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August 28, 2016

『イレブン・ミニッツ』 カタストロフの予兆

11_minutes
Eleven Minutes(viewing film)

『イレブン・ミニッツ(原題:Eleven Minutes)』の監督、イェジー・スコリモフスキをはじめて「見た」のは高校生だった1960年代。アンジェイ・ワイダの『夜の終りに』だった。この映画でスコリモフスキは共同脚本と、役者としてボクサー役で出演していた。実際にボクシングをやっていた彼は筋骨逞しい男だった。同じころ、ロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』のプログラムで、やはり共同脚本にスコリモフスキの名前を見つけた。監督として映画をつくっているとも書いてあって、そのころポーランド映画に入れ込んでいた僕は、「ポーランド派」の新世代としてどんな映画をつくるんだろうと興味を持った。

スコリモフスキの『早春』(1970)を見たのはずっと後。『早春』はポーランドでつくった映画が「スターリン批判」とされて社会主義の祖国から亡命し、イギリスでつくった作品。アンジェイ・ワイダの歴史意識やロマン・ポランスキーの耽美とは違う、「ヌーベルヴァーグ以後」ともいうべき1970年代ふうの過激な青春映画だった。なんて昔のことを書いたのも、『イレブン・ミニッツ』を見て『早春』のテイストと共通するところがあるなあ、と思ったから。

物語の起承転結にこだわらず、映画的な情感を盛り上げることもなく、斬新な映像を積み重ねる。最後のスローモーションも、似たようなものを1970年代(スローモーションが多用された時代だった)にアントニオーニの映画とか見た記憶がある。スコリモフスキ、実験的精神は歳とっても変わらないなあ。

ポーランドの都市。主要な登場人物は10人ほど。5時から5時11分までの11分間に彼らに起きる出来事が、81分に凝縮されている。そして最後にカタストロフがくる。

ホテルの一室で、映画監督(リチャード・ドーマー)が女優(パウリナ・パプコ)に面接しながら誘いをかけている。女優の夫(ヴォイチェフ・メツファルドフスキ)は、妻と監督との関係を怪しみホテルに駆けつける。路上のホットドッグ店の男は、かつて縁のあったらしい女から唾をはきかけられる。タトゥーを入れ、犬を連れた女がホットドッグを買いにくる。配達先の女とよろしくやっていたバイク便の男は怪しげな包みを受け取り、ホテルに配達に向かう。救急隊の女が、出産しそうになった女を助けに出動する。少年は盗みに入って自殺体を発見し、あわててバスに乗る。

互いに無関係な出来事が、時間を行きつ戻りつしながら描写される。登場人物が操作するスマホやパソコンの動画、監視カメラの映像も入りこんでくる。サイレンやバイクの音といった路上のノイズが強調される。鏡に激突する鳥、高層ビルの向こうを低空で飛ぶジェット機が9.11を連想させる。ダン、ダン、ダン、と時を刻むリズムがひっきりなしに鳴っている。不穏な気配が徐々に高まる。

小さな鏡に映ったバラバラの断片がたくさん集まり、最後にそれが一つになって全体像を露わにし、でも一瞬後にはまたバラバラに砕け散るといった印象。最後、カタストロフの映像は無数のモニター画面のなかの一つとなり、最後にはモニターの小さなノイズにまで縮小される。それが78歳のスコリモフスキがこの世界に対して持っているペシミスティックな時代認識なのか。

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August 26, 2016

『ミモザの島に消えた母』 干潟の道の風景

Boomerang
Boomerang(viewing film)

『ミモザの島に消えた母(原題:Boomerang)』の舞台はフランス大西洋岸のノアールムーティエ島という小さな島。この島とフランス本土の間は潟になっていて、満潮のときは海だが、干潮のときは陸地になる。潟のなかを島と本土を結ぶ「ゴアの通路」と呼ばれる4キロほどの道が走っていて、潮が満ちると道路は海に没する。この道はグーグル・アースでも見ることができるが、この道路が映画の鍵になる。

