャリアが西部劇の役者としてスタートしたことと深く関係している。彼が演じつづけた男は、西部の荒野にひとり立ち、自分を守るものは自分以外にない。自分の倫理と価値観にだけ信頼をおく。その行動は時に国に称賛されることもあれば、国に背くこともある。でも、国が彼の行動をどう思うかには、あまり重きをおいていないように見える。言葉本来の意味でのリバタリアンなんだろう。

イーストウッドの前作『アメリカン・スナイパー』は、保守派からは愛国的、リベラル派からは反戦的と評価され、にもかかわらず(だからこそ?)イーストウッドの監督作品のなかで最高の収益をあげた。『父親たちの星条旗』にも、愛国的とも国家批判ともとれる両義的な描写があった。いずれも、イーストウッドのそんな信念から来ているように思える。

『ハドソン川の奇跡(原題:Sully)』の主人公サリー(トク・ハンクス)もまた、そのような男だった。

映画は、航空機がニューヨークのビル群に突っ込む悪夢からサリーが目覚めるシーンにはじまる。これを見たアメリカ人観客の誰もが9.11を思い出したにちがいない。

国内線旅客機の機長サリーは、離陸直後のニューヨーク上空で両側エンジン停止の非常事態に見舞われ、空港へ引き返せという管制官に「無理だ」と答えてハドソン川に着水する。旅客機の不時着水という難しい作業をなしとげ、155人の乗員全員の生命を救ったサリーはヒーローとしてもてはやされるが、国家運輸安全委員会はコンピュータのシミュレーションを基に空港へ引き返せたはずだとサリーを喚問する。

喚問の場でサリーは、シミュレーションには初めての事態に遭遇した人間が迷い、判断する時間というヒューマン・ファクターが反映されていないと主張する。彼の主張を入れて再びシミュレーションすると、航空機はビル群に突っ込む。サリーはその結果を、当たり前といった表情で見ている。自分の判断に自信をもっている。

サリーは副操縦士ジェフ(アーロン・エッカート)とともに、プロフェッショナルとして自分のなすべき仕事をしただけだ。彼をヒーローに仕立てたマスコミも、彼の判断を疑った国の機関も、自分にはなんの関係もない。その淡々とした姿こそ、イーストウッドが描きたかったものだろう。そんな役を演じてトム・ハンクスの独壇場。主人公の設定にあわせて非常事態をあえてドラマチックに描かない、イーストウッド監督の職人芸を堪能した。

実際の事故に基づいた映画ということもあるかもしれないが、ただ『アメリカン・スナイパー』や『父親たちの星条旗』のような苦みはない。この映画の背後には9.11でアメリカ人が「ひとつになった」記憶があり、映画はそれをうまく使っているからだと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (13)

October 11, 2016

アンジェイ・ワイダを悼む

Images
(『夜の終りに(原題:Niewinni Czarodzieje)』)

アンジェイ・ワイダが亡くなった。

学生時代に見た2本のワイダ、『灰とダイヤモンド』と『夜の終りに』は生涯に見た映画のベスト10をつくれば2本とも入れるかもしれない。

『灰とダイヤモンド』は言わずと知れた名作。ズビグニエフ・チブルスキーの反革命テロリストがコミュニストの党幹部を殺し、その身体を受け止めた瞬間、背後で打ち上げられる花火。死んだ仲間の名前を呼びながらウオッカの一杯一杯に火をつけてゆく。死ぬ直前、白いシーツの洗濯物についた自分の血の匂いをかいでみる。忘れられないシーンがいくつもある。1ショットの無駄もなく、完璧な映画だと思った。社会主義国で製作されながら、地下抵抗グループから反革命に身を投じたテロリストを主人公に、その苦さが心に迫る。

『夜の終りに』は対照的な青春映画。昼間は医師、夜はジャズのドラム奏者である主人公の一夜の物語。可愛い娘と夜を過ごすが、何も起こらず白々と朝が明ける。その空虚な感じに若い自分は共感した。女優のクリスティナ・スティプウコフスカの映画はその後公開されなかったが、50年後のいまも名前をすらすら口にできる。

両極端の2本のモノクロ映画、ワイダの懐の幅は広く、奥は深かった。合掌。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 08, 2016

『オーバーフェンス』 鈍色の空の下

Photo
Overfence(viewing film)

冒頭、北国の鈍色をした曇天を飛ぶ海鳥がスローモーション気味に映し出されたとき、既視感があった。オダギリジョーと蒼井優が言い合いのケンカをする長いシーンも既視感があった。既視感とともに懐かしい感じもした。

それはどこから来たんだろうと考えて思いついたのが、1970年代に神代辰巳がつくった何本かの文芸映画。『櫛の火』(古井由吉)、『赫い髪の女』(中上健次)といった映画は、成瀬巳喜男や今井正の古典的な文芸映画や、増村保造や川島雄三の60年代ふうに重厚な文芸映画ともちがって、手持ちカメラや長回し、役者の即興的な演技を重視して、ある種の軽みと浮遊感を出していた。

『オーバーフェンス』は佐藤泰志の小説を原作にした函館3部作の最後の作品。前2作の『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』が重苦しい映画だったのに比べると、この映画には軽やかさと明るさがある。もちろん文芸映画だから、流行りの映画の底抜けの軽さと明るさとは違うけれど。その軽みや明るさやユーモアがじわっと滲みでてくるのが山下敦弘監督の個性。

話は単純で、ボーイ(中年男だけど)・ミーツ・ガール。離婚して故郷へ戻った白岩(オダギリジョー)はアパート暮らしで職業訓練校に通い、コンビニで缶ビール2本と弁当を買って日々を送る。訓練校の仲間、代島(松田翔太)に誘われてクラブに行き、鳥の真似をするエキセントリックな聡(蒼井優)という女に会う。聡は自分を「壊れた女」と呼び、白岩は自分を「壊す男」だと言う。二人は惹かれあい、親しくなり、夜を過ごし、喧嘩し、別れ、でも互いに気になり、会いに行き……。

そこに職業訓練校の人間模様がからむ。若いのに偉ぶった教師の生徒いじめ。教師より年上で、社会経験のある生徒が教師に絡む。白岩は、それらを距離を置きながら眺めている。無関心。それが聡を知ることで少しずつ変わってくる。訓練校が今の社会の比喩になっているあたりは、ちょっと古風というか文芸映画の臭みを感ずる。

学内対抗の草野球や昭和ふうな遊園地・動物園が背景になるあたりは、地方都市のゆるく澱んだ空気がたゆたっている。そんな舞台装置とオダギリジョーと蒼井優の存在感でできている映画だった。『どんてん生活』や『リアリズムの宿』以来の学生映画ふうの実験精神は希薄になったけど、そのぶん成熟し、山下監督の体温が感じられて悪くない。


| | Comments (0) | TrackBack (5)

« September 2016 | Main | November 2016 »