『海よりもまだ深く』 恥ずかしさと共感と
自分はなんでこんなに映画が好きなんだろうと考えることがある。
いくつもの答えがありうるなかでいちばん気に入っているのは、映画を見るということはほんのいっとき他人になりその人生を生きる、夢のようなものだからというものだ。もちろん、たとえば小説を読むことによっても他人の人生を生きることができる。でも映画は活字を読んで知性による想像力を働かせるのとは違い、無意識の自分が夢を見るのに似ている。
映画館に入って暗闇に包まれるのは、いわば眠りに入っていくのに等しい。そこで昼間の自分はいなくなり、別の自分になってその視覚や聴覚が働きだし、他人の人生を生きる。映画が終わり(夢が覚め)、館内が明るくなり、外へ出ればまたいつもの自分が戻ってくる。
谷崎潤一郎は若いころ映画フリークだった。「肉塊」という小説のなかで映画論めいたものを語っていて、そこには「映画というものは頭の中で見る代りに、スクリーンの上へ映して見る夢なんだ」とある。短編のなかには、夜、町を歩く主人公が闇をくぐりぬけると光り輝く別の世界があり、そこで数奇な経験をする、いわば映画体験を小説の構造に置き換えたものもある。
もっとも、別の自分になるつもりで映画館に行ったら、思いがけず自分に会ってしまうことだってある。この主人公(少なくともその一部)は自分だと感じてしまう映画に出会ったときは、なにがしかの恥ずかしさと、その裏腹の共感を覚えて心穏やかに見ていられない。
若い頃だけど、『ボギー! 俺も男だ』でウディ・アレン演ずるダメ男を見ていて──ふだんは映画は一人で見るのに珍しく女友達と行ったせいもあるだろうが──自分に出会ったみたいに感じ、隣の女友達が笑うのが自分が笑われているようで気になって仕方なかったことがある。
──と、長い前置きになってしまったけど、『海よりもなお深く』の良多(阿部寛)にも自分を感じた。15年前に新人賞を取ったきり次が活字にならない自称小説家の良多は、取材のためと自己弁護して探偵事務所で生活費をかせいでいる。妻の響子(真木よう子)は愛想をつかして息子と出ていってしまった。良多は未練たらたらで、妻に恋人ができたのを盗み見して嫉妬する。養育費の払いも滞り、稼いだ金はギャンブルに使ってしまう。日々の生活で気になった会話はメモして机の前に貼り、小説を書こうとはするのだが……。
「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と、脚本・監督の是枝裕和はこの映画について語っている。大きくなったらこうなりたいと若いころ夢見た自分をそのまま実現できる人はごく少数だろう。たいていの人は、こうありたいはずだったのに、という悔恨を抱えて日々を送っている。無精ひげをはやし長身を折るように肩をすくめる阿部寛がなにがしか自分の分身に思えてくると、真木よう子(妻)も樹木希林(母・淑子)も小林聡美(姉・千奈津)も吉澤太陽(息子・真悟)も、自分の身近にいる誰彼を連想してしまうから面白い。
ばらばらになった元家族が、台風の日に母親がひとり住む団地で一夜を過ごすことになる。
樹木希林は、中年になった息子もいつまでも幼い子供のように扱う母親を、演ずるというよりそのものになりきっている。テレサ・テン「別れの予感」(映画のタイトルはこの歌の歌詞から)が流れる部屋で樹木希林と阿部寛がかわす会話は身につまされる。二人になった隙に身体に触れてくる夫を避けながら、でも義母に気を使わなければならない真木よう子のよそよそしい感じもうまいなあ。
是枝裕和は『誰も知らない』から『空気人形』くらいまでは表現意識を感じたけれど、最近の作品はそんな角(?)も取れて円熟してきた。小津安二郎と成瀬巳喜男に代表される日本の家庭劇をいちばんよく継いでいるのが是枝監督だろう。『海街diary』は舞台が鎌倉の和風住宅だったので否応なく小津を思い出させたけど、団地が舞台でこの男と女の感じは成瀬ふうかな?
山崎裕のカメラは、狭い団地の室内をそう感じさせず、台風一過の朝のすがすがしい空気感など、さりげないけど見事だ。
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