かつて島に住んでいた家族をめぐるミステリー。際立つ個性があるわけじゃないけど、楽しめる映画に仕上がっている。

アントワン(ローラン・ラフィット)は離婚したばかりの男。子供のころノアールムーティエ島に住んでいて、30年前に母が不可解な死を遂げたことをいまだに忘れられない。父も祖母も、その話題になると口をつぐむ。ある日、気が進まない妹のアガッタ(メラン・ロラン)を誘って島を訪れる。アントワンは母が死んだ病院で、死体修復師をしているアンジュル(オドレイ・ダナ)と出会って惹かれあい、二人で母の死について聞いて回る。かつて一家の家事手伝いとして働いていた老女は、なにかを隠している……。

「ブーメラン」という原題は、アントワンが30年後にノアールムーティエ島にブーメランのように帰ってきたことを指しているのか。加えて、もうひとつ。アントワンの10代の娘は、女友達を愛していると父に打ち明ける。そのことと、母が美術家の女性に惹かれたことが死の原因になったこと。世代をまたいで、過去が現在にブーメランのように戻ってくることが重ねられている。30年前といえば1980年代。もうフェミニズムの時代だけど、フランスの田舎ではまだ同性愛は許されないことだったんだろうか。

母の運転する車が、潮が満ちてきた「ゴアの通路」を水しぶきをあげて走る。フランソワ・ファブラ監督は、このショットを撮りたかったんだろうな。こんな道路が今も残っているのが、いかにもヨーロッパという感じがする。

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August 25, 2016

作並温泉から立石寺へ

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from Sakunami Spa to Risshakuji-temple

宮城の作並温泉に4日ほど滞在した。三つの台風が続けて東北から北海道へ抜ける合間、二つ目の台風の後を追って新幹線に乗り、温泉に着くと三つ目の台風が追いかけてくる。

作並温泉は仙台から天童へ抜ける作並街道沿い、広瀬川の渓谷にある古い温泉。泊まった宿は源泉を三つ持っている。湯は無色透明で無臭。「ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉」だそうだ。

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露天風呂は三つ。広瀬川渓流沿いの風呂と、崖上にカモシカや猿が来るという崖下の湯、源泉の一つを使ったぬるめの湯。

三つ目の台風は深夜。いっとき激しい雨と風に見舞われたけど大きな被害はなかった。翌日も雨模様。前日は細い流れだった崖上からの水が滝のように流れている。崖下の湯に寝そべると、頭上は濃い緑。暗い空から落ちてくる雨が顔を打つのが気持ちいい。

ぬるめの湯は、台風の雨で源泉の湯温が下がったそうで入浴できなくなっていた。

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翌日は天気がもちそうだったので、山形の立石寺へ。JR仙石線の作並駅から山寺駅まで20分ほど。作並駅では名物のこけしが観光客を迎える。

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山寺駅を降りると、ホームから立石寺が見える。

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根本中堂を見て山門をくぐり、1000段の石段を登りはじめる。右膝に不安があるので、ゆっくりと。

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300段ほど登って、せみ塚の近く。せみは鳴いているけど、夏休みとあって人は多く、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」とはいかない。 

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仁王門が見えて来た。ここで600段くらいだったか。

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崖上に建つ納経堂が見えてきたと思ったら、にわかに空が暗くなり、雨が落ちてくる。

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展望のきく五大堂で雨宿り。雨はすぐに上がった。この後、奥の院まで上り、華蔵院で御朱印をいただいて下山。


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『属国民主主義論』を読む

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reading books

内田樹・白井聡『属国民主主義論』(東洋経済新報社)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/


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August 15, 2016

『ニュースの真相』 実名で映画化

Truth
Truth(viewing film)

特ダネを追うジャーナリストを主役にした映画はたくさんある。たいていはスクープをものにするまでを描いた成功物語。でも『ニュースの真相(原題:Truth)』は、スクープが誤報(?)だったという失敗をテーマにしているところが異色だ。しかも、すべてが実名で描かれる。

2004年、アメリカの大統領選挙。CBS放送のニュース番組「60ミニッツⅡ」が、民主党のケリー候補と争う共和党の現職ブッシュ大統領に軍歴を詐称した疑いがあると報じた。ベトナム戦争のさなか、ブッシュはテキサス州空軍に所属していたが、これはベトナム行きを逃れるためコネを使った「優遇」であり、しかも空軍兵として勤務した記録がないというものだ。

