『ホースマネー』 純粋化への意思
映画は総合芸術だという言い方がある。文学・絵画・音楽・演劇・写真といったさまざまな芸術ジャンルの要素をもっているからだし、実際にある場所と生きた人間(たとえスタジオであっても。またアニメーションであれば現実をイラスト化したもの)を撮影しなければ成り立たないということでは、現実社会とも密接な関係をもっている。その意味では、不純物をたくさん含んだ芸術ともいえる。
映画を見ていてときどき感ずるのだが、純粋化を志向して映画をつくる監督がいる。どの方向に純粋化するかは監督によってそれぞれだけど、映画がもっているある要素を極限まで拡大し、逆にそれ以外のさまざまな要素を切り捨てることによって自分のスタイルをつくろうとする。そんな映画を見ると、スタイルの極北へ行こうとする意志を感ずる。
最近のホウ・シャオシエン監督の作品にそういった志向を感ずるし、ペドロ・コスタ監督にもそれを感ずる。コスタの新作『ホースマネー(原題:Cavalo Dinheiro)』もそうだった。
リスボンのスラム、フォンタイーニャス地区に暮らす移民たちが登場する。かつてのアフリカの植民地、カーボ・ヴェルデからやって来て、今は病気で入院している老人ヴェントゥーラ。夫を亡くしたヴィタリナ。彼らが独白というかたちで、過去の人生を振り返る。
といっても起承転結のある物語があるわけでなく、断片的なセリフがつぶやかれるだけ。時に詩のような言葉も混ざる。そういった言葉をつなぎあわせることで、少しずつ彼らの過去が浮かびあがってくる。
カメラは彼らが暮らすスラムを映さない。地下道、狭い病室、工場の廃墟、エレベーターの内部といった狭い空間。光と影のコントラストが強烈で、彼らは闇のなかにいるように見える。画面は主に彼らの上半身を捉え、動きは少ない。時に静止画か写真のようにも見える。
だからこの映画では物語とアクションが排除されようとしているらしい、と感じられる。物語とアクションは、映画が19世紀末に生まれて以来、もっとも基本とされてきた要素。20世紀に入って、物語性を解体するという作業は文学や映画で行われてきたが、これもその延長上にあるということか。それに加えアクションまで最小限に抑えて、なおかつ映画が成立するかという問いがコスタ監督にはあるのだろうか。
そんな純化が図られる一方でこの映画を現実につなぎとめているのは、登場人物が俳優でなく実際の移民たちということだろう。さらには、影と光のコントラストで抽象化されているとはいえ、実際に彼らが生活しているスラムで撮影されていること。ヴェントゥーラとヴィタリナだけでなく、たくさんの移民を彼らが暮らす場所で撮影したショット(写真のような静止画)は、強く印象に残る。
もうひとつ、ヴェントゥーラが閉じ込められたエレベーターには武装した兵士がいて(このショットは確か前作にも登場した)、ヴェントゥーラを威嚇しているように見える。コスタ監督のインタビュー(公式HP)によると、これは1974年のカーネーション革命(サラザール独裁体制を終らせた民主化革命)の記憶。当時若かったコスタは民主化革命に身を投じたが、移民にとってこの革命も恐怖にしか感じられなかったと後に知った、と語っている。
そのように現実や歴史に碇を下ろす一方で、物語やアクションを排除しようとする意思。そんなコスタ監督のスタイルには、ホウ・シャオシエンに感ずるのと同じ矛盾した思いを感ずる。一方で、こういうスタイルの極北にどういう映画ができるのか、それを見てみたいという期待。その一方で、物語やアクションやその他諸々の夾雑物が入り混じっていることこそ、見世物として生まれ産業として発展した映画の面白さとリアリティーじゃないのか、という疑問。ふたつの感想を共に感じて、他人にどう話していいか迷う映画だった。
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