『シン・ゴジラ』 凍ったゴジラが目覚めるとき
遅ればせながら『シン・ゴジラ』を見た。映画としてよくできているのに加えて、あからさまな比喩や意味ありげな暗喩がいたるところに散りばめられて、映画を見た誰もが何かを語りたくなるようにできている。
ゴジラ・ファンなら、本作がそのリメイクである『ゴジラ』第1作と比較してみたくなるだろう。アニメ・ファンなら、同じ庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』シリーズと関係づけて熱く語ってみたくなるだろう(残念ながら僕はどちらでもない)。映画やアニメのファンだけでなく、シン・ゴジラが引き起こす混乱はいやでも東日本大震災と福島原発の事故を思い出させるから、この映画を震災後の政治と社会に引き寄せて語りたくなる人もいるにちがいない。
実際、このところウェブや活字メディアやテレビで、『シン・ゴジラ』ほど語られた映画はない。僕もそのいくつかを読んで、なるほど、うまいこと言うなあと感心した。
もともと1954年につくられたオリジナル『ゴジラ』が、作品それ自体を離れてさまざまな語られ方をした映画だった。ゴジラは南太平洋の核実験によって異常成長したという設定だったし、映画が公開されたのは第5福竜丸がビキニ環礁の核実験で放射能を浴びたその年だった。だからゴジラはしばしば核や戦争の比喩として論じられてきた。
体内に生体原子炉を持つシン・ゴジラの設定は、第1作の設定とその後さまざまに語られた言説をうまく取り込んでいる。シン・ゴジラは襞と襞の隙間が赤く発光していることからも明らかなように、ウランやプルトニウムが核分裂で発生させる高熱を利用した原子力発電所を思わせる。
科学史家の神里達博が、こう言っているのが眼にとまった。映画の結末でこの国の未来は「ゴジラを管理し続けるという宿命を背負った」と(9月16日、朝日新聞)。矢口(長谷川博己)のチームは、ゴジラは体内の原子炉が発する熱を血流によって冷却していると考えた。ならば冷却システムである血流を凍結させてしまえばいいと、動けなくなったシン・ゴジラに血液凝固促進剤を投与して凍結させてしまう。
だからゴジラは凍っているだけで、死んでいない。これは福島原発の現在の姿に重なっている。福島原発は一時の小康状態を保っているだけで、メルトダウンした核燃料はそのまま格納容器の底にたまっているし、プールには燃料棒が残っている。もし廃炉に成功(いつのことか)する前に再び大きな地震や津波に襲われたら、さらなる放射性物質がまきちらされる危険は常に残っている(これはもちろん福島だけのことでなく、日本中の原発が地震、津波、火山爆発の危険にさらされている)。
東京のど真ん中、東京駅のそばに凍結して動かないゴジラは、そんな状況の象徴と読めないだろうか。凍結したゴジラを、どう解体するのか。内部の原子炉をどう処理するのか。映画はまったく終わっていない。いや、次の映画はそこから始まる。『シン・ゴジラ』の続編ができるとしたら(当然、考えられているだろう)、ゴジラの目覚めから物語が生まれるだろう。
ゴジラの目覚めがもたらす不安と恐怖は、日本列島を再び襲うかもしれない地震、津波、火山爆発、原発事故の不安と恐怖に重なっているかもしれない。
それから、ネットで盛り上がっているゴジラの尻尾だけど、僕がこれを見て連想したのはギーガーのエイリアンと、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」だった。ギーガーは当然として、藤田の戦争画を思い出したのは、この絵が岩も波も、殺し殺される兵士たちも、土も小さな花も、ほとんど区別しがたく暗い茶色に塗り込められ凍結されたひとつの生命体のような印象を持ったからだ。ゴジラの尻尾は、それに似ていた。ゴジラはどこまでも戦争を引きずっているらしい。
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