「60ミニッツ」はアメリカを代表する報道番組で、キャスターはダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)。取材を指揮したのはプロデューサーのメアリー(ケイト・ブランシェット)だった。原作はメアリーが出版した手記。事のなりゆきが彼女の視点から描かれる。だから客観性というより彼女を中心とする人間ドラマになっている。それが成功したと思う。

以前からブッシュの軍歴詐称疑惑を追っていたメアリーは「60ミニッツ」で放送することを決める。チーム集めが『七人の侍』以来の定型で手早く描かれる。メアリーら4人のチームとダンは確証を求めて全土を飛び回り、ある退役軍人から、空軍の上司が「ブッシュは不在で勤務評価できない」と報告した記録のコピーを入手する。放送は大きな反響を呼ぶ。バーでチームは乾杯。普通ならこれがクライマックスだが、この映画はこれが始まり。翌日、文書はタイプライターでなくワードで打たれたニセモノだとする書き込みがネット上に現れる。

ここからの局内のどたばたは、かつて報道機関に所属していた小生には覚えのある光景だ。上級プロデューサーが、確認を取れとメアリーに命ずる。入手した文書はコピーなので、専門家も確実な判定はできない。上層部は、番組とメアリー、ダンを守るより会社を守ることを優先し、情報源に会わせるようメアリーに求める。CEOと会った退役軍人は、嘘をついたと前言を翻す。メアリーは取材中止を言い渡される。会社は、ブッシュ政権に近いメンバーを集めた第三者調査機関を設置するが、結論は見えている。軍歴詐称という本筋についてメアリーは確信を持っているが、傍証の信頼性が揺らいだことで本筋まであいまいにされてしまう。

疑惑が報じられると、集中砲火のようにバッシングされるのも日本と同じ。関係の悪いメアリーの父親まで引っ張り出され、娘の悪口を言う。この父と娘の関係が描かれていることで、メアリーの苦しみに深みが加わった。一方、メアリーとダン、メアリーとチームの信頼は変らない。視聴者の矢面に立つのはキャスターのダンだが、彼はメアリーに、「私のことはいい。自分のことを心配しろ」と言う。窮地に立たされながら互いを思いやるロバート・レッドフォードとケイト・ブランシェットの会話がいい。

第三者委員会でメアリーは弁護士の忠告に従って、いっさい反論しない。でも最後に、自分の思うところを発言する。文書を偽造した者は、当時のブッシュとその周辺の人間関係を熟知している、それだけ周到な人物が果してワードを使うだろうか、と。

メアリーはそれ以上を言わないが、彼女が言いたかったことはこうだろうか。それだけ周到な人物なら、当時は存在しなかったワードを使うはずがない。あえてワードを使ったということは、この人物は、文書がニセモノだと発覚するよう仕組んだことになる。では、なんのために? リベラル派のジャーナリストであるダンやメアリーを貶めるためか。あるいは、大統領選挙でブッシュを有利に導くためか。映画は答えを出さない。

ダンが言う。「ジャーナリストが質問しなくなったら、この国は終わりだ」。メアリーは解雇され、ダンも「60ミニッツ」を降ろされたが、どこまでも質問する姿勢を崩さない。その背筋をまっすぐにした姿勢が、失敗の物語にもかかわらず映画をさわやかにしている。

ジェームズ・ヴァンダービルトの脚本・監督。それにしてもこの映画、ブッシュにしろCBSにしろ、よく実名でつくったもんだ。ブッシュ本人はテレビのニュース映像として画面に出てくる。CBS幹部は、「この映画には誇張や歪曲がある。でも修正を求めることはしない」と発言したそうだ(wikipedia)。ヒーロー、ヒロインが失墜する映画。リベラル派として知られるレッドフォードが出演したことで実現したのかもしれないが、ハリウッドの懐の深さを感ずる。もっとも10億円の製作費に対し興行収入は5億円と苦戦しているようだ。

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August 12, 2016

ぶどう色づく

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grapevine trellis in my garden

ぶどう棚のぶどうが色づいてきた。種ありのデラウェア。薄紫になったものはもう食べられる。袋をかけてあるのは人間用で、ヒヨドリに残したものは大部分食べられてしまった。

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今日の収穫。


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August 03, 2016

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』は「いつも途中」

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While We're Young(viewing film)

