『ヤング・アダルト・ニューヨーク』は「いつも途中」
While We're Young(viewing film)
ノア・バームバック監督の映画に出てくる主人公は、いつもなにかの途上にある。そしてたいていは、うまくいっていない。鬱屈を抱え込んでいる。『イカとクジラ』の主人公は作家だが、食えないので高校教師をしていた。『フランシス・ハ』のフランシスはモダン・ダンスの修業中だけど、正式な団員にはなれそうもない。
『ヤング・アダルト・ニューヨーク(原題:While We're Young)』のジョシュ(ベン・スティラー)はドキュメンタリー映画の監督。8年前の作品は高い評価を得たが、その後、新作をつくれていない。いつまでたっても「編集中」。これも途上にある。『イカとクジラ』も『フランシス・ハ』もこの新作も、なにかの途上にあることについて本人が抱える痛みと、それを他人から見たときの滑稽さがテーマ。その中途半端さがなんらかの結末を見ることなく終わってしまうのも共通している。
この3本の映画は、ほかにも共通していることがある。3本ともニューヨークのブルックリンが舞台になっていること。このところブルックリンは若いアーティストが移り住み、お洒落な店やコンドミニアムも増えて人気スポットになっているけれど、バームバック監督の場合はそれが理由ではなく、彼自身がブルックリン育ちだから。そういうことから考えても、どうやらバームバック監督の映画の主人公は常に濃厚に自分自身の分身であるらしい。
監督は1969年生まれだから、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』の主人公ジョシュと同世代。ちなみに『イカとクジラ』の作家は1940年代後半生まれのベビーブーマーで、重要な役割を演ずる息子が監督と同世代という設定だった。息子はガールフレンドに文学を語ってみせたりするスノッブな高校生だったが、この映画のジョシュが、『イカとクジラ』の高校生が成長した姿なのかもしれない。
アーティストが描く人物が自分自身の分身であるのはよくあることだけど、バームバック監督の映画がいいのはそれが観念的な分身でなく、どんな世代に設定されても生き生きした生身のニューヨーカーとして描かれているところ。だから見る人は、その痛さも滑稽さも、見ている自分自身のことと感じてしまう。ドラマとしてはっきりした起承転結がないことも、それがまぎれもなく僕たちの生であるからこそ共感できる。
ジョシュとコーネリア(ナオミ・ワッツ)の40代の夫婦が、ジェイミー(アダム・ドライバー)とダービー(アマンダ・サイフリッド)という20代夫婦に興味をもってつきあいはじめる。ジェイミーもドキュメンタリー映画を志望していて、ジョシュの映画をほめる。ジョシュはいい気持ちになってジェイミーの映画に協力するが、やがて……。
40代の夫婦がいまどきのITを駆使してスマホ漬けなのに、20代の夫婦がアナログのLPレコードやビデオテープの映画コレクションを持っているのがおかしい。ジョシュとコーネリアは、そういう2人にころりと参って、怪しげな幻覚剤を使う宗教儀式に参加したりする。でもジェイミーはジョシュをおだてながらも、彼を利用してのし上がろうとする魂胆が態度の端々に垣間見える。アダム・ドライバーがそんな若さの野心と傲慢をうまく演じてる。
コーネリアの父親はドキュメンタリ―映画の巨匠で、ジョシュは同業の義父と複雑な関係にある。中年と若者だけでなく、ベビーブーマーの義父と息子世代という三世代間の問題も絡む。ジョシュは「編集中」の新作を義父に見せて意見を乞う。新作は6時間半の大長編で、ジョシュはどうにも削れないらしい。
ジョシュはドキュメンタリーに嘘は許されないという素朴な真実主義者で(だからこそ長くなる)、ドキュメンタリーの客観性に懐疑的な義父からも、映画を面白くするため演出もいとわないジェイミーからも賛成されない。義父に「ここを削れ」と的確な意見を言われて、ジョシュはへこむ。義父の娘であるコーネリアとの関係も微妙になる。一方、ジェイミーはジョシュを介して彼の義父に近づき、自分の映画に協力をとりつける。ジョシュはいよいよへこむ。
その情けなさが、ベン・スティラーの見せどころ。でもその情けなさは映画のなかでは解決されず、仕事と無関係のプライベートな事柄(子供のいない2人が養子を迎えることを決める)で夫婦の愛情を確かめあうところで映画は終わる。ある事柄で受けた傷が、べつの事柄で癒される。突き詰めればおかしいけれど、人生にはそういうことがある。そんな中途半端さがまたこの映画らしい。
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