ノア・バームバック監督の映画に出てくる主人公は、いつもなにかの途上にある。そしてたいていは、うまくいっていない。鬱屈を抱え込んでいる。『イカとクジラ』の主人公は作家だが、食えないので高校教師をしていた。『フランシス・ハ』のフランシスはモダン・ダンスの修業中だけど、正式な団員にはなれそうもない。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク(原題:While We're Young)』のジョシュ(ベン・スティラー)はドキュメンタリー映画の監督。8年前の作品は高い評価を得たが、その後、新作をつくれていない。いつまでたっても「編集中」。これも途上にある。『イカとクジラ』も『フランシス・ハ』もこの新作も、なにかの途上にあることについて本人が抱える痛みと、それを他人から見たときの滑稽さがテーマ。その中途半端さがなんらかの結末を見ることなく終わってしまうのも共通している。

この3本の映画は、ほかにも共通していることがある。3本ともニューヨークのブルックリンが舞台になっていること。このところブルックリンは若いアーティストが移り住み、お洒落な店やコンドミニアムも増えて人気スポットになっているけれど、バームバック監督の場合はそれが理由ではなく、彼自身がブルックリン育ちだから。そういうことから考えても、どうやらバームバック監督の映画の主人公は常に濃厚に自分自身の分身であるらしい。

監督は1969年生まれだから、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』の主人公ジョシュと同世代。ちなみに『イカとクジラ』の作家は1940年代後半生まれのベビーブーマーで、重要な役割を演ずる息子が監督と同世代という設定だった。息子はガールフレンドに文学を語ってみせたりするスノッブな高校生だったが、この映画のジョシュが、『イカとクジラ』の高校生が成長した姿なのかもしれない。

アーティストが描く人物が自分自身の分身であるのはよくあることだけど、バームバック監督の映画がいいのはそれが観念的な分身でなく、どんな世代に設定されても生き生きした生身のニューヨーカーとして描かれているところ。だから見る人は、その痛さも滑稽さも、見ている自分自身のことと感じてしまう。ドラマとしてはっきりした起承転結がないことも、それがまぎれもなく僕たちの生であるからこそ共感できる。

ジョシュとコーネリア(ナオミ・ワッツ)の40代の夫婦が、ジェイミー(アダム・ドライバー)とダービー(アマンダ・サイフリッド)という20代夫婦に興味をもってつきあいはじめる。ジェイミーもドキュメンタリー映画を志望していて、ジョシュの映画をほめる。ジョシュはいい気持ちになってジェイミーの映画に協力するが、やがて……。

40代の夫婦がいまどきのITを駆使してスマホ漬けなのに、20代の夫婦がアナログのLPレコードやビデオテープの映画コレクションを持っているのがおかしい。ジョシュとコーネリアは、そういう2人にころりと参って、怪しげな幻覚剤を使う宗教儀式に参加したりする。でもジェイミーはジョシュをおだてながらも、彼を利用してのし上がろうとする魂胆が態度の端々に垣間見える。アダム・ドライバーがそんな若さの野心と傲慢をうまく演じてる。

コーネリアの父親はドキュメンタリ―映画の巨匠で、ジョシュは同業の義父と複雑な関係にある。中年と若者だけでなく、ベビーブーマーの義父と息子世代という三世代間の問題も絡む。ジョシュは「編集中」の新作を義父に見せて意見を乞う。新作は6時間半の大長編で、ジョシュはどうにも削れないらしい。

ジョシュはドキュメンタリーに嘘は許されないという素朴な真実主義者で(だからこそ長くなる)、ドキュメンタリーの客観性に懐疑的な義父からも、映画を面白くするため演出もいとわないジェイミーからも賛成されない。義父に「ここを削れ」と的確な意見を言われて、ジョシュはへこむ。義父の娘であるコーネリアとの関係も微妙になる。一方、ジェイミーはジョシュを介して彼の義父に近づき、自分の映画に協力をとりつける。ジョシュはいよいよへこむ。

その情けなさが、ベン・スティラーの見せどころ。でもその情けなさは映画のなかでは解決されず、仕事と無関係のプライベートな事柄(子供のいない2人が養子を迎えることを決める)で夫婦の愛情を確かめあうところで映画は終わる。ある事柄で受けた傷が、べつの事柄で癒される。突き詰めればおかしいけれど、人生にはそういうことがある。そんな中途半端さがまたこの映画らしい